13. 敵の目的
はなと帝都が、険しい表情で実験室を見上げる。凉も遅れて、不安げな眼差しを頭上に向けた。狐面は追ってこなかった。
三人は、表情を硬くしたまま顔を下ろした。
「華陽が化元体錠剤を持っているから、目先はそれで凌ぐとしてだ。どこから調達する?」
帝都がそう切り出すと、はなは思い出したように錠剤を取り出した。左沢が、気色悪そうにそれを一瞥する。
「備蓄所があるなら行きたいですが」
話している間に、はなが錠剤を左沢の口に放り込んだ。
左沢が顔を歪ませた。無言で飲み物を求めたが、誰も持っていなかったため、応じることはできなかった(はなと帝都は、端から応じるつもりはなかった)。ついには、
「噛んでも大丈夫です」
とはなに一蹴され、苦々しい表情を浮かべたまま、口を閉ざした。
「一応、千路にメールで訊いておいた。そのうち返事も来ると思う」
帝都が、肩掛けの小カバンにスマホを入れ、さらに続けた。
「しかし、化元体下剤を持ってたとは厄介だな。どうやって手に入れたんだ? 作ったのはこいつらだろ?」
帝都が軽く背中を揺する。左沢はげんなりしていて、無反応だった。
凉は、トラック内での会話を思い出し、返答した。
「AHT細胞完成体のデータと一緒に入っていたみたいです」
「AHT細胞完成体のデータ?」
「完成体?」
帝都とはなが同時に復唱する。
「正確には、『AHT細胞完成体が存在するとわかるもの』ですね。データが残ってたら、作ってると思うので。落合先生が秘密のフォルダに隠してたみたいです。AHT細胞のデータに限らず、化元体下剤など他のものも一緒に」
凉はさらに、会話の内容を思い出そうとした。
突然、重々しい衝撃で地面が大きく揺れた。帝都と凉が、足元を見下ろす。
「凉くん、伏せて!」
はなの叫び声が聞こえた。凉は、言われるがままに慌てて地面に突っ伏した。
頭上から、金属の衝突する音が聞こえた。
凉は頭を押さえながら、恐る恐る顔を上げた。
はなと、一体の大型人妖が、鈍器を交わらせていた。
初めて見る人妖だった。二メートルほどの、ヒトというよりゴリラに近い体格と外観。全身を包む藁細工と、頭に生えた一本角。真っ赤に充血した目が浮かぶその顔は、さながら鬼の形相だ。二本の太い腕で振るわれる鈍色の棍棒は、はなの持つものより一回り大きかった。
はなは、敵を前に押し切ると、凉を連れて素早く距離を取った。大小の二体の人型人妖が、軽く乱れた息を整えながら睨み合う。
「そのメガネ野郎を置いていけ!」
敵の人妖が、やさぐれた男性の声で怒鳴り散らした。帝都は楯突く睨み返し、担いでいた左沢の身体を背中に強く押しつけた。
凉も、険しい視線を向け、口を開いた。
「あんた、狐面の仲間か?」
敵は、質問に答える代わりに妖化を解いた。
その姿を見た瞬間、凉は唖然とした。
皺だらけのストライプシャツを着た、厳格そうな三十路男性。以前、避難所で口論になった相手だった。
その顔は、帝都も覚えていたらしい。
「確かあそこは、一般人専用避難所だったはずだ。何故妖化できる?」
「MDO」
トラック内での会話を思い出した凉が、呟いた。
「なるほどな。下剤があるってことは、そっちもあるわけか」
先程の凉の発言を思い出してか、帝都が納得したように言った。背中の人物も、口を開く。
「やはり、落合先生からデータを引き継いでいるようですね。関係者で間違いなさそうだ」
その言葉が、凉の胸に異様に重く圧し掛かった。
タブレット画面に並んで表示される、研究室のメンバー一覧が思い出される。どれだったのかは不明だが、目の前の男性もあの中に含まれていたはずだ。
「中稲秋晴」の名前とともに。
避難所で争ったときに感じていた憤りが、まるで口の開いた風船のように萎んでいった。胸の中のゆとりが物理的に狭まったように感じ、息が苦しくなっていく。自然と肺から空気が抜けていくというより、四方から圧迫されているような感覚に近かった。
「ごちゃごちゃ言ってないで、とっとと置いてけ!」
