8. 密会
同じ山という場所でありながら、蔵王山は葵と登った高尾山とは随分と雰囲気が違っていた。自然豊かな点は等しいが、こちらのほうが殺伐とした空気が色濃く表れている。ただ、それは血の跡がはっきりと残る染谷邸があるからかもしれない。
その不気味な一軒家の前に広がる更地で、凉は自然の空気を堪能していた。周囲を見回すと、来た道とは別の道がいくつか四方に伸びていた。どの道も先に同じような森が続くだけで、どこに通じているのかまではわからない。
「変にきょろきょろするな。伏兵がいるのがばれるだろ」
無意識に周りを見すぎていたせいで、不意に田中から注意された。
「すいません」
凉は謝罪し、意識的に前だけ向くようにした。
視界に、ひたすら腕時計を睨む浜町の姿が映った。その後ろでは、千路が石像のように立ち、サングラスの奥で静かに瞳を動かしていた。
凉は千路の近くに移動し、その影にすっぽり収まる位置で留まった。日向にいるより、不思議と安心感があった。
まもなく、日の光が急速に弱まった。凉を包んでいた千路の影も消える。
風が吹き、草木がどこか胸騒ぎのする音を立てて揺れた。直後、
「わっ」
凉の身体が何者かに捕らわれた。
不動だった千路が背後を振り向き、すかさず身構えた。田中も大袈裟に周囲を見回す。遅れて、浜町が腕時計から目を離した。
程なくして、凉を攫った敵が染谷邸の前に降り立った。
「わざわざご足労いただきありがとうございます」
凉を盾代わりにし、天狗が団員三人と向かい合った。田中と浜町の顔に、微かな――しかし確かな恐怖の色が浮かんだ。
「左沢――」
「懐かしいですね。確か、ちょうどこの辺りじゃありませんでした? 染谷の生き残りが死んだのは」
「思い出話をするために呼んだのか?」
田中が余裕のない怒声をぶつける。左沢は鼻で嘲笑した。
「たった四人で同窓会ですか。肴もなしに」
「お前のゲロマズイ血を肴にしてやろうか?」
田中が震える右足を半歩前に出す。その隣で、千路がこっそり前に出ようとしていた。
「おっと」
気づいた左沢が、凉の首元に金属扇を突きつける。
「おかしな真似をしたら、首が飛びますよ? それと、草刈さんは封印石と一緒に某所へ監禁中です」
その言葉は、牽制として絶大だった。もしこの場で左沢を殺してしまえば、封印石も葵も居場所がわからず、探し出すことができなくなる。
千路は足を引き、田中は悔しそうに舌打ちした。左沢は満足そうに眼を細めると、凉を抱えて飛び立った。
千路たちの見えない、離れた茂みに着地した。飛ぶように獣道を進み、しばらくすると、防空壕のような小さな洞窟が見えた。左沢は凉を地面に下ろすと、迷わずその中に連れ込んだ。
奥へ進むにつれて、外の光が届かなくなっていった。同時に、木の葉や風の音、野生動物の声が、不気味な静寂に取って代わられる。いよいよ視界が暗闇に埋め尽くされそうになったそのとき、一本の白い光が前方を照らした。
スマホの電灯だった。その持ち主は、いつの間にか妖化を解き、特徴のないメガネの男の姿に戻っていた。
「ここに五年も閉じ込められていたんですよ。入口も、今でこそあんな感じですが、元は土砂か何かで塞がれていました。せめて頭が働く状態だったら悪くなかったのですがね」
左沢の自己紹介を聞き流しながら、凉は中の様子を見回した。空洞が存在するだけで、何もなかった。同情こそしないが、こんな場所に五年も閉じ込められることを想像すると、卒倒しそうになった。
凉が改めて向き直ると、左沢はこう切り出した。
「先程は手荒な真似をしてしまい、申し訳ありませんでした。草刈さんがこの場にいないのは事実ですが、逃げようと思えば逃げられる状態ですのでご安心ください。さっそく本題に入りましょう」
スマホの電灯が床を向き、左沢の顔から気味の悪い笑みが消える。喉元に金属扇を突きつけられたときの緊張感が再び込み上げ、凉は唾を飲み込み、左沢の言葉を待った。
「現時点で、取引を行うことはできません」
「……は?」
凉の口から、思わず素の声が漏れた。
「いやいやいやいや。そもそも、持ち掛けてきたのはあんたのほうでしょう?」
「その通りですが、気が変わりましてね。まず、昨晩の一件。団にとって相当手痛いものであったことはわかりますが、それにしても、ここまで簡単に意見を覆すのは意外でしてね。どうしても疑ってしまうんですよ、裏があるんじゃないかって」
