12. 狐面の素顔
三人は大型トラックに乗り込み、発車した。助手席に左沢が座り、後ろの仮眠ベッドの上で凉が正座する。
助手席の足元では、浜町が背負っていた大きな黒いリュックがスペースを占領していた。左沢がタブレットを見ながら、時折窮屈そうに睨んでいた。
「荷物が多くて、すいません」
浜町がおどおどしながら小声で言う。
「ずいぶんと大荷物ですね。何を入れてるんですか?」
左沢が不快そうに目を細める。足回りが窮屈なことへの嫌味とも、狐面が入っていることを疑う声とも取れるものだった。
「さ、災害用です。子供の頃、震災を経験したもので」
「はぁ、なるほど」
納得したのかは定かではないが、左沢はそれ以上詮索しようとはしなかった。
凉の視線は、巨大なリュックから左沢の手元のタブレットに移った。意外にも、そこに表示されていたのは、どこかの研究室の紹介ページだった。
凉の視線に気づいた左沢が、軽く振り向き、開口した。
「疑問だったんですよ。五年前に作ったAHT細胞の存在について、君は知らなかった。団や政府がそこだけ抜き取ってデータを渡したとは考えにくいので、おそらく見つからなかったのでしょう。しかし、かの二人組は知っていた」
凉の団員殺し二人の目的が、左沢のAHT細胞であるという推測は正しかったようだ。そうなると、AHT細胞の完成体の存在を仄めかす資料は国側がアクセスできない・もしくは発見しにくい場所にありながら、赤の他人に発掘されたことになる。
「そこで疑ったのが、落合先生が研究室内の隠しフォルダに仕組んだという線です。彼、電子化した実験ノートや他のデータをよく保存していましたから」
「他のデータ?」
「例えば、AHT細胞の前身となるMDO――ヒトを一時的に人妖に替える化元体です。バージョンツーは励化線にも依存しなかったと思います。それから、副産物」
「副産物」
「AHT細胞の開発には直接関係のないものです。例えば、化元体下剤とか」
「化元体下剤」
突然、トラックが急停止した。凉が、左沢の椅子に頭をぶつける。
「いってぇ……」
「ご、ごめんなさい! 何か横切ったように見えたもので」
浜町がしどろもどろに謝罪した。
凉は身体を起こし、自分の頭に触れた。
「や、怪我はないので大丈夫です」
「それならよかった」
浜町はどこか大袈裟な安堵の息を吐くと、まもなくアクセルを踏み込んだ。トラックが勢いよく発進した。それから徐々に減速し、時速八〇キロ前後に落ち着いた。
「確か、毒みたいな奴ですよね?」
補足しようとしていた左沢に先んじて、凉が言った。
「おや、ご存知でしたか」
「帝都さんが言っていました。おっさんが盛られて死に掛けたって」
「あの男を殺すために作ったようなものですから。機序を簡単に説明すると、化元体と結合して暴走再生に近い現象を誘発させます。ただ、そこまで開発に注力したわけではないので、半端な出来になりました……だいぶ話が逸れてしまいましたね」
「ごめんなさい、僕が脱線させました。それで今、落合先生のいた研究室を調べているということですね」
左沢が画面を操作し、所属研究員一覧に飛んだ。凉も一緒に目を通した。
「知ってる名前、ありますか?」
左沢が訊ねる。凉は画面のスクロールに合わせて、無言で視線を下に移動させた。
「あ」
見覚えのある名前を見つけ、思わず声が漏れた。
「ありましたか」
左沢が期待の声を上げる。
凉は頷いた。しかし、たちまちその表情は曇り始めた。
「ただ――その人、今回の臨床試験中に亡くなっています」
伏せられた目が、タブレットに映る「中稲秋晴」の名前を捉えた。
たちまちやるせなさが沸き起こり、凉は胸が押し潰されそうになった。同僚が国を揺るがす大事件を起こしたことで割を食い、理不尽ながらもAHT細胞研究の第一線から滑落する。代わりに台頭したのは、自らの研究者人生と同じだけの「人生」を過ごした少年だった。かつての協賛者に加え、多くの企業や個人が少年の研究グループに期待を寄せる。自分たちには目もくれず。ついには悲運にも病に罹り、被験者として研究に参加するが、細胞の欠陥により死亡する。
二か月間、彼はどんな思いを抱いていたのだろう。どんな目で凉を見ていたのだろう。態度が軟化してからも、少なからず嫉妬や不条理さを感じていたはずだ。それに――。
「もし中稲さんがAHT細胞を作っていたら、みんな助かっていたかもしれない」
胸が棘で締めつけられるように痛み出した。強烈な罪悪感と自己嫌悪に思考を蝕まれ、視界がぼやける。中稲の名前も例に漏れずに滲んで見えたが、脳内で補正が掛かっているのか、そこだけはっきりとして見えた。
