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17. 封印石とAHT細胞完成体データの行方

 程なくして、化元体消費を抑えるために怪我の処置をしていたはなが合流した。異変を嗅ぎつけ、途中で切り上げたようだ。頭や全身には、パーカーのフードを裁いたと見られる黒い布が巻かれていた。出血はまだ治っておらず、頭の布からは血がポタポタと滴っていた。

「千路には連絡した。火事は俺たちじゃどうにもならないとして、問題は天狗だ。暴走は避けられないだろうし、どう処理するか考える必要がある」

帝都がそう切り出し、スマホをポケットに入れる。

「近づかないで倒すことはできないでしょうか? と言っても、爆弾を投下するぐらいしか浮かびませんが……」

浜町が困ったように頭を掻く。

「一番安全かつ楽な方法ではありますね。毒ガスと火のことを考えなければ」

帝都はそう言い、自分のカバンを睨んだ。そこに、

「やめたほうがいい」

凉が口を挟んだ。三人の視線が同時に集まる。

「何だ? 危ない物質でも発生すんのか?」

帝都が、本館から上がる煙を一瞥する。凉は、重々しい表情で俯いたまま口を開いた。

「AHT細胞のデータと封印石、二人が持ってる」

 集まっていた三人の目が、途端に濁り出した。

「嘘――だよな」

帝都が呆然としながら呟く。凉は、口を固く一の字に結ぶだけだった。

 爆弾を投下すれば、強力な人妖であっても強引に捻じ伏せることはできる。しかし同時に、彼らの所有物も無事では済まない。

 封印石が失われれば、国土は化け物の巣窟と化し、データが失われれば、早期に葵を救うことはできなくなる。この二つの無傷回収は必須条件だ。無力化の対象は、あくまで持ち主本人に留めなければならない。

 重苦しい空気が漂う中、はなが何か閃いたように、顔を上げた。

「麻酔銃はどう?」

すぐに、帝都が顔を顰めた。

「麻酔銃なんて置いてあるか? ここ、動物園じゃねえぞ?」

「どちらかというと吹き矢かな? 注射器そのものを射出して、中の麻酔薬を注入するって原理。これと同じことができればいい」

「それ、簡単にできんの?」

「注射器の中に圧縮ガスを入れて、薬剤の出口――針穴をゴム栓で塞いで密封状態にする。針が刺さったら、ゴム栓がずれて中の薬剤が押し出される。あるものでできると思う」

「つまり、必要なのは、注射器とそれを撃ち出すもの、麻酔薬、圧縮ガス、ゴム栓かな?」

浜町が確認する。

「注射器は私が投げます。針先から中身が漏れないようにしたいので、接着剤も必要です」

はなはそう答えると、凉に向き直った。

「三階で全部揃いそうだよね?」

凉は無言で頷いた。

「わかった、ありがとう」

はなは、さっそく材料の調達に向かおうとした。

「待て、華陽」

すかさず帝都が肩を掴み、引き留める。

「俺が行く。現状として、天狗はいつ暴走してもおかしくない。いざというときに止められる奴がいたほうがいい。それに――」

帝都の視線が本館に向けられた。炎に飲まれた箇所から、すでに崩壊が始まっていた。

「あっちも、いつ崩れるかわからない。取りに行っている間に――なんてことも十分あり得る。万一のことがあったとき、仮に一命を取り留めたとしても、暴走リスクは上がる。華陽に暴走されたら、それこそ終わりだ」

「それはわかってる。だけど、帝都くんには名前だけでどれが麻酔かわかる?」

はなの質問に、帝都は口を噤んだ。それでも、はなを行かせまいとする気持ちは伝わってくる。

 薬品に精通し、暴走しても脅威にならない。誰が適任者なのかは、凉自身が一番わかっていた。しかし、名乗り出ることはできなかった。崩落の危険を鑑みず、毒ガス塗れの灼熱地獄に飛び込み、薬品を持って帰ってくる。たった一人で。想像するだけでも、全身が汗ばみ、卒倒しそうになる。

 一方で、このまま渋っていても事態は悪化するばかりだということも理解していた。決め兼ねているうちに、備蓄所が崩壊。または、はなが取りに行っている間に崩落。大鬼を止められず、長期戦で化元体が枯渇した左沢が暴走。自我を失っているから、互いの持っているAHT細胞の完成体データや封印石などお構いなしに叩き潰そうとするだろう。あるいは、瓦礫の中から生還したはなが暴走。いずれにせよ、柊は封印石を持ったまま犠牲となり、崩壊した備蓄所の瓦礫に飲まれることになる。

