第98話 水曜の夜──未来へ進むふたりと、静かに動き出す影
仕事終わりの夕暮れ。
不動産屋の扉を出た瞬間の、美月の胸の高鳴りは――
夜になっても消えていなかった。
(……ほんとに、部屋を探してるんだ。
航平さんと、私……)
思い出すだけで頬が熱くなる。
航平は美月を「Bar Toyo」まで送り届けると、
名残惜しそうに笑って帰っていった。
「じゃあ、また終わったら迎えに来るから」
その言葉が、ずっと胸に残っている。
店に入ると、豊がカウンターを拭きながら顔を上げた。
「行ってきたか。不動産屋」
「うん……! なんかね、すごく現実になってきて……」
言葉がこぼれた瞬間、美月は思わず笑ってしまった。
抑えようとしても抑えきれない――
恋している女の顔。
豊はそれを見て、鼻で笑った。
「その顔だと、良い部屋が見つかりそうだな」
「まだ全然だけど……でも、楽しかった。
“ふたりの家を探す”って、こんな気持ちなんだね」
「……そうだな」
豊は短く返すと、手元のグラスを整えた。
それ以上、茶化しもせず、照れもせず。
ただ、娘の幸せを噛みしめるように。
しばらくして、客の波が引き、店内が落ち着くと――
美月はふと、棚の奥へ目をやった。
(……あれ)
先日見た “招待状の封筒”。
名前は――
『ASHIYA KENJI EXHIBITION』
(芦屋さん……? 誰だろう……)
名前に覚えはない。
けれど不思議と胸がざわつく。
その瞬間、豊の視線が静かに美月をとらえた。
「美月。……今日はもう上がれ」
「え、まだ——」
「気が散ってる。
同棲前に仕事ミスられても困るからな」
「……お父さん」
呆れたように言うが、その声は優しい。
「帰って寝ろ。今週は忙しくなる」
「忙しい?」
「土曜日、予定あんだろ」
そう言って、豊は視線を棚には向けなかった。
だが、あの封筒の存在が――
父の言う“忙しさ”と繋がっているような気がした。
閉店間際。
扉のベルが鳴き、航平が迎えに来た。
「お疲れ、美月」
その声に、胸が一気に温かくなる。
「航平さん……来てくれたんだ」
「もちろん。……今日の物件、どうだった?」
「ふふ、後でゆっくり話す」
豊は片づけをしながら言った。
「おい、航平。
土曜日は少し……覚悟しとけよ」
「え?」
航平が戸惑う顔で振り返る。
豊は何も説明せず、ただ短く続けた。
「未来に進むなら、“過去”も避けて通れん。
まあ、悪いようにはしねぇよ」
「……?」
意味が分からないふたり。
だがその夜の空気は、
確かに静かに――新しい影を落とし始めていた。
(……芦屋健司)
美月は歩きながらそっとつぶやいた。
(誰なんだろう……)
答えはまだ知らない。
けれど、“土曜日”に向けて
未来も、過去も、ゆっくり動き始めていた。