「夕凪くん」
突然の呼び声に、凉は我に返った。
車が止まり、前から浜町がペットボトルのジュースを差し出していた。その隣で、左沢が心配そうにこちらを見ている。その目には、薄っすらと恐怖に近い感情が混じっていた。
以前同様、無意識に「ごめんなさい」と呟いていたようだった。凉は徐に口を閉じた。
浜町が、少しだけ安心したように口を開いた。
「えっと、その、これ……この前と同じで口に合わないかもだけど、よかったら飲んで」
「すいません」
凉は頭を下げ、オレンジジュースを受け取った。相当の甘さを覚悟しながら開封し、口の中に含む。記憶に残っていたよりも、遥かに強烈な甘味が味覚を破壊した。
「甘っ」
軽く咳き込みつつも、残りもあっという間に飲み干す。
浜町はほっとして前に向き直り、膝に載せたリュックから、今度はペットボトルのお茶を取り出した。
「よろしければ、天狗さんも」
「それはどうも」
左沢はお茶を受け取り、飲み始めた。
浜町はリュックサックを助手席の足元に戻し、車を発進させた。
左沢が半分飲み終えたところで、ペットボトルのキャップを閉め、軽く凉のほうを振り向きながら、こう言った。
「反証不能な仮定ほどしょうもないものはありません。反省や後悔は、次に活かすためにしてください」
先程の発言に対してだろう。落ち込んでいるときに掛けられるにしては、なかなか厳しい言葉ではあるものの、今の凉には、かえって下手な慰めよりも救いになった。
「すいません。気をつけます」
「話を戻して申し訳ありませんが、他に覚えのある名前はありませんでしたか?」
「いいえ。なかったと思います」
凉は答えてから、再度端末の画面を見た。やはり知っている名前はなかった。
「そうですか」
会話がなくなり、車内が静まり返った。
フロントガラスは、寝静まった夜の街並みをひたすら映し出していた。時折、避難所らしき明かりが見えたが、どれも空に浮かぶ月には勝らなかった。
なだらかに揺れるトラックに合わせて、凉のポケットから暗緑色のものが顔を出した。中稲の手帳だった。
凉は、初めて手帳の表紙をめくることにした。
臨床試験開始日の三月五日から、毎日日付と数行のコメントが記載されていた。パラパラと流し読みを始めようとした矢先、自分に言及するコメントを見つける。
『三月六日
例の天才少年とやらと初めて会った。
私の世話役になったらしい。事情を知る大人に押しつけられたのだろう、かわいそうに。
とはいえ、子供特権で全部横取りした相手によくしてやるつもりはない。性格がよければ多少は手加減したかもしれないが、ヤツは卑屈で生意気だ。
この試験で失敗して、挫折を学んだほうがいい。』
いきなり辛辣な内容に、思わず苦笑いが零れる。さらにページをめくった。
『三月八日
調子がいいから散歩に出たら、マスコミの連中がうじゃうじゃいて気分が台無しになった。
たまたま天才少年がインタビューを受けているところに出くわした。将来の目標を聞かれて「研究をずっと続けたい」と答えていた。マスコミの奴らは全員困惑していた。
私か? ここに来て一番笑ったよ。どうやら大きな勘違いをしていたようだ。もちろん、世間の連中とは正反対の意味で。
今日は本当に調子がいい。』
一週間分の日記を読み終える前に、トラックのエンジンが止まった。目的地である仙台市内の某研究施設に到着したようだ。
凉と左沢を降ろすや否や、トラックはもと来た道を引き返していった。
実験室に定めた三階の一室は、東北大学ほど機材や試薬が充実していなかった。それもそのはず、東北大学と違って、ここではAHT細胞の研究が行われていない。設備がないのも当然だ。
「大学に置いてきたもの、帝都さんたちが持ってきてくれないかな?」
凉がぽつりと零す。とはいえ、帝都との連絡手段もなければ、持ち掛けられた取引も、回答を有耶無耶にしたまま、次の約束もなく別れてしまった。凉たちが大学にいたことは千路伝いで知ったのだろうが、今度の場所は血盟士団も把握していない。唯一知っているのは浜町だけだ。帝都たちに伝わるまで時間差が生じる。仮にこの場所を特定できたとして、すぐに駆けつけてくれるとは限らない。
さらに、左沢が追い打ちの一言を告げる。
「待っている余裕はないかもしれませんね」
いずれ、浜町から報告を受けた血盟士団がやってくるだろう。その集団を左沢が止めたとしても、大学に残したデータや資料が没収されれば、取り返すのも面倒だ。
