7. 孤独の少年
肩を何度も叩かれ、ようやく凉は目を覚ました。
ぼんやりとした視界に、こちらを覗き込む帝都の顔が映る。次第にはっきりとしてくると、堅苦しい空気に包まれた会議室の様相が明らかになった。大勢の血盟士団員が、険しい顔で凉に注目している。
会議中にうたた寝してしまったようだった。昨晩の奇襲作戦失敗から遅くまでの会議、さらには狐面襲撃に大嫌いな点滴が続き、六時間の睡眠では不十分だった。
「ごめんなさい。いびきうるさかったですか?」
凉は両目を擦りながら、声を潜めて帝都に訊いた。帝都は返事をせず、単刀直入にこう告げた。
「左沢がお前と話したいらしい」
一瞬で眠気が吹き飛んだ。前に座る田村が、スマホを携えながらこちらを振り向き、待ち構える。
凉は勢いよく席を立ち、早足で向かった。スマホを受け取り、恐る恐る呼び掛ける。
「代わりました」
かの大量殺人鬼――否、大量殺人「天狗」との初めての対話に、ある種の緊張を抱いて臨む。
『夕凪さん、初めまして。左沢です』
拍子抜けだった。どこかの知らないおじさんと話しているような感覚だ。
「は……初めまして、どうも」
『正式な取引の締結ということで、三時間後、蔵王の染谷邸に来ていただけますか。付添いは三人まで許可します』
「染谷邸?」
凉が質問する傍から、話を聞いていた田村が血相を変え、スマホを取り上げた。
「三人だけだと?」
『いきなり話に混ざらないでいただきたい。心臓が止まるかと思いましたよ』
「止まってくれりゃよかった」田村が真顔で言う。「お前のその戦闘力で、わざわざこちらの戦力を削ぎ落す理由はないだろう?」
『四人以上寄越したら人質の命はありません』
「おい!」
通話は一方的に切られた。
静寂の中、通話切れを知らせる電子音だけが聞こえてくる。凉が心配そうに見ていると、田村は感情を落ち着かせるように深呼吸し、スマホから顔を上げた。
「染谷邸は、封印石を作れた一家がかつて暮らしていたところだ。今は護衛拠点になっている」
――封印石を作るには、原料となる石と、先程言った『ある一家』の血が必要だが、困ったことにその一家の末裔も事件中に死亡してしまってね。
以前、前田から聞いた話が凉の脳内に蘇った。まさに、その「一家」というのが染谷なのだろう。
「誰が行きますか?」
真っ先に千路が声を上げた。田村は知っていたと言わんばかりに振り向いた。
「お前は誰と行きたい?」
「団長が信頼している者で」
「だったら……浜町と田中」
ものの数秒で指名が入った。田中と呼ばれた男性が、威勢のいい返事と同時に頭を下げる。
他方、浜町は顔全面に難色を示していた。
「実は、昨日から子供が一人、熱を出していまして……」
「医者もいるんだし、他の者に任せろ」
田村はきっぱりと跳ね除けた。浜町は悩みあぐねるも、反論できなかった。
「メインは決まったな」
田村はそう言い、全体を見渡した。
「は? 他にも連れて行くってことですか?」
すかさず凉が口を挟む。
「当然だ。奴のいいように持って行かれては困る」
田村の返事に、凉の顔からは、たちまち生気が消えていった。
「やめてください。葵が殺されたらどうするんですか?」
「傷一つ負わせない、約束する。犠牲が出るとしたら団員だけだ」
当然、凉は納得するどころか、不安しか覚えなかった。昨晩の奇襲作戦も、闇討ちと銘打ちながらも簡単に崩されてしまった。裏をかくという今回の作戦も、結果は見えている。
「三人だけにしてください。マジでお願いします」
凉が、これ以上ないくらい深く頭を下げた。
途端に、団員たちから抗議の嵐が飛んできた。
「俺たちの覚悟を舐めてんのか?」
「自分ばかり都合のいいことを言うんじゃねえ!」
こればかりは、凉は何も言い返すことができなかった。誰でも、最善を尽くそうとしているところに水を差されたらいい気はしない。団員たちの言い分も、十分に理解できる。
恐々と頭を上げると、仏頂面で腕を組む田村の姿が見えた。威圧感に耐え切れず、凉は反射的に目を逸らした。
田村は呆れたように息を吐くと、千路の隣で不機嫌そうに傍観する人物のほうを見た。
「千路のところの坊主。会議が終わるまでそいつを摘まみ出せ」
帝都は不承不承凉の首根っこを引き、会議室の出口へ向かった。最中、
「もののついでだ。浜町のところの子供の様子も見てやってくれ」
田村がそうつけ加えた。帝都は一瞬だけ睨み返し、凉と一緒に会議室を後にした。
「ごめんなさい。俺が信じてやれないばかりに」
通路を早足で歩く帝都に歩調を合わせ、凉が申し訳なさそうに零す。
