10. AHT細胞研究再開と予期せぬ壁
凉と左沢は、米沢駅で前田たちと合流すると、その先は車で移動することになった。
「行き先は、東北大学の星陵キャンパスでお願いします」
二列目のシートに座る左沢が、シートベルトを装着しながら告げた。
「あれ? 山形大学じゃなくて?」
隣の凉が、手渡そうとしたタブレット端末を抱えたまま固まる。
「本当のことを言ってしまったら、団に筒抜けですよ」
左沢はタブレット端末を凉から取り上げ、ロックを解除した。
「東北大は五年前にも利用させてもらいました。研究を進める分には打ってつけの環境ですが、問題なのは血盟士団の拠点になっていることですね」
「ん? 団とは協力関係になったと聞いているが?」
助手席から声が上がった。ルームミラーには、怪訝な表情を浮かべる前田の顔が映っていた。凉が気まずそうに隣の人物を見やる。
「私の命を狙う人物が潜んでいます」
左沢は、タブレットの画面を凝視したまま平然と答えた。
「そう……ですか」
前田は、なおも不信感を拭いきれない様子だった。
しばらく無言の時間が流れた。無機質なラジオ音声が、堅苦しい空気を助長する。
「狐面、でしたっけ」
唐突に左沢が質問した。自分に向けられたものだと気づいた凉が、こくりと頷いた。
「他の特徴はありますか? 大きさ、形、二足歩行か否か――似ているものでも」
「ぶかぶかのマントを着ていたから、体型はわかりません。でも、たぶん直立で、普通の人とあまり変わらない身長だったと思います。戦うときは、刀を振るってた」
「鬼かそれに近い人妖でしょうかね」左沢は画面をポチポチ指で押す。
「あ。でも会話するのにスマホを使っていました。メモ帳みたいなのに文字を入れて、読み上げ機能を使うって風に。もしかして、声だと誰かわかっちゃうから?」
「その可能性もゼロではありませんが、単に発話できないタイプの人妖という可能性もあります。人妖自体、そのようなものがほとんどです」
それから程なくして、左沢がタブレットの画面を凉に見せた。表示されていたのは、団員名簿だった。何人かの名前に蛍光色の線が引かれている。説明を聞くまでもなく、凉はマークされた名前に目を通した。
「ピンとくる名前はありましたか?」
左沢に訊かれ、凉はある名前を指さした。
「浜町基樹、さん。初めて会ったときに、めちゃくちゃ怪しい人だと思いました」
「なるほど。そういう勘は大体当たります」
「ただ――」
凉の中では、疑念のほうが大きかった。浜町の人物像を考えたとき、どうしても裏切りとは結びつかないのだ。しかし、それを言ってしまうと、浜町はマークから外されることになる。浜町が狐面=団員殺しの二人組に含まれないとはまだ断定できないので、口にするのは憚れた。
「何でもありません」
凉の返事に、左沢は訝しそうにメガネを正したが、深追いはしなかった。
またもや車内は沈黙に包まれた。各々資料を読み込んだり、パソコンで何か入力したり、睡眠時間を補っていた。そんな中、凉だけが、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
――団は、鬼に私を例の洞窟まで追い詰めさせ、生き埋めにしました――二人諸共。
東北地方広域で起きた人妖暴走事件。その終焉について深く考えたことは一度もなかった。まさか、一人の女子高生の犠牲から成り立っていたとは、一ミリたりとも想像できなかった。
左沢を止めるには、はなの力が必要だった。同時に、蔵王の一家断絶で新たな封印石を作ることができなくなり、今度石が失われたときのリスクも考える必要があった。
血盟士団の奇襲を、たった一人で返り討ちにした敵に匹敵するほどの人妖。裏を返せば、暴走したときに誰にも止められないということだ。だから血盟士団は、左沢だけでなくはなも葬ることにした。五年前の人妖暴走事件は、いったんこのような形で幕が閉じられた。しかし、帝都や千路がはなを救出した。当然、彼女の生存が団に知られれば、厄介なことになるのは間違いない。はなは正体を偽り、帝都と千路も周囲から徹底的に秘匿した。
