11. 最悪の再会
「もしもし、寝ているところ申し訳ないんだけど」
男性の声で、凉は目を覚ました。見ると、守衛の片方が、身動きを取れない状態の中、必死に身をよじらせていた。
「トイレに行きたいんだけど、これ解いてくれない?」
凉は重い上体を起こし、ソファから降りようとした。手をついたところから、生温い水気が滲み出た。寝汗だった。朧げに悪夢を見た記憶はあったが、過去にもっと強烈なものを見たときよりも酷い量だった。
ソファを降り、濡れた箇所を軽く腕で拭うと、すぐに男性の紐を解きに取り掛かった。念のためトイレまで付き添い、用が済むまで廊下で待つ。
水の流れる音から程なくして、男性がすっきりした表情で帰ってきた。
「助かったよ。ありがとう」
何事もなく休憩室まで戻ると、男性はおとなしく丸机の側に行き、解放する前の体勢を作った。楽にすればいいのにと思いながらも、凉は黙ったまま男性を視線で追っていると、丸机の上にある一人分の弁当とお茶が見えた。おそらく気づかなかっただけで、先程もあったかもしれない。凉の分に違いなかったが、あいにく食欲がなかったため、守衛二人に譲ることにした。もう一人の拘束も解き、実験室へ向かう。
「戻りました」
自分でもわかる、張りのない声だった。
左沢は分析機器の隣の台で資料を読み進めていたが、没頭しているのか、凉に気づいていない様子だった。凉が向かいの席に腰を下ろしてもなお、無反応だった。
凉が再度呼び掛けようと口を開いたのと同時に、左沢の資料をめくる手が止まり、奥の――凉の目の前に置かれたいちご練乳オレの紙パックを取ろうとする。そこで初めて凉の存在に気づき、顔を上げた。
「あぁ……おかえり。ゆっくり休めましたかね? まぁ、ただ、半日だけで全快ってことはないでしょうから、また優れなくなったら遠慮なく休んでください」
左沢は飲み物を取るより先に、手元の資料をいくつかまとめ、ノートパソコンと一緒に凉に手渡した。
凉は受け取ろうと手を伸ばしたが、何故か腕が震えた。意思に反した症状を呈する自らの身体に、思わず荒い溜息が鼻から零れた。受け取ったものを机に置き、ノートパソコンを立ち上げると、手の震えはなくなった。
「勝手で申し訳ありませんが、個人フォルダの中を拝見させていただきました。作成中のプレゼン資料と論文があったので、気になった点をコメントしました。」
ログイン中に、衝撃的な言葉が発せられた。凉が目を見開きながら、顔を上げる。
「マジですか?」
動揺で打ち間違えたのか、パソコンの画面には「パスワードが間違っています」と表示されていた。
「はい。コメントしたものは、元のファイルとは別にしてあります。不要でしたら、そのまま削除していただいて構いません」
「ありがとうございます」
感謝とこそばゆさを覚えながら、凉は個人フォルダを開いた。現在進行形で作成中のファイルを置いた「みかん」フォルダ直下に、「Commented」というフォルダが増えていた。さっそく中身を確認しようとしたが、
「車の中でもお聞きしましたが、データはここにあるもので全部ですか?」
そう訊ねられたので、パソコン画面から目を外し、資料を手に取った。ぺらぺらとめくりながら、軽く目を通す。最後まで見終わったところで、
「はい。全部だと思います」
机の上で書類を立て、トントンと端を揃えた。
「そうですか」
いまいち釈然としていないような声が返ってくる。
「やっぱり、少ないですか? 五年分にしては」
「いえ、そういう意味ではないです」
凉がさらに理由を深掘りしようとすると、左沢はズボンのポケットをまさぐり始めた。中から、黒いUSBメモリが取り出された。
