6. 血盟士団との協力交渉
キャンピングカーに戻った凉・はな・帝都の三人は、テーブルの上の冷めたカップラーメンを囲み、沈黙していた。口を開くのは、水を飲むときだけだった。
帰還からちょうど三十分ほど経過したときだった。車のドアが開き、千路がやってきた。
「夕凪」
普段と変わらない無表情で手招きする。凉は顔を青くして唾を飲み、立ち上がった。
「待ってくれ、千路」帝都が呼び止めた。「そいつは何も悪くない。俺が勝手にやったことだ」
「今さっき、化元体の搬入が始まったばかりだ。暇なら手伝いに行ってくれ」
帝都は口を一の字に結び、重い足取りで車を出て行った。
帝都を見送ったところで、千路と凉が移動した。
「さっきは本ッ当にすいませんでした」
車から出るや否や、凉は準備していたように謝罪した。
「反省しています、二度とやりません。だからキンタマだけは勘弁してください」
涙目で必死に訴えるも、千路は無言だった。何なら、目を合わせようとすらしてくれない。
凉は胸に手を当てた。不安と緊張でうるさく鳴る心臓の鼓動は、だんだんと加速していた。
拠点のコンサートホールに入った。階段を上り、しばらく通路を歩くと、例の会議室に到着する。
中には、すでに田村と団員が数名待機していた。
「夕凪を連れてきました」
千路が会議室のドアを閉める。
田村は、視界の中央に凉を捉えた。凉も拳を握り締め、田村を睨み返す。
「坊主。例の人質を探してこっちに来たらしいな?」
「ええ」
凉の握り拳の中が汗ばんだ。
「頭がいいんだろう? 何用でここに呼ばれたのか、察しがつくんじゃないか?」
凉の眉間に深い皺が刻まれた。罵倒の言葉が喉元まで込み上げてきたが、すんでのところで飲み込んだ。
答えようとしない凉に代わり、千路が答えた。
「心当たりが多すぎるのでは?」
「なるほどな」
田村は荒い溜息を吐くと、改めて口を開いた。
「奇襲作戦が失敗した原因の一つに、人質が救出を断ったことが挙げられる。封印石を取り返す上で、大きな障壁になっている。そこで、お前さんには人質を説得して欲しい」
話が終わるや否や、凉の顔に、自然と険しい表情が浮かんだ。
「タダでやれってことではないですよね?」
「いきなり対価を求めるのか?」
田村だけでなく、他の団員からも厳しい視線が向けられた。凉は返す言葉に悩み、口を閉ざす。そこに、
「夕凪自身が説得の意思を持っていても、封印石が返ってくるかは結局、人質次第です」
千路が助け舟を差し出した。
「それもそうだな」田村は頷いた。「しかし、どうしたものか。封印を戻してもよい選択肢はないのか?」
田村が独り言のように呟く。
「例の臨床試験の現状について、簡単に説明を聞かせてくれないか?」
千路がそう促すと、凉は小さく頷き、口を開いた。
「試験中のAHT細胞で課題となっているのは、『暴走再生』と呼ばれる現象です。双血球が少なくなったときに、体内の他の細胞組織をでたらめに再構成するというものです。これが起きるかどうか事前に調べるのに、励化線が必要になります」
「双血球が減少したら、か」
千路が呟いた。凉は田村から視線を移す。
「人妖の暴走と似ていますが、少し違います。人妖の場合は、HT細胞由来の双血球が関係するので、暴走が起きるのは励化線照射時のみです。対し、AHT細胞からの双血球が暴走再生を起こすのに、環境的な条件は含まれません。何故かというと、双血球の性質はAHT細胞から生成される段階で、照射された放射線の種類により決定されるからです」
「照射時に暴走再生の有無が決まるということは、彼女はいつ亡くなってもおかしくない状況ということか?」
田村がなおも難しそうに黙り込む中、千路が質問する。凉は首を横に振った。
「AHT細胞は励化線に反応すると、既定双血球と呼ばれる特殊な双血球を生成します。これは、HT細胞が励化線と反応して生成するもの――つまり皆さんの体内で作られる化元体と一緒です。なので、暴走再生でめちゃくちゃにされた組織も既定双血球が治してくれます。皆さんのHT細胞は、個人差はあるものの、大概既定双血球の生成量が自然治癒などへの消費量に追いつかないようになっていると思いますが、AHT細胞はそういうことはないので、暴走することもありません」