自分が犠牲となり、国を救うことを選んだはな。そんな彼女を、凉の勝手な勘違いで追い詰めてしまった。
そもそもはなを怪しんだ原因の一つは、はな自身から告げられた嘘だった。田村の話との食い違いから、凉はよくない秘密を抱えているのではないかと邪推したわけだが、今になって間違いだったとわかる。
もしあのとき、真実を告げられていたら。凉ははなに同情していただろう。
――狐面はこっちで何とかする。私たちのことは気にしないで、思うようにやって欲しい。
はなにそう言われたところで、言う通りにできるはずがない。それをわかっていたから、敢えて同情されにくい理由を騙った。
そしてもう一つ、はなへの疑いが膨らんだ原因は、嫉妬だ。周囲に大事にされているはなに、宛所のない疎外感をぶつけてしまった。
未熟な推理と感情的な判断で、非のない人物を不幸に陥れてしまった。凉の胸の中で、後悔と絶望がぐちゃぐちゃになって渦巻いた。
車が『宮城県』の看板の横を通過し、カーナビが県境を跨いだことを告げる。凉以外の研究者たちが、一斉に顔を上げた。
「そういえば、大学に着いたらどうするんですか?」
凉が、隣でパソコンを開く左沢に訊ねた。一瞬、キーボードを叩く音が止んだが、返事はなかった。
「できれば穏便に済ませて欲しい」
凉が注文をつけ加えると、ようやく左沢は反応した。
「私とて、できるならそうしたいですが……何かいい案はありませんかね?」
質問は凉にだけではなく、前田たちにも向けられたものだった。自分たち宛てだとは気づいているようだったが、返事どころか誰も考えようとすらしなかった。
「相手にする数を少人数に絞る……とか」
凉が提言するも、以降しばらく沈黙が続いた。
前列から一際大きな溜息が聞こえてきた。前田だった。
「一体何がそんなに問題なんだね? 血盟士団とやらとは協力関係になっていて、実験環境も揃っているんだろう? あなたを殺そうとしている人物がいるみたいだが、それだって血盟士団が守ってくれるんじゃないのか?」
「いや。前田先生、実はその……」
凉が恐る恐る事実を述べようとしたが、
「あんな都合のいい連中、信用できませんよ」
左沢が嘲笑交じりに遮り、凉に冷ややかな一瞥を送った。凉は顔を真っ青にしながら、口を閉ざした。
ルームミラーに視線をやっていた前田が、眉を顰めた。
「血盟士団とやらがあなたを守ってくれそうにないというなら、それは自業自得ではないかね? 真っ当な人間は、好んでテロリストを助けたいとは思わない」
「その点に関しては、反論の余地もありません」
「だったら、何も心配することはない。少なくとも我々のことは守ってくれる。要らん心配をする暇があるなら、五年分の論文だけでもいいから目を通してくれないか? 仮に論文になかったり、違っているデータや結果があれば、共有して――」
「送っていただいたものは一通り目を通しました。五年分にしては少ない気がしたので、外部のソースも当たってみましたが、ほとんどいただいたものと変わりありませんでした。まだ共有していないデータがあれば、全部送ってください」
車内が、居心地の悪い沈黙に包まれた。地雷を踏み抜いた本人だけが、涼しい顔でノートパソコンの操作に耽る。
「別のフォルダの中身を送ってしまったのでは?」
凉が恐々と発言した。前田も大きく頷いたが、
「いえ、合ってます」
凉たちの後列から即答があった。
「中身がすり替わってる可能性は?」
前田がきつい口調で訊ねる。
「ないと思います」
「共有フォルダに上げてないデータがあるとか?」
前田は、真っ先に凉を見た。
「全部上げてます。考えにくいですが、あるとすれば、学会用に間違えて上げちゃったとかだと思います」
「一応、ローカルのも確認して。どのPCだっけ?」