探るような左沢の視線に、凉は反射的に目を逸らす。
「大丈夫です、理由はそれだけではないので。もう一つは、ここの監視を殺した二人組です。察するに、血盟士団内部にいるんじゃないかと思います」
「……ん? ストップストップストップストップ」
凉が慌てて口を挟むが、左沢は話を続けようとする。
「ストォォォップ!」
声を張り上げると、ようやく左沢は話を中断した。
凉は、顔一面に不信感を表しながら口を開いた。
「あの、ちょっと意味がわからないんですけど。その二人組の捜査協力を取引の対価として挙げてましたよね? 知ってるから協力してくれるものだと思ってたけど、知らなかったってこと?」
「はい」
「え? じゃあ、何で対価に挙げたんですか?」
「正直に話したところで、自分の首を絞めるだけですから。二人組にとって、私が団に殺されるのも避けたい状況ではありますが、私が妖化できる状態というのもまた不都合なんですよ」
「死んで欲しくもなければ、妖化されたくもない。マジでわからないんですけど、その二人の目的って何ですか?」
左沢ははぐらかすように視線を外した。
「彼らと団は、封印石まわりの利害関係が一致しています。二人組の狙いがわかれば、団は結託して封印石を戻そうとするでしょう」
左沢が正体の知らない二人組の捜査協力を取引の対価として挙げた理由については判明したが、二人組の目的については濁されたままだった。とはいえ、この場で詰問したところで、返事がないのは目に見えている。
「そんな彼らと対になる形で、利害関係が一致している人間がここにいるわけです」
左沢と凉が、同時に互いのほうを振り向いた。明確な敵意はないが、友好的とも程遠い視線がぶれることなく衝突する。
凉がわずかに一歩下がると、左沢の口が開かれた。
「細胞の早期完成のためにも、夕凪さんに一つお願いがありまして。例の二人組が誰なのか、探していただけませんか?」
完全な静寂が訪れた。
周囲の暗闇や洞穴内の空気、足元を照らすスマホの電灯までもが、凉の声を待ち構えているように感じられた。
程なくして、凉の唾を飲む音が、遠慮がちに静寂を破った。止まっていた時が再び動き出したかのように、緊張感を伴っていた凉の顔は、ただの渋面に戻った。
「AHT細胞は絶対に完成させたいし、あんたと組めば早く作れるだろうってこともわかります。だけど、それ以上に信用できません。第一、急に二人組を探せと言われても……」
「私自身も把握しきれていないんですよ」
左沢は頭を抱えながら嘆いた。つまり、手掛かりと言えるものは、血盟士団が左沢を倒す状況を嫌うが、封印石の奪還には積極的な態度を見せることぐらいになる。
凉は渋面を保ちながら、腕を組んだ。
「もし正体がわかったら、どうするつもりですか?」
「君が考える必要はありません」
またもや回答をはぐらかされた。凉の眉間の皺が一つ増える。
そんなことには無関心のまま、左沢はこう締め括った。
「ここでの話は、くれぐれもご内密に。もし二人組を探っているとばれたら、夕凪さん自身も危険に晒されることになります。というわけで、本題は以上です」
話が済むや否や、左沢は電灯を出口のほうへ向け、踵を返した。凉も後に続く。
出口に向かうにつれ、湿った重々しい空気から解放され、外の自然音が耳に入ってくるようになった。少しずつ、日常が戻ってくるように感覚する。
「そういえば、夕凪さんがいないところで何か会議が開かれたり、決定されたりすることはありませんでしたか?」
思い出したように左沢が訊ねた。凉はすぐに、毎度のように会議室から摘まみ出されていることを思い出した。
「それが何か?」
「彼ら、よく裏切るので注意してください」
凉は眉を顰めた。血盟士団のことは、戦力面では信用できない節はあるものの、組織の方針や決定について不審に思ったことはない。凉と意見が衝突しがちなのも、立場の違いから来るものとして十分に理解できるものばかりだ。
凉が疑うように睨んでいると、左沢はこう補足した。
「具体的には、目的のために身内を騙して捨てたりします」
「血盟士団が、ですか」
「はい」
凉の訝しがる表情は変わらなかった。仮にも政府機関に所属する組織が、そんな悪党じみたことをするだろうか? 記憶にある団員一人一人の顔を思い出してもなお、「騙して捨てる」という言葉はしっくりこない。
左沢の話はまだ続きそうに思えたが、洞穴から出たところで終了した。
「物騒ですねぇ」
