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2. 臨床試験の失敗と幼馴染の失踪

 春の陽気を感じさせる日光が窓から差し込み、廊下は心地よい温度で満たされていた。すれ違う被験者家族は皆、穏やかな声で挨拶してくれる。凉は俯きながら挨拶を返し、逃げるようにその場から離れた。

『二〇二号室の被験者さんが亡くなった』

内線で告げられた衝撃的な一言が、脳裏を過った。途端に鼓動がうるさく鳴り始め、ただでさえ急ぎだった歩調がさらに早まっていく。

 頭を思い切り殴られたような衝撃が、未だに尾を引いていた。甲高い耳鳴りが、聴覚だけでなく思考までもを侵し続ける。

 地震が起きているわけでもないのに、足元が揺れているように感じた。同時に浮遊感も覚え、廊下を踏み締める感覚が足裏に伝わってこない。熱でもあるのかと額を触れるも、異常はない。額から手を離すと、脂汗がべっとりと付着していた。

 少しずつ着実に覚束なくなっていく足取りで、どうにか階段を上り切る。四階最奥の会議室が見えてきたのと同時に、どこから聞きつけたのか、マスコミの集団に取り囲まれた。

「初の死者が出たと聞きましたが?」

「今のお気持ちは?」

「亡くなった方の遺族には何とお伝えしたいですか?」

 紛れもなく日本語であるはずの言語は、どれも言葉として脳に認識されなかった。

 次第に声がぼやけていき、声・足音・その他の物音の区別ができなくなる。まっすぐ伸びているはずの廊下が、歪んで見える。目に映る光景が、耳に届く音が、まるでモニターの映像でも見聞きしているように感じられる――。

「静かにしてください!」

その怒声で、凉は我に返った。

 会議室から、白衣姿の初老の男性が半身だけ覗かせてこちらを睨む。彼こそが、AHT細胞研究グループのリーダを務める前田由吉教授だ。いかにも研究者というような気難しそうな風貌は普段からだが、今はそれ以上に恐ろしい形相を見せつけていた。

 しかし、そんな様子にもマスコミ集団は動じない。それどころか、格好のインタビュー対象が現れたと言わんばかりに、前田のほうへと群がり始めた。

「他にも悪化している患者さんがいるそうですが、AHT細胞は失敗ってことですよね? 原因は何だと思いますか?」

「AHT細胞は本当にできるんでしょうか?」

「他の患者さんやご家族への説明は――」

「いい加減にしてください!」

二度目の怒声で、ようやく質問の嵐は静まった。

 前田は小さく息を吐くと、感情を押し殺しながら口を開いた。

「他の被験者の方を刺激しないためにも、早くお帰りください」

今度は全員指示に従った。たちまち通路が空いていく。

 凉は肩を窄めながら空いた通路を進んだ。俯いたまま、そこにあるであろう会議室のドアを開き、中に足を踏み入れる。

「夕凪くんが来るまでに二名亡くなった」

 凉の両足がドアから二歩進んだところで、並んで静止した。ようやく顔が上がり、淀んだ瞳が前田の姿を捉える。

「先生」

すぐさま、コの字に並べられたテーブルの隅から声が聞こえた。ノートパソコンを開いた女性だった。

「三名です」

 会議室の扉が、虚しい音を立てて閉じられた。

 凉が一番端の席に腰を下ろすと、前田は正面のホワイトボードの前に立った。

「あの……どうして急に三人も?」

凉が遠慮がちに口を開く。前田は仁王立ちになり、両腕を組んだ。

「断定はまだできないが、おそらく暴走再生だろう。こればかりは本当にどうしようもない」

「暴走再生と言っても、前兆はなかったんですか?」

回診後には毎回会議を行い、各担当被験者の健康状態を共有している。少なくともここ数日で、悪い異変の話は上がっていない。

「我々の目に見えたり、患者自身が自覚できる範囲ではなかった。今日に入ってから、それこそこの一時間で急変した。現在進行形で、容体が急変する患者さんが急増している」

「つまり、変化が見られた時にはもう――」

凉はそこまで言い、口を重く閉ざした。

 突然、会議室の扉が勢いよく開かれた。スタッフたちが一斉に議論を止める。

 入ってきたのは、中稲と同年代に見えるスーツ姿のサラリーマン風の男性だった。前田同様、眉間に深い皺を刻み、憎き仇でも探すように室内を見回す。凉を見つけた途端、眉間の皺を取り払い、足早に駆け寄った。