「今、左沢さんが使ってる奴です」
凉の言葉に反応し、左沢が驚いたように振り向く。
「ここにあるの、全部夕凪さんが作ったんですか?」
凉は曖昧に頷いた。
「僕が一番時間あるので」
「え……っと、これ、サインアウトしたほうがいいですか?」
「そのままで大丈夫です」
凉は左沢から手早くパソコンを受け取り、サインイン中のアカウントを確認すると、エクスプローラーを開いた。ダブルクリックする音が忙しなく鳴る。
凉が共有していないファイルを探す間、前田が真後ろに座る人物にこう切り出した。
「五年分にしては少ないと言っていたが、我々の持っていないデータが存在したりでもするのかね?」
タブレット端末を掴もうとしていた手が、ぴたりと静止する。しかし、まもなく動き出し、タブレット端末を拾い上げた。
「あなた方の手元にないなら、ないんじゃないでしょうかね」
左沢が、画面を睨んだまま答える。ルームミラーを睨む前田の目つきが、さらに険しくなった。
「つまり、嫌味だと」
「個人の感想です。ついでに、これも個人の感想ですが……二〇一五年の論文、読んでいて既視感があったというか、懐かしい気分になりましたね」
「同じ実験をして同じ結果になるのは、何も不思議なことではないと思うが?」
「無論です。まさか先生方がねぇ、未発表のデータとはいえ、他人のものを転用するなんてことあり得ませんから」
前田の背中と左沢の間に、ギスギスした見えない淀みが漂う。
個人フォルダの確認を終えた凉が、気まずそうに二人の様子を窺い、崩壊寸前のジェンガから積み木を引き抜くように口を開いた。
「前田先生。上げるべきものは、全部上げてありました」
返事はなかった。代わりに、不満そうな溜息が返ってきた。
凉は逃げるように、再度フォルダの中身を確認した。その間、前田が再び口を開いた。
「あたかも自分たちの実験データが奪われたみたいに被害妄想を抱いているようだが、世の中、早く公表した者勝ちだ」
「ひょっとして、嫌味のつもりですか?」
タブレット端末を見下ろしていた左沢の目が、前田の席を睨む。
「いいや。世の真理だ。これは学生に言ってることなんだが、世間は公表されたものしか確認のしようがない。誰が実験したとか、どれだけ時間を掛けた・勉強したとか、知らないものは評価しようがない。第一、口でなら何とでも言えるし、嘘も吐き放題だ。結局、公表されたものこそが正義になる」
車内に、不気味な沈黙が訪れた。同時に、息を止めてしまうほどの殺気を隣から感じ、凉は気を紛らわそうと、データコピー中の画面を凝視した。
「次のところ、右に曲がってください」
突如、左沢が運転席に告げた。カーナビとは真逆の指示に困惑しながらも、運転手は左沢の指示に従った。車が右折し、ウインカーが消える。フロントガラス越しの景色を見ていた左沢の視線が、目の前の座席の背もたれに移った。
「驚きましたよ。まるで明るみに出ない剽窃やアカハラを正当化するような言い分でしたから」
「随分と悪意のある捉え方じゃないか? 私はただ、成果こそがすべてだと言っただけだ」
「それは失礼しました。以前、全く同じことを宣う先生がいたもので」
「その先生から嫌がらせでも――」
前田はそう言いかけたところで、口を閉ざした。左沢の表情が思い詰めたように曇ったからだ。
前田は鼻で溜息を吐き、ルームミラーから目を離した。
「不満なら、アカデミックの場から退けばいい」
そこに、ちょうどフォルダの再確認を終えた凉が、遠慮がちに口を開いた。
「研究は大好きだけど、不運な人――環境に恵まれない人というのも、世の中にはいると思います。それでも、辛くなったら辞めるしかないんでしょうか?」
前田の、ルームミラー越しに背後の人物を睨んでいた目から、わずかに角が取れた。
「本当に研究が好きなら、どんなに辛い環境であっても投げ出すような真似はしない。現に君がそうじゃないか? 研究と学校をちゃんと両立できている。途中で挫けるようなのは、研究好きと思い込んでいるだけの半端者だ」