 選択肢は残されていなかった。

「ぼ、ぼ、ぼぼぼぼ僕が行きます」

拳をぎゅっと握り締めながら、凉が声を絞り出した。はなと帝都の不安そうな視線を浴び、いっそう不安が掻き立てられる。そこに、

「私も行きます」

浜町が名乗り出た。三人が驚いたように振り向いた。

 浜町は控えめに微笑した。

「一人じゃ怖いだろうし、崩れないか見張る人がいたほうが、夕凪くんも薬品探しに専念できると思います」

「だったら俺が!」

帝都がすかさず声を上げる。しかし、浜町が手で制した。

「帝都くんは、千路さんとの連絡係をしてるでしょう? それに、子供の付き添いは大人の役目です」

返す言葉が見つからず、帝都は黙り込んだ。

 反論がないと悟ると、浜町は凉のほうに向き直った。

「夕凪くん、よろしくお願いします。行きましょう」

堂々とした声だった。

 目、口元、表情、姿勢――普段の浜町らしからず、悠然としていた。ただし、全身から漂う雰囲気だけは、普段通り怯えの色をまとっていた。それがかえって、凉に安心感をもたらすことになった。

「はい!」

 二人は本館に向かった。

 屋内の延焼は予想以上に進んでいた。すでにコンテナから離れた場所にも、炎が行き届いていた。壁や天井、あらゆる方向から、不穏な音が不規則に鳴り、その度に凉はびくびくしていた。

 今にも崩落が始まるのではないか。あるいは、危険なガスが充満して大爆発が起きるのではないか。絶えない不安が、足を押し留めようとする。

「夕凪くん、大丈夫?」

不意に、浜町が呼び掛けた。質問に答える代わりに、凉は血の気の失われた顔を上げた。

「ああ、怖くないわけないよね、ごめんね」

浜町はあたふたしながら、凉の手を握った。

 周囲の熱気とは異なる温かさが、凉の手を包み込んだ。わずかにではあるが、恐怖が安心感に上書きされる。

「少し落ち着いてきました。ありがとうございます」

 凉の普段通りの声を聞いた浜町は、ほっと息を吐いた。しかし直後、無意識に凉の手を握っていたことに気づき、慌てて離した。

「ごめんなさい! ちびっ子たちにやっていることを、つい」

浜町が申し訳なさそうに目を伏せ、離した手で頭を掻く。

 強張っていた凉の顔に、ふと笑みが零れた。

「気にしてませんよ。僕だってまだ子供ですし」

「本当、ごめんね」

浜町の顔にも、困ったような笑みが浮かんだ。

 まもなく、火煙の間から階段が見えた。話し合うこともなく、凉が先を歩き、次の段を爪先で押して確認することにした。その間、浜町は壁や天井の異変を監視する。

 一段一段確認しながら進むため、一階分上るだけでもかなり時間を要した。二階に上がり、次の階段を踏み締める。神経が摩耗し、加えて熱と毒ガスも充満しているからか、凉の全身は倦怠感を覚えていた。それでも前に進めるのは、一人じゃないからだった。

「浜町さんが来てくれて、本当によかったです」

凉が軽く振り向くと、死人のような顔色をした浜町がそこにいた。

「すいません、呑気なこと言って。迷惑でしたよね。僕が一人で行けば済む話だったのに」

凉が慌てて謝罪すると、浜町は頼りない笑みを無理矢理作った。

「そんなことないよ。むしろ、こんな恐ろしいところに子供一人で行かせることのほうが恐ろしい」

表情から、その言葉が本心であることは確かなようだ。しかし、付き添いに来たせいで、ただならぬ恐怖を感じていることも事実なのだろう。

 浜町は、一際長い息を震わせながら吐き出した。徐々に、強張っていた表情が自然体に戻っていくのがわかる。限界まで吐き出すと、大きく深呼吸し、口を開いた。

「正直に言うと、確かに怖い。でも、震災のときほどではないかな」

 凉と同じ段に、後ろから片足が踏み出される。しかし、すぐに思い出したように引っ込んだ。

 凉は、次の段に片足を乗せ、少しずつ体重を掛けた。

「二〇一一年のですか?」

「いいや、阪神。身寄りを亡くして、一人だったんだ」

 次の段の無事を確認し、凉がもう一方の足を前に出す。

「二四年前っていうと、浜町さんまだ子供ですよね? めちゃくちゃ怖かったでしょう」

凉自身、大きな地震を経験したことがなく、記憶にしっかりと残っているのも、三年前の熊本地震ぐらいだ。しかし、幼い子供一人で余震に怯えながら、避難所生活を続ける過酷さは容易に想像できた。

 浜町は、遠い目で天井を見上げながら、呟くように答えた。

「そうだね。余震が怖くて眠れなかった。それと、人も」

「人?」

 凉が次の段を踏むより少し早く、浜町が同じ段に上がる。

「みんな余裕がなかったんだ。避難生活で感じていたストレスを、手頃な相手にぶつけていた。一人でいる子供なんて言ったら、そりゃあ格好のターゲットだ」

浜町はそれ以上話そうとはしなかったが、当時受けた扱いがその後どう影響したかというのは、想像に難くなかった。

 凉は、何も返すことができず、階段の確認に集中した。

 一段も抜けることなく、無事に三階まで到着した。凉は、構内図で「毒性学」と記載のあった部屋に向かった。化元体倉庫から離れているせいか、火の手は下の階と比べて、まだ弱かった。

