第105話 踏み出す側へ
閉店後の「Bar Toyo」は、
いつもより少しだけ静かだった。
グラスを拭く音も、
氷の触れ合う音も、
どこか遠くに感じられる。
美月は、カウンターに置かれた絵本から
まだ視線を外せずにいた。
——母の字。
——母の気配。
——知らなかった時間。
胸の奥が、ざわざわと落ち着かない。
その様子を、
豊と航平は、黙って見ていた。
先に口を開いたのは、豊だった。
「……美月」
低く、落ち着いた声。
美月は、ゆっくり顔を上げる。
「明日な」
一拍、間を置いてから。
「芦屋の個展に行く」
その言葉に、
美月の指先が、わずかに強ばった。
「……私も?」
「そうだ」
逃げ場のない、まっすぐな声だった。
美月は、思わず息を吸う。
怖い。
知ってしまうのが。
でも——
知らないままでいるほうが、
もう、できない気もしていた。
航平が、そっと言葉を重ねる。
「無理だったら、途中で出てもいい」
穏やかで、包むような声。
「何があっても、俺は美月の隣にいる」
視線を向けると、
航平は真剣な顔で、まっすぐ見ていた。
豊も、ゆっくり頷く。
「俺もだ」
短い言葉。
でも、重みがあった。
「お前がどんな気持ちになっても、
ひとりにはしない」
その瞬間、
美月の胸に、すっと何かが落ちた。
怖さが消えたわけじゃない。
でも——
(……私は、もう“守られる側”だけじゃない)
母のことを、
父のことを、
そして自分自身のことを。
ちゃんと知ろうとする側に、
立つ時が来たのだと、
静かに思った。
美月は、ゆっくりと頷いた。
「……行く」
声は震えていたけれど、
逃げてはいなかった。
「ちゃんと、知りたい」
豊は、ふっと目を細める。
「そうか」
航平は、何も言わず、
ただ隣に立つ距離を、ほんの少し縮めた。
夜の店内に、
三人分の気配が、静かに重なる。
明日——
美月は、
“知る側”へと、
一歩踏み出す。
その一歩を、
決してひとりでは、歩かないまま。