「紙が足りなくて印刷できませんでしたが、これに入っているのが、五年前に落合先生と作成した最終版です」
左沢はメモリのキャップを外し、凉に手渡した。
凉は受け取ったメモリをまじまじと見つめると、USBメモリをノートパソコンに差し込んだ。通知からメモリ内のデータに飛び、日付の名前のPDFファイルを開く。
レポートというより、個人のメモ書きに近い文書だった。それでも、内容を理解するには十分だった。
「……は?」
無意識に唖然とした声が漏れた。タッチパッドに触れる指は小さく震え、腕にはたちまち鳥肌が立っていく。大きく見開かれた目が、最終ページの底部を捉えたところで、凉は顔を上げた。
「完成体? 五年前に、すでにできていたってことですか?」
「じっくり検証することはできませんでしたが」
左沢はそう答え、自らの身体に目を落とした。
「ただ、こいつに関しては五年もフル稼働してるので、寿命と考えるべきでしょう」
左沢の話を聞き流しながら、凉は前田たちを交えたここに来る途中での会話を思い出す。
――わかりました。東北大まで送ってくだされば、帰っていただいて結構です。そのときに、持ってきたものの一部は残していただけると助かります。
――はぁ? 随分と都合のいい注文だな。当然、我々の研究でも使うものだ。
――人生の命題と言うからには、年単位の研究を想定しているものだと思ったのですが。
左沢はAHT細胞の完成目途が立っているのではないかという予感は正しかった。検証は不十分なようだが、移植した本人が飲食抜きで五年も生き長らえていることを踏まえると、かなり期待は持てそうだ。
しばらく影が差していた凉の顔に、晴れ間が覗いた。
「ありがとうございました」
ノートパソコンからUSBメモリを抜き、左沢に手渡そうとする。
突如、雷が落ちたような衝撃が脳内を駆け抜けた。USBメモリを握った手が固まる。
――彼らは、私が妖化できる状態だと不都合なので、早く石を取り戻したいと思っています。
――団が私を殺そうとしたら阻止すると思います。
今まで謎に包まれていた、蔵王の団員殺しの動機。過去の左沢の発言と照らし合わせて、一つの仮説が生まれる。
「蔵王の護衛を殺した二人組の狙いって、AHT細胞の完成体?」
無回答だった。不審に思い、顔を上げる。
左沢もまた、何かに思い至ったように、眉を顰めていた。
そのとき、階下が急に騒がしくなった。凉たちの目が、自然と床のほうに落ちる。
「収容所から人妖でも逃げたんでしょうか?」左沢が軽い口調で言う。
「それって不味くないですか?」
「数も少ないでしょうし、大したことじゃありません」
それが果たして、真の意味で言っているのか、はたまたこの場にいるのが血盟士団(=敵)だけだから問題ないと言っているのかは不明だ。
「火事とかガス漏れなら厄介ですね」
左沢が煩わしそうに呟くと、凉の顔から血の気が引いた。
「確認してきます」
左沢がさっそく席を立とうとするも、
「大丈夫です。警報機も鳴ってないし」
凉は慌てて引き止めた。左沢は足を止めたものの、不安そうに階下と廊下を見ていた。
直後、研究室の入口のほうから大きな音がした。二人が振り向くと、大破したドアが内側へと倒れるのが見えた。破壊された箇所の断片が床に散らばり、本体が倒れたときの衝撃でさらに内側まで飛び散る。
まもなく、人型の怪異がゆっくり前進しながら入ってきた。紺色のマントが覆い被さった、二メートルぐらいの人妖だった。
「収容所からの脱走みたいですね」
左沢が、普段の調子で告げる。しかし、凉の顔は強張ったままだった。
妙な胸騒ぎがした。決して、人妖に慣れていないからという理由では済まされないような、強烈な違和感と恐怖。わずかな既視感。逃げようにも、身体が硬直し、目を離すことすらできない。