 凉は、やってくる男性を呆然と見つめた。近づいてくるにつれて、見覚えのある顔だと気づく。ようやく誰だったかを思い出した。同時に、肩を強く鷲掴みされる。

「葵は死なないよな?」

幼馴染の父親は顔を強張らせながら、怯えた眼差しを浮かべ、凉の肩を揺すった。

「大丈夫だよな? な?」

凉は青ざめながら、マネキンのように無反応を晒し続ける。

「亡くなった人は心臓以外の病気の人で、偶然AHT細胞が合わなかっただけだよな? もしくは年齢が――」

「現在調査中です」

凉の代わりに前田が答えた。宥めるように葵の父の背中に腕を置き、こう続ける。

「早急に究明し、対策を講じたいと思っています。申し訳ありませんが、今はお引き取り願えますか?」

 次の瞬間、前田の腕が乱暴に払い除けられた。前田が、大きく開かれた目で自身の腕を見つめ、葵の父に視線を移す。

 葵の父は、会議室全体に言い聞かせるような大声で叫んだ。

「AHT細胞はどんな病気も治るんじゃなかったんですか? テレビでも繰り返し言ってましたよね? どんな病気も怪我も治せるって。それを信じて娘を託した、なのに!」

部屋中を見回すように一周した葵の父の目は、最後に凉に帰ってくると、薄っすらと潤み始めた。

「頼む。俺の臓器でも身体でも、何でも使ってくれていい。その代わり、葵を助けてくれ。まだ君のことは信じている、だから――お願いだ」

 縋るような眼差しが、抉るように凉の両目を突き刺した。肩を掴まれているせいで逃げられず、目を逸らすことしかできなかった。

 不意に、肩を掴んでいた葵の父の両手が外れた。屈強な若い医療スタッフ二名によって、後ろから引き剥がされたのだ。

「やめてください、お父さん。お気持ちはわかりますが……」

彼を引き剥がしたうちの一人が宥める。それでも、やはりと言うべきか、

「離せ! まだ終わっていない!」

葵の父は、振り解こうと抵抗した。傍観していた他の医師や研究者たちも、さらに数名止めに加わった。

「お父さん!」

「うるさい!」

「今はお引き取りください、お願いします」

「あんたらの指示に従うつもりはない! どうせ娘一人の死なんかどうでもいいと思ってやがる」

「娘さんをどうでもいいと思ったことは一度もありません!」

「邪魔だ、どいてくれ! 凉くん、葵を助けて欲しい、頼む、お願いだ」

 止めに入るスタッフたちの間から、葵の父の顔が覗く。その様を、凉は呆然と立ち尽くしながら、ただ見つめる。葵の父の言葉も、落ち着かせようとするスタッフの声も、すべて凉の耳には雑音としてしか届いていなかった。

 最中、

「いい加減にして」

弱々しくもよく通る、女性の声が上がった。会議室が一瞬で静まり返る。全員の視線が、声のした会議室入口のほうに向けられた。

 葵の母だった。青白い顔に浮かぶ充血した目は、医療スタッフに囲まれた夫を捉え、床を踏み締める両足は、ぶるぶると震えている。

 葵の父が、振り回そうとしていた腕をゆっくりと下ろすと、母親はわなわなと唇を動かし始めた。

「凉くんも、ここの人たちも、みんな葵を治そうとしてくれてるに決まってるじゃない。それを邪魔してるのよ、あなたは。わかる?」

「……すまん」

「私に謝ってどうすんのよ」

 場の混乱は収まったものの、通夜のような重苦しい空気は少しも変わらなかった。

 窓のカーテンの隙間から、細長い日光の筋が差し込み、凉の足元を照らした。

 会議室に来る途中ですれ違った、治験参加者の笑顔が脳裏を掠める。まるで遠い記憶のように感じられた。

 思えばここも、つい数時間前までは賑やかな空気に包まれていた。会議の時間は、日々のリハビリからできることが増えていく治験参加者の変化を祝う時間だった。あのときは誰もが、光に満ちた明るい未来しか見据えていなかった。

 太陽が雲に隠れ、差し込んでいた光の筋が消える。凉の視界で、強く握り締められた小さな拳が細かく震えていた。

 前田の予想通り、本当に暴走再生が原因なら、文字通り嵐の中を目隠しして樹海を進むような状況になるだろう。

 否。正確に言えば、目隠しを外して進むこともできる。しかし、そのためには禁忌を犯さなくてはならない。

励化(れいか)(せん)が使えれば――」

凉の口から、思わず心の声が零れた。

 多くの医療スタッフと、葵の両親がきょとんとして凉を見る。その傍らで、前田を筆頭とした研究者たちが、異端者を見る宗教徒のように、小さな同士を睨みつけた。

「冗談でもやめなさい」

すかさず前田が、咎める口調で告げる。しかし、凉は反抗的な目で睨み返し、噛みつく勢いで口を開いた。

「どうして使っちゃいけないんですか? 励化線があれば、残る人たちを延命させながら、暴走再生の起きないものを早期に作ることができるようになります」

「病院一つ分の目先の命のために、何十何百万人の命を犠牲にするというのか?」

前田の表情は、感情論を叫ぶ人間のそれだったが、これ以上ないほどの正論故、凉は反論することができなかった。込み上げる無力感に唇を噛み、心の内で舌打ちする。

 他の研究者が気を利かせ、凉と前田以外の全員を会議室から連れ出した。最後の一人が廊下に出ていき、扉が閉められたタイミングで、前田が決まり悪そうに俯いた。

「励化線に頼りたい気持ちもわかるし、私だって、ここの人たちを助けたい。だが、蔵王(ざおう)の封印石はもう替えが利かないんだ。何かあっては、それこそ日本全体がおしまいになる。実感が湧かないのは重々承知しているが、どうか理解して欲しい」