左沢が溜息を吐く。
凉は、全身を照らしてくる日光を眩しそうに手で遮りながら、目を細めた。前方に、人影がいくつか立っているのが見えた。やがて、目が光に順応していくと、それが千路たちであるとわかった。
同時に、凉の首元に金属扇が突きつけられた。隣に視線を移すと、左沢が妖化していた。
洞窟内での会話から、凉は自分が殺される可能性が低いことはわかっていたが、完全に恐怖を拭い捨てることはできなかった。
風。森の匂い。鳥の鳴き声。それらと混ざり、人の気配が感じられる。当然、視界に映る千路や田中、浜町以外のだ。凉が気づいているのに、左沢が気づかないはずがない。
「お互い様では?」
千路が突き放すような口調で告げると、
「では、いったん武器を下ろしましょうか。お互いに」
左沢がそう提案した。しかし、提案した本人含め、誰一人として動こうとはしなかった。無論、身を潜めながらどこかで監視している他の団員たちも同様だ。
凉は、心臓を鷲掴みされるような感覚と吐き気に襲われた。次の瞬間には、自分が殺されているかもしれない。あるいは、千路たちが――隠れている団員たちが、屍となっているかもしれない。何が起きるかわからない恐怖に、凉は逃げるように瞼を閉じた。
蔵王温泉拠点奇襲時の、返り討ちにされた団員たちの死体の山がフラッシュバックした。
食道の付け根ぐらいまでで収まっていた胃の内容物が、喉元のほうへ込み上げてくる。さらに、追い打ちを掛けるように、
「夕凪さんが命令してくれれば、きっと従いますよ」
左沢から耳打ちされた。
口を開くことすらできなかった。
左沢へのささやかな抵抗というわけではない。目を閉じていてもわかる、両者の間の空気感。爆発寸前の火薬庫のように張り詰めた状態がどう転ぶのか、凉の一言で決まる。あまりに重すぎる責任を、凉の心は支え切ることができなかったのである。
心臓の鼓動に合わせて頭までもが脈打ち、耳閉感も加わる。吐き気はさらにエスカレートし、頭が焼かれるように熱くなった。視界が端から徐々にブラックアウトしていく。意識が遠のきそうになる。
「やめだ」
千路の一声で、凉はどうにか持ちこたえた。
千路が臨戦態勢を解くと、他の団員も続いた。まもなく左沢も扇を下ろし、凉を解放した。凉は、覚束ない足取りで千路たちのもとへ帰った。倒れそうになったところで、千路が受け止める。
「では、今日はこの辺で」
左沢が背中を向けて立ち去ろうとした。
「待て。どこへ行く気だ?」
すかさず田中が訊ねる。左沢は軽く振り向き、すぐに前へ向き直った。
「化元体の補給です。取引の件は夕凪さんに訊いてください」
その言葉を最後に、天狗が空へ飛び去った。
敵の姿が完全に見えなくなった。さらに、それから数十秒経つと、千路・田中・浜町の三人が空から視線を外した。周囲からも、安堵の息が聞こえてくる。
千路は、自身に寄り掛かる少年を見下ろした。
「夕凪、怪我は。何もされなかったか?」
「大丈夫です」
凉は千路から離れ、一息置いてこう告げた。
「取引だけど、成立しませんでした」
千路の眉間がわずかに動いた。
「まさか、条件の一部を飲まないことを吐いたんじゃないよな?」
田中が食いつき気味に訊ねると、
「夕凪くんはそこまで愚かじゃないと思います」
すかさず浜町が口を挟んだ。田中は、咎めるような眼差しを凉から浜町に移した。
「他には何を話した?」
千路が質問を続けた。凉は、左沢との会話を思い返した。
彼が告げた二つの撤回理由。これとは別に、団員殺しの二人組の調査を依頼されたこと。それらを告げようと、口を開く。
――ここでの話は、くれぐれもご内密に。
伝えようとしていた内容は、口を出て行く手前で静止した。代わりに、「特にありません」と答えようとする。
千路と目が合った。こちらを詮索するような眼差しだった。
田中から感じる疑いの目とは異なる種類のものだった。まるで、凉を敵のスパイか何かと睨んでいるような目だ。
凉は返事に窮してしまった。冷汗の数と、経過する時間だけが増え続ける。そこに、
「ここで問い詰めるのはやめにしませんか?」
浜町が提言した。さらに続ける。
「夕凪くんが一番怖い思いをしたんですから、動揺してても無理はありません。まずは、ゆっくり休んでもらって、それから話を聞くのでいいと思います」
反対の声は上がらなかった。血盟士団は、いったん蔵王を後にし、休憩時間を挟んだ後に会議を開くことになった。