男性が再度怒鳴りつけるも、他の三人は応じようとしなかった。はなは毅然と相手を見据えたまま動かず、左沢は目を伏して黙り込み、帝都は険しい表情で後退しながらはなの様子を窺う。そこで、
「少しだけ待ってもらえませんか?」
凉が謙遜気味に切り出した。
帝都たちがいっせいに振り向いた。最後に男性の目が向けられたところで、凉は続けた。
「この人のAHT細胞、もうすぐ寿命なんです。ただ、作り方は残っているので、同じものはすぐに作れると思います。というか、作るつもりです。完成するまで待ってくれませんか?」
男性の目は険しいままだった。それでも凉は、目を逸らすことなく、黙って返事を待ち続けた。
いつまでも無言を貫く男性を見兼ねてか、左沢が溜息を吐いた。
「夕凪さん。奴が欲しいのは、細胞本体ではないと思います」
「え? じゃあ何を?」
凉が質問するも、遮るように男性の溜息が聞こえた。
「何様だ? お前にAHTセルを作らせる気は毛頭ない! データが残ってんなら、そいつを寄越せ!」
「嫌ですよ」即座に左沢が口を挟んだ。「データも功績も、渡すつもりはありません」
たちまち男性の肩が震え出し、顔が赤く染まっていった。ついに、言葉にならない奇声を発し、妖化した。左沢に棍棒を振り上げる。
すかさずはなが間に入り、攻撃を食い止めた。押し合いで男性に打ち勝ち、少しずつ帝都たちから離していく。
「今のうちに逃げるぞ」
帝都がそう言い、凉が頷いた。
そのとき、頭上から影に覆われた。二人は空を見上げる。
凉たちが失念していた、もう一人の敵だった。刀を振り上げ、無防備な帝都を目掛けて頭上から飛び込んでくる。
間一髪で、左沢が右腕を部分妖化させ、刀で不意打ちを堰き止めた。狐面は宙返りしていったん離れると、助走をつけて再び斬りかかった。
攻撃はまたもや左沢の刀に止められた。しかし、阻止する側の刃は、押し切ろうとする側の刃に、じわじわと追いやられそうになっていた。
帝都が、背中から受ける力を両腕両足で踏ん張ろうとするが、徐々に後ろに押されていった。眉間に皺を寄せながら、隣の凉を見る。
「凉、頼む」
凉は頷くことすらできなかった。全身が強張り、震えるだけで言うことを訊かない。
「凉」
先程より余裕を欠いた声が呼び掛ける。動けと心の声で命令するも、やはり身体は動かなかった。きつく言い聞かせようとすると、今度は頭痛と耳鳴りが発生した。
脈動に合わせて視界が歪む。それでもせめて、その場からは逃げまいとすると、腹痛を伴う吐き気が込み上げてきた。
凉の中に、別の危機感が現れた。今起きている身体の異変は、つい先刻失神した時と同じだった。
そう気づいた瞬間、感じていた不調が一気に強まった。もはや立っていることが難しくなり、その場に屈み込む。全体的に暗み掛かり、チカチカと点滅を繰り返していた視界が、次第に黒に飲まれ、意識が遠のいていった。
意識が戻ったとき、凉は妖化したはなに抱きかかえられていた。
「お、目が覚めたね。大丈夫?」
「えっと……すいません」
「あ、落ち着くまでこのままでいいよ」
はなの言葉に甘え、凉はしばらくそのままでいることにした。
凉たちがいたのは、無人の大通りだった。普段なら肌寒く感じるであろう夜風が、今は心地よく感じる。
少しずつ頭の中が冴え渡ってくると、失神する前の状況が蘇った。
狐面と対峙する、帝都と左沢。二人とも、背負い背負われた状態で全力を発揮できず、狐面に追いやられていた。
「帝都さんと左沢さんは?」
凉が焦ったように頭を上げた。すると、少し離れたところから、帝都の声が聞こえてきた。
「暴走されたら困るから無茶すんのやめろ。あと無駄に煽るな。何人戦わなきゃいけなくなる? お前だろ? 血盟士団、さっきの二人。どうしろってんだ? 華陽がいても厳しいぞ?」
「無論、制御はしてますよ。私とて暴走したくないですし」
左沢の声が続く。凉はそっと胸を撫で下ろし、はなにこう告げた。
「大丈夫になりました。すいません、ありがとうございます」