「備品の確認が済んだら、取りに行ってきます。夕凪さんは留守番をお願いします」
「わかりました」
「ところで、体調のほうは大丈夫ですか?」
凉は虚を突かれたように、しばらく瞬きを繰り返した。それから程なくして、東北大学到着直後に失神したことを思い出す。
「問題ありません。倒れたことも、すっかり忘れてました」
「それはよかったです。無理はしないでください」
「お気遣いありがとうございます」
凉は笑顔でそう言い、ふと左沢に抱いている奇妙な印象に気がついた。
血盟士団本拠地から拉致されて間もないが、それ以前に見ていた冷酷非道な男の面影がどうも感じられなくなっていた。蔵王温泉で見た狂気が夢だったのではないかと疑いたくほどに――あるいは、人妖人格の攻撃性に駆られたせいだと言われれば納得できてしまうほど――かつて、大規模人妖災害を引き起こした人物とは思えなくなっていた。
「左沢さんって、何で五年前の事件を起こしたんですか?」
「成果が欲しかったからです」
即答だった。さらに続くかのように思われたが、左沢は険しい表情のまま悩みあぐねるように黙り込んでしまった。
しばらくして、先程の質問など忘れたかのように口を開いた。
「夕凪さんは、AHT細胞作成後はどうするつもりですか?」
「ああ……」
凉は虚空を見上げながら、考えた。
「プロジェクトに参加させてもらっている身なので、しばらくは前田先生のところにいると思います。AHT細胞の研究環境としては、現時点でおそらく世界一優れている場所ですから、もっともっとAHT細胞のいいところも悪いところも知って、いずれ一人前の研究者として独立したいです」
左沢の顔に、嘲笑――にしては暖かい微笑が浮かんだ。それでも、
「そうですか」
返ってきたのは、たった一言だけだった。少々面白くないと感じた凉は、冗談交じりにこう訊ねた。
「もしかして、僕が左沢さんの下につかないこと、不満に思ってます?」
「何、不満に思われたいんですか?」左沢が目を丸くした。
「多少は」
凉が口先を尖らせながら答えると、
「まぁ、もし不満だったら、斬っちゃうかもしれないですね」
左沢は腕を組み、冗談なのか本気なのかわからない口調でそう返した。
「え、前田先生をですか? やめてくださいよ」
凉が急に慌て出すと、面白そうな失笑が返ってきた。冗談だとわかり、凉が安堵の息を吐く。左沢も小さく息を吐き、改めて先程の質問に回答した。
「環境で場所を選ぶのは、何も間違っていませんよ。前田先生の元で研鑽を積むというのは、私も賛成です。ただ、ないとは思いますが、もし前田先生の元で続けるのが厳しくなったときは言ってください。そのとき、どういう状態になっているか予想し兼ねますが」
今度は本音のようだ。しかし――だからこそ、先程抱いた「奇妙な印象」がぶり返した。
「それって、僕が主軸の話じゃないですか」
以前から薄々感じていたが、左沢は自身よりも、凉の面倒を見ることを優先しがちだ。言うなれば、研究者というよりも教育者の側面が強い。そんな人物が、はたして成果を目的として五年前のような事件を起こすだろうか?
「本当に、事件を起こしたのって、実績のためだったんですか?」
左沢の顔色が、たちまち青ざめていった。吐き気を催したのか、唐突に口元を押さえ、その場で背中を丸める。
トラウマでも思い出させてしまったかもしれないと、凉は狼狽しながらも謝罪しようと口を開き掛けた。
次の瞬間、左沢の口元を抑える手の間から、血がボタボタと滴り落ちた。
「え?」
凉の頭の中は、無数の疑問詞に埋め尽くされ、停止した。
左沢は血を吐き続けながら、部屋の隅にあった試験管を台座ごと持ってきた。そのうちの一本に、浜町から貰ったお茶を注いだ。勢いよく流れ出し、一気に試験管の半分を満たした。キャップを閉めて傍に置くと、今度は室内にあったカッターで左手親指を軽く切り、出た血を試験管の中に垂らした。
液体は黒々とした沈殿を生じた。
「化元体下剤――」
我に返った凉が呟いた。左沢が振り向く。
「夕凪さんは何ともありませんか?」
凉は、全身の各所に意識を這わせた。今のところ、痛みや違和感は見つからない。
「はい」
「よかったです」
左沢は安堵の息を吐いたが、その先で再び血の塊を吐き出した。
「左沢さん、あの、その、ここに化元体ってないんでしょうか?」
左沢は口元を白衣の袖で拭いながら、首を横に振った。落ち着いたところで口を開く。
「備蓄所でも避難所でもないですから」
「それじゃあ、早く探しに行きましょう」