「待ってくれ、わからない」すかさず田村が口を挟んだ。「励化線を照射したら、双血球ができて? 事前に調べるのにも励化線が必要って、どういうことだ?」
「調べるときはAHT細胞ではなく、双血球に照射します。暴走再生が備わっている場合には、特定の挙動が観測されます」
田村は釈然としていない様子だった。低く唸りながら、千路に話を振る。
「確か五年前、励化線で病気が治った例があったよな?」
千路は凉のほうを向き、こう質問した。
「励化線下で完治させてからAHT細胞を摘出する場合、どうなる?」
「摘出が不可能に近いです。AHT細胞は骨髄に生着します。つまり、他の造血幹細胞――赤血球や白血球などを作る細胞と同じ場所に存在するということです。摘出というより、破壊になると思いますが、AHT細胞の働きを制御するために、他の正常な造血幹細胞も死滅させることになります」
「なるほど」千路は苦々しい表情を浮かべた。
「双血球がなくならないよう、一生放射線を当て続けるわけにもいかんだろうしな。まぁ、要するに猶予期間を与えればいいんだろう?」
田村の言葉に、凉の顔はわずかに晴れた。しかし、
「それで? 何日あれば。完璧な細胞ができるんだ?」
その言葉で、表情は一瞬にして崩れた。
励化線があると言っても、検証前に問題点を減らすことができるというだけであり、理想的なAHT細胞の設計図が湧いてくるわけではない。完成するまでどれだけ時間を要するかなど、予想すらできなかった。前田にだってわからないだろう。何年後、あるいは何十年後になる可能性もある。そんな回答が許されるわけがないことはわかっていた。
凉が何も答えられないまま、時間だけが過ぎようとしていた。
突然、会議室のドアが開いた。全員の視線が、一斉にドアのほうを向く。
電話を持った浜町が、おろおろと入ってきた。
「どうした? 無線が繋がらなかった原因、特定できたか?」
「あ、はい。その、電池が取られてました。それよりも団長、左沢からです」
浜町が田村に電話を手渡すと、他の団員たちもその周りに移動した。凉と千路だけが、その場に留まる。
『夜遅くまでお疲れ様です。先程はどうも……で合っていますよね?』
「お陰様で貴重な戦力が失われた」
『合っていましたか。てっきり有志の素人集団か何かだと思いましたよ』
「トラブルがあった、通信障害だ」
相手の嘲笑交じりの声に、田村は自然と怒り口調になった。
「煽り電話なら切るぞ?」
『取引の再確認です。回答が変わったんじゃないかと思いまして』
「見くびるなよ? どれだけ団員が犠牲になろうが、答えは変わらない」
田村の返事に、左沢は鼻で笑うだけだった。
『念のため、取引内容をもう一度言いますね。要求は二つ。AHT細胞の開発への参加と、完成後の私の身の自由。対価も二つ。蔵王の護衛殺しの捜査協力と、人質・封印石の返却。ちょうど会議でもやってるところでしょうから、議題に加えておいてください。また明日伺います、賢い選択をお待ちしていますね』
通話が切れた。田村は電話を睨むと、「一生待ってろ」と吐き捨て、浜町に押しつけた。
「団長」
凉が呼び掛けた。田村だけでなく、全員が驚いたように振り向く。
凉は、正面に座る相手をまっすぐ見据え、はっきりとこう告げた。
「左沢との取引、受けてください」
「何バカなこと言ってんだ?」
すかさず団員の一人が口を挟んだ。他の団員たちも続こうとしたが、
「静かにしろ」
田村の一声で辺りが静まった。田村は団員たちを睨むように見回し、最後に凉のほうを向いた。
「それで?」
「もちろん、あっちの提案をすべて受け入れるわけではありません。AHT細胞の研究に参加させること以外、ぶっちゃけどうでもいいです。細胞ができた後、あの人をどうするかはあなたたちにお任せします」
「取引内容の一部変更か、なるほど。悪くない。ただ、奴も納得してくれるような変更となると、難しいんじゃないか?」
「そりゃあ、誠実に取引しようものなら難しいでしょう」
凉が大真面目に答える。
田村が盛大に噴き出した。隣の千路も、わずかに肩を震わせている。
「いいだろう、乗った。蔵王の件も、そろそろ取りかからないと怖いからな」