「熱意があればどうにでもなるというのは幻想です。人間、簡単に壊れます」
すかさず、凉の隣から冷淡な声が反論した。対し、前田も直ちに反応する。
「だったら、熱意というのはその程度だったということだ。鶏と卵論になりそうだからここまでにしておくが。我々の世界は弱肉強食だ。生温い世界じゃない」
ようやく会話が落ち着いた。険悪な空気がこれ以上悪化しないことに、ひとまず凉はほっとする。
突然、車が急停止した。凉の身体は前につんのめり、持っていたノートパソコンと一緒に運転席の背もたれに突っ込んだ。腹部にシートベルトが食い込み、目の前にはブルーライトを反射したキーボードが迫った。
前方から、フロントガラスに何かがぶつかる音が聞こえ、車体がぐらりと揺れた。
凉は顔を上げた。甲皮を纏ったイノシシのような化け物が、正面から何度も頭突きしていた。衝突の度に、車が大きく揺れ、フロントガラスにひびが入る。
前田は、生気の失った顔で前を見つめたまま固まっていた。他の研究者たちは、持っていた資料や鞄・パソコンを防具のように構え、縮こまっている。有り余る恐怖のせいか、誰一人として悲鳴を上げる者はいなかった。
凉は、前から左右に視線を移した。平然とタブレット端末の操作を続ける左沢の隣の窓に、ゴリラのような暴走人妖がこちらに向かってくるのが見えた。その奥には、サルとトラの合成獣のような人妖が、こちらの様子を窺うように立っている。自分の席の車窓に目をやると、野生の蛇にしては異様な大きさの黒い何かが、草木の間を縫うように這ながらこちらに来るのが見えた。再び前を見ると、先程まで見えなかった異形が複数体、新たに出現していた。
前方や車道の脇から、一体、さらにもう一体と暴走人妖が現れる。フロントガラスのひびはたちまち広がり、破壊されるのも時間の問題だった。
凉が左沢に助けを求めようとしたそのとき、前田がシートベルトを外して車から飛び出した。続いて運転席の男性、それから三列目に座る研究者たちが外に逃げる。
暴走人妖たちの視線は、頑丈な金属塊の中の獲物から、無防備を晒して走る獲物へとシフトした。窓を叩く音と車の振動が止む。
静まる車内の様相とは対照的に、うるさく鳴り出す鼓動に煽られ、凉はシートベルトの解除ボタンに触れた。
「助けないと――血盟士団は?」
「こんな山奥になんかいませんよ。避難所すらないですし」
完全に他人事だった。凉は軽く舌打ちし、シートベルトを外して車を降りた。迷わず妖化し、盾となるために前田たちの前に飛び出す。
攻撃の受け皿となるので手一杯だった。頬を殴られる。腹に突進を食らう。腕や脚に噛みつかれる。優先的に「ヒト」を狙う暴走人妖たちの攻撃が、あらゆる方角からやってくる。凉は、それらを妖化できない前田たちが食らわないようにするのに必死で、反撃する暇などなかった。実戦経験もパワーも足りなかった。このままでは、凉も持たない。
周囲の人妖の数は着実に増えていった。背後からは、完全なる諦観の空気が漂い始める。次第に、凉の戦意も削がれていった。
傷口から、異臭の漂う血液が滴り落ちる。瞳に灯る光は、今にも消えようとしていた。
暴走人妖の群れが、突如おとなしくなった。不審に思った次の瞬間、人妖たちは赤黒い体液を撒き散らしながら、次々と倒れた。
微風が吹き、木の葉と木々がサラサラと穏やかな音を立てる。
凉たちの前に、天狗が降り立った。血で塗れた刀が鞘に収まり、カチンという子気味よい音が鳴る。
「何の真似だ?」
尻餅をついていた前田が、ふらつく足で立ち上がり、声を絞り出すようにして訊いた。
「我々を人妖の餌にするために、別のルートを指示した。夕凪くんが来てくれなければ、見捨てる気だっただろう? AHT細胞の成果を横取りされたことが、そんなに不満か?」
その声は、怒りのあまり震えていた。