凉は呼び掛けると、出口のほうに視線をやった。
実験室の扉が、そろそろと開くのが見えた。
廊下から、狐面が足音一つ立てずに入ってきた。静かに扉を閉め、普段より一段と鷹揚な歩きで近づいてくる。
凉は、助けを求めるように左沢に目をやった。敵を睨みこそしていたが、妖化はしていなかった。否、渋っているのだ。妖化時は、体内の化元体消費量が増加する。ただでさえ化元体下剤で枯らされたところを、わざわざ自ら追い打ちを掛ける真似はしないはずだ。狐面に見える余裕は、それを見越した故か。
狐面が迫ってきたところで、左沢は右手のみ部分妖化し、刀を生成した。刃先は蛍光灯のライトを反射し、狐面に向けられた。
左沢は刀で威嚇しながら、机を支えに凉のほうに移動した。狐面は何食わぬ顔でその様子を見届け、前進を続ける。
凉は、視界の中央に狐面を据え、警戒していた。足が震えるせいで、視界は小刻みに揺れていた。
不意に、ポケットに何かを捻じ込まれた。驚いた凉が、小さく飛び跳ね、隣を見る。左沢だった。狐面にばかり意識を集中させていて、隣まで来ていることに気づかなかった。すぐに狐面のほうに向き直り、ポケットに意識を分散させる。形状と大きさから、その正体は容易に想像できた。軽く目を見開き、再度隣を見る。
左沢は、こちらに見向きもせず、狐面を凝視していた。ただし、左手だけは動いており、白衣のポケットから今度はUSBメモリを取り出した。おそらく封印石同様、凉にこっそり忍ばせようとしていた。
突如、狐面が走り出した。とっさに凉が脇に飛び込み、左沢が左手を引っ込める。
二本の刀が交わり、火花を散らした。
攻撃を防ごうとする左沢の必死な目と、冷静に見定めようとする狐面の目、二つの視線がぶつかり合う。粛然としていながら、苛烈な争いだった。凉はその様を横で見ていながら、介入することもできず、再び二の足を踏んでいた。
一瞬だけ、左沢と目が合った。その目が、「逃げろ」とでも言うように部屋の出口を指した。
凉は、ポケットに手を入れた。封印石が指先に触れる。微かに残った温もりが、決断をますます鈍らせた。
そのとき、窓ガラスが割れるけたたましい音が鳴り響いた。同時に、外からフードを目深く被った小柄な人影が飛び込んでくる。
気づいた狐面が、すぐさま左沢から離れた。
侵入者は迷わず狐面を追った。走る間にフードが取れ、あどけなさが残りつつも凛々しい女性の顔が露わになった。
戦闘から解放された左沢が、その場に崩れ落ちた。凉が駆け寄ろうとしたが、先に遅れてやってきたもう一人の侵入者が抱え止めた。
相手の顔を見るや、凉は口早にこう告げた。
「左沢さんが化元体下剤を盛られました、助けてください。このままだと死んじゃいます。帝都さんたちの敵かもしれないことはわかってます、でも!」
「敵も何も、こいつに暴走されたら困る」
帝都は左沢を背中に担いで立ち上がると、わずかに目を伏せながらこう質問した。
「トラックを運転してたの、浜町さんで違いないな?」
凉は頷いた。帝都は険しい表情を浮かべ、悔しそうに舌打ちした。
「千路から連絡は来ていない。ここのことはまだ団に伝わってないと思う」
帝都の視線が、実験室の中央を向いた。凉がその視線を追う。
二人の視界に、はなの攻撃から身を守ろうとする狐面の姿が映った。
浜町が狐面である可能性は、確かに疑っていた。しかし、いざ事実だと突きつけられると、素直に受け止めることはできなかった。凉は、必死に否定材料を探そうとしたが、出てくるのは浜町であることを裏づける根拠ばかりだった。
東北大学での襲撃。階段で転び、隙を晒した凉が間一髪で逃げ切ることができた理由。狐面が見せた一瞬の停滞だった。あれは、凉を殺すことを躊躇した表れではないだろうか? 移動中のトラック内での会話。化元体下剤の話題になった瞬間、トラックが急停止した。浜町は「道路を何かが横切った」と弁明していたが、明らかに化元体下剤というワードに動揺していなかったか? そのときに貰ったお茶が、化元体下剤を含んでいたということは? もはや、浜町以外を狐面だと仕立てるほうが無理があった。
凉は肩を落とし、俯いた。沈んだ顔が、薄汚れた青藍色の床に反射して映し出される。
突然、身体が浮く感覚がした。
振り向くと、凛々しい表情で前を見据えるはなの顔があった。担がれるような形で抱えられているようだ。次の瞬間には、割れた窓ガラスが目の前に迫り、浮遊感を覚えた。
はなの肩を伝い、身体に地面からずしりとした衝撃が加わった。それから間もなくして、凉の身体がゆっくりと下ろされた。