第100話 木曜の夜──静かに迫る影と、胸のざわめき
木曜の閉店後。
店内を片づけていた美月は、ふと豊の表情がどこか落ち着かないことに気づいた。
「……お父さん? どうしたの?」
「いや。なんでもねぇよ」
軽く笑ってみせはするものの、目の奥にだけ言葉にならない影が揺れている。
美月は気になりつつも、深くは問い詰めなかった。
(……なんだろ。いつもと違う)
けれど、豊が何かを抱えているのは分かった。
美月が先に帰り、店に静寂だけが残る。
豊は棚の前に立ち、ゆっくりと奥を開いた。
そこにあるのは——
白い厚紙でできた、一枚の招待状。
(……芦屋の、個展のチケット)
だが “芦屋本人” が持って来たわけではない。
数日前、
友梨がひとりで店を訪れ、それを豊に手渡した。
その時の友梨の笑顔は、迷いのない強さを帯びていた。
耳には——玲子が贈ろうとしていた、あのピアスが静かに揺れていた。
豊はチケットを指先でつまみ、ため息を落とす。
(……逃げられねぇよな)
そして——
もうニ枚の招待状は、航平に 何も説明せず預けてある。
本当は理由を話すべきなのかもしれない。
だが、美月にはまだ言えない。
玲子の絵が展示される可能性がある。
その現実を、どう伝えるべきなのか。
胸の奥がざわつく。
(美月の人生は、やっと前に進み始めた。
そこに……芦屋がどう影響するか。俺にも読めねぇ)
レコードをかけようと手を伸ばしかけて——
途中で止めた。
(今日は……やめとくか)
静かな店内に、豊の長い息だけが落ちていく。
一方そのころ、美月は帰宅後も落ち着かない気持ちでベッドに横になっていた。
(お父さん……やっぱり様子が変だった)
航平との未来が動き出し、嬉しさでいっぱいなのに——
どこか胸の奥がざわつく。
(……金曜日、どうなるのかな)
まだ知らない。
自分の母の絵が、“誰かによって描き続けられている”ことを。
静かな夜の空気が、ほんの少しだけ震えているように感じた。