視界の真ん中で、侵入者がこちらを振り向いた。蛍光灯の光に照らされ、敵の顔が露わになる。
そこにあったのは、白い狐面の無表情だった。
刹那、狐面が二人のほうに飛び出した。
反射的に、左沢が机の上のペンを投げつけた。カランという乾いた音が鳴り、狐面が一瞬身構える。その隙に、左沢は迷いなく凉の腕を引き、実験室から逃げ出した。
薄明かりに照らされた廊下を、危機感に満ちた表情を浮かべる左沢が先陣を切り、腕を引かれるがままに走る凉が続く。その背後を、狐面がマントを靡かせながら追っていた。
階段が目の前に現れると、ようやく凉が我に返った。
腕を掴んだままでは危険だと判断し、左沢は凉の腕を離した。そのままの勢いで、先に階段を下りていく。凉も後に続こうとしたが、つるつるの床に足を取られ、その場に尻餅をついた。左沢は気づかない。
背後を見ると、狐面は目の前にまで迫っていた。
紺のマントの内側で、鞘から刀が引き抜かれた。刃先が上がり、凉の首に狙いを定める。
凉は唾を飲み込んだ。募る焦燥が、逃げようとする足を余計にもたつかせた。
鈍色の残像が弧を描き始める。
ほんの一瞬、凉のほうが早かった。前に向き直って立ち上がり、手すりを掴みながら無心で階段を駆け下りる。最高潮に達した恐怖から一気に解放された反動か、駆け下りるスピードは自分でも信じられないほど速かった。
心臓が直接的に鼓膜を揺さぶり、耳元で鳴っているように聞こえてくる。紛れるようにして、実際に感じているより苦しそうな息遣いが、微かに聞こえた。
先程の映像がスローモーションで蘇った。狐面の、無駄のない滑らかな一連の動作。その途中で見られた、わずか数ミリ秒の停滞。何があったのかは不明だが、そのおかげで救われたのは確かだ。
背後を確認するまでもなく、追われているような気配はなくなっていた。
夢中で走り続けるうちに一階へ到着した。そのまま外に向かう。
棟から出た瞬間、本当の意味で緊張から解放された。
視界に、遠巻きに棟を見上げる人々の姿が映った。遅れて、微かな煙の臭いとほんのりとした熱気を覚える。さらに、中にいたときは気づかなかった警報音が、何故気づかなかったのか不思議なほどけたたましく鳴り響いていた。改めて建物を見ると、一階の奥の部屋から煙と炎が上がっていた。幸い、延焼はしていなかったが、看過できる状況でもなかった。
休憩室に残した守衛二人の顔が頭の中を過った。不安になり、該当の部屋の窓を探す。部屋の電気は消えていた。人感ライトだったので、無事避難できたと考えていいだろう。凉は胸を撫で下ろした。
しかし、そのすぐ下の窓を見た途端、安堵は消え去った。
窓から顔を出す、一人の少女がそこにいた。血の気の失せた顔に、絶望の目を浮かべている。
考えるより先に身体が動いた。出たばかりの建物へ引き返し、階段を駆け上る。
目当てのフロアに到達すると、幼馴染の見えた部屋へ迷わず飛び込んだ。
「葵!」
大声で呼び掛けながら窓際に目をやるも、葵の姿はなかった。
転落したかもしれない――最悪の事態が脳裏を掠めた。心臓が喉から飛び出しそうになる。しかし直後、床に横たわる人影を発見した。
「葵!」
すぐに駆け寄り、肩を軽く叩きながら声を掛けた。反応はなかった。不安になり、息を確認する。呼吸量・速さともに正常だった。それでも心は落ち着かない。
窓の外では、下から煙が上がっていた。心なしか、その量は増えているように感じた。
凉は踏ん張りながら葵を背負い、部屋の出口へ向かおうとした。
廊下に、こちらを窺う狐面の姿があった。