先程とは打って変わり、穏やかな声だった。凉も申し訳なさそうに、頭を下げた。

「こちらこそ、軽率な発言をして申し訳ありませんでした」

「この話はここまでにしよう。気を取り直して、まずは何が起こっているのかを究明しないとな」

前田がそう言った矢先、廊下からガタっという物音が聞こえた。二人は驚いたように振り向いたが、チカチカと点滅する蛍光灯と通路、トイレが映るだけだった。

 凉が廊下から視線を外し、前田は思い出したように腕時計に目を落とした。

「念のため、担当患者さんの様子を見てきてもらっていいかな? 些細なことでもいいから、変わったことがないかも聞いてきて欲しい」

「わかりました」

凉は一礼し、会議室を出た。

 階段を降りたところで、自動販売機で本日二本目のエナジードリンクを購入する。半ば無意識だった。開封し、すっかり渇いていた喉に流し込む。美味しいとは言えないながらも癖になる独特の味が、今はまったくしなかった。飲めば飲むほど、ただ悪心が誘発されるだけだった。

 空き缶をダストボックスに捨て、一〇三号室に入る。壁に背中を預けながら手帳を読み返す様子は、普段と何も変わらなかった。

 凉はほっと息を吐き、扉を閉めた。

「戻りました」

凉が告げると、中稲はちらりと一瞥だけした。病室を歩く足音がやけにうるさく感じていると、すぐにその原因が部屋の異様な静かさにあると気づいた。凉は一瞬、肝を冷やしたが、単にテレビが点いていないだけだった。二度目の安堵の息が零れる。

「中稲さん、何か気になる症状とかあったりしませんか?」

「どうした、急に」

「あ、いや。その、お腹痛いって人がいっぱい出たので、中稲さんは大丈夫かなーって」

「ふぅん」

再び中稲は、訝しげに凉の顔を覗き込んだ。凉は慌ててカーテンのほうに目を逸らす。

「なるほどな」

中稲の目が凉から外れたのが、感覚的にわかった。凉はカーテンから視線を戻した。

「そうなんですよ。原因はわからないんですけどね。食中毒にしても何が――」

「ダメだったか」

 直前まで話していた内容が記憶から離れ、頭の中が真っ白になった。こめかみに、熱を帯びた気持ち悪い汗が湧く。

「えと、何のことでしょう?」

凉は平静を装おうとする。不格好な笑みが浮かんだ。

「AHTセル以外に何がある?」

「え、AHTセルが失敗? な、何言ってるんですか。この二か月間、何もなかったでしょう? 今更そんなこと――」

「ごまかしても無駄だ」

「ごまかしてなんか……」

「顔に書いてある」

 凉の顔から、不器用な笑みが跡形もなく消失した。とうとう何も言い返せなくなり、諦めたように閉口した。

 中稲は、呆れとは異なる溜息を吐いた。

「最初から成功することなどほとんどない。むしろ、この二か月のほうが奇跡だったんだ。何、悲観することじゃない。研究は試行錯誤と偶然の積み重ねだ。失敗が成功以上の財産を生み出すこともある」

 珍しく相手の目を見て語る中稲の表情は、普段と変わらず冷静だ。しかしその声は、温もりを帯びていて穏やかだった。その優しさが、かえって凉の胸を締めつけた。

 凉は、涙を堪えるように唇を噛み締めると、四肢に力を入れ、声を絞り出した。

「わかってます。でも、やるせないんですよ。研究結果として残るのは、僕たち実験者の名前だけ。患者さんはデータとしてしか記録されない」

凉には、どうしても納得できなかった。世の役に立つ新たな理論や手法を考えるのは、確かに研究者の役目だ。しかし、それらが本当に正しいのか、既存のものと比較して優れているのかを検証するには、実験が必要だ。即ち、被験者の存在が欠かせない。

 一方で、実験結果を論文にするとき、実験者の名前は冒頭に記載されるが、被験者の場合、性別や年齢、その他特筆すべき情報のみが残され、個人が特定される情報は排除される。そのため、発見に被験者の犠牲がどれほど重要なポジションを占めようと、アカデミアの舞台で表彰されるのは研究者だけなのだ。

「恥ずかしながら、今まで気にしたことはありませんでした。当然だと思ってたんでしょう、本当に最低な野郎ですよ、僕は」

だんだんと声量が落ちていき、最後は吐息のような声で締められる。

 中稲は、伏せられたまま合わない目を捉えながら、困ったように口を開いた。

「最低なクズ野郎となんか思っちゃいない。他の人だってきっとそうだ。それに、例え俺たちの身を提供した結果が、一行に満たない文だったとしても、何らかの表やグラフに含まれる一データであっても、将来多くの命を救うことに繋がるなら、それでいい。少なくとも私は、AHTセルの開発に関われたことを誇りに思う」

 凉の顔が少しずつ上がり、ようやく中稲と目を合わせた。

 中稲の顔から、その言葉が決して嘘ではないことが理解できたが、凉の胸の中に重くのしかかる(わだかま)りが減ることはなかった。

「それでも、救いたかったです」

凉は、再び声を絞り出した。唾を飲み込み、さらに続ける。

「研究者を目指したきっかけは、幼馴染が不治の病と知ったからでした。治す方法がないか調べているうちに、AHT細胞に辿り着きました」

学習しているうちに、その魅力に取りつかれた。静脈に点滴して移植するだけで準備が完了する。後は放射線を当てればよい。体内での人為的な操作や誘導は不要。幼い頃に夢想していた、「どんな病気も治す薬」に最も近い形だった。

 ――AHT細胞をこの手で作りたい。

 日に日に募る思いが、凉を突き動かした。

 外国留学と初めての研究。テレビでよく紹介される、論文を発表したのもこのときだ。帰国後、『ダイヤの原石プロジェクト』に応募し、無事採用。AHT細胞研究の最前線、前田由吉研究グループに参加する。