「別に謝ることじゃねえ。お前の言ったことは至極真っ当だ。奴らがどんな覚悟を持っていようが、何人死のうが、人質が救えないなら関係ない。お前に非はねぇよ。大体、国だとか赤の他人のために自らの命を差し出せるだなんて、理解の範疇を超えている」
その言葉は、凉の肩を持つ内容ではありながら、どこか苛立っている様子が否めなかった。
ホールを出て五分ほど歩き、中学校に到着した。人気のない街中とは打って変わり、外側からでもわかるほどの生活感が漂っていた。
凉が校舎を見上げていると、
「ここは一般人専用避難所だ」
帝都がそう告げ、昇降口に入った。凉も慌てて後に続く。
「一般人? 血盟士団以外ってこと?」
靴を脱ぎながら、凉が訊ねる。
「いいや、人妖以外だ」
「人妖の人は?」
「人妖専用の避難所にいる。人妖の奴に同伴したい一般人もそっちの避難所だ。幼い子供やお年寄り、身体の不自由な人に同伴するケースが多いな」
避難所の中は、この数日間に凉が経験した出来事が信じられないくらい、平和な空間だった。血盟士団の拠点が近くに存在し、外を歩けば暴走人妖が闊歩しているのが夢ではないかと思うほどだ。避難生活が始まってまだ間もないからか、住民たちの表情は老若男女問わず活き活きとしている。
そんな中でも、一段と活気に満ちた部屋があった。帝都は迷わずその教室の扉を開いた。
「浜町お兄さんの代わりに来たぞ」
帝都に続き、凉も中に入る。
そこにいたのは、十数名の年代・性別がまちまちな子供たちだった。下はギリギリ小学校に入っているぐらいの年齢から、小学校低学年、凉と同い年ぐらいの子供、さらには中学生らしき子供まで揃っている。
帝都に気づくと、ごっこ遊びをしていた小学校低学年ぐらいの男子四人が、真っ先に駆けつけた。そのうちの一人が、帝都に向かって拳を突き出す。帝都は片手で受け止めた。
「熱があるってのはどの子だ?」
「みれいちゃん」
帝都の質問に、拳を突き出した少年が答える。
「浜町おじさんは?」
「大事な会議」
帝都はさらっと答えると、少年の指さすほうへと向かった。
「ここにいるの、全員浜町って人の子供?」
凉が帝都の横に並びながら訊ねる。帝都は頷き、こう言った。
「前の人妖事件で家族を失った子たちを、浜町さんが預かったんだ。俺も本来はここに引き取られるはずだった」
教室の隅で布団に横たわっていたのは、凉と同年代の少女だった。その隣で、おそらく最年長であろう中学生ぐらいの長髪の少女が、心配そうに見守っている。
「みれいちゃん、どう?」
帝都が、長髪の少女の隣に屈んだ。少女は驚いたように振り向いた。
「あ、帝都さん。さっき熱を測ったときは、三七度五分でした」
「微熱か」
帝都が布団の中の少女を覗き込む。ぐったりとしていた。悪夢にうなされているような、苦しそうな表情を晒している。
「ずっとこんな感じ?」
「はい。一応、朝より熱は下がってます」
「そう」
ちょうどそこに、騒がしい集団がやってきた。小学校中高学年の男子五人組だ。彼らは、すぐに帝都がいることに気づいた。
「お、帝都じゃん。本気ケイドロしようぜ?」
五人衆のうち、髪の毛がツンと跳ねた高身長の少年が大声を上げた。帝都はその場で首を横に振った。
「みれいちゃん見なきゃだから無理」
「れいこいるしいいじゃん。ケイドロしよ、ケイドロ。つうか隣にいんの誰?」
「あぁ」
帝都は凉を見やった。
「凉。確か、お前と同じ小五だ。そうだよな?」
凉は曖昧に頷いた。
「んじゃあ、帝都じゃなくてそいつでいいや。ケイドロしよ?」
帝都の無言の圧力に押され、凉は渋々代理を務めることになった。不安を抱きながら、少年たちのほうに歩み寄る。
「どういう遊び? カードゲーム?」
「は? ケイドロも知らねえの? やば」
少年たちが嘲笑する。凉は不満を顔全体に表した。
「ルール教えて」
説明が終わると、凉はいつも帝都がやっている警察役――鬼ごっこでいう鬼の役を任された。
開始から五分としないうちに、凉の体力は底を尽きた。
「足おっそいくせに体力もねえのかよ。しょうもな」
「つまんねーから別のやろうぜ」
少年たちが呆れたように言う。彼らの学校で流行っているであろうゲームがいくつか提案されたが、いずれも凉が初めて耳にするものだった。ルールもケイドロより複雑で、やりながらでもなかなか覚えられない。
とうとう少年たちは、愛想を尽かしてしまった。
「お前さ。何ならできんの? 友達いないだろ?」
一方、凉のほうも、馬鹿にする言動の数々に限界が来ていた。
「こっちは遊んでる暇なんてねぇんだから、知ってるわけないだろ」
罵倒合戦から取っ組み合いが始まり、ついに喧嘩へと発展した。
「何やってんだ、お前ら」