再び、身体の芯から侵すような恐怖に駆られた。頭が真っ白になり、背負っている葵の重さすら感じなくなる。金縛りに遭ったように、その場から動けなくなった。
狐面はマントの下から刀を引き抜き、じりじりと前へ出た。
凉は血色の悪い顔を晒したまま、狐面の顔と刀の先端を交互に見やった。葵を支える両腕に、自然と力が入る。
まっすぐ前を向いていた刃先が、凉の首元を睨んだ。
そのとき、
「封印石ならこっちですよ」
部屋の外から声がした。凉と狐面が同時に振り向く。
薄暗い廊下で、天狗が佇んでいた。
次の瞬間、金属のかち合う音が聞こえた。離れた場所にいたはずの天狗が狐面に斬り掛かり、それを狐面が食い止めていた。刃を交えながら、天狗が部屋から遠ざけるように、さり気なく狐面を誘導する。
凉は葵をしっかり背負い、迂回して部屋を脱出した。
二つの刀が離れた。反動で狐面がわずかによろめき、後退りする。
階段の手前に差し掛かっていた凉のところに、天狗が合流した。
狐面が体勢を立て直した。しかしすぐに、左沢が牽制の一発を投じる。矢のように短刀が投擲され、ちょうど狐面の足元に突き刺さった。
狐面は足元の短刀を一瞥し、凉たちを睨んだが、持ってる刀は下を向いたままだった。
再び外に出ると、凉は少し離れた棟の陰で足を止めた。誰にも見られていないことを確認し、葵を下ろそうとする。そこで初めて、背中に重みがないことに気がついた。一瞬にして、背筋が凍りついた。
しかし、それも束の間のことだった。
「夕凪さん、少しだけお願いしてもいいですか?」
声を掛けられ、振り向くと、妖化を解いた左沢が両腕に葵を抱えていた。凉は頷き、両手を前に出す。
ずっしりとした重みが両腕に掛かり、思わず屈み込んだ。立ち上がることもできず、そのままの姿勢でいると、地面に白衣が広げられた。
凉は意図を悟り、白衣の上にそっと葵を寝かせた。
「ありがとうございます……パニックによる失神でしょう。直に目覚めると思います」
左沢が、葵の様子を見ながら告げる。凉は、心の底から安堵した。
「ところで、何で葵がここに?」
「君が寝ている間に連れてきました」
子供を一人にするのが心配だったのか、あるいは預けていた封印石のほうか。左沢の都合とはいえ、久々に見る親しい人物の顔に、張り詰めていた心が少しだけ安らいだ。
「しかし、狐面がここに来たということは、我々の居場所が団にばれていますね」
弛緩し始めたばかりの背筋が、再び強張った。キャンピングカーを発ってから狐面が現れるまでに接触した団員は、守衛の二人だけだが、通信機を没収している。それに、トイレに連れていくまでは拘束は一度も解いていない。となると、尾行か――そう思った矢先、すぐに別の可能性が浮かんだ。別れた前田たちが告げ口した線だ。
「面倒なことを……」
同じ考えに至ったのだろう、左沢が嘆きながら額を抱えた。
ちょうどそのとき、葵がもぞもぞと動き出した。
「葵!」
凉は、緩みそうな涙腺を引き締めた。怒涛のように、労わりの言葉が込み上げてきたが、発する前に飲み込んだ。
葵の目が完全に開き、凉を捉える。やがて、静かな笑みが浮かんだ。
「凉だ」
凉は、掛ける言葉を慎重に吟味した。葵も同様なのか、両者が沈黙したまま時が流れる。その間に、左沢はそっと場を離れた。
先に口を開いたのは、凉だった。
「怪我は? 何ともないならいいけど」
時間を掛けて考えたとは思えない、当たり障りのない質問を、平静を装った低めの声で訊ねる。葵は、潤んだ目をきつく閉じ、意地悪そうな笑みを浮かべた。
「大丈夫。それより凉、何か痩せたね。ガイコツみたい」
「はぁ?」
心配していたことが、少しだけ馬鹿馬鹿しく感じた。