田村が手を叩きながら言った。どうにか、希望の光を絶やさずに済んだようだ。凉は胸を撫で下ろした。
「しかし驚いた。てっきり坊主は、天狗を気に入ってるものとばかり思っていたからな。まさか騙そうと提案してくるとは」
田村が笑い交じりに告げる。
凉の脳裏に、奇襲時の凄惨な光景が蘇った。
地面を覆い尽くすほどの数の死体。成す術もなく殺されていく団員たち。
自分と同じ研究者だ。大規模な人妖暴走化を起こしたから、不当に悪者扱いされているだけであり、実際はそこまで悪い人物ではないだろう。そう思っていたが、偏見を抱いていたのは凉のほうだった。
薄気味悪い笑みを浮かべながら、人を斬り殺していく天狗の顔が忘れられない。あんなものと同じ括りにされたくなかった。
会議が終わると、凉は千路と一緒にホールを出た。人気も街灯もない深夜の街並みは、幽霊の類を信じていない凉でも不気味に感じた。それでも恐怖感が少ないのは、隣に千路がいるからだろう。
「早ければ明日にも都内に戻れるかもしれない。今日はゆっくり休め」
千路の言葉に、凉は黙って頷いた。
自然と視界に収まる位置に、綺麗な満月がぽつんと浮かんでいた。光が眩しいからか、その周辺だけ星が見えない。
「おっさん。俺の提案、正しかったでしょうか?」
不意に凉が零した。千路の足が、一瞬だけ止まる。
「不安か?」
「今まで、自分で何か重要なことを決めたことがなくて。あれがしたい、これをしたい。希望を言えば、周りが用意してくれました。AHT細胞の研究だってそうです」
教授へのコンタクトから研究室見学、政府のプロジェクトへの応募。研究の準備と着手。大人が敷いてくれたレールに沿って歩いたら、偶然上手くいった。
少年の目が、黒いレンズをまっすぐ捉えた。
「おっさんは、大事な選択、どうやって決めてますか?」
千路は、前方に映るキャンピングカーを一瞥し、再び凉を見た。
「責任、だな」
「責任?」
「予知能力がない以上、どんなに避けようとしたところで望まない結果になることはある。だから、失敗した場合を想定して、責任を取れるか否かで決めている」
「なるほど」
鼻先に湿った感触を覚えた。顔を上げると、ちょうど厚い雲が月を覆ったところだった。最も明るい自然光が消え、辺りが急に薄暗くなる。ただし、土砂降りになりそうな気配はない。
「夕凪」
千路の声で、凉は空から視線を外した。
その瞬間だった。
千路の胸から、長い刃が突き出した。一瞬で引き抜かれ、千路がその場に蹲る。
彼の背後に、一人の人間――否、人妖の姿があった。身体のシルエットを隠すように、ぶかぶかの紺色のマントを羽織る、成人男性ほどの人型人妖。その顔には、白い狐面が着けられていた。
草履を地面に擦らせ、左手をマントの内側に突っ込みながら、狐面は凉のほうに前進した。凉の足がひとりでに後退する。
狐面の足がいったん静止した。同時に、マントをまさぐっていた左手がスマホを取り出し、画面を掲げた。
『騒ぐな』
文字が表示されたのと同時に、機械音声がその内容を読み上げた。後退を続けていた凉の足は、金縛りに遭ったかのようにピタリと留まった。
狐面が再びゆっくりと前進し始めた。スマホ画面が徐々に近づき、凉の息が当たる距離にまで迫る。
ようやく凉の全身の硬直が解けた。踵を返し、キャンピングカーのほうへ駆け出そうとする。しかし、有り余る焦燥感に肉体がついていけず、前のめりに転倒した。すぐに立ち上がろうとしたが、直後、右足のふくらはぎに激痛が走った。
「がああああああ!」
刃で貫かれたのだ。悲鳴を上げながら、凉は前に手を伸ばした。
狐面は、刀をふくらはぎに刺したまま凉の前に移動し、しゃがみ込んだ。
『左沢との取引をやめろ』
涙で視界が滲み、画面の文字が読み取れない。しかし、読み上げ音声は確かにそう告げた。
「嫌だよ。唯一、全員が納得できる選択だ」
『だったらお前を殺すしかない』
ふくらはぎから刃が引き抜かれた。
次の瞬間、狐面に黒い影が突進した。二体は絡まったまま地面に倒れ、勢いのままに転がっていった。次第に減速していき、狐面が黒い影に上から押さえつけられる形で収まった。
黒い影の正体は、コウモリだった。体長は狐面と大差ないながらも、その倍近くある翼が敵の動きを封じていた。