 凉は、室内を見回した。手前に分析機器が並び、中央に事務用品と実験器具が置かれ、奥に薬品が保管されている。

 凉は、浜町のほうを振り向き、部屋の中央付近を指しながらこう告げた。

「浜町さんは、注射器と接着剤をお願いします。僕は麻酔薬とガスを探します」

「了解しました。ゴム栓はどうする?」

「針を貫通させたときに、間に隙間が入らないものなら何でもいいと思います。それこそ、ケーブルの被覆とかでも」

「わかりました!」

浜町の威勢のいい返事を聞くと、凉は奥の薬品庫に向かった。

 薬品庫は施錠されていて開かなかった。一瞬、凉の頭が真っ白になる。しかし、すぐに毒ガスを取ったときのことを思い出した。近くにいた帝都が妖化し、戸棚を破壊していく光景が蘇る。

 凉は荒い溜息を吐くと、眉間に皺を寄せながら、瞼を閉じた。

 全身が熱くなるような感覚がした。口内に麻酔を打たれたときに似た違和感が、四肢のあちこちに現れる。

 凉は目を開き、獣の腕で思い切り薬品庫の扉を引いた。ロックが破壊されて本体から扉が分離し、中の薬品が露わになった。

 凉は少年の姿に戻ると、麻酔薬を一つ手に取り、別の棚から二酸化炭素のスプレー缶を持ち出した。

 浜町も、道具一式を揃え終えたところだった。

「夕凪くん。大きさとか、これで問題ないかな?」

持っていた未開封の注射器を、自信なさそうに見せる。凉は、袋の文字や数字を確認し、こくりと頷いた。

 浜町は安堵の笑みを浮かべた。

「後は大丈夫かな? 接着剤とゴム栓はあるから。夕凪くんも、全部見つかった?」

「はい」

「オーケー。大丈夫そうだね、戻ろう」

 凉は頷き、缶と瓶を握ると、踵を返した。その背中に浜町が続いた。

 数分前より明らかに勢いの増した炎が、廊下で二人を出迎えた。足元を逐一確かめている余裕はなさそうだった。打ち合わせるまでもなく、二人はほぼ同時に早足に切り替えた。

 凉は、両手に持った薬瓶とスプレー缶を身体に引きつけ、しっかりと抱える。汗でびしょ濡れだった服から、生温い水分が滲み出した。

 炎が立ち込めるほどに、死の恐怖が凉の全身を飲み込んでいった。うるさく脈打つ心臓の音だけが、生を実感させた。同時に、正気を保つための命綱にもなっていた。

 極度の緊迫状態に駆られる中、追い討ちを掛けるように、つんとした異臭が漂ってきた。

 刹那、激しい爆発音が鳴った。軽い衝撃波が発生し、凉の身体は壁に打ちつけられた。

 打撲と火傷で背中がジクジクと痛む。痛みに悶えながらも、持っていた薬品が無事か確認した。険しい目つきの中に、微かな安堵の色が浮かぶ。

 凉はすぐに立ち上がり、周囲を見回した。

「浜町さん、大丈夫?」

 返事より先に、頭上から嫌な音が聞こえてきた。

 恐る恐る見上げる。天井と壁がミシミシと音を立てて崩れようとしていた。

 時間の進み方が変わったように感じた。炎に包まれた瓦礫の雨が、パラパラ漫画をゆっくりとめくるように迫ってくる。落ちてくる燃えカスや、破片の一つ一つが、はっきりと認識できるほど、ゆっくりと。

 しかし、身体は動かない。天敵に睨まれた小動物のように、本能的に脳が働くことを止める。全身が硬直する。目に映る映像だけが、ただ垂れ流しにされていた。

 ついに、天井が壊れた。炎の塊が降ってくる。

 実体を持つかのような熱の団塊が押し寄せる。発せられた光が目を灼くように、コマ送りで視界を白で覆い尽くしていく。それらの知覚に、感情が追いつかない。それでも、「終わり」を悟ることだけはできた。これまでのパニックが嘘だと思うほど、冷静に。

 突然、視界が傾いた。前につんのめり、両手が床につく。

 呪縛から解かれたように、スローモーションで見えていた足元の破片や火煙の動きが、元の速さに戻った。我に返った凉は、急いで立ち上がり、背後を振り向いた。

 浜町が瓦礫の下敷きになっていた。頭と片腕だけが辛うじて顔を出し、痛々しい熱傷を晒している。

「待って、今助ける!」

凉は慌てて駆け戻った。改めて浜町を見下ろし、薬品とスプレーを足元に置く。

「夕凪くん、行ってください」

足元から、弱々しい声が告げた。

「嫌ですよ!」

凉は、さっそく瓦礫をどけようと手を伸ばした。しかし、近づけただけでも火傷しそうなほどの熱気に襲われ、反射的に手を引っ込めた。引っ込んだ手を睨んで舌打ちし、再度試みる。瓦礫に触れた瞬間、神経を直接焼き切られるような痛みを覚えた。一瞬、手放しそうになったが、唇をぎゅっと噛み締めることで、無理やり堪えた。