「久々に会ってそれかよ。で、失神は今回だけ? 病院出てからは? 何もなかったのか?」
「ないよ」
きっぱりとした声だった。凉は目を丸くする。
「心配性だなー、凉は。本当に何もなかったよ? おじさんも気を遣ってくれたしさ。そうそう、凉よりもずっと心強かった」
幼馴染だから知っている。これが普段通りの葵だ。素のまま振る舞える状態であることを、喜ぶべきなのだろう。しかし、今の凉にはそれができなかった。
失踪した葵を本気で心配し、一人で東北までやってきた。その移動中の時点で生命を脅かされ、今に至るまで何度も死んでもおかしくない状況に晒されてきた。多くの人の死を目撃し、時には罵声も浴びせられた。そんな辛い出来事の連続を、葵を救うためだけに乗り越えてきた。
それなのに葵はというと、安全圏でのほほんと暮らしていたような口ぶりだ。あまりの温度差に、突発的な怒りが込み上げてきた。
「なんだよそれ。ふざけんなよ」
予想外の反応だったのか、葵は困惑したように一瞬固まった。しかしすぐに、焦りの表情を浮かべ、口を開いた。
「待って凉、ごめん――」
「そもそも、お前が封印石を取らなければ、こんなことにはならなかった!」
凉は背中を向け、その場から走り去った。
目から、とめどない涙が零れ落ちた。悲しみでもない。裏切られたという失意や、虚無感ともまた違う。強いて表現するなら、ありとあらゆる色の絵具を混ぜ合わせたような感情の爆発だった。体内のエネルギーは、激しい情緒の波に食い潰され、たった数十メートル走っただけで力尽きた。凉は息を切らしながら、地べたに倒れ込んだ。
息を吐き出すに連れ、昂った感情がたちまち静まっていった。先ほどまでの怒りが嘘のように引き、平常心が顔を覗かせる。すると今度は、罪悪感が押し寄せた。
「最悪だ」
ストレスが溜まっていたとはいえ、絶対に言ってはならないことを吐いてしまった。
そもそも凉がこちらに来たのは、葵に頼まれたからではない。葵のほうも、来させるつもりはなかっただろう。心配になった凉が、勝手に追ってきただけだ。それに、元はと言えば、葵が封印石を取ろうとしたのは凉が研究に失敗したからだ。それを棚に上げて、葵を責めるのは筋違いであるし、何より葵のメンタルを追い詰めることになり兼ねない。
激しい後悔の念に苛まれた。
凉はその場に突っ伏したままだった。立ち上がる気力が残っていなかった。
わずかに熱を帯びた風が、髪を撫でた。頭の前に投げ出した握り拳には、アスファルトの冷ややかな温度が伝ってくる。
程なくして、地面から微かな振動を受けた。その正体は複数の足音だった。こちらに近づいてくると感じ、凉は顔を上げ、赤く腫れた目元を擦った。
血盟士団の団員たちだった。逃げる間もなく、四方を取り囲まれる。
その中の一人が、凉の首根っこを引き上げ、強引に立たせた。
「天狗はどこだ?」
疑念と敵意を含んだ視線が、全方位から突き刺さる。
凉は、黙って首を横に振った。すると、右腕を乱暴に引っ張られた。
団員の一人が、ポケットからジャックナイフを取り出した。本体からくるりと刃先が現れ、凉の右腕に突きつけられる。傷をつけないギリギリのところまで、刃先が柔らかい皮膚に食い込んだ。
「ひっ」
凉が必死に腕を振り解こうとする。しかし、自分より力の強い大人に、複数掛かりで取り押さえられ、抵抗は徒労に終わった。
凉の腕を最初に掴んだ団員が、大声で周囲に呼び掛けた。
「左沢。話がしたい。応じなければ、少年の腕をぶっ刺す」
「勘弁してくださいよ」
凉が顔を青くしながら、鼻声で訴えた。一度は引いた涙が、再び溢れそうになる。
「大丈夫だ、死にやしない。何なら傷もすぐ治る」