 そして今年、二〇一九年。世界初のAHT細胞臨床試験に漕ぎ着ける。長年の夢がようやく叶う一歩手前まで来た。

「想像の中にしかなかったものが、徐々に形になっていくのは嬉しかったです。でも、それ以上に、試験で中稲さんたちが元気になっていくのが嬉しかった」

 研究そのものに夢中になりすぎて、いつの間にか忘れていた「研究者を目指した動機」。改めて凉は実感した。AHT細胞を通して、人を救いたかったのだと。

 再び、凉の顔が俯く。中稲は、薄っすらと柔和な笑みを浮かべた。

「二か月君を見てきて、昔の友人を思い出した」

「友人?」凉の頭が上がる。

「高校時代の同級生だ。奴も、どんな病気も治せる治療法を見つけると張り切っていた」

 凉の顔が完全に上がったのを確認して、中稲は話を続けた。

「まだパーキンソン病を根治させるとか、副作用の少ないガンの治療法を編み出すとか、そういう話ならわかる。でも、奴が目指していたのは『すべての病に等しく適用できる治療法』だ。発生場所・原因・症状、すべてがバラバラの病気を同じように治そうだなんて、高校生にもなって普通考えないだろう? でも、奴は本気だった」

 現在はiPS細胞が一般に認知され、AHT細胞も登場したことで、異なる病を一律に治すことも夢物語ではなくなってきている。だが、二十年前――中稲が高校生だった頃といえば、iPS細胞の前身となるヒトES細胞が発見された時期に当たる。ヒトの受精卵を用いるため、倫理的な問題という大きな壁が立ちはだかっていた。「高校生なのに現実が見えていない」という当時の中稲のジャッジは、ごく自然なものと言える。

 裏を返せば、その友人は先見の明があったということだ。ヒトES細胞を知った上での発言かどうかで話は変わってくるが。

「その人、今は何を?」

凉が訊ねる。穏やかだった中稲の表情が、途端に険しく曇り始める。すぐに、答えようと中稲は口を開いたが、声が発せられることはなかった。口を開いたまま、何か躊躇うように――あるいは言葉を選ぶように黙り込む。

 沈黙が続き、秒針が三桁回刻んだ頃。

「さぁな」

中稲は露骨に目を逸らした。その表情には、どこか後ろめたさが感じられた。

 再び、沈黙が続いた。

 突然、中稲の上体が前に傾いた。凉がとっさに駆け寄り、両手で支える。

「中稲さん?」

凉が、胸の中でうずくまる相手に呼び掛ける。

 中稲は、腹部を抑えながら苦しそうに表情を歪めていた。その顔色は青白く、額には大粒の脂汗が浮かんでいる。

「大丈夫ですか?」

返事はない。代わりに、浅い呼吸が返ってくる。

 凉はナースコールを入れると、急いで中稲の右手首の脈を確認した。異常に速かった。

「中稲さん、大丈夫ですから、しっかりしてください!」

AHT細胞の失敗をすでに悟っている相手に言い聞かせたところで、無駄なことはわかっていた。しかし、それ以外に掛けるべき声が見つからなかった。

「しっかりしてください」

凉は、同じ言葉を繰り返し掛け続ける。

「手記の、処分を、任せて、いいか?」

ふと、絞られた喉から吐き出されるような呼気音の合間に、弱々しい声が聞こえてきた。

 凉は、中稲の枕元に目をやった。眠るように静かに横たわる手帳が、視界に映る。頷くことができなかった。

 まもなく、数名の医療スタッフたちがやってきた。

 中稲の全身に、医療器材が取りつけられた。医師たちが声を掛け合い、必死の延命措置を――あるいは蘇生措置を行う。

 凉には、その様子をただ見ていることしかできなかった。

 急変から十分足らずで、中稲は息を引き取った。

 残された手帳は、凉が預かることになった。中稲の希望に背くつもりはなかったが、気が引けてしまい、捨てるどころか、凉は中を見ることすらできなかった。

 程なく開かれた緊急会議で、前田はこう発表した。

「病理解剖の結果、AHT細胞の生成した双血球により再生・修復された箇所が、時間を経て破壊されたことが判明した。暴走再生だ」

 双血球は、生成時に照射された粒子(一般には放射線)の種類や数により、挙動が変化する。双血球が他細胞を再生・修復させる強さと照射粒子、どちらも実用的なものになるよう調整していくことこそが、AHT細胞の開発に当たる。

 双血球の挙動は、他細胞の再生や修復に限らない。鎮静化、破壊。大きなカテゴライズに収まらず、より具体的なものも存在する。その一つが、「体内の双血球が枯渇すると、他の細胞組織を作り変える」というものだ。この厄介な現象は『暴走再生』と呼ばれ、決して低くはない頻度で発現することから、研究者たちを悩ませていた。

 双血球が『暴走再生』を備えるか確認する手段は、一つだけ存在した。「励化線」と呼ばれる粒子を双血球に照射するというものだ。励化線を取り扱うには、特殊な環境を整備する必要があるが、訳あって現在は整備不可能となっている。

