4. 血盟士団
目を覚ますと、会議室のような部屋にいた。
清潔感のある白い壁とライトブラウンの天井。奥の壁に貼られた、綺麗な状態のホワイトボード。部屋の隅には、長机と椅子が収納されている。その中心で、凉は敷かれた布団に横になっていた。
「何だここ?」
目を擦り、今度は耳を澄ませてみる。すると、部屋の外から人の声が複数聞こえてきた。
凉は部屋を出て、声のほうに向かった。
声の出所は、フロアの中で唯一ドアが全開にされていた大部屋だった。足を忍ばせながら、こっそり中を覗き込んだ。
消灯された薄暗い空間に、びっしりと並んで着席する大勢の大人たちの姿が見えた。その奥には、光を放つ大型スクリーンが構えている。
凉は、気配を殺して部屋の中に忍び込んだ。壁伝いにそろそろと移動し、スクリーンの映像がよく見える位置で足を止めた。
「何故生きている? 五年間、飲まず食わずだったんじゃないのか?」
最前列から男性の低い声が聞こえた。見ると、一際存在感のあるスキンヘッドの強面男性が発言していた。
『さぁ。私に訊かれましても。微量の励化線が漏れてたんでしょうかね?』
そう答えるのは、映像の中のメガネを掛けた男だった。五十歳前後の白髪交じり。隣には、口をテープで塞がれ、頭に刃物を突きつけられる男性の姿がある。場所は、どこかの中学校の教室だろうか。さらに映像をよく見ると、奥にもう一人誰かいるのがわかった。
その正体に気づいたとき、凉の目は大きく見開かれた。
茶色掛かった長髪の少女。表情を硬くして机に座るその人物は、紛れもなく葵本人だった。
「それなら暴走しているはずだろう?」
スキンヘッドの男性が返事する傍ら、凉はスクリーンの照明に照らされた大人たちの横顔を覗いた。揃って憎悪と殺意に満ちた恐ろしい眼差しをしていた。彼らは、映像の中の男を睨むのに夢中で、凉に気づいている者は一人としていなかった。
『だからわからないって言ってるんですよ』
メガネの男が、嘲笑交じりに言った。前のほうから舌打ちが聞こえてくる。
「何故このタイミングで復活した? 蔵王の団員殺しはお前が仕向けたのか?」
『文明の利器を持たずして、どうやって外部と連絡できるんですか? 手段があるなら、むしろ教えて欲しいくらいですよ。団長』
団長と呼ばれたスキンヘッドの男性は、唇をきつく噛み締めた。
「わからないな。だとしたら、お前が直接殺したことになるが?」
『まだ言いますか。いい加減、先入観を捨ててください。確かに封印石は私が持っていますが、団員は殺していません』
途端に、室内がどよめいた。やり取りが一時的に中断される。
凉は、聴衆を舐めるように観察した。最後列に、帝都の姿を見つけた。ということは、ここにいるのは血盟士団と考えてよさそうだ。スクリーンの男はその敵――五年前に人妖暴走事件を引き起こした側の人物だろう。血盟士団に認知されているから、事件の中心人物に違いない。落合でないことしかわからないが、彼もまた研究者であったはずだ。
『護衛を殺したのは、男二人でした』
男の一声で、室内が静まり返った。
『素性はわかりませんが、およそ目的の見当はつきます』
「待て、話が掴めない」スキンヘッドが言った。「封印石を持っているのはお前だが、護衛を殺したのは無関係の二人組?」
『取引しましょう』
「どういうことだ、左沢」
『取引です、団長』
圧を掛けるような冷ややかな声に臆し、ついにスキンヘッドは黙り込んだ。左沢と呼ばれた男は、満足そうに笑った。
『まず先に要求を言います。一つ目、AHT細胞の研究への参加』
再びざわめきが沸き起こるが、今度はすぐに静まった。
『二つ目、今度の件が収束した後の、私の身の自由』
「それはつまり、五年前の件を無罪放免にしろと?」
『その通りです。続いて対価。一つ目、護衛を殺害した二人組の捜査協力。二つ目、AHT細胞完成後の、人質と封印石の返却。いかがでしょう?』
