第96話 火曜日の夜──未来と過去の間で揺れる豊
閉店後の「Bar Toyo」。
バックヤードから美月の足音が遠ざかり、
店内には豊ひとりだけが残った。
静けさの中で、氷の溶ける音が小さく響く。
(……美月、本当に同棲するんだな)
つい先ほど交わした会話が、胸の奥に余韻を残している。
“航平と住みたい”——
美月は迷わず、はっきりと言った。
嬉しい。
誇らしい。
だけど、胸の奥がきゅっと痛む。
(……子どもが大人になってくのは、嬉しいな。
でもやっぱ……寂しいもんだな)
苦く、温かい感情が混ざり合う。
テーブルの上には、
さっき仕舞い忘れた 芦屋の個展チケットの封筒が置かれていた。
手を伸ばしかけて、途中で止めた。
(……航平に預けちまったが)
今日、航平が帰ったあと——
豊は何も説明せず、ただチケットを渡した。
“来週まで美月には言わないでくれ”
航平は真剣に頷き、チケットを受け取った。
しかし。
(航平に……芦屋のこと、どこまで話すべきか)
今は美月の未来が大きく動き出している大事な時期。
そこに“芦屋”という名前を出して、
娘の心を乱すべきなのか——
豊自身、まだ答えが出ていなかった。
カウンターに肘をつき、静かに目を閉じる。
(健司……お前の絵が完成したら、あいつは……どうなる)
玲子のこと。
友梨のこと。
そして——美月の知らない過去。
(全部……話す時が来るのかもしれねぇな)
ゆっくりと息を吐く。
店の空気は静かで、
グラス越しに映る店内はどこか遠い世界のように見えた。
(まずは……俺が腹を決めねぇと)
明日——
水曜日、不動産屋へ行く美月と航平。
未来に向けて動き始める二人。
その裏で、
過去の影が少しずつ輪郭を見せ始めている。
(幸せにしてほしい。
だけど……あいつの人生から“玲子の影”を奪うわけにもいかねぇ)
未来と過去。
その狭間で、豊はしばらく動けずにいた。
カウンターの上の照明が、ひときわ優しく灯っている。
(……芦屋。お前の絵、完成したら……どうなるんだろうな)
小さく呟き、
豊はゆっくりと店の灯りを落とした。
夜は深く、静かに——
彼の胸のざわめきだけが残った。