はなが労わるように、凉を下ろした。
「お、凉。目覚めたか」
気づいた帝都が、二人に近づく。凉はお礼がてら、頭を下げた。
「おかげさまで。あれからどうしたんですか?」
「こいつが狐面をぶっ飛ばした」
帝都が背中を揺すりながら答えた。すぐに、左沢が反論した。
「ぶっ飛ばしたのは君でしょう」
「お前が前に出なきゃ、ぶっ飛ばせなかったっつうの」
何に対してなのか、二人がいがみ合う。その横で、はなが化元体錠剤を摘み、左沢に与えようとしていた。途端に、左沢が顔一面に不快感を露わにした。
「それ、どうにかならないんですか?」
「甘い飲み物なら柑橘系が一番マシになります。とは言っても、他より少しマシというレベルです」
はなが無表情で答えた。
「君は何で飲んでるんです?」
「青汁に落ち着きました」
左沢の瞳から光が消えた。子気味良かったのか、帝都が鼻を鳴らして笑う。
「多少不味い薬程度、大人なら黙って飲め。な、凉」
しかし、返事はなかった。
「凉?」
帝都は周囲を見回す。同時に、はなが後方へ駆け出した。その先に、凉がいた。上の空になりながら、とぼとぼと歩いていた。
「凉くん!」
はなが呼び掛けると、ようやく凉は我に返った。焦点の合わない目で俯いていた顔に、生気が戻る。
「大丈夫?」
はなは隣に並ぶと、凉に歩調を合わせた。
「すいません」
「どうしたの? 何か思うことでもあった?」
凉は、眉尻を下げ、上を向いた。
「何か、足引っ張ってばかりだなって」
つい数分前の、狐面との戦闘を思い出す。身動きが取れず、追い詰められていく帝都に助けを求められたが、何もできずに失神した。結局、暴走リスクのため出力を抑えていた左沢が実力を行使し、両手の空いた帝都が加勢することで打開できたようだが、左沢の暴走リスクが上昇し、凉が気絶したことではなたちに余計な心配と手間を掛けさせてしまった。
凉が肩を落としていると、はなは目の高さを合わせ、寄り添うように笑い掛けた。
「謝ることじゃないよ? 人妖と戦ったり、励化線を戻したりするのは血盟士団の役目。凉くんは血盟士団じゃなくて、協力してもらってる立場。むしろ、凉くんを守るのが私たちの役目。だから、後ろめたく思わなくて大丈夫だよ」
はなの言葉は、単なる慰めではなく、歴とした事実なのだろう。それでも、凉の心は晴れなかった。
先程の狐面との戦闘に限らず、もし自分がいなかったら――そこにいたのが自分ではなかったら――もっとうまくいっただろうと思うことがあまりに多かった。
全ての元凶、AHT細胞臨床試験の失敗。避難所で突っ掛かってきたストライプシャツの男性に、何も知らず激昂したこと。嫉妬と未熟な推理ではなを血盟士団に売ったこと。AHT細胞の研究のために東北に来たものの、危険だという理由で帰ろうとする前田たちに何も言えなかったこと。血盟士団員に捕まったとき、身代わりになってくれた葵を見捨ててしまったこと。左沢が化元体下剤を盛られた状態であるにも関わらず、狐面の襲撃時に何もできなかったこと。過ぎる己の無力さに、もはや嘆くことすらできなかった。
突然、脇から軽くぶつかられた。凉は小さく悲鳴を上げ、正気に戻る。
帝都だった。肘で軽く小突き、励ますようにこう告げた。
「あんまり思い詰めんなよ? 凉が思ってるほど、迷惑は掛かっちゃいないから」
それから、はなのほうに向き直った。
「千路から化元体倉庫についての返事が来た。ここから一番近いのは最東端、宮城野区の第二備蓄所だ。俺らが到着する時間帯と搬出時間が被って人が減る。あと、少量かもしれないけど化元体を作ることもできる」
「そこにしよう。凉くんと左沢さんはどうです?」
はなが残る二人に意見を仰いだ。どちらも浮かない表情をしていた。
「どうした? 何か問題でもあんのか?」
帝都が訊ねると、凉が遠慮がちに口を開いた。
「いや……その、前に左沢さんも言ってたけど、千路さんって信用できるの?」
――この件、本当にお前は関わっていないんだな? 信じるぞ?