「乗った!」
凉が叫んだ。一瞬にして驚愕と困惑の視線が集まる。
凉は堂々と返答を続けた。
「AHT細胞のひな型を作った人が研究に加わってくれるなら、こっちとしても心強い。ぜひお願いします」
画面の奥で、葵が落ち着きなくこちらの様子を窺っているのが見えた。そんな彼女に気づいたのか、あるいは凉の返事を気に入ったのか。左沢が微笑する。
取引成立――無論、そんな簡単に事が運ぶわけなどなかった。
「おい。この坊主、どこから湧いた?」
団員の一人が声を上げた。近くの席の団員が立ち上がり、凉の首根っこを掴む。
「勝手に答えるんじゃねえ、ガキ」
辺りから次々と野次が飛んだ。
凉を掴んでいた団員は、険しい顔のままスキンヘッドの男性のほうを向いた。
「田村団長。こいつ、どうしますか?」
田村と呼ばれたスキンヘッドは、返答する前に慌てて通話に戻った。
「今の回答は部外者のものだからナシだ。すぐに答えることはできない、時間をくれ」
『では、明日の同じ時間に改めて』
「いや、そこまでは掛からん。このまま少し待ってくれれば十分だ」
『嫌ですよ』左沢は鼻で笑った。『回答待ちの間に背中を刺されるなんて間抜けな真似は晒したくないですからね。明日またご連絡します、それでは』
通話が終了した。田村が苦虫を噛み潰したような表情でブラックアウトした画面を睨む。同時に、凉が自分を掴んでいた団員を振り切った。
「何迷ってるんですか。こんなのオーケー一択でしょ?」
机の上で両手を組んでいた田村が、スクリーン越しの敵に向けていたものと同じ視線を凉に向けた。
「あいつは二人組の目的を答えなかった。何か企みがあるに違いない」
「企み? AHT細胞の研究を促して、封印石と人質が返ってくる。それでも足りないほどのデメリットって何ですか?」
田村の目の角がさらに険しくなった。
「奴は己のエゴのために大勢の命を奪う輩――いや、バケモノだ。骨の髄までな。封印石が戻ってくる保証はない。お前さん、そんな外道の力を借りたいなんて、人として恥ずかしくないのか?」
周囲から冷たい視線が注がれた。嘲笑や鼻で笑う音も聞こえてくる。「その若さで倫理より結果を重視するとは、天才は違うな」――そんな皮肉も飛んできた。
恥ずかしさと悔しさで頭が火照る。凉は、誰一人視界に入れまいと俯いた。力の入りすぎた腕が、ぷるぷると震える。握り拳も、強く握りすぎたせいで掌に爪が深く食い込んでいた。
一刻も早くこの場所から消えたい。そう思っていた矢先、
「左沢に何らかの狙いがあることは間違いなさそうですが、仮に断るとして、人質と石はどうしますか?」
落ち着いた男性の声が聞こえ、野次が止んだ。凉も顔を上げる。
最後列に座る、サングラスをかけた三十代半ばぐらいの男性だった。スーツの上からでもわかる、がっしりとした筋肉質な体型が特徴的だ。
「そうだな」
田村が真っ先に口を開いた。
「それはしっかり考えないといけない。ただ、その前に――」
田村は、サングラスの男性から、その隣に座る人物に視線を移した。
「千路のところの坊主。部外者を摘まみ出せ」
帝都は、面倒そうに舌打ちし、勢いよく立ち上がった。わざとらしく足音を鳴らしながら凉の傍まで近づき、思い切り腕を掴んだ。そして、団員たちに背中を向け、会議室を出ようとした。
「ついでに、そのガキを監視していろ」
返事代わりの溜息が聞こえた。帝都は反抗的な態度を呈しながら、会議室を後にした。
早足で階段を降りる帝都に、凉は躓きそうになりながら歩調を合わせた。自分のせいで怒らせてしまったと思い、凉が申し訳なさそうに口を噤んでいると、
「俺の検索ミスで、本当はお前は人妖だった」
帝都のほうからそう切り出された。凉は驚いたように顔を上げた。