 足腰に力を入れ、掴んだ瓦礫を持ち上げようとする。だが、びくともしない。

「畜生」

さらに踏ん張ると、タンパク質の焦げる音がした。

「お願いだから本当行って」

下から、浜町が呟くような声で、しかし必死に訴える。

「せめて軽くなってくれよ」

凉は聞こえないふりをしながら、瓦礫と奮闘し続ける。

「行って!」

「畜生」

「いいから!」

「畜生」

「夕凪くん!」

「畜生が!」

 真っ赤な大人の右手が、さらに赤い子供の左手首を掴んだ。小さな両手が開き、瓦礫がそっと落ちる。

 凉の目が、落ちた瓦礫から自らの左手を捉え、そして浜町に移った。

「なんで……また……」

 赤く腫れた目から、大粒の滴が一つ溢れ落ちた。空いた両手は、濡れた頬を拭うことなく、熱傷でただれた掌を抉るように、手を握り締めていた。

 目の前に救いたい命があるのに、救えないという無力感。二度と味わいたくなかった喪失感だった。胸の中にぽっかりと開いた空洞が、一際大きく身体を巣食う。まるで、今いる化元体備蓄所のように、ボロボロに崩れていくような気がした。

 瓦礫の下から、浜町の握られた左手がふらふらと現れた。もう一方の手が、掴んでいた凉の腕を裏返しにする。

 浜町の左手にノックされると、凉は左手を開いた。

 未開封の注射器、接着剤、ゴム栓代わりの被覆が載せられた。

「子供たちのために、平和な世界をお願いします」

空いた左手が、道具の載った左手を上から優しく握る。

 凉は、噛みつくように口を開いた。

「嫌だ。二人とも帰れるかもしれないでしょ、諦めんなよ」

「いや。夕凪くんだけでも、確実に帰るべきだ」

「俺だけ生還して石が戻ったところで、あの子たちにはあんたが必要でしょ?」

「あの子たちに必要なのは未来だ」

きっぱりと告げられた声に、即答を続けていた凉が口ごもった。

 凉の腕を掴む手に、軽く力が入った。反して、浜町の目は、何かを愛しがるような穏やかな色を纏っていた。

「震災から二十年以上、ずっと恐怖につきまとわれていた。そんな恐怖を埋めてくれたのが、あの子たちだったんだ」

優しく力強い瞳が、凉の目から掌の道具を捉える。

「この五年間は、最高の宝物だった。だからこそ、それ以上の時間を返してあげたい。これを届けて、未来を守って欲しい」

 凉の左手首を掴む手は、熱くてわずかに震えていた。

 道具を載せた小さな掌が拳を作った。凉はスプレー缶と薬瓶を抱え、俯きながら立ち上がる。

「浜町さん。子供たちの身体に仕組まれた不完全細胞、放置するって言ったけど、AHT細胞ができたら移植しようと思います。万一何かの間違いで暴走再生が起こっても、双血球が治してくれます」

凛々しく見えた浜町の表情に、ぐっと力が入る。

「ありがとう」

涙交じりの声が聞こえてくると、凉は背中を向けた。

「頼んだよ。夕凪くん」

呟くような声は、壁の軋む音と火花の散る音に紛れながらも、確かに凉の耳に届いた。

 建物の崩壊は進んでいた。不規則に地震のような揺れが起こり、そこら中から瓦礫の崩れる音が聞こえてくる。階段を下りる間は、常に足元がグラグラと揺れていた。横では壁が細かな破片となり、零れるように壊れていく。

 凉は、恐怖を頭の隅に追いやり、勢いよく一階まで駆け下りた。

 出口が見えた。一目散に外へ飛び出す。

 真っ先に、備蓄所を心配そうに眺める女性の姿が視界に飛び込んだ。傍には、ダンボールや廃材を積んでできた作業台があった。凉が不在の間に、はなが用意したのだろう。

「はなさん!」

凉が大声で呼び掛ける。熱気を吸いすぎたせいか、声はガラガラで、叫んだ傍からむせ返った。

 はなは、凉に気づくと、微かに安堵の色を浮かべた。

 凉は早くも駆け寄り、持ってきた注射器と麻酔薬、ゴム栓を手渡した。残るスプレー缶と接着剤は、簡易作業台に置いた。

「ありがとう。お疲れ様」

はなは道具と引き換えに、ポケットティッシュを差し出した。凉は、わけがわからず困惑したが、すぐに目から流れている涙の感触に気づき、無言で頭を下げて受け取った。

 はなが麻酔銃の制作に取り掛かる間に、涙と鼻水を拭き、帝都と左沢の姿を探した。

 二人とも、かつて化元体倉庫だった残骸の前にいた。明確な二対一の構図で、大鬼と対峙している。左沢の暴走はまだのようだった。しかし、手放しに安心できる状況でもなかった。帝都のほうは、反撃を恐れず積極的に攻撃を仕掛けていたが、左沢はかなり及び腰で、たった一度の小攻撃すらも受けまいとしているように見える。実質、帝都が敵の消耗と引きつけ役を同時に担っている状態だった。