団員の一人が無責任に告げた。当然、凉もそのことは承知していたが、言い返す気力もなければ、騒いだところで誰一人として耳を貸そうとしないだろう。おまけに、呼び掛けに対する左沢からの反応も一向にない。
「本当に勘弁してください」
力ない声が零れる。団員への訴えというより、神に助けを請う声に等しかった。
凉の予想通り、団員たちは全員その声を無視した。
左沢が応じそうにないと悟ったのか、団員たちが顔を見合わせて頷いた。直後、ナイフが大きく振り上げられた。
そのとき、
「待ってください!」
少女の声が聞こえてきた。ナイフを持つ手がその場で静止する。
葵だった。心臓に大病を抱えているとは想像できない毅然とした立ち姿で、団員たちを睨んでいた。
「封印石と私さえ戻ってくればいいんですよね? だったら私がそっちに行きます、石を持って。だから凉を離してください」
程なくして、無傷の腕が解放された。集団の中心にいた凉が、輪の外に投げ出される。
宣言通り、葵は団員たちのもとへ向かった。
凉には、黙ってその様子を見届けることしかできなかった。葵が何事もなく団員たちに迎え入れられると、凉は無力感に苛まれながら踵を返し、走り出した。
――葵、ごめん。絶対助けるから。
元いた棟の陰に戻り、辺りを見回した。すぐに、正面の木の上から天狗が降ってきた。凉は単刀直入に今あったことを告げようとした。
「葵が血盟士団に――」
「わかっています」
事の一部始終を見ていたような口ぶりだった。凉の目つきが険しくなる。
「葵だけじゃない、封印石もだ。研究はどうなるんです?」
「草刈さんは何があっても石を渡さない人です」
「そうかもしれない、でも! さっきみたいにナイフで脅されたりしたら? あるいは、もっと酷いことをされるかもしれない!」
小学生の少女一人に、生命を脅かすような真似をするとは普通は考えられないが、五年前、国を救ってくれたはなを、暴走リスクの理由一つで死なせようとしている。個よりも全体の利害を優先する。それが血盟士団だ。封印石のためなら、葵を殺すことも辞さないだろう。
しかし、左沢は落ち着いた様子で、こう答えた。
「それでも渡さないと思います。絶対に」
凉は閉口した。左沢が何故そこまで言い切れるのか甚だ疑問だったが、仮にそれが事実だとしたら、今度は別の問題が生まれる。
「AHT細胞を作ろうにも、葵が死んでしまったら元も子もない!」
ぶつけようのない焦りに苛立ちを覚え、凉は頭を掻き毟った。
突然、目の前に封印石が差し出された。髪を掻き混ぜていた手の動きが、ぴたりと静止する。
「……何で?」
凉はきょとんとした表情で、左沢の顔を見上げた。
「くすねてきました。草刈さんが持つには、あまりに危険でしたので」
「へ……あ、じゃあ……ん?」
「とまぁ、団が草刈さんを物理的に傷つける真似はしないでしょうから、安心して研究に専念してください。その前に、場所を移す必要はありますが」
左沢は封印石を仕舞い、何かを探すように周囲を見回した。
そのとき、二人の傍に人影が一つ舞い降りた。驚いた凉が、反射的にその場から飛び退いた。
狐面だろうか――凉は表情を硬くし、すぐに身構えた。しかし、フードが取れて穏やかな女性の童顔が露わになると、胸を撫で下ろし、警戒を解いた。
「はなさん」
凉が近づこうとする。
しかし、別の方角から彼女に刀が向けられた。左沢だった。知らぬ間に妖化し、充血した目で「敵」を睨む。すかさず青い竜の異形が間に入り、はなを庇った。硬化した尻尾が、刃を堰き止めようと前にはだかる。
「左沢さん、やめて」
凉が告げた。左沢は盾突くような視線を返したが、やがて刀を下ろした。刃先を鞘に収めながら妖化を解き、不満そうに腕を組む。遅れて、はなと帝都も人の姿に戻った。