 比較的早い段階で、『暴走再生』は除去された。しかし、改変を重ねるうちに、再び『暴走再生』が発現するようになってしまった。

 原因が特定されたことで、ある一つの現実が凉の胸に重くのしかかった。

 ――いずれ、葵も死亡する。

 翌朝、元気な姿を焼きつけようと、凉は時間を見つけて幼馴染の病室に立ち寄った。病室をノックすると、中から葵の父が現れた。

 凉は反射的に身構えたが、

「昨日は、本当に申し訳なかった」

すぐに父親が、深々と頭を下げた。凉は虚を食らったまま、その場に固まる。

 葵の父は、ドアを大きく開きながらこう告げた。

「君や前田先生たちには、ひどいことを言ってしまった。本当に悪かった」

 再び、葵の父が頭を深々と下げる。凉は、口を一の字に結んで見つめていた。

 葵の父の頭が上がった。その顔に笑みが繕われる。

「葵に会いに来たんだろ? ジョギング中だが、そのうち帰ってくる。時間は大丈夫かい?」

凉の強張っていた肩が、すとんと落ちる。まだ完全に緊張が抜け切ったわけではないが、凉の顔にはリラックスした笑みが浮かんだ。

「はい。呼び出しがあるまでは」

「そうか。よかった」

葵の父は、さらに目を細め、凉の背中を軽く押すようにして病室の中に招き入れた。

 ベッドの横に並ぶ、見舞客用の椅子二台のうちの一つに促され、凉は腰を下ろした。葵の父が隣に座る。

「一昨日、高尾に行ってきたんだよな? 大変そうだったと聞いてるが」

「はい。僕も登山は初めてでしたので」

「天気は良かったそうじゃないか。頂上からの景色、どうだった?」

「はい」

凉は返事しながら、二日前の記憶を掘り起こす。もはや覚えてすらいなかったため、登山の映像は何一つとして思い出すことができなかった。

「横浜は見えました」

唯一、言葉として貯蔵されていた事実を口にする。

「そうか」

当然、それ以上話が膨らむことはなかった。

 話題は六年後の大阪万博に切り替わった。登山のときとは打って変わって盛り上がり、場の空気が暖まったところで、葵の母親がやってきた。一瞬、表情が凍りついたが、二人の間に和やかな雰囲気が漂っているとわかると、安堵の息を吐いた。

「あら。凉くん来てたのね」

「お邪魔してます」

「お疲れ様。ちゃんと休めてる? これ、よかったら食べて」

葵の母は、持っていた袋の中からシュークリームを取り出した。院内のコンビニで買ってきたものだろう。全部で四つ入っていたため、元から凉の分を用意してくれていたようだった。

「いいんですか? ありがとうございます」

凉は嬉しそうに受け取った。葵の両親も一つずつ取り、残った一個は袋ごと冷蔵庫に仕舞われた。

 さっそく葵の父が開封し、齧りつく。凉も倣った。

「最近のコンビニスイーツは美味いよな。下手な菓子屋よりクオリティが高い」

「あら。最近のお菓子屋さんも美味しいわよ。ほら、学校の向かいのお店とか」

「あそこも美味しいですよね」

「そうか? クリームの量が少なくて残念だった記憶があるけど」

「それ別のところじゃない? あそこはどちらかというとクリーム多めよ。齧ったところからドバドバ出てくるもの」

 近所の洋菓子店から始まった話題は、ころころと移り変わった。一度六年後の万博の話に戻り、二〇〇五年の愛知万博の話になる。凉にとってはまだ生まれていなかった時代の話だが、当時最先端だったり、未来のものとされていた技術の話を聞くのは楽しかった。それから、同時期に公開された某アニメ映画の話に移り、転じてその制作会社の作品全体の批評が始まる。

 傍から見れば、仲の良い家族親戚がざっくばらんに会話している様子でしかない。しかし、当人たちは気づいていた。三人が三人とも、明らかに葵の話題を避けていることを。

 気になりながらも遠慮が働き、なかなか言い出すことができずに正午に近づく。ようやく凉が、意を決して口を開いた。

「葵さん、遅いですね。トレーニングの内容変わりました?」

「二キロ走った後『一人でもう少し走りたい』って言われたから私だけ戻ってきたけど。無理はしないようにってのと、何かあったらすぐに連絡するようには言ったけど」

葵の母の顔色が次第に青ざめていく。父が勢いよく立ち上がった。

「一人にしたのか? 今、何が起きてるかわかるだろ?」

「どうしても一人がいいって言うから……ごめんなさい、無理にでも付き添うべきだった」

母がその場に泣き崩れた。父は困ったように頭を抱え、携帯で葵に通話を発信した。

「先生たちに伝えてきます」

呼び出し音が鳴る間、凉が席を立つ。

「すまない、ありがとう」

「いつものコースですよね?」

凉が訊ねる。葵の父は呼び出し音を聞きながら、妻に無言で回答を促した。しかし、絶望しながら蹲ったままだった。

「探してきます!」

 凉は病室を飛び出し、最初にすれ違った医療スタッフに事情を手早く説明し、外に走った。筋肉痛も忘れて葵のジョギングコースをなぞる。

 変わり果てた姿で地面に横たわる幼馴染の姿が、脳裏を過る。鼓動が不気味な音を立て、凉を急かした。

 ――頼む。無事でいてくれ。

 胸内で祈りながら、隅々まで探す。しかし、一向に見つからない。

「すいません、○○新聞の者です。今お時間よろしいでしょうか?」

途中、取材に来た記者に捕まりそうになる。凉はすかさず私物のスマートフォンを取り出した。

「この女の子見ませんでした?」

葵の画像を掲げる。記者たちは首を傾げた。

「この子を探してるんです。時間があるんでしたら、探すの手伝っていただけませんか?」

凉の言葉に、記者たちは戸惑いながら顔を見合わせたが、やがて周辺を散策し始めた。

 次第に捜索隊の人数は増えていった。外だけでなく、院内も捜索対象に加わる。葵の病室がある三階。階段から外のランニングコースまでの通路。売店。トイレ。それでも見つからず、範囲を広げる。各病室や休憩室、屋上。院内の隅々まで探したが、葵の姿はどこにもなかった。

