第99話 木曜の朝──豊と航平、避けられない話
木曜の朝。
空気はひんやりとしているのに、どこか落ち着かない気配が漂っていた。
豊はいつもより少しだけ早く家を出て、
駅前から少し離れた静かなカフェに入った。
(……話すなら、今しかねぇ)
そう腹を括って、窓際の席にひとり座る。
数分後、扉のベルが鳴いた。
「豊さん、おはようございます」
航平が現れた。
まだ朝の光をまとったままの顔だが、どこか緊張を含んでいる。
豊は軽く手を挙げて示した。
「座れ」
航平は静かに向かいに腰を下ろした。
「呼び出してすまん。」
豊はコーヒーを一口飲んでから、ゆっくり切り出した。
「……芦屋のことだ」
航平の表情がかすかに揺れた。
「以前、店で顔を合わせただろ。……覚えてるな」
「はい。あの人、強い存在感でした。美月も驚いてました」
豊はわずかに息を吐いた。
「あいつは芦屋 健司。
美月が生まれた頃……よく家に来てた男だ」
「……美月が、赤ちゃんの頃ですか?」
「ああ。
玲子の姉——友梨の元夫だ。
こっち側の人間じゃねぇけど……昔は家族みたいなもんだった」
航平はまっすぐ豊を見る。
「だから、美月の名前も知っていたんですね」
「そういうことだ」
しばしの沈黙。
豊はカップを置き、少しだけ視線を落として続けた。
「……土曜日、あいつの個展に行く。
美月はまだ知らねぇ。
玲子の絵が飾られる可能性があってな」
航平のまぶたが静かに震えた。
「……美月には知らせないんですか」
「今はまだ話す時じゃねぇ。
あいつの心に、余計な影を落としたくない」
航平はうなずいた。
そして一拍置いて、静かに言った。
「……美月のこと、お願いします。
俺も……支えますけど。豊さんの想いが一番強いのは分かっています」
豊は思わず目を細める。
男として、父として、その言葉が沁みた。
「……お前にも預けてるんだからな、美月を」
「はい」
真っ直ぐで、嘘のない声だった。
豊は椅子に背を預け、軽く頭をかいた。
「芦屋のやつ、再生しようとしてる匂いがするんだよ。
玲子の絵を描いてる……なんて言ってきたからな」
航平の眉が動く。
「……それは……」
「安心しろ。変な意味じゃねぇ。
あいつは玲子のことを“妹みてぇに”思ってただけだ」
豊は続けた。
「ただ……美月の人生に、また足を踏み入れようとしてる。
それがどう転ぶか……俺にも読めねぇんだよ」
航平は真剣に耳を傾けていた。
「美月を守るのは俺の役目です。
でも……ひとりで背負わないでください。
いつでも言ってください。俺、力になるんで」
豊は大きく息を吐き、苦笑した。
「……ったく。
金曜の男が、こんな頼もしくなるとはな」
「美月が……そうさせたんです」
それを聞いて、豊の口元がゆっくり緩む。
(……ほんと、成長したな)
「土曜日、お前は美月と不動産屋だろ。
終わったら……直接ここへ来い」
「分かりました」
「……芦屋のことも、個展のことも、
ちゃんと話す時が来たら……俺から美月に言う」
航平は静かに頷いた。
「美月のこと、守ります。必ず」
豊はその言葉に深くうなずいた。
「頼んだぞ」
カップの音だけが静かに響く朝だった。