妖化を解き、天狗から人の姿に戻った左沢は、蔑視の目で睨み返した。
「忠告しておきますが、今後同じような状況に陥る可能性は十分にあります」
「……犯行予告か?」
「めでたい思考回路だ。大体、団や政府が本気であなた方を守ろうとしているなら、こちらに送りつける際にも護衛を同伴させませんかね?」
風が止み、物音だけでなく、野生動物の鳴き声すら聞こえなくなっていた。
前田が一歩後退し、木の枝を踏む。枝の割れる音に、歯を軋ませる音が重なった。
「つまり、こう言いたいのか? 政府は、我々の安全を考えていないと」
「ええ」即答だった。「世間も国も、我々の想像以上に研究に関心がありません。誰もがAHT細胞の早期完成を望んでいるというのは、都合のいい幻想です。ここで何かあったとき、あなた方の命どころか、研究成果さえ守ってくれる保証はありません。仮にそれが、AHT細胞完成体であったとしても、です。ゴミのように見捨てられるのがオチですよ」
左沢は、車の後部座席のドアを開いた。
「だったら、帰らせてもらうよ」
諦めに似た溜息交じりの声が、はっきりと告げた。凉は振り向き、目を丸くする。左沢も、その場で足を止めた。
前田は腕を組み、やや視線を落としてこう続けた。
「AHT細胞の開発は、確かに人生の命題だが、命を無下にしてまでやることではない。結果さえ急がなければ、東京でだってできる」
凉を除く他の研究者たちも、前田と同意見のようだった。凉は全員の顔を順に見回し、口元に力を入れた。その様子に気づいた左沢が少しだけ待つも、凉が話し出す様子がないとわかると、口を開いた。
「わかりました。東北大まで送ってくだされば、帰っていただいて結構です。そのときに、持ってきたものの一部は残していただけると助かります」
「はぁ?」前田があからさまに顔を顰めた。「随分と都合のいい注文だな。当然、我々の研究でも使うものだ」
「人生の命題と言うからには、年単位の研究を想定しているものだと思ったのですが」
前田が、恐れ慄くように固まった。他の研究者たちも同様だった。
当然、凉も例に漏れなかった。雷に撃たれたような衝撃が走り、思わず耳を疑った。何せよ、その言葉の意味することは、ただ一つ。
――AHT細胞完成の目処が立っている。
それ以外考えられなかった。
「残してくださるのであれば、感謝の記しとして論文に名前をお載せしますよ。共同研究者ではなく、謝辞にですが」
そんな皮肉も、もはや誰の耳にも届いていなかった。
結局、前田たちは凉と左沢を東北大学に残し、東京へ帰ることになった。
米沢駅を発ってから約二時間後、目的の場所が見えてきた。夢にまで見た、励化線下でのAHT細胞開発が、いよいよ目前に迫る。胸の高揚感に伴い、心臓が跳ねるように脈打った。久々にいい意味での緊張が、凉の心身を奮い立たせる。
脳内で、実験に取り掛かる自身の姿を思い描く。未知の発見と出会い、興奮する姿。暴走再生を克服したAHT細胞が完成し、歓喜する姿。移植した葵が、容態悪化せず、やがて健康体の人と変わらぬ生活を送る姿。葵と並んで眺める、どこかの山頂からの景色。
しかしそれらは、ノイズとグロテスクな色で歪められたものだった。
子気味良い緊張感が、不快感へと転じた。高揚感による心拍数の上昇も、たちまち息苦しさを備えた動悸となり、さらに吐き気が加わる。
すぐに、左沢が凉の異変に気づいた。
「大丈夫ですか?」
「すいません。車酔いしちゃったみたいです」
凉は、ごまかすときに繕う笑みを浮かべた。左沢はやや訝しむように眉を顰めたが、特に深入りするわけでもなく、普段の調子でこう提言した。
「少し早いですが、降りましょうか」
早めに前田たちと別れ、大学まで歩いて向かうことになった。左沢が荷物をまとめる間、凉は近くの自動販売機で水を買い、口の中に流し込んだ。たちまち全身が浄化されるように、不調が消えていった。ペットボトルの中身を飲み干す間に荷物まとめが完了し、凉がキャリーバッグを