コウモリは、狐面の右腕に食らいつくと、思い切り引き千切った。握られていた刀が、地面に放り出される。切断された腕は、そのままコウモリに飲み込まれた。
コウモリはたちまち人の姿に戻った。黒の半長靴が傍に落ちていた刀の柄を蹴り、狐面からさらに遠ざけた。
狐面のこめかみに、拳銃が突きつけられる。
「何故、取引のことを知っている?」
千路が胸の傷を押さえながら訊ねた。出血は止まらず、足元には小さな血溜まりができている。
「団員か? だとしたら重大な背信行為だぞ?」
狐面はスマホを取り出し、千路に見せつけた。
『それはお互い様じゃないか?』
「は?」
読み上げ音声を聞いた凉が、声を上げた。
狐面の指が、スマホの画面をコツコツと叩いた。その音がやけに不気味に感じられた。
やがて、画面が凉たちに向けられた。
『サンバシ カヨウ』
普段まったく動じることのないサングラス越しの目が、はっきりと動揺の色を見せた。だが、それも束の間のことで、千路はすぐに拳銃の安全装置に触れた。
ほぼ同時に、狐面が立ち上がった。千路の鳩尾を飛び蹴りし、稼いだ隙で素早く刀を拾い、電光石火の速さで切り掛かる。
刃が身体を捉える直前で、千路はとっさに身を引き、左腕で頭部を庇った。刃がスーツの袖を裂き、腕に血の線を描く。
そこに、駆け足でやってくる足音が耳に入った。凉が振り向くと、はなと帝都の姿が見えた。
狐面も二人に気づき、武器を仕舞った。その場で大きく跳躍し、退散した。
千路がすぐさま後を追いかけようとしたが、帝都に全身を使って止められた。
「無茶するんじゃねえ。暴走したらどうする? はなに止めさせるつもりか?」
「離してくれ」
「離すかよ」
二人が取り込む中、はなが凉のほうを向く。
「何があったか教えてくれる?」
「えっと、その、取引に応じたら殺すって言われて」
「取引?」帝都が声を裏返す。
「左沢の件だ」千路が答えた。「夕凪に人質を説得してもらう代わり、取引の一部に応じることになったが、まだ……」
「おっさん大丈夫、後は俺が話す」
慌てて凉が話を遮り、こうつけ加えた。
「取引のことはまだ左沢には伝えてないんだ。それでさっきの狐面が、取引に応じたら殺すって脅してきた」
「なるほど。ってことは、俺たちが凉を守れば――」
「奴は水野のことを知っていた」
千路の掠れた声が、嫌にはっきりと聞こえた。
「え……は? どういうことだよ」
帝都の顔がたちまち青ざめる。
「ばらすと」
「まず、車に戻ろうか」はなが提案した。「凉くんも怪我してるし」
キャンピンググカーに戻ると、はなはさっそくベッドの下から医療器具と薬品を取り出した。その間、帝都が千路をベッドに寝かしつけ、傷口を手で塞いでいた。
「凉はいいとして、千路は団の医務室に連れてったほういいか?」
帝都は、支度中のはなにそう訊ねたが、先程の会話を思い出したのか、
「あ、いや……やっぱはなに頼むわ」
すぐに撤回した。
はなは、怪我の処置に慣れているようだった。手際よく千路の手当と化元体の点滴投与を済ませ、凉の処置に移った。
「化元体が治してくれるとはいっても、無駄な消耗はよくないからね。暴走するリスクにもなるし」
床の狭い隙間に敷かれたシーツの上で、凉が横になる。ふくらはぎの出血は、だいぶ落ち着いていた。
「止まるの早いね。一応消毒入れてからテーピングしようか」
「消毒は大丈夫です」
凉が顔を青くしながら答えるが、はなは無視して消毒液を開けた。
「痛いの無理なんですって」
「我慢してね」
消毒液の染み込んだ綿が傷口に触れた。凉は眉間が皺くちゃになるほど瞼をきつく閉じた。目を閉じている間に、テーピングも完了した。
「はなさんって看護師さん?」
「ううん、学生。医学部の」
「え? 学生で血盟士団?」
「うん。みんなそんな感じだよ。千路さんは自衛官だし」
「あぁ……」凉は狐面との戦闘を思い出した。「って、ええ?」
大きく開かれた目は、ベッドで寝息すら立てずに横たわる千路の姿を捉えた。どちらかといえば、要人警護をしていそうな身なりだ。その隣では、帝都がベッドにもたれかかるようにして眠っていた。
「帝都さんは、中学生? 高校?」
「高校三年生。警察官を目指しているみたい」