「下の名前を、にすいじゃなくてさんずいで調べてしまった。すでに暴走寸前だったから、急いで化元体――双血球を注射した。それでも、入れられたのは車内にあった予備の分だけた。要は応急処置ってことだ。だから、最悪暴走してもいいように、人妖専用避難所じゃなくて団の拠点に連れてきた」
拠点は、やや小さめのコンサートホールだった。周囲には、同じような背の低い建物が見える。
ホールを出てすぐのところに、はなたちのキャンピングカーが止まっていた。帝都は無言でドアを開け、中に入った。
「おかえり。お、暴走はしないで済んだみたいだね。よかった」
はなが笑顔で出迎える。帝都は重々しい顔のまま、口を開いた。
「左沢から接触があった」
はなの表情が、一瞬の間を置いて硬くなった。
「天狗の?」
「ああ。蔵王温泉の拠点を乗っ取られた。五年前と変わらない姿だった」
「ということは、あいつが蔵王の団員を――」
「それがよくわからないんだ。封印石は持っているみたいだが、殺したのは別にいるらしい」
「だったら何で?」
「取引だよ」
帝都は、左沢の持ちかけた話の内容を伝えた。要求の二つ目が告げられたところで、はなの眉間に深い皺が浮かんだ。
帝都がすべて伝え終えると、はなは待ち構えたように口を開いた。
「それで、団は何て?」
「わからん。こいつが勝手にしゃしゃり出たから追い出された」
帝都は凉の左耳を強く抓った。
「痛!」
凉が小さく悲鳴を上げた。
帝都はつまらなそうに手を離し、腕を組んだ。
「まぁ、ただ、信用できないって声が多いだろうから、応じることはないんじゃないか?」
瞬間、凉が激しく腕を振り、帝都の手を解いた。帝都が驚いたように、振り払われた自分の手と凉の顔を交互に見つめる。
凉は、微かに赤らんだ耳たぶに触れながら、帝都を睨んだ。
「『信用』なんて理由は、どうせ後付けだ。本当は、相手が嫌いだから手を組みたくないだけ。そんなくだらない感情論でせっかくの機会を逃すだなんて、どうかしている」
「『くだらない感情論』だと?」
帝都の目に、明確な敵意が浮かぶ。
「『くだらない』なんて言うんじゃねえ! 五年前の地獄を知らない分際で!」
互いが充血した目で睨み合い、歯を軋ませる。そこに、
「帝都くん」
はなが咎める口調で呼び掛けた。帝都がぴくりと反応し、振り向く。
はなは、帝都の正面で正座し直すと、重々しく口を開けた。
「五年前の惨事を経験していないことを責めるのはナンセンスだよ。それに、凉くんは友達が人質になっている。応じたくなるのは当然だと思う」
帝都は軽く唇を噛みながら、ばつの悪そうに俯いた。
はなは、帝都から凉へと向き直り、後ろめたそうに口を開いた。
「それを踏まえた上で。凉くんには申し訳ないけど、団が取引に乗ることは絶対にない。ただ、葵ちゃんと封印石は必ず取り戻す。これは約束する」
はなの発言は確信に満ちていた。それでもなお、凉の胸の中にはどんよりとした靄が掛かっていた。
「研究は? 左沢さん? あの人、研究への参加を『対価』じゃなくて『要求』に挙げていた。そういう人と研究ができたら、AHT細胞以上の何かが得られると思います」
「あの人の執念は、研究という行為に対してじゃなくて、成果や実績に対してだと思う。五年前に会ったとき、私はそう感じた」
はなの即答を聞いても、まだ凉は納得できなかった。決してはなが信用できないというわけではない。ただ、相手が多数の犠牲を生み出した事件の中心人物だから、偏見が含まれているような気がしたのだ。
それに、同じ研究者故か、左沢という人物を信用したい気持ちもあった。それらはすべて、「はなたちが言うほど、彼は悪人ではないはずだ」という確信に近い想像に基づかれていた。
「それでも構いません。理由がどうあれ、強い執念は強力な推進力となります」
瞬間、帝都が凉の胸倉を強引に掴んだ。凉は口を開いたまま、驚いたように目を見開く。
「わかってないみたいだから教えてやる」
帝都は口以外をいっさい動かさず、低い声で切り出した。