「凉くん、そこのジュース汲んでもらっていい?」

突然、脇から指示を出され、凉は慌てて足元を見た。左沢が錠剤を喉に流し込むのに使っていたグレープフルーツジュースがあった。それを手に取り、中身を作業台の上のガラス瓶に注ぐ。瓶が半分満たされたところで、ペットボトルは空になった。

「ありがとう」

はなが瓶を自分の前に移動し、作成した注射器の針をジュースの中に入れた。親指でピストンを押し込み、空気が漏れないのを確認する。

「よし」

瓶の中から注射器が取り出された。はなが妖化しながら、ターゲットのほうを向く。

 向こう側の二人は、大鬼を止めるのに必死で、こちらの準備ができたことに気づいていなかった。すかさず凉が、目立つように両腕を大きく振る。

「帝都さん、左沢さん! 準備できました!」

ようやく二人がこちらを向いた。しかし同時に、大鬼もこちらの存在に気づいた。目の前の二体の人妖を差し置き、空高くジャンプする。

 自らの失態に気づくより先に、敵が目前に着地した。熊手のような掌が爪を立て、叩き潰そうと迫る。

「凉くん!」

とっさにはなが注射器を置き、庇いに出る。頭上から押される形で、うつ伏せに倒れた。さらに背中を強く踏みつけられる。はなの口から血反吐が飛び出た。

 大鬼の視線が、凉に移る。

 太い腕が、怖気づいたまま固まる少年の身体を掴んだ。再び跳び上がる。

 化元体倉庫の残骸や、廃材の山の近くに降り立った。

 凉の身体が、残骸の山に叩きつけられた。大の字になりながら、深くまで埋まる。立ち上がろうにも、下のほうに溜まった小さな廃棄物に足を取られて動けない。

 大鬼の右腕が高々と上げられた。凉は目をきつく閉じた。

 瞼の裏が視界を覆ってからしばらく、何も起こらなかった。凉は恐る恐る目を開く。

 大鬼の脇に左沢が潜り込み、自らの左腕と胴体で右腕を固定していた。

 大鬼は煩わしそうに睨み、振り払おうと身体を大きく揺らす。左沢も対抗するように、右手で刀を握り、大鬼の脇に突き刺した。

 金切り声と地鳴りの混ざったような悲鳴が上がった。左沢が右腕から離れ、今度は左腕を掴む。

 大鬼は、不安定な悲鳴を上げ続けながら、拘束の解かれた右腕で殴り飛ばそうとした。しかし、動かすための筋肉が断ち切られたせいで動かない。再度全身を大きく振り乱したが、それでも左腕の拘束は解かれない。足の攻撃に切り替えようとすると、妖化した帝都が右脚の脛に食らいついた。遅れて、左沢が左足を踏みつける。

 大鬼の動きが止まった。

 その正面約三十メートル先で、はなが口元の血を腕で拭いながら、立ち上がった。刺すような視線を一切ターゲットから逸らさず、台の上の注射器を手に取る。

 注射器がダーツのように構えられた。針の先端が大鬼の胸に狙いを定める。

 そして。

 投擲された。注射器が空を切り、大鬼の胸に突き刺さる。

 強烈な咆哮が轟き、空に反響した。大鬼は、どこで温存していたのかわからない力で帝都を蹴り上げ、左沢を振り解いた。ふらつきながら、周囲の残骸の山や炎上中の資材を破壊し、一緒に倒れていく。

 瓦礫の大山が一気に崩れた。近くにいた凉と左沢が巻き込まれ、残骸の海に飲み込まれた。


 溺れた人が、水上に這い上がろうとするように、凉は必死に周囲の残骸を掻き分けた。

 隙間から覗く夜空が、ほんの一瞬だけ広がった。中心では月が、地上の炎に劣らない勢いで光を放っている。それを掴もうとするように手を伸ばしたが、すぐに別の所から残骸が雪崩れ込んだ。

 偶然目についた、倉庫の壁だったと思しき瓦礫を掴み、ようやく残骸の山から這い出る。しかし、今度は別の問題が待っていた。四方を炎に侵された屑山に完全包囲されていたのである。焦げた先からは、炭のようなものがポロポロと零れており、いつ大きな崩落が発生してもおかしくない状況だった。

「凉くーん!」

炎の壁の向こうから、はなの声が聞こえてくる。その声に答える代わりに、凉は瓦礫の海を見回し、左沢と柊の姿を探した。足元に気をつけながら、火の明かりを頼りに捜索を始める。

 先に見つかったのは柊だった。発泡スチロールの塊に埋もれながら眠っていた。

 恐る恐る近づき、そっと鼻の近くに手を当てる。息はあるようだ。目が覚める前に、封印石を取り返してしまいたかった。さっそく、ありそうなところから順番に、全身をまさぐっていく。

 ズボンの左ポケットに入っていた。ひったくるように取り出し、目立った損傷がないか確認する。安堵の息とともに、凉の顔から微笑が零れた。さらに、胸ポケットからライター型のスイッチを回収する。