 とうとう警察の手も借りることになった。病院敷地外を含めた捜索が開始される。

 目撃情報が入ったのは、失踪から五時間後のことだった。近隣図書館の監視カメラに、葵の姿が映っていたのだ。

 凉たちは該当の図書館に向かい、映像を確認した。

「葵で間違いありません」

葵の両親が断言した。凉は、その横で繰り返し映像を見ていた。

 映像の中の葵は、パソコンで本を探し、本棚から厚い書籍を一冊取り出していた。適当な座席で本を開き、軽くメモを取る。それから、本を残して足早に立ち去った。わずか十分足らずのことだった。

 残された本は、東北地方の怪奇伝承集だった。開かれていたページには「人妖(じんよう)」と呼ばれる怪物の解説が記載されてある。

 実物を手に取り、本文に目を通す。「励化線」「蔵王」「封印石」――それらの単語を目にした途端、昨晩の会議室の記憶が蘇った。

 葵の父親の叱責。凉が発した呟き。前田の説教。もし、一連の流れを葵が見ていたら。

「葵は蔵王に向かったのでしょうか?」

葵の母が不安そうに訊ねる。警察官は穏やかな表情を浮かべた。

「でしたら問題ありません。あの辺には監視がたくさんいますので、すぐに見つかると思います」

 葵の両親は胸を撫で下ろす。その様子を他所に、凉は一人図書館を飛び出した。停留中のタクシーを捕まえ、中に乗り込む。

「東京駅までお願いします」

 タクシーが勢いよく発進した。

 東京駅に到着すると、一番近くの入口に駆け込んだ。大量の案内表示から、「山形」と書かれた緑の案内表示を見つけると、指示に従って進んだ。

 改札前まで来ると、片道分のチケットを買い、ホームに向かった。

 青紫・赤・白の特徴的な色合いの車体が止まっていた。まもなく、発車を知らせるブザーが鳴る。凉は、近くの車両に滑り込んだ。

 新幹線がゆっくりと前進する。

 凉は座席上部の突起を掴みながら、自由席車両に移動した。平日だからか、座席は比較的空いていた。目当ての車両に到着すると、凉は最初に目についた空席に腰を下ろし、シートに背中を預けて目を閉じた。

 ――人妖。

 その単語を初めて耳にしたのは、『ダイヤの原石プロジェクト』で前田由吉研究グループへの参加が決定したときのことだった。

 研究に励もうと、AHT細胞についてさらに詳細に調べていく中で、どうしてもわからないことがあった。

 頭打ちとされた二〇〇七年の発見と、注目を浴びるきっかけとなった二〇一五年の発表。その間、画期的な発見はなかったはずだが、論文の内容には大きな隔たりがある。例えるなら、歴史の教科書で縄文時代のページを読んでいたら、突然平安時代に飛躍したような違和感だ。

 もしかすると、凉の知らない事実が隠されているのではないか。そう思い、前田に質問したのだった。

「二〇一四年のバイオテロを覚えているかい?」

前田から返ってきたのは、回答ではなく質問だった。何故その話題に触れるのか、疑問に思いながらも、凉は頷いた。

「東北地方で起きた人工ウイルスによる事件ですよね? 感染者は幻覚・幻聴・せん妄などを発症し、各地で殺し合いが起きた……そう認識しています」

「そうだね、一般的にはそういう風にされている。ただ、その話にはフェイクが含まれている」

耳を疑うような発言がさらっと放たれる。聞き間違いを確認する間もなく、前田は続けた。

「主要な実行犯が数人いただろう。その中に、知っている名前はなかったか?」

 背筋に冷たいものが走った。凉は唾を飲み、口を開いた。

「落合蒼葉教授」

神経質そうなメガネの男性。新聞やテレビで、「ウイルステロ」の文字とともに報道された、事件の主犯格数名の中の一人だ。彼こそが、二〇〇七年に世界で初めて「沈黙の細胞」の沈黙を破った東北大学の教授だった。

「もう察しがついただろうが、彼らが行ったのはウイルステロではない。AHT細胞の開発だ」

「つまり、五年前のテロは国レベルの情報操作がされていた?」

前田の訂正が入らないとわかると、凉は渋い表情を浮かべた。

「だったら何故、落合先生たちは犯罪者扱いされているんですか? ウイルステロが嘘なら、犠牲者だって出なかったことになる」

「殺人ウイルスは作られなかったが、多くの命が失われたのは事実だ。AHT細胞の活性条件に放射線があるだろう?」

 凉が頷く間もなく、前田は室内の隅にあったホワイトボードを引っ張りだした。マジックを軽く走らせ、インクの残量を確認すると、山の絵を描き始めた。

「だいぶおかしな話をするが、真面目に聞いて欲しい。宮城県と山形県の間に、蔵王という山がある。今から大体千年ぐらい前かな、ここから励化線と呼ばれる特殊な粒子が放出されていた」