「警官か」
凉の脳内に、警察服を着て敬礼する帝都の姿が浮かんだ。似合っていないわけではないが、笑顔成分がやや足りないと感じる。
「五年前の事件で一緒になった人が警察官でね。帝都くん、その人に憧れていたんだ」
「へぇ」
凉は、再び帝都の寝顔を眺めた。
血の繋がりもない、てんでばらばらの三人。おそらく五年前の騒動がきっかけで一緒になったと推察できるが、見えてこない部分があまりに多い。特に、水野はな。外では徹底的に素顔と本名を隠している。狐面がはなの正体を把握していると知ったとき、帝都は珍しく動揺し、常に無表情の千路でさえも焦燥を露わにしていた。
火を見るより明らかなパンドラの箱。これまでは触れてはいけないという気持ちが先行していたが、今では知らないことのほうが恐怖を覚える。
凉は拳を強く握り締め、遠慮がちに口を開いた。
「はなさんってさ、何者?」
聞こえていた物音が、一瞬にしてなくなった。
「やっぱり気になるよね」
はなはしばらく悩むと、薬品箱の蓋を閉じた。
「わかった。話すね。でも、その前に一ついいかな?」
「何でしょう?」
「左沢との取引に応じることにした理由が訊きたい」
はなの真剣な眼差しがまっすぐ向けられた。凉は目を逸らすことなく、こう告げた。
「葵を救いたい。この気持ちは何者にも曲げられません。だからといって、完璧なAHT細胞ができるまで励化線の封印を待っていたら、多くの犠牲が出てしまう。どちらとも救うには、早くAHT細胞を作るしかありません。左沢がどんな極悪人だろうと、短期間であれだけAHT細胞の開発を進めたということは確かです。たくさんの人を助けるためには、力を借りる必要があると思いました」
凉はそこまで言うと、自信なさげに俯き、肩をすぼめた。
はなは、穏やかな表情を浮かべた。
「とてもよくわかった。ありがとう。約束通り話すね」
帝都たちが眠っているのを確認すると、凉の疑問に答え始めた。
「五年前に大きなミスをしたの。そのせいで、一帯の避難所の人たちと血盟士団員が大勢死んでしまった」
床を見る彼女の目は、まるで当時の記憶を直視できないと言わんばかりに閉じられていた。
凉が意外そうに見つめていると、はなはまもなく控えめな笑みを浮かべ、こう続けた。
「私はね。凉くんの判断、正しいと思うよ。だからね、狐面はこっちで何とかする。私たちのことは気にしないで、思うようにやって欲しい」
すぼんでいた凉の肩が、少しだけ開かれた。自信なさそうに淀んでいた瞳に、微かな光が灯る。
「ありがとうございます。はなさんにそう言われると心強いです」
「たくさんの人を救いたいって気持ちは同じだからね。よし、それじゃあ、化元体入れるよー」
突然、はながくだけた口調に変わり、点滴の準備を始めた。
「え、あ、ちょっと待って。針は無理、針は無理――」
「ごめんね。でも打たないと暴走しちゃうから。学校でも、毎年健康診断で採血してるよね?」
「逃げてる! けど葵に連行されて、別の日にブッ刺されてる!」
「じゃあ大丈夫だね。葵ちゃんはいないけど、頑張って」
「嫌だ!」
凉の悲鳴に、無意識に寝落ちしていた帝都が目を覚ました。
「どうした?」
帝都は寝ぼけ眼を擦りながら、凉たちのほうにやってくる。
「あ、帝都くん。ちょうどいい、凉くんに点滴打つの手伝ってくれる?」
程なくして、活力の戻った帝都の目は、針が怖いと暴れる凉の姿を捉えた。
「いやいやいや。お前、何歳だよ。点滴ぐらい我慢しろ」
「痛いの無理!」
「大丈夫、痛くないって。はな上手いから」
帝都が安心させようと声を掛けるが、凉が落ち着く様子はない。
とうとう痺れを切らした帝都は、強引に凉の腕をシーツに押さえつけた。待ち構えていたように、はなが静脈位置を確認し、アルコール消毒を行う。
点滴針のキャップが外された。
「死ぬぅ!」
凉が、押さえつけられていた左腕で抵抗した。本人が意図したよりも遥かに強い力が出てしまい、帝都の腕が跳ね除けられた。
不運なことに、その腕ははなの顔のほうへ飛んでいった。幸い直撃は免れたものの、驚いたはなが弾みで注射針を放り出してしまった。チューブが空中で暴れながら、重力に従い床に落ちる。