「凉くん!」

再びはなの声が聞こえたところで、凉は応じようと口を開いた。

 突然、背後から口元を押さえられた。そのまま後ろに引っ張られる。

「何で燃えてる? 爆発か?」

柊だった。さらに、怒涛の質問攻めが続く。

「誰がやった? なんちゃら団か? あのメガネゾンビはどうなった、死んだのか? ナヨナヨ男は?」

 答えようにも、柊の手が邪魔で話せない。柊は、厳しい表情で回答を待っていたが、口を塞いでいることに気づくと、さりげなく手を外した。しかし、答えを訊くまでもなかったようだ。凉の表情からすべてを悟り、深い溜息を吐いた。

「実にしょうもなかった」

諦観に満ちた声が、チリチリと火の噴く音に重なる。凉は内心ほっとしながらも、どこかすっきりしなかった。

 虚しく燃える備蓄所の残骸と廃材が、漠然と視界に映った。そのまま背後に視線を移す。あまりの惨状に、呆然と見つめる柊の顔があった。その顔に滲む後悔の色は、程なくして見慣れた厭世的なものに戻った。

「あいつは、何にせよ医学の道に進んでただろうが、再生医学研究に進んだのは、俺と出会ったから――それ以上の理由はなかったと思う」

唐突に始まった話が、彼の亡き旧友について言及したものだと悟るには、少々時間が掛かった。とはいえ、柊自身は凉に聞かせようとしているわけではなさそうだ。凉が話を聞いているか、理解しているかはお構いなしに、話を続けた。



 初めて中稲と話したのは、放課後の誰もいない教室だった。

 意外にも、声を掛けてきたのは中稲のほうからだった。教室の後ろのロッカーに腰掛けながら、ぎっしりと文字の詰まったプリントを読んでいると、

「頭、おかしいんじゃないか?」

突然そう言われたのだ。模試の結果を握りながら、きな臭い顔でこちらを睨んでいる。ちょうど個人面談が終わり、帰ってきたところのようだった。

 柊は、困ったようにプリントを一瞥した。

「何で? 明日英単語テストあるのに、論文なんか読んでるから?」

「治療できない病気をなくすって話だ」

 一瞬、何の話をしているのか思い当たらなかったが、まもなく入学直後の自己紹介のことだと気づいた。

『治せない病気をなくすのが夢です、絶対に方法を見つけます。サイン欲しい人は遠慮なく言ってくださーい』

確かにそう告げたが、周囲に心底興味なさそうな男が、その話を覚えていることに柊は驚いた。

「そんなにおかしな話かな?」

柊はロッカーから飛び降り、中稲のほうに歩み寄る。

「当然だ。要は、機能停止した組織や臓器を復活させるってことだろ? 仕組みも働きも全然違う臓器に、全く同じ方法が適用できるとは思えない。お前の話は、壊れた車を服と同じ要領で修理しようってのと一緒だ」

「それは違う」

柊が中稲の目の前で止まる。そして、相手の顔を覗き込むようにして、こう続けた。

「俺たちってさ、最初、何だった?」

「は?」

気味を悪がるような視線が返ってきた。それでも、柊は黙って回答を待つ。しかし、中稲は一向に疑うような目で黙り込むばかりだったので、渋々解答を告げることにした。

「受精卵って習わなかった?」

「あ。あぁ……」

途端に、中稲の目つきが丸くなった。

「さっき中稲が言ったみたいに、俺たちは仕組みも働きもバラバラな器官をいっぱい持ってる。だけど、そいつらはぜーんぶ受精卵っていう、たった一つの細胞から育ったものだ。受精卵があれば、どの器官だって作ることができる。肝臓がボロボロにされたら、新品を作って交換してやればいい。そんな話がこれに載ってる」

柊が、持っていたプリントを渡した。中稲が受け取る。

「Embryonic Stem Cell」

中稲が、タイトルにある単語を読み上げた。そして、顔を上げた。

「すでにできてるなら、わざわざお前が探す必要はないだろう」

論文が突き返される。柊は、中稲の顔を見たまま答えた。

「それが、そいつにはいろいろ問題があってね。特に倫理面。受精卵っていう命の源を利用することに反対する人が多いらしくて。別にいいじゃんって思うけどね。まぁ、そういうわけだから、ESセルはゴールじゃない」

柊が、突き返された論文を引き取った。その際、中稲の持っていた模試の結果がちらりと見えた。連なる難関大学の名前と、A判定の文字。入学からの半年間、学年トップクラスの成績を維持していることは知っていたが、いざ目の当たりにすると不気味さを覚える。一方、志望先の学部は滅茶苦茶で、医学部系から獣医学、法、政経など、文理すら混合している始末だった。全部の大学・学部を並べて、成績順に上から選んで書いているような有様だ。

「中稲って、何やりたいの?」

わずかに、中稲の表情が曇った。面談でも、同じことを突っ込まれたのかもしれない。

「なれるものになる。問題あるか?」

やや苛立ちがごまかし切れていない声が返ってきた。

「まぁ、いいんじゃね? なりたいものがなくても、なりたいものがある二百人より成績いいんだし。あー、羨ましい。その頭、分けて欲しいよ」

「分けることは難しいが、勉強を見ることぐらいならできるぞ」

「本当に?」

 こうして、柊と中稲の交流は始まった。放課後、教室に残り、中稲から勉強を聞く。休憩中、中稲は聞き手に回ることが多く、柊も興味のある分野が偏っていたため、雑談の内容は必然的にES細胞を始めとする再生医療の話になった。

