第102話 金曜日の午後──ページの奥に残されたもの
絵本を閉じても、
胸の奥のざわめきは、消えなかった。
(……なんで、今まで気づかなかったんだろう)
美月は、そっと表紙をなぞる。
何度も読んだはずの絵本。
母が、眠る前によく読んでくれた一冊。
でも――
最後のページに挟まれていた、あの小さな紙だけは、
今日まで一度も、目にした記憶がなかった。
白い、少し黄ばんだメモ用紙。
折り目がついていて、
何度も開いて、何度も閉じられた跡がある。
美月は、息を整えてから、
そっとそれを指でつまみ、開いた。
そこにあったのは、
母の字だった。
丸くて、少し癖のある文字。
急いで書いたのか、ところどころ線が揺れている。
(……お母さん)
胸が、きゅっと締めつけられる。
内容は短かった。
でも、その短さが、かえって重い。
美月は、思わず絵本を抱きしめた。
(……どうして、これを……)
時計を見ると、
針はすでに思っていたより進んでいる。
(……行かなきゃ)
けれど、
このまま置いていく気には、どうしてもなれなかった。
美月は、絵本をもう一度開き、
メモをそっと元の位置に戻す。
そして、少し迷ってから――
そのまま、絵本ごと抱えた。
レコードを選んだ紙袋と、
胸に抱えた一冊の絵本。
それが、今の自分にとって、
どちらも大事な“持ち物”のような気がした。
玄関で靴を履きながら、
美月は一度だけ、部屋を振り返る。
静かな実家。
母の気配が、まだどこかに残っている場所。
「……行ってきます」
小さく呟いて、扉を閉めた。
バーへ向かう道すがら、
胸の奥で、何かがゆっくり動き始めているのを感じていた。
まだ言葉にならない。
でも――
(……お父さんに、見せたほうがいいよね)
そう思いながら、
美月は、絵本を抱く腕に、そっと力を込めた。
金曜日の午後。
知らなかった“母の声”が、
静かに、確かに、美月の中で息をし始めていた。