刹那。はなの身体が傾いた。即座に帝都が両腕を差し出し、抱き止める。
はなは気絶していた。針への恐怖で青ざめていた凉の顔が、よりいっそう色を失う。
「あ、その、ごめんなさい。もしかして、針――」
「刺さってはない」帝都が即答した。「はなの奴、先端恐怖症なんだ。そのうち目を覚ますだろう」
凉の胸に募っていた不安が、一気に霧散する。しかし、罪悪感が消えることはなかった。
死人のような顔色で眠るはなを見つめながら、凉は意識が戻るのを待った。先端恐怖症でも、他人に注射するときは平気という人がいるのは知っていたが、彼女もそのパターンなのだろう。
なかなか起きないはなに、消えたはずの不安が復活した。困ったように帝都を見ると、真剣な眼差しではなを見守っていた。その姿は、まるで本物の家族か恋人のようだ。
「帝都さんたちって、いつから一緒なんですか? やっぱり五年前?」
凉が訊ねると、帝都は眉間の皺を消して振り向いた。
「ああ」
「血盟士団って、成人した人しかなれないんですよね?」
帝都から血盟士団の説明を受けたときに抱いたままだった疑問をぶつける。
「そうだ。俺とはなは拾われた」
「千路さんに?」
「はなはそうだな。俺は違う」
「憧れていた警察官の人?」
凉の言葉に、帝都が目を丸くした。
「何故それを?」
「さっき、はなさんから聞きました。今でも、その人とは親交があるんですか?」
ほんの少しの間があって、帝都が口を開いた。
「五年前の事件中に殉職した。俺を助けようとして犠牲になった」
意識して感情を押し殺したような、淡々とした声だった。
凉は申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい」
「大丈夫だ。俺はもう受け入れられてるから」
帝都は冷静にそう返した。しかし直後、その目は心配そうにベッドの千路を一瞥した。
「千路さんが何か?」
凉が声を潜めて訊く。帝都は目を伏せ、遠慮がちに口を開いた。
「その人、千路のことを尊敬していたんだ。優秀な人だったから、千路もその人のことを重用していた」
それからしばらく悩んだ後、帝都は唐突にこう質問した。
「凉はさ、いざってとき、仲間を自分の手で殺せるか?」
「え?」
凉はそのまま黙り込んでしまった。考えるまでもなく回答は定まっていたが、口にすることが憚れた。
程なく、帝都は溜息交じりに話を再開した。
「簡単にできることじゃねえよな、普通。できると思っていても、実際そういう場面に出くわすと、できなかったりする。はなはそれができる奴だった」
凉は目を見張り、眠るはなを見た。まもなく、帝都の話が再開すると、視線を戻した。
「千路が化元体下剤っていう毒みたいなものを盛られて、暴走が避けられない状態になった。そのとき俺らは出先にいて、担当していた地域の避難所でもおかしなことが起きていた。そこで千路は、俺たちに避難所に戻るように指示を出した――はなを除いて」
「自分を始末させるために、ですか」
帝都はわざわざ肯定せず、話を続けた。
「適材適所。避難所に戻るのだって重要な任務だ。あの人もわかっていたと思う。ただ、尊敬している人が最期を託したのが自分じゃなかったら。それも、自分より付き合いの短い相手だったら。そりゃあ少なからずショックを受けるだろう。それから、千路に認めてもらおうと無茶を重ねるようになった」
帝都は一際大きな溜息を吐き、むしゃくしゃしたように頭を掻き乱した。
「当時の俺もクソガキで、千路に相当きつく当たっちまった。俺が攫われなければよかっただけなのに、お前が誤解を解かなかったせいで死んだんだって、全部擦りつけちまった」
仰向けに寝ていた千路が寝返り、背を向ける。凉は視線を帝都に戻した。
「でも、千路さんがまだ引きずっているとは限らないんじゃ――」
「あいつの口からあの人の名前が出たことは一度もない」
帝都が項垂れるように俯きながら、ぽつりと言い切った。床に置かれた帝都の拳は、強く握り締められていた。その様は、かつての過ちを悔いているようにも見えたが、まだ目を覚まさないはなを心配しているようにも見えた。
凉もはなのほうを見た。穏やかな寝顔を晒していたましかった。同時に、得体の知れない蟠りが凉の胸の中に沸き上がった。