「要求の二つ目を飲むってのは、奴の働いた悪事を帳消しにするってことだ。奴のせいで人妖に殺された一般人、俺たち団員に始末された人妖はたくさんいる。団員だって、少なくない人数が犠牲になった。あいつらがやったのは、お前が今取り組んでるのとは違う。いつぞの戦争で行われた人体実験みたく、人の命をゴミみたいに扱ったんだ。『この人は過去に鬼畜の真似事をしましたが、未来のたくさんの命を救う大発見をしました、だから過去の過ちはなかったことにしましょう』って、犠牲者に向かって言えるのか? 未来のためと謳って、過去の屍から目を背けるのか? そんなの、犠牲者に対する冒涜だろ」
帝都の黒く濁った瞳には、先刻の会議で血盟士団員たちが左沢に向けていた憎悪と憤怒の他に、悲傷や後悔のような感情が映し出されていた。
少しして、帝都の手がゆっくりと離れた。凉は伏し目がちに帝都を見上げ、こう告げた。
「ごめんなさい。犠牲者を侮辱するつもりはなかった」
帝都の怒った表情から、たちまち棘が抜けていった。
AHT細胞の臨床試験で、凉が励化線を使うよう提言したときの前田たちの反応。先程の会議での血盟士団の態度。左沢からの要求を聞いたはなの反応。今の帝都の言葉。五年前の悲劇は、凉が想像していた以上に過酷で惨いものだったと理解できた。
しかしそうなると、AHT細胞の研究はお構いなしに、封印石を奪還する運びになる。完成を待つことなく励化線が閉じられ、葵を救うことはできなくなるわけだ。
――俺が無力だったから。
しばらく胸の奥底で眠っていた自責の念が、再び息を吹き返した。
突然、キャンピングカーのドアが開いた。
「移動だ」
ドアのほうから低い声が告げる。中にいた三人は、同時に跳ね上がった。
「うわ。驚かすなよ」
一際大きな悲鳴を上げた帝都が、入ってきた人物に不満を吐いた。
先の会議で帝都の隣に座っていたサングラスの男性・千路だった。手早くドアを閉め、覗き窓をパタンと閉じる。
「結論は出たのか?」
さっそく帝都が質問した。千路は表情ひとつ変えず、淡々と答えた。
「今晩中に奇襲し、人質と封印石を奪還することになった」
「了解。随分と簡単そうに言うじゃないか」
「ただ。その前に、夕凪を都内へ送り返せと」
三人の視線が、同時に凉へと集まった。
「へ?」
凉は呆然としながら、帝都たちの顔を順に見つめていく。
「万一のことがあったら、あらゆる方面から顰蹙を買うことになる」
最後に目の合った千路が、そう告げた。
「確かにそれはご最もですけど、今日中にあのメガネの人を捕まえるんですよね? 僕を送ってからで間に合いますか? 交通機関は死んでるし、半日以内に往復するのは――」
「桜木、頼んだ」
「俺かよ」
帝都は異議ありそうな目で千路を睨んだが、揺るぎない無表情が返ってくるだけだった。遂に帝都が折れ、溜息を吐いた。
「わかったよ」
不承不承立ち上がり、凉の腕を引いて車のドアを開く。
「んじゃ、行ってきまーす」
ドアが閉まると、帝都は凉の腕を離して歩き始めた。
「お前、高い所は平気か?」
返事はなかった。帝都は構わず話を続けた。
「今のところ、励化線はまだ山形・宮城両県の一部にしか届いていない。ただ、一度粒子が体内に取り込まれると、励化線範囲外に出ても、しばらくは妖化することができるらしい……って、おい!」
突然、凉が帝都と逆方向へ走り出した。帝都はとっさに踵を返し、凉を追う。
「待て」
簡単に捕まった。凉は、右腕を掴む帝都の腕を必死に振り解こうとしたが、びくともしなかった。
「何故逃げる? 帰ったら大好きな研究ができるだろ」
帝都が、掴む力を強めながら言う。凉は顔を背けて口を開いた。
「まだ帰るわけにはいかない」
「こっちは何が何でも帰さなきゃいけない。千路も言ってたように、国から将来を期待される優秀な子の身に、何かあってはいけない。俺たちにできるのは、せいぜい早く安全な場所に連れ出すことぐらいだ。お前の安否は、お前と周りだけの問題じゃない。わかるだろ? ガキみたいに、自己都合で振り回すのはやめてくれ」