帝都が、流血沙汰も免れなさそうな雰囲気を察し、看病をやめて仲裁に入る。
「お前ら落ち着け、やめろ」そして凉のほうを向いた。「凉、挑発に乗るな。明らかに乗せようとしてんの、わかるだろ?」
「るっせえな! 何で俺にだけキレるんだよ」
凉のものとは思えない、感情的な怒声が響いた。帝都だけでなく、その場にいた誰もが思わず慄いた。
凉は、足元に転がっていたクレヨンケースを蹴飛ばし、わざとらしく足音を立てながら部屋を出ていった。
ちょうどそこに、浜町がやってきた。
「お二人さん、会議終わりましたよ」
教室のドアから覗く彼の脇を、凉が通り過ぎていく。
浜町は不思議そうに、凉の背中を見つめていた。
凉は一人体育館に向かうと、端の目立たないところで腰を下ろした。
体育館内の様子を、ぼんやりと一望する。それぞれの居場所で休む避難民と、その間を縫うように駆け回る子供たちの姿が目に映った。
凉は大きく溜息を吐き、俯いた。虚無感で満ちた少年の顔が、不鮮明に反射して映し出される。
昔から、遊びの輪に入れたことはなかった。遊びの輪に入れても、喧嘩が起きると、真っ先に注意されるのは決まって凉だった。兄弟喧嘩が起きたときに、上の子が「お兄(姉)ちゃんだから」という理由で我慢を強いられるのと同じ理屈だ。
それでも、孤独や疎外感はなかった。それが当たり前だったからだ。
「あ、あの、大丈夫?」
不意に後ろから声を掛けられ、凉は驚きながらも、ゆっくりと振り向いた。浜町だった。
「あ、えっと……よくわからないけど、一人で出ていったものだから心配で……」
初対面のときから、浜町の挙動不審な点は変わらない。ただ、怪しいことをしているわけではなく、こういう人物なのだろうということは何となくわかってきた。
凉が何も反応しないでいると、
「隣、いいですか?」
浜町が遠慮がちに訊き、返事を得る前に座った。
ファスナーの空を切る音が聞こえ、浜町の前に下ろされたボロボロのリュックが開かれる。浜町は、悩むようにしばらくリュックの中を眺めると、小さいペットボトルのオレンジジュースを取り出した。
「もし良かったら。元気がないときは、甘いものがいいって聞いたので」
凉は、しばらく呆然とそれを見つめていた。
浜町が再度促すように差し出すと、
「ありがとうございます」
ようやく凉は、受け取った。キャップを開封し、中身を喉に流し込む。
「甘っ!」
一気に三分の一ほど飲んだところで、口を離し、ペットボトルを睨んだ。
「あ、ご、ごめんなさい。いつも子供たちにあげてるものを選んじゃって。コーヒーとかのほうがよかったかな?」
浜町がおどおどしながら訊ねると、凉は眉間から皺を取り払った。
「いえ、大丈夫です。コーヒーはそんなに飲まないので」
それから、ジュースの残りを一気に飲み干した。
空のペットボトルが床に置かれた。
「ごちそうさまでした」
凉は、ペットボトルのキャップの上に両手を重ねて乗せると、浜町のほうを振り向いた。
「俺、浜町さんのこと、最初怪しい人だと思ってました。でも、勘違いだった。身寄りのない子供たちを、あの人数引き取って世話をするのって大変ですよね。まだ親の立場になったことはないけど、想像はできます。団長から『信用できる人』として指名されたのが何かわかる気がしました」
「それは、信用とは関係ないよ」
毅然とした声が返ってきた。ペットボトルに乗せられていた凉の両手が、引っ込められる。
浜町は、天井を見上げてこう続けた。
「団長が指名したのは、パシリとしてちょうどいいからだ。子供たちを引き取ったのもそう。お願いされたんじゃなくて、ほとんど押しつけられたようなものだった」
そこまで告げられると、浜町の苦々しかった表情は、わずかに綻んだ。
「でも、子供たちを引き受けたことに関してはよかったと思う。私自身も身寄りがなかったから。いつも傍に誰かがいるのはいい。孤独は恐ろしいからね」
穏やかな笑顔に潜む瞳が、何かに怯えるように淀んだ。
弛緩した沈黙が流れた。子供たちが駆け回るせいで床が振動し、空のペットボトルがころんと倒れた。気づいた凉が、立て直そうと手を伸ばす、
「夕凪」
突然、背後から声を掛けられ、凉は小さく悲鳴を上げた。
千路だった。
「移動だ」
無表情で告げられる。
「あら、もうそんな時間でしたか」
凉が慌ただしく起立する隣で、浜町が腕時計を確認した。
「そんな時間です。ここにいる子供たちは、桜木に任せてください」
「本人にもそう言われました。よろしくお願いします。それじゃあ、行きましょうか」
浜町に呼び掛けられ、凉は二人の大人に続いた。
去り際に、ふと背後を見やる。幼い子供たちの無邪気な姿が、印象的に映った。