 ホワイトボードに描かれた山から点線が引かれる。

 凉は、ホワイトボードから前田に視線を移した。

「それに反応したHT細胞が、活性化するんですか?」

「話が早いな。まさしくその通りで、HT細胞を持っていた人々は――化け物に変わった」

 断り通りの「おかしな話」が始まった。口を挟みたい気持ちを堪え、凉は続きを待つ。

「彼らは『人妖』と呼ばれた。化け物の姿になった、即ち妖化(ようか)した人妖は恐るべき回復能力と筋力を持ち、見境なく人を殺めた。そこで、ある一家の力で『封印石』を作り、励化線を鎮めた」

 ホワイトボードの山の上に丸が一つ付け加えられ、励化線を示した点線にバツ印が描かれる。

「封印石って、そんな簡単に作れたり、持ち出したりできるものなんですか?」

「意外にも手乗りサイズの小石だよ。それでも不思議なことに、封印石ができてからは、化け物が現れることはなくなった」

 そこまでの説明で、五年前に何があったのかは予想がついた。人妖の回復能力とHT細胞に関連を見出した研究者たちが、蔵王の封印石を取り除き、励化線環境下で「励化線に依らない人工HT細胞」=AHT細胞の開発を進めようとした。しかし、甚大な被害が出たことで彼らは「人殺し」になった。主犯格の研究者たちは、いずれも事件中に死亡し、偉大な科学者としてではなく犯罪者として歴史に名を残すことになった。このとき生み出された研究成果が、政府に没収され、最終的に前田の手に渡ったということなのだろう。

「しかし、五年前の事件で封印石が破壊されてしまった。封印石を作るには、原料となる石と、先程言った『ある一家』の血が必要だが、困ったことにその一家の末裔も事件中に死亡してしまってね」

つまり、今度封印石が失われてしまえば、人妖の化け物化を防ぐことが永久にできなくなる。だからこそ、政府は情報規制をしたに違いなかった。それが今日までばれずにいるのは、「おかしな話」故か。凉自身も、辻褄が合っているし、前田がそう言うのだから事実なのだろうと認識しているだけで、納得できているわけではない。仮に、何も知らない状態で、「人類の大規模化け物化現象」と「人工ウイルステロ」どちらのほうが信じられるかと問われれば、悩むまでもなく後者を選ぶ。

 人妖の件は絶対に口外しないよう、厳しく言われたため、家族や葵にも話したことはなかった。世間の大半はウイルステロの話を疑ったことすらないだろう。きっと葵もそうだった。しかし、『伝承』は規制の対象に含まれていなかったため、葵は凉たちの会話に出てきた断片的な情報から、「蔵王の封印石を取ると励化線が発生する」という事実に辿り着くことができてしまったわけだ。

 もうすぐ自分が死ぬとわかり、自身の延命のため――AHT細胞の開発を促進させるために、葵は一人で封印石を取りに向かったのだろう。もしAHT細胞に不備がなかったら、葵はこんな無謀な真似はしなかったはずだ。

 胸を渦巻く罪悪感が、いっそう重みを増していった。

 新幹線に揺られること一時間。電車酔いとは異なる気持ち悪さを覚えた頃だった。

「あれ? もしかして、AHT細胞の?」

突然、乗客の中年男性に話しかけられた。驚きのあまり、凉は小さく飛び上がる。

「えっと、その……」

返事を濁そうにも、すでに周囲から視線が集まっているのが感覚的にわかった。

「はい、そうです」

囁くような声で告げると、驚きの声が上がった。

「本物だ」

「似てると思ったら、やっぱり」

「名前、夕凪何くんだっけ」

「有名人見るの初めて」

そんな声が、あちこちから聞こえてくる。

 凉は、一端の研究者がそこまでの知名度を誇っているとは予想していなかったので、面食らっていたのと同時に、反応に困っていた。周囲が落ち着くまで気を紛らわせようと、再び車窓に目を外す。

 窓ガラスに、隣の席に五十代ぐらいの太った男性が腰を下ろした様子が反射で映し出された。凉は慌てて振り向いた。

 男性は握っていた缶ビールを呷り、大きく溜息を吐くと、凉のほうに前のめりになった。

「何ちゃら細胞失敗したんだろ? 死人も出てるのに、のんきに旅行なんかしていいのか?」

 周囲から寄せられる好奇の視線の一部が、冷ややかなものに変わった。乗客たちは、急に声のトーンを潜めて話し始めた。

 隣の男性は、さらにもう一口ビールを飲み、説教を続けた。

「苦労したことないだろ? だから傲慢なんだよ。現に、こうして俺が大事な話をしているのに、こっちを見て聞こうとしない。どんなに勉強ができるか知らんが、お前みたいなのはろくな大人にはならない。世の中には、勉強よりも大事なことが――」

 突然、車両が大きく揺れた。辺りから悲鳴が上がる。

「何だ?」

隣の男性も、前の席の背もたれを掴みながら立ち上がった。

 揺れは一度で収まらなかった。不規則に強さを変えながら、しばらく揺れ続ける。凉の身体も、左右に激しく揺さぶられた。隣の席に置かれた缶からはビールが吹き出し、床に零れ落ちていた。