必死の説得も虚しく、凉は腕を振り払って逃げようとするばかりだった。帝都はさらに強く凉の腕を握った。
「凉。話を聞け」
「っるっせぇな。こっちに来てまだ何もやってねぇんだよ。自己都合で振り回すな? むしろ、あんたらの都合で振り回されてんだっつうの、こっちは!」
「影響力を考えろ。お前ならわかるだろ?」
「あぁ、わかるさ。それでもな! 諦め切れないこともあるんだよ!」
少年の怒声が、何もない芝生の上から、夕焼けの覗く大空へと響き渡った。
帝都は反射的に手を離した。しかし、凉は逃げなかった。その場で、相手をまっすぐ睨み続ける。
「葵は、生まれつき重度の心臓疾患を抱えていた。同じ病気の子供がどんどん亡くなって、幼い頃からすでに自分も長生きできないことは知っていた。今回の臨床試験は、葵にとって唯一の希望だったんだ。でもダメだった。失敗した。だから死にたくなくて、一人で病院を抜け出して、調べて、そして封印石を盗んだ」
凉の視線が、帝都の目から外れて足元へと落ちる。
「もし俺が本物の天才少年だったら、葵にこんなことをさせずに済んだ。俺はただ、少し勉強が得意なだけの、普通の子供だったんだ。このまま励化線を放置したら、大変なことになるのはわかってる。でも、そのリスクのために封印石を戻せば、葵は絶対に助からない。みんなのために葵を諦めるなんて、嫌だよ」
心底迷惑そうに見下ろしていた帝都の目が、同情の眼差しに変わる。帝都は、一瞬苦い表情を浮かべると、両腕を組んで空を見上げた。
凉は涙を耐え忍ぼうと、唇を強く噛んだ。
記憶の中で、幼馴染が笑い掛ける。
葵はもともと、あんなに笑う子供ではなかった。遊んでいるときは楽しそうにするが、ふとした瞬間に見せる顔には、同い年の子供とは思えない達観と諦観が含まれていた。
小学校一年のときだった。将来の夢について作文を書く授業で、葵だけ時間内に書き終えることができなかった。次の休憩時間が終わりに近づいてもなお進む気配がなかったので、凉は助言に向かったが、そのときに聞いた声が今でも忘れられない。
――叶わないもん。
彼女の病は、寿命や身体行動を制限するだけには留まらなかった。もっと根本的な、生きる希望や活力までをも蝕んでいたのだ。『病は気から』という言葉もあるように、それでは病気と闘うことができない。いや、そんな客観的な理由づけなどどうでもいい。
葵にもっと笑って欲しかった。
己の好奇心と、幼馴染を救いたい思いで、さらに勉強に邁進する。
留学。研究活動。論文発表。小規模で単発・短期的だったものが、次第に本格的になっていく。同時に、葵の笑顔も増えてきた。同年代の子供たちと同様に、元気に振る舞えるようになったのだ。
その笑顔を、易々と手放したくはなかった。
「だからまだ、帰るわけにはいかない」
凉は改めて決意を口にし、顔を上げた。
帝都の身体が吹っ飛び、道路に投げ出された。
「へ?」
何が起きたか理解できないうちに、凉も背後から両腕ともども胴体を締めつけられた。パニックに陥り、必死に身をよじって逃げ出そうとする。無論、びくともしなかった。
少しずつ冷静さを取り戻すと、凉は自身を見下ろし、縛りつけるものの正体を見定めようとした。
目に入ったのは、二本の白い象牙質の腕だった。さらにもう一本、後ろから頭の脇で顔を出し、蛇のようにスルスルと伸びてくる。先端が針のように尖ると、凉の胸に狙いを定めて静止した。
「やばいやばいやばいやばい」
自ずと、念仏のような早口が零れた。その三文字だけが、壊れたラジオのように脳内をぐるぐると駆け巡り、思考が膠着する。その間にも、鋭利な白い腕は一歩引き、凉の胸を貫こうとしていた。
針が動き出しそうに見えたそのとき、右側から強い衝撃を受けた。白い腕から解放され、視界が横転したかと思うと、次の瞬間には地面に落ちていた。
