第97話 水曜日──動き出す未来と、揺れ続ける父の胸の奥(美月+豊サイド)
〔美月サイド:夕方が待ち遠しい水曜日〕
水曜日の朝。
目が覚めた瞬間から胸がそわそわしていた。
(……今日、不動産屋さんに行くんだ)
航平と“住む家”を探しに行く日。
慣れた水仕事をしながらも、
胸の奥が落ち着かず、気がつけばスマホを確認してしまう。
昼すぎ、航平からメッセージが届いた。
『17時に店を閉める。
そのまま不動産屋に行こう』
(……楽しみすぎる)
思わず頬が緩む。
夕方の仕込みが落ち着いたころ、
豊がふらりとカウンター裏に顔を出した。
「……今夜、不動産屋だろ?」
「うん。17時に航平さんが迎えに来てくれるの」
「そうか」
ほんの一瞬だけ豊の目が細くなる。
「家を決めるのは急ぐな。
いいと思っても、一回は冷静に見直せ」
「わかってるよ、お父さん」
優しいのか、心配なのか、背中を押しているのか。
その全部が混ざった父の声だった。
(……でも、嬉しい)
豊が反対しないどころか、
不動産屋の名刺まで渡してくれた。
家族の形が変わっていく寂しさより、
娘の幸せを優先してくれる父。
それが胸に響いた。
17時少し前。
店の前に、いつものコート姿の航平が立っていた。
小さく手を上げて笑う。
「お疲れ。行こうか」
「うん!」
並んで歩きながら、美月の胸はもう期待でいっぱいだった。
〔豊サイド:水曜の夜──胸の奥のざわつき〕
店に美月と航平の姿がなくなり、
「Bar Toyo」にはゆるく夜の気配が広がっていた。
カウンターを磨きながら、豊は心の中で静かに呟く。
(……あいつら、本当に動き出したな)
嬉しい。
でも、寂しい。
心はゆっくりと前に押されていくが、
そのたびに、ある名前が背中を引く。
──芦屋。
(あいつ……そろそろ来る頃か)
土曜日の個展。
チケットは航平に預けた。
美月にはまだ何も言っていない。
本当に連れて行っていいのか。
あの絵を見せていいのか。
娘の幸せの前に、
“過去の影” をどう扱うか結論が出せない。
(玲子……俺はまだ答えを出せていない)
グラスを並べながら思う。
美月の未来は明るい。
一緒に住む家を探しに行く今夜、
きっと笑顔で帰ってくるだろう。
(だったら……俺ももう前に進む準備をしないとな)
呟いた瞬間、入り口のベルが鳴った。
「こんばんは、豊さん。ひとり?」
常連の声に表情が和らぐ。
「おう。好きな席座れ」
誰かのために灯り続ける店。
その奥で、豊の胸だけがまだ静かに揺れていた。