 二、三分ほどして、揺れが収まった。

「地震?」

誰かが呟く。

 再び激しい横揺れが始まった。

 次の瞬間、車体がゆっくりと横に傾いた。そのまま、何者かに押されるように横転した。車内の照明が一斉に消灯し、電光板の表示も消える。片側の窓が接地したこともあり、視界は一瞬にして暗くなった。

 前方から幼い子供の泣き声と、必死にあやそうとする母親の声が聞こえてきた。他にも、 苦しそうな息遣いや呻き声が微かに聞こえてくる。

 幸い、凉は左腕を肘置に打ちつけただけで済んだ。状況を確認するため、隣の椅子の肘置によじ登り、通路を挟んで反対側の窓に近づく。

 何かを破壊する、大きな音が鳴った。

 視界の左側で、光が差し込むのが見えた。

 直後、巨大な鳥の足が壁の穴から侵入した。ビジュアル的にはダチョウの足だが、サイズ感はゾウに近い。

 凉は腰を抜かし、その場から動けなくなった。その間に、巨大な足は退けられた。

 今度は、鳥の頭が降りてきた。

 コンドルのような皺くちゃで真っ赤な皮膚。それに埋め込まれた、零れそうなほどの大きな目玉がギョロギョロと動く。つるはしのような鋭い嘴が、破損した壁や椅子のパーツ、乗客の荷物などを器用に掻き分けた。

 やがて、嘴が何かを引っ張り出した。凉の隣に座っていた中年男性だった。頭をぶつけたせいか、意識を失っていた。

 鳥のような不気味な生き物は、男性の胴体をくわえると、空を仰いで少しずつ口の中に落とし込んだ。

 叫ぶ声すら出なかった。鳥が食事に勤しむ間に、凉は隙間から外へ飛び出した。

 敵に注意している余裕などなかった。ひたすら走り、電車から離れる。

 一帯に広がる田植え前の土壌を一心で駆け抜ける。スニーカーが泥で汚れ、靴の中に砂利が入るが、それに気づかないほど気が動転していた。

 息切れが激しくなったところで、凉は足を止めた。追手がないことを確認しようと、背後を振り向く。

 横転した新幹線の周りに、見たことのない生き物がひしめいていた。頭部がタコのような青い人型。首の長いバッタ。胴体が液状化した馬のようなもの。短い六本脚で地を這う牛。いずれも、動物なんて言葉で表せるような可愛いものではなかった。

 化け物。それ以外に相応しい言葉が見つからない。

 化け物たちが見えなくなるまで、逃げなければ。凉は、息苦しさに目をつぶりながら、前に向き直る。

 百メートル先の木陰から、毛むくじゃらの化け物が三体見えた。明らかに凉に気づいており、左右にふらふらと長い腕を揺らしながら近づいてくる。

 凉は慌てて周囲を見回した。どこまでも更地の土壌が広がっているだけだった。隠れる場所どころか、武器代わりになるものさえも見当たらない。

 焦燥が指数関数的に募っていった。その間にも、今度は別の方角から新たな化け物がやってくる。でっぷりと腹を垂らしたダルマ型のカエル。硬い皮膚を纏った巨大芋虫。一体、また一体と増えていく。

 瞬く間に、全方位を化け物に囲まれた。背後の新幹線だったものは、化け物たちの手により解体され、鉄塊の屑置き場と化していた。餌がなくなるのも時間の問題だろう。さすれば、新たな獲物を探し始めるに違いない。

 否。新幹線の乗客たちが食い尽くされるより先に、毛むくじゃらが――あるいはカエルたちが――凉を食らうはずだ。

 鳥の化け物が、乗客を捕食する光景が脳裏を掠めた。突発的な吐き気が込み上げ、凉は嘔吐した。全身の力が抜け、その場に膝から崩れ落ちた。

 死ぬ瞬間について考えたことは、何度かあった。映画の感動的なワンシーンのように、「いい人生だった」などと言い残し、家族に囲まれながら息を引き取る。理想の死に方だが、そんな終わり方は極稀だ。大抵は病で倒れる。認知症や、病による衰弱で脳が衰え、よくわからないまま最期を迎える。死の恐怖を感じないで済むので、ある意味悪くない死に方かもしれない。

 痛いのは嫌だ。同じ理由で事故死も避けたい。苦しい病気にも罹りたくない。とはいえ、自分がいい年になっている頃には、医療もだいぶ進歩しているだろう。

 そうした、死の不安を和らげようとする無意識下の試みは何度か行われてきた。しかし、捕食される最期を考えたことはなかった。

 焦点が何度もぼやける視界の中で、幾多も点在する茶色の影が見える。

 ――罰だ。AHT細胞を作れなかったから、罰が当たったんだ。

 最初に見つけた毛むくじゃらの化け物は、数メートル先にまで迫り、すでに荒い息遣いが聞こえるようになっていた。土草の匂いに血生臭さが紛れ、鼻腔に触れる。

 柔らかい土を踏み締める音が、耳に届いた。視界の大半を毛むくじゃらの茶色に覆い尽くされる。

 絶望のあまり、凉の顔からは自然と冷めた笑みが零れた。鼻から、呆れ笑いのような溜息が漏れる。

「最悪」

諦観と憎恨の合わさった声が告げる。それを最後に、声を出す気力は底を尽きた。

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