14. 大鬼の暴走
予定時刻から少し遅れて、トラックや団員と一度もすれ違うことなく備蓄所近辺に到着した。
しかし、問題はここからだった。隣接する病院の屋上に飛び乗り、四人は備蓄所の外の様子を窺った。駐車場のトラックの数は、片手で数えられるほどにまで減っていた。
「凉くんたちが東北大に侵入したときは、どうやったの?」
はなが質問しながら、左沢に錠剤を飲ませた。帝都がすかさず「吐くなよ?」と釘を刺す。
「見張りが二人しかいないところを狙って入った……けど」
「厳しそうだね。そもそも敷地が狭い」
はなはそう言いながらも、侵入経路を探していた。
凉も、備蓄所敷地内を満遍なく見渡した。東北大学でも見たような外観の五階建ての施設本体と、その手前にある敷地全体の半分を占める駐車場が見える。ただし、駐車場として機能しているのは、実際のところ施設の入口周辺だけで、ほとんどは運搬用資材や産業廃棄物置き場と化していた。
「なぁ。化元体倉庫って、多分あれだよな?」
帝都が、物置スペース全体の三割ぐらいを陣取るように設置された巨大コンテナを見ながら言った。誰も返事はしなかったが、それが肯定の意であることは明白だった。
凉はギリギリまで前に出て、柵を掴みながらコンテナの周囲を凝視した。本館内部とは、接続通路を介して繋がっているように見えた。今度は、外部から直接コンテナに入る場所がないかを探す。
突然、背後から何者かに追突された。掴んでいた柵が外れて前に飛び出し、備蓄所の駐車場へと落下する。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
凉は必死に柵を掴んだ。あっという間に地上が迫り、次の瞬間にはダンボールや小さなコンテナの山に直撃した。衝撃でコンテナの山が崩壊し、辺り一面に散乱した。凉は、崩れ落ちた屑と一緒にコンクリートの上を転がり、やがて仰向けに静止した。待ち構えていたように、大鬼の人妖・柊が傍に着地し、凉に馬乗りになった。
頭を目がけて、棍棒が振り上げられた。凉は、とっさに近くに落ちていた小コンテナを拾い、顔前に突き出した。
棍棒がコンテナに触れる前に、柊の身体が凉から離れた。
はなだった。凉が落下してすぐに後を追い、柊を脇から突き飛ばしたのだ。さらに、天狗と狐面が近くに着地し、睨み合った。
駐車場にいた団員たちは、直ちに作業を中止した。一部は中へ報告に向かったが、残りの者は何もできず、その場で持て余していた。
駐車場内の空いたスペースで、はなと柊が対峙し、隅のほうで、妖化した左沢と狐面が互いに牽制し合っていた。遅れて、妖化した帝都が着地し、左沢のフォローに向かおうとしていた。
「帝都さん!」
落下時の痛みが引いた凉が、その場に立ち上がる。
「僕、中の団員に話をつけてきます」
帝都は妖化したまま頷いた。
刹那、狐面の投げた短刀が、凉の爪先に突き刺さった。凉は一瞬慄いたが、険しい顔を浮かべて刀を抜き、刃先を向けながら狐面を睨んだ。
「手を貸してくれるなら、あんたのことは黙っといてやる」
表情は読み取れずとも、雰囲気から動揺しているのが見て取れた。
その様子は、柊からも見られていた。当然、彼も、見す見す寝返らせるつもりはないようだった。一度はなの攻撃を棍棒で止め、狐面に向かってこう叫んだ。
「裏切ったらどうなるか、わかるよな?」
右手に、ライターのようなものが握られる。カチ、という音とともに蓋が開き、中から小さな押しボタンが現れた。
狐面は、凉と柊を何度も交互に見た。明らかに迷っていた。結論を下せなかったのか、俯いて固まり、肩を震わせたかと思うと、突然、周囲のコンテナの山を破壊し始めた。崩れたコンテナの山が、ドミノ倒しで他のコンテナの山を崩していく。それらが重なって大きな波と化し、はなたちを飲み込んだ。
ギリギリ波に捕まる直前で、凉は屋内に滑り込んだ。
廊下には、一つとして人影がなかった。人の気配に警戒しながら、凉は壁を伝って足を進めた。
余計な物音が聞こえないおかげで、団員たちのいる部屋はすぐにわかった。中から会話が聞こえてくる「会議室」の札が掲げられた部屋の前に立つと、躊躇なくドアを開いた。
中の団員たちは、いっせいに身構えた。しかし、凉だと気づくと、険しい顔を保ちながらも警戒態勢を解いた。
「時間がないので単刀直入に言います」
凉は、相手の声を待たずに口を開き、ドアを閉めた。
「蔵王の団員殺しの二人組に、左沢さんが化元体下剤を盛られました。現在、はなさん――三橋華陽さんの化元体錠剤で凌いでいますが、このままでは確実に暴走します。化元体を分けてください、お願いします」
団員たちが顔を見合わせる。場を満たしていた緊張感が、困惑に変わった。
「ん? つまり、例の二人組は別にいたと?」
団員の一人が質問する。
「はい。五年前の人妖事件を起こした落合先生の関係者が一人と、血盟士団の団員が一人です」
「団員? 誰だね?」
先程とは別の、年増の団員が訊ねた。凉は控えめに深呼吸した。
突然、最後に質問をした団員の首が消えた。
足元に何かが落ちた。凉が視線を落とすと、それは質問した男性の生首だった。
凉は慌てて背後を振り向いた。
会議室のドアが開いていた。しかし、誰もいなかった。再度、会議室の中を見ると、団員たちは無惨な姿に変わり果てていた。
視界の中で、動く影が二つあった。死体の一つから刀を引き抜く狐面と、叩き潰したテーブルから棍棒を引き上げる大鬼だった。
凉は顔面蒼白になりながら、廊下側へ一歩ずつ後退した。狐面と大鬼に意識を払いながら、一歩、二歩、三歩と下がり、四歩目で背中を向けた。会議室の出口が目前に迫ったとき、阻むように狐面が目の前に現れた。さらに刃を突きつけられ、凉は会議室の中のほうへと後退りした。
「AHTセルの完成データを寄越せ」
後ろから大鬼が告げる。凉は、頭だけを向けて答えた。
「持ってません」
「嘘つけ!」大鬼が前に出る。
「嘘じゃないです、柊さん」
大鬼の足が一瞬だけ止まった。しかし、すぐにまた歩き出し、まもなく凉の背後についた。妖化を解き、凉のズボンの左ポケットに手を入れる。
暗緑色カバーの手帳が出てきた。柊はゴミを見るように一瞥し、床に投げ捨てようとした。
「それ、中稲さんのです」
手帳を摘まんでいた腕が、ぴたりと静止した。遅れて、柊の視線が凉の頭を見下ろす。凉は、相手の目を直視しながら、こう続けた。
「中稲さんが臨床試験初日からつけてた日記です。亡くなる直前に処分を頼まれたのですが、捨てることができませんでした」
「……は?」
柊は動揺しながら、凉にも聞き取れない声でぶつぶつと何か呟き始めた。
凉の眉尻が下がる。予想はしていたが、やはり中稲とはある程度親しい間柄だったようだ。
「中稲さんは、被験者という立場であっても、AHT細胞の開発に携わることができてよかったと最期におっしゃっていました」
――例え俺たちの身を提供した結果が、一行に満たない文だったとしても、何らかの表やグラフに含まれる一データであっても、将来多くの命を救うことに繋がるなら、それでいい。少なくとも私は、AHTセルの開発に関われたことを誇りに思う。
凉は拳を握り締め、身体ごと振り向いた。
「避難所では失礼なことを言ってしまい、申し訳ありませんでした。僕は、中稲さんの遺してくださった一というデータで、たくさんの命を救いたいです。それはきっと、柊さんも同じだと信じています。ですから――」
柊の左手から、手帳が落下した。コトン、と虚しい音が鳴る。
「あり得ない」
光沢の掛かった革靴が、暗緑色のカバーを踏み潰す。
「お前に物を預ける? AHTセルの実験台になれて満足? それをお前に話す? あり得ない! 中稲はそんなガラじゃねぇ!」
会議室に怒声が響き渡った。
余韻が消え、完全な静寂が訪れる。
なおも凉は、動じることなく話し続けた。
「柊さんですよね? 中稲さんの高校時代のクラスメイトで、万病の治療法を見つけると宣言していた人って」
「黙れ! 二度とその口からその名を出すな!」
柊はそう一蹴し、凉の右ポケットの中を荒くまさぐり始めた。
「あいつは昔から優れていた。真面目で努力家、試験も優秀。着眼点も鋭く、信頼関係を築くのも上手い。そんなあいつが唯一恵まれなかったのが、運だった。どっかの老いぼれに騙されたバカ教授と、カネのことしか頭にない政府、協賛者、そして無知な世間に、あいつのキャリアは滅茶苦茶にされた! AHTセルを作るはずだったのは俺たちだ。こんなガキに作らせたから失敗したんだ!」
凉の瞳が、打ちひしがれたように曇った。同時に、柊の手がポケットの中のものを引っ張り出した。しかしそれは、彼の期待していたものではなかった。
「はぁ?」
柊の幻滅した瞳に、くすんだ赤橙色の石が映った。
突然、出口のほうから何かが倒れる音がした。凉と柊が同時に振り向く。
狐面がうつ伏せになり、痙攣していた。背中の大きな刺し傷から出血があり、じわじわと床にも広がっていた。その奥で、天狗が鞘に刀を収めた。
「しょうもない」
妖化から直った左沢は、大きな溜息を吐くと、狐面の脇腹を軽く蹴り、会議室の中へと進んだ。湿度の伴った濁った目が、柊を見据える。
「他所の成果を奪う理由にしては、あまりに粗末じゃありませんか」
左沢が柊の前で足を止める。
柊は、封印石を持つほうと逆の手を強く握り締め、目の前の人物を軽く見下ろした。その目には、あからさまな嫌悪と軽蔑が満ちていた。
「何も知らねえ外野ほど、好き勝手吠えやがる。実力はあったのに巡り合わせ一つで残せなかった成果を、代わりに取り戻そうとした。それを粗末だと?」
柊の拳が勢いよく飛び出し、左沢の顔面を捉えようとする。しかし、あえなく金属扇で止められた。
柊が、いっそうの軽蔑を湛えて嘲笑した。
「さすがテロリスト様。ハイエナの肩を持つんだな。うちの死んだバカ教授と同じで頭が狂ってやがる」
「ハイエナはそっちでしょう。それらしい理由を並べて正当化していますが、全部他責ですし、夕凪さんと共同する気もない。本当に研究者ですか?」
「人間誰でも割りを食らい続けりゃ、不平不満もぶつけたくなるだろ。それとも何だ、研究者は嘆いちゃいけないってか?」
柊の拳が、扇を殴りつけようとする。
強い力で払い除けられた。
露わになった目が、突き刺すように相手を睨んだ。
「嘆くのは勝手です。ただ――才能の芽を潰すのだけは許せないんですよ」
温度のない瞳に、慄いた柊の慄いた顔が映り込む。しかし、その顔は程なく怒り顔に変わった。
柊が怒りに任せて奇声を上げ、妖化した。
対峙する二つの目は、確かな敵意と静かな殺意を湛えていた。そこには確かに、明確な理性が存在していたが、どの暴走人妖よりも人間離れした「化け物の目」だった。
当の本人たちよりも、おそらく傍から見ている凉が、最も恐怖を抱いていた。しかし、それ以上に、凉はこの状況をどうにかしたいという気持ちが勝っていた。
AHT細胞研究を進める上で、左沢は必要不可欠だ。柊にも、中稲のことで後ろめたさがあるし、研究に加わって欲しいと思っている。中稲もそう望んでいるはずだ。こんなところで、殺し合いをさせるわけにはいかない。
凉は、渇いた口内のわずかな唾を飲み込み、口を開いた。
「やめてください」
両者の間で張り詰めていた空気が、ほんのわずかに弛緩したのが肌感覚でわかった。衝突していた二つの視線は、ほぼ同時に脇へと逸れた。
凉は、柊のほうに向き直り、視界の中央に据えた。
「先程お伝えした中稲さんの話は、全部本当です。手帳のことも、AHT細胞の開発に関われたことへの感想も、最期にあなたの話をしたことも」
ようやく、柊の顔から興奮が引き、おとなしそうな大鬼の顔つきになった。視線が足元の手帳に向けられる。その表情は、一ミリも動くことはなかった。フリーズしているようにも見えたが、完全に放心しているわけでもないようだった。やがて、口が小さく開き、消え入るような声がこう訊ねた。
「高校のクラスメイトの今について、何か言ってたか?」
声の小ささ故に、何を言っているのか理解するのに、少しだけ時間が掛かった。凉は、中稲が「昔の友人」について触れていた前後の会話を思い出す。
――さぁな。
声と合わせて、露骨に白を切る様子が蘇った。
「言及はしてませんでした。ただ――」
直後の中稲の顔が、脳裏を過る。
「後悔しているように見えました」
微動だにしていなかった柊の表情が愕然とした。目を見開き、口を力なく開く。やがて、頭を両手で抱えると、ぷるぷると震えながらその場に蹲った。
「柊さん?」
凉が呼び掛けながら、しゃがみ込む。しかし、柊の様子はおかしくなる一方だった。当人の耳にも届かないであろう声でぶつぶつと何かを呟き出し、それが止まったかと思うと、今度は呼吸が激しくなった。
「柊さん、大丈夫ですか?」
過呼吸のような状態だった。次第に、全身の震えが大きくなっていく。
「柊さん!」
凉が背中をさすろうとする。
「夕凪さん、離れてください」
頭上から、緊迫した面持ちの左沢が早口で告げた。凉が理由を訊く前に、さらに続く。
「前回、MDOを服用した落合先生は、精神的ショックが引き金で暴走しました」
凉は、きょとんとした顔で一瞬固まった。
「暴走?」
その単語を発したのと同時に、怪訝な表情を浮かべた。
次の瞬間、大鬼が雄叫びを上げた。凉は驚きのあまり飛び上がり、その場から離れる。
大鬼は立ち上がると、充血した目を凉に向け、棍棒を振り上げた。
とっさに左沢が部分妖化して間に入り、刀で止めようとした。だが、これまでと比較にならない力だった。呆気なく会議室の隅に吹っ飛ばされ、山積みにされたパイプ椅子と長机に打ちつけられた。
大鬼の視線が凉に移った。
全身から、血の気がさっと引いていくのがわかった。凉は唾を飲み込み、後退する。だが、その倍の速さで大鬼が近づいてきた。ドスン、ドスンと重々しい足音が会議室に響き、床が大きく振動する。
目前まで迫ってくるのは一瞬だった。荒い呼気が凉の髪に掛かる。
凉の大きく開かれた瞳孔に、振り上げられた棍棒の影が映り込んだ。
死を覚悟するように――あるいは恐怖を堪えるように、凉の唇が一の字に結ばれた。突発的に汗が滲み出した掌を、強く握り締める。
突然、背後から強く腕を引かれ、凉の身体が後ろに下がった。直後、棍棒が振り下ろされ、床に穴を穿った。
大鬼が棍棒を床から引き抜こうとする間、凉を助けた何者かが前に飛び出した。
凉の視界いっぱいに、紺色のマントがはためいた。
大鬼の悲鳴が上がった。マントのはためきが収まると同時に、手首を切り落とされた大鬼の両腕が露わになった。
悍ましい光景に、凉の足が竦み、動かなくなる。大鬼の血走った眼と、大きく開かれた口、剥き出しの牙が、視界に入った。その手前で、狐面がこちらを振り向いた。
狐面が近づく。先程のように腕を引かれ、気づいたときには廊下に出ていた。
会議室から、金切り声と地鳴りの混じったような咆哮が聞こえてくる。声に共鳴して、ドアが震えていた。
恐怖で固まっていたのが嘘のように、凉の足は無我夢中で会議室から離れようとしていた。
「浜町さん、ありがとう。助かった」
凉が走りながら礼を言う。
不意に、狐面の足が止まった。腕を掴んでいた手が離れる。
直後、背中から壁に強く叩きつけられた。凉は、反射的にきつく目を閉じる。後頭部をぶつけ、一瞬だけ眉間の皺が濃く刻まれた。
瞼を開くと、目と鼻の先に、刀の刃先が迫っていた。凉は、驚いたように目を見開き、刀から持ち主へと視線を移した。
狐面の顔の部分だけ妖化が解かれ、浜町の顔が露わになった。
「AHT細胞のデータをください、お願いします! 子供たちが死んでしまう!」
――頼む。俺の臓器でも身体でも、何でも使ってくれていい。その代わり、葵を助けてくれ。
半泣きになりながら必死に訴える姿が、幼馴染の父親と重なった。心臓を絞られるような痛みが胸を刺す。
凉は慎重に唾を飲み、口を開いた。
「死んでしまうっていうのは、どういうことですか?」
「仕組まれたんですよ。爆弾みたいなものを」
浜町が興奮したように、早口で告げる。目の前に迫る刃先は、常にぶるぶると震えていた。