 三年後、中稲は志望大学に合格した。初めて話したときに、模試の結果の志望校欄の一番上に記載されていた大学・学部だ。柊も、中稲とは別の大学だが医学部に進学することが決まった。

「場所も遠いし、もう会えないかもな」

卒業式の帰り、柊が冗談交じりに言った。

「遠いって、新幹線で三時間だろう? 帰省もしないのか? 同窓会にも出るつもりない?」

「暇があれば帰省はするけど、同窓会は出ないよ。中稲だって、行かないだろ?」

「ああ」

「だったら聞くなよ。ま、いずれにせよ医学部は忙しいって聞くし、お互い頑張って生きような」

「何だそれ」

「蒸発しないようにってことよ。学生生活耐え切って、俺はESセルに代わる何かを発見する。それで、中稲は……何するの?」

「あー……あんまり考えてないな」

中稲が天井を軽く見上げながら、ぼんやりと答える。

「そう。じゃあ、いい感じの医者になれるように頑張ってくれ。ってことで、お達者で!」



「俺と一緒にいたことで、あいつの人生の選択肢に『再生医療』って単語がつきまとうようになった。そのせいで狂ってしまった。AHTセルの奪還は、その償いのつもりだった。結局、叶わなかったわけだが」

 陰りの帯びた目が、空を見上げる。登っていく火の粉や煙でも、夜空に瞬く星や月でもない、何かを捉えようとしていた。

 突然、凉を捕える腕が鬼のものに変わった。拘束する力が急に強まる。

「気晴らしだ。最後に付き合ってくれ。恨むなら、出会ってしまったっていう自分の不運さを恨め」

 柊の両腕が、チューブの中の残滓を絞り出すかのように、凉の腹部を押し潰そうとした。

 痛みと吐き気に襲われ、凉は必死に逃げ出そうと抵抗する。しかし、通用するわけがなかった。息ができず、餌を求める鯉のように口を何度も開閉させる。

 ぼやける視界の中で、焦点が前後に揺れ続ける。やがて、それは単純な明暗の点滅に変わり、殺そうとしてくる男の顔すら認識できなくなった。

 視界全体の明度が下がり、夜空の暗黒と同化していく。

 そのときだった。

「夕凪さんを、放してください」

後方から声がした。凉を絞めていた力が弱まる。

 柊が、身体ごと後ろを向いた。

 左沢だった。焼け残った支柱を杖代わりに、黒焦げの廃材の山から立ち上がっていた。

「生きてたのか。しぶとい奴だ」

柊は面倒そうにそう言い、全身を妖化させた。

「しぶとくなければ、穴の中で五年も、生きてませんよ」

左沢はやつれた声でそう答えただけで、妖化はしなかった。

 怪訝な目を浮かべていた柊の表情が解れる。同時に、安堵とも呆れとも取れる溜息が零れた。

「ガキを生かしてほしけりゃ、力ずくで奪ってみろ。その身体でできるなら、な」

柊は、凉を見せつけるように掲げ、最後に鼻を鳴らして嘲笑した。

 左沢は、ポケットからあるものを取り出した。

「これと、交換で、どうですか」

 十センチにも満たない小物体だった。蔑むように嗤笑(ししょう)していた柊の目が、たちまち大きく見開かれる。

 凉は、大鬼の腕から解放され、屑山の上に落ちた。視界に映っていた左沢の姿とUSBメモリが、大鬼の後姿に隠れる。

 凉は、瞳に深淵を宿しながら、呆然としていた。

 あれほど功績の横取りを嫌っていた左沢が、何故急に応じることにしたのか? 少なくとも、凉の解放が目的ではないはずだ。もし、それだけのためにデータを渡そうとするなら、相当愚鈍な行いをしていることになる。データを受け取った柊が、どのような行動に出るかなど、容易に想像がつくはずだ。

 バチバチと燃える火の音と、ガラクタを踏む音が続いた。時折、小さな爆発が発生して脅かしに掛かるが、凉にはどうでもよくなっていた。

 足音が止まった。

 柊の左手が、部分的に妖化を解かれ、USBメモリを掴んだ。柊の顔に勝ち誇った笑みが浮かび、やがて侮蔑を含んだものに変わる。

 メモリを持つ手と逆側の手が、刀を生成した。鈍い光沢を放つ刀身が、火柱と並立するように掲げられる。その様を捉える左沢の目は、まったく動じない。

 柊は一層の笑みを口元に蓄え、無言のまま刀を振り下ろした。

 金属の甲高い音が鳴った。

 一振りの刀が、宙を回転しながら落下し、火の海に飲み込まれた。

 空になった右手を、柊が唖然と見つめる。しかし直後、その顔は苦悶に歪んだ。

 USBメモリを掴んだ右手が、部分妖化した左沢の手で強く握り潰されていた。

 程なくして、柊の手が解放された。握られていたUSBメモリが、足元に落下する。筐体(きょうたい)は粉砕され、露出した基盤とチップも割れており、もはやメモリとしての機能を失った状態であることは明らかだった。にも関わらず、左沢はさらに足で踏み潰し、とどめを刺した。