「痛ぇ」
強く打ちつけられた左太腿が、じわりと痛み始める。凉は、呻きながら痛む箇所を押さえ、敵を見上げた。
生物とは言い難い全身白色の筒状の化け物に、青く細長い形状の化け物が絡みついていた。凉を襲ったと思われる白いほうの個体は、プラナリアのような三角の寄り目を一対、身体の上部に持ち、胴体から同じ色の触手がうねうねと生えていた。他方、どこからか突然湧いてきた青いほうの個体は、ライオンのような頭部と蛇のような全身を持ち、鳥のような四本の足が生えていた。敢えて呼ぶとしたら竜になる。
ギチギチと、両者の肉体が擦れ合う音が聞こえてくる中、竜の人妖が白い人妖の首(と凉が勝手に思っている箇所)に食らいついた。鶴嘴のような鋭い牙が中の肉まで食い込み、傷口から血が滴り落ちる。
白い人妖が動かなくなると、竜はくわえていた獲物を離した。前足で口元の体液を拭い、凉のほうを向く。
――食われる。
凉は尻餅をついたまま、身を竦めた。しかし、竜が襲ってくることはなかった。たちまち姿を変え、見慣れた少年の姿へと落ち着いた。
「無事か?」
帝都の質問に、凉は黙って何度も頷いた。帝都は控えめに息を吐くと、こめかみを掻きながら遠くの景色を凝視した。
「外れのほうにいた分が、食い物求めてやって来たんだろうな」
帝都の視線の先には、人気のない街並みが広がるだけで、一見人妖が潜んでいるようには見えなかった。今度は反対側に目をやり、動くものがないか観察する。
帝都が街外れから来ているであろう人妖を探す間、凉は手前の景色を見回した。すると、帝都の後方で倒れていた白色人妖が立ち上がろうとしているのが見えた。
心臓をギュッと絞られるような恐怖を覚え、凉は固まった。悲鳴を上げようにも、緊張で喉が絞まり声が出ず、口は餌を求める魚のようにパクパクと開閉するだけだった。
しかし、帝都は市街地を見るのに夢中で気づかない。
「この辺には避難所もあるし、お前を東京に戻したら念のため連絡したほうがよさそうだな。さすがに見回りはしているとは思うが……凉?」
ようやく帝都が気づき、凉の震える指が示す方向を見た。しかし、すでに遅かった。
二本の針が、帝都の身体を貫いた。針が引き抜かれると同時に、帝都が俯せに倒れる。打ち抜かれた傷口からは、血液が滝のように流出し、四肢がピクピクと痙攣していた。
流出し続ける血溜まりは、凉の足元にまで広がった。その量の多さに、凉のほうも全身から血の気が引いていきそうになる。帝都から視線を背け、顔を上げると、筒形の人妖は目の前に迫っていた。
凉は左右を見回した。静止画でしかなかった街の中に、いつの間にか暴走人妖の姿が点在していた。数は一体、二体、三体と数えているうちに増えていく。格好の獲物を視認したからか、あるいは血の匂いに釣られてか。まっすぐ凉たちのほうに向かっていた。
逃げなければ。しかし、どうやって? 凉は再び瀕死の帝都に目を向けた。視界の端に、自身の頼りない全身が入り込む。
「凉」
不意に、足元から小さな声が聞こえてきた。見ると、帝都がほとんど閉ざされた目で、こちらを見上げていた。血の付着した口元が、わずかに動く。
「暴走人妖は化元体残量の多そうな個体を本能的に狙う。どういうことかわかるな?」
パニック故に、何もわからなかった。凉が黙っていると、帝都はさらに続けた。
「妖化の仕方を教える。体内に眠っている『人妖人格』を意識しろ」
「――人妖人格? 妖化しろってこと?」
徐々に落ち着きを取り戻していき、ようやく意図が理解できた。しかし、肝心な実現方法はわからないままだ。
「もっと再現性のある具体的な方法は?」
「人妖人格は大概、粗暴で攻撃的だ」質問は華麗にスルーされた。「自分のそういう一面を表に引っ張り出せ」
「イメージ論やめて!」
「悪い」
虚ろな目が、申し訳なさそうに下を向いた。