――組織にいる以上、私情を持ち込むような真似はしません。
左沢に攫われる直前の、田村と千路の会話が脳裏を過った。出会ったときから掴みどころのない人物ではあったものの、味方でいるときは安心感があった。しかし、グレーゾーンに立たれた今、恐ろしい存在に覆る。
「私たちは信用してる――けど、それだけじゃ納得できないよね」
はなが、説得の材料を捻り出そうと考え込む。そこに、
「五年前の事件後、閉じ込められた華陽を助けに行くって真っ先に言い出したのは千路だ」
帝都がぽつりと告げた。三人の視線がいっせいに集まる。
「あれ? 帝都くんじゃなかったんだ?」
意外にも、一番驚いていたのははなだった。帝都はきまり悪そうに目を伏せた。
「俺は例の作戦に反対し続けただけだった。結局、代案も出せなかったから、相手にしてもらえなかった。千路も、会議中は団の意見に合わせていた。だけど、この時すでに救出することは決めていたみたいだ。気づかねぇっつうの。だから、華陽が助かったのは俺じゃなくて、千路のおかげだ」
決して不幸話をしているわけではないのに、口ぶりは重々しかった。それこそ、かつて憧れていた故人の話をしていたときのようだった。その口調から変わらないまま、さらに話が続く。
「名前のこと、進学先。いくつか制限はあったが、五年間団に存在が漏れることなく、華陽は他の人と大差ない生活を送ることができた。ちょっとやそっとの努力でできることじゃねぇだろ。そんな奴が、今更裏切ると思うか?」
反論はなかった。はなが微笑を湛え、無言で頷く。
かくして、四人は第二化元体備蓄所へ向かうことになった。
先頭を歩く帝都が、険しい目でスマホを睨む。その背中では、左沢がタブレットを凝視していた。
まもなく、スマホとタブレットが並べられた。小さいほうに映る中稲研究室の所属者一覧と、大きいほうに映る避難民リスト。その中に、共通する名前が一つだけあった。
柊碇星。
はなが化元体錠剤をシートから取り出し、道中で調達したグレープフルーツジュースとともに左沢の口の中へ押し込んだ。その隣で、帝都はスマホを閉じた。
「さっきの大鬼、柊って奴で間違いなさそうだな。ってことは、こいつと狐面が蔵王で団員たちを殺したってわけか。左沢からAHT細胞を発掘するために」
ようやく、今回の大規模人妖暴走事件の元凶となった真犯人と、その動機が明らかになった。にも関わらず、帝都の表情はどこか冴えなかった。それは、すぐ後ろを歩く凉も同じだった。
「浜町さん、何でこんなことに手を貸したんでしょう?」
心なしか、夜空の月がくすんで見え、周囲の星がくっきりとしていた。
「俺も同じ点に引っ掛かっていた。第一に、柊との接点がわからない。第二に、確かにあの人は断れない性格ではあるけど、モラルは至って正常だ。断れないってだけで、こんな狂った真似に協力するとは思えない」
「理由があるなら、保護している子供たちの中にAHT細胞が必要な子がいるとかかな?」
凉が思いついたことを挙げる。帝都は俯きながら考え込んだ。
「いや。難病の子がいるって話は聞いたことがない」
「やっぱり、本人から直接訊くしかないか」
もし動機がわかれば、それを利用して浜町を寝返らせることができるかもしれない。凉はそんな期待を抱いたが、程なく罪悪感に昇華された。
――団長が指名したのは、パシリとしてちょうどいいからだ。
悲しみを帯びた声が、自責の念という心の傷に塩を塗した。
「最低だ」
口からぽつりと声が零れる。
その声を、トラックの走行音が掻き消した。一瞬で目の前の大通りを横切り、遠ざかっていく。
凉が排気ガスにむせ返る横で、はなと帝都がトラックの走ってきた方角を見た。
「第二化元体備蓄所だ」
帝都が、スマホの地図と見比べながら告げた。
小さめな大学のキャンパスだった。駐車場で動く点々とした明かりは、トラックだろう。千路からの連絡通り、化元体の搬出時刻になったようだ。
大通りをまっすぐ行けば、到着は待ったなしだ。ただし、何台ものトラックとすれ違う必要が出てくる。到着前に見つかってしまえば、化元体の入手が困難になる可能性が高い。力業で団員を制圧するにしても、左沢は化元体を温存するため妖化を渋るだろうし、はなと帝都は戦いを望まないだろう。無論、凉も同じだ。
結局、化元体備蓄所には遠回りをして近づくことになった。