凉は、改めてはなと帝都のほうに向き直り、ばつの悪そうに俯いた。
「あの……その、本当に無事でよかったです」
「他に掛ける言葉があるだろ!」
帝都が凉に掴み掛かった。凉は命乞いでもするように、必死に何度も頭を下げた。
「すいません、本当にごめんなさい、僕のせいで――」
「帝都くん、離してあげて」
脇からはなが声を掛け、仲裁に入った。帝都は凉の胸倉を掴んだまま、握る力だけを弱める。
はなが、帝都から凉に視線を移した。
「凉くんに誤解を与えた私にも非はあるから。ごめんなさい」
頭が下げられた。フードが一緒に垂れ下がる。
凉は困惑しながら、両手を振った。
「いやいやいやいや。はなさんは何も悪くないです。嘘を吐いたのだって、僕を思ってのことでしょうし――」
「用件は何でしょうか?」
突然、苛立った声が三人の会話を遮った。
はなは頭を上げ、険しい顔で回答した。
「取引に来ました」
「ほう。まぁ確かに、孤立している君たちには協力者が必要かもしれませんね」
「当然、取引と言うからには、あなたにも有利な条件をつけるつもりです」
「私に有利?」
左沢が鼻で笑った。
「残念ですが、困っていることは何も――」
「狐面。妨害してくる敵を撃退しながらの研究は、些か大変だと思います。それに――」
はなは申し訳なさそうに凉をちら見し、こう続けた。
「血盟士団との取引は、あくまで表面上のものです。目的さえ達成されれば――人質と封印石が返ってきた時点で、契約はなかったことにされます」
余裕で満ち溢れていたはずの左沢の顔は、とうに渋い表情へ変わっていた。
「要求は?」
メガネ越しの鋭い視線が、品定めでもするかのようにはなを捉える。はなのほうも、凛とした目で相手を睨み返した。
「団員殺しの二人組の情報です。それと、封印石」
はなの瞳を覗いていた左沢の視線が、脇に逸れた。
「二人組の情報提供は可能です。ただ、石はAHT細胞ができるまで待ってください」
「渡すのもか?」
直ちに帝都が口を挟むも、
「わかりました」
はなは堂々と返答した。帝都が驚いたように振り向き、困惑の溜息を零す。
「待て華陽、早まるな。こいつが本当に石を返してくれる保証なんかないんだぞ?」
帝都が説得を試みるも、
「それを言うなら、あなたたちも同じですよ」
左沢も反論した。さらに続ける。
「私たちの居場所を探り当てたあたり、団内に仲間でもいるのでしょうが、正真正銘君らだけの味方である保証はあるんですか?」
衝突する二者の視線に、架空の火花が見える。凉は困ったように肩をすくめた。仮に取引が成立したところで、ここまで疑心暗鬼なのではやっていける気がしなかった。険悪な空気から逃れようと、視線を他所に向ける。
すると、人目を避けるように見回しながら、こちらに向かってくる人影が見えた。自信なさげな猫背に、全身から漂う狼狽した雰囲気。
「浜町さんだ」
凉の一言で口論が止んだ。三人が同時に振り向く。
「やべ、こっちに来る」
帝都が焦り声で呟き、はなを連れてその場から逃げ去った。
「僕たちも逃げましょう?」
凉が小声で提案したが、すでに遅く、左沢は男性のほうへ近づいていった。凉は慌てて踵を返し、ついていくことにする。
「車の運転、できますか?」
まるで、知り合いに送迎を頼むような口調だった。浜町は突然声を掛けられ、驚いたように軽く飛び上がったが、相手の正体に気づくと、ますます挙動不審になった。
「おおお、大型トラックしかありませんが、免許が……」
浜町が声を震わせながら、駐車場のほうを向く。
「ネズミ捕りもいませんし、間違って轢いてもせいぜい人妖ぐらいですよ。それに、多少の事故では我々も死にません」