帝都の出血は着実に落ち着いてきており、足元の血溜まりは固まり始めていた。このまま回復に持っていける望みはあったが、裏を返せば双血球の消費による暴走リスクも存在することになる。
惑っている場合ではなかった。
凉は深呼吸し、目を閉じた。
心臓の鼓動に合わせて、様々な感情が湧き起こった。恐怖。不安。絶望。いずれも「粗暴で攻撃的」とは少し違う。
鼓動が早まる。不快感。焦り。苛立ち。やや近づいてきた。意識を集中させる。
怒り。興奮。
目を開けると、白色人妖の姿が見えた。
途端に、心の根底から加虐心と破壊衝動が突発した。変化は内心だけに留まらず、少年のか細い腕が、銀白色の剛毛に包まれた獣の前足に変わり、あどけなかった丸みを帯びた目は、充血を伴い角が立てられた。
その様子を下から見ていた帝都が、安堵したように小さく息を吐き、指示を出した。
「よし。今すぐ車に戻って千路を――」
指示が終わる前に、凉は白色人妖に襲い掛かった。太い腕を強く振り下ろし、筒形の頭部を陥没させる。
帝都は呆気に取られていた。そんな彼を狙ってやってくる人妖たちも、凉は見逃さなかった。帝都の頭上を跳び越え、猫のような化け物を殴りつける。動きが鈍ったところで、さらに足を叩き潰した。
周囲に飛散した小肉片や液体に、他の人妖が群がった。敵の注意がそちらに向いている間に、凉は猫の人妖の胴体をミンチ状になるまで殴打した。とどめに頭部を踏み潰し、背骨だったものを引き抜くと、食事中の人妖たちを滅多刺しにした。
最後に残った鳥の人妖を、視界の中央に捉えた。グロテスクな外見にも関わらず、不思議と食欲が掻き立てられた。口から涎が頻りなく垂れる。そこら中に散らばる肉片もご馳走に見え、血生臭さと異様な刺激臭も癖になる。
舌舐めずりしながら、凉は鳥の人妖の首元に食らいついた。鋭く伸びた犬歯と鋸刃のような前歯が深く食い込み、遂には首を食い千切った。たちまち口の中に肉片と体液が入り、珍味がじわりと広がる。
頭を失った鳥の人妖の下半身が倒れた。凉は、口の中のものをじっくり味わい尽くすと、倒れた肉塊を拾おうとした。
呆然とする帝都の姿が視界に入った。
途端に、凉は我に返った。
――人妖って、もともと人間だったんだよな?
理性を食い潰していた食欲が急速に萎んでいき、異常な破壊衝動も失われていく。
直後、真横から白い針が飛んできた。不意打ちだった。とっさに、空いた右腕を出そうとしたが、間に合わない。
針が目と鼻の先に迫る。
そのとき、視界の前に青い竜の背中が見えた。
筒形の白い胴体が、真っ二つに裂かれた。上半分が車道のほうへ飛んでいき、地面を転がる。残る半分は、芝の上に横たわった。断面から、溶岩のような血が流れ出ていた。
「凉。ありがとう、助かった」
人の姿に戻った帝都が礼を言い、続けた。
「人に戻るときは、素の自分を表に引っ張り出すといい。妖化よりも簡単だと思う」
凉はさっそく言われた通りに実践しようとしたが、意識するより前に銀白色の剛毛が消え、貧弱な少年の身体に戻った。両掌を見つめ、人間のものであることを視認する。手の甲や爪の先まで確認すると、口や鼻周り、頭、耳を順番に触った。ちゃんと戻っているようだった。ほっと息を吐く。
途端に、先程まで心地よさすら覚えていた周囲の臭いが、不快なものに変わった。凉は顔を顰め、慌てて鼻を摘まんだ。
「帝都さん、怪我は?」
凉は、思い出したように帝都の腹部を見た。大きな茶色い染みができていたが、すでに血は止まっていた。
帝都の無事がわかると、凉の視線は周囲に倒れる人妖に移った。ピクピクと痙攣する怪物たちの姿とは対照的に、筒形は裂かれたどちらの断片も微動だにしなかった。凉は、上半身だったほうの塊を見つめながら、唾を飲み込んだ。
「今日帰るのはやめにしよう。向かっている最中に暴走でもしたらまずい」
凉は困惑した表情のまま、帝都のほうを振り向き、曖昧に頷いた。