 大鬼の姿が、たちまちショックに震える貧弱そうな男性の姿に変わった。

「正気か? 何してくれてんだ……医学界の歴史に残る大発見だぞ?」

「そうでしょうね。ですが、いずれ完成しますよ」

小さいながらも、確信に満ちた声だった。

 左沢が刀を大きく振るった。周囲の瓦礫を切り崩し、炎の雪崩を誘発する。雪崩は左沢と柊に降り掛かり、一瞬にして飲み込んだ。

 なおも瓦礫の山は燃え続けた。上のほうから炭のようなものが零れ落ち、凉の足元に転がってくる。次第にその数は増えていった。

 空中では、風に揺られた軽い燃えカスや灰が漂っていた。その中で、一枚の紙切れが足元にひらひらと舞い落ちた。凉の視線は、自然とその紙切れに吸い込まれていった。どうやら、手書きノートの一ページのようだ。とはいえ、ほとんどが焼失し、残っていた文章も、頭と終わりが欠けていた。

 その筆跡は、どこかで見覚えがあるような、しかし力の入っていない、ふにゃふにゃとした殴り書きだった。

『(欠け)すのはいつも高校ジダイのハナシだ

シ金、〆切、ジッセキのためにカイザンに手をそめるおまえを、おまえとおもいたくなかった

でも、ちゃんとむきあうべきだった

ヒイラギ オレがこのみちにすすんだのは、たんに学力があったからじゃない

おまえとはなしてるうちに、キョウミがわいたからだ

それをつたえ(欠け)』

 文章は、飛び散った火の粉から引火し、あっという間に燃えてしまった。

 遂に、瓦礫の山全体が崩壊した。足場が大きく崩れ、凉の足が残骸の濁流に飲まれる。立ち所に足腰までが沈み、全身が埋もれそうになる――まさにそのとき、はなに救出された。火の手から離れた場所に着地し、下ろされる。

「大丈夫?」

はなに質問されてもなお、凉は焦点の定まらない目で、燃える火の山を見つめていた。

「AHT細胞のデータが……」

「データ?」

そこに、

「凉!」

帝都が妖化を解きながらやってきた。凉は応じるように振り向いたものの、表情をそのままにはなのほうに向き直り、話を続けた。

「失われました。左沢さんもいないし、どうすれば……」

凉が頭を抱えて蹲る。

 帝都は小さく息を吐くと、凉の隣に腰を下ろした。

「封印石はあるんだよな?」

 凉は控えめに頷き、ポケットから封印石を取り出した。

 帝都は安堵の表情を浮かべると、真剣な顔つきに戻り、口を開いた。

「いいか? 凉。今、お前は最強のカードを持っている。天狗も例の二人組も消えた。血盟士団にとっての脅威はもうなくなったんだ。封印石を急いで戻す必要もなくなった。何より、団長も人間だ。凉が友達を救いたいって気持ちを伝えれば、絶対に考えてくれる」

 凉の目に、たちまち光が戻ってくる。死んでいた表情筋も息を吹き返し、子供らしい自然な笑顔が浮かんだ。

 帝都も、真面目な表情をわずかに綻ばせた。

 そんな中だった。はなが、ひっそりと立ち上がり、何も言わずにその場を離れようとした。

「はなさん?」

不審に思った凉が、声を掛ける。しかし、聞こえていないのか、はなは足を止めようとはしなかった。

「華陽、どうした?」

帝都が早足で後を追い、はなの腕を掴む。

「離して」

聞いたことのない、突き放すような冷たい声だった。帝都は大きく目を見開き、しどろもどろになる。

「何で――」

「いいから離して!」

「ごめん。俺、何かした?」

困惑する帝都と、理由を話したがらないはな。そんな二人を遠巻きに眺めながら、凉はあることに思い当たった。

 なかなか止血しなかった頭の傷。麻酔を狙撃する直前に、凉を庇って受けたダメージ。考えたくはなかったが、その可能性は十分にある。いや、その可能性しかない。

「もしかして、はなさん、暴走しそうなんじゃ……」

 帝都の目の色が変わった。

 直後、はなが帝都の手を振り解き、その場で短刀を生成した。

「待て! まだ暴走を止める手段が残ってるかもしれない、だから――」

「待てない」

はなが柄を両手で握り、刃先の向きを変えようとする。

「悪い」

小声で断ってから、帝都ははなの短刀を持つ手を肘で突き落とした。落ちた刀の柄を蹴り、はなから遠ざける。

 はなは頭を押さえながら、その場に蹲った。

 帝都が落ちた短刀を拾う。刃には、覚悟を決めた少年の険しい顔が映し出された。

 凉の瞳は、再び絶望の闇を宿した。ようやく最悪の状況を脱したと思いきや、次に待ち構えていたのはより深刻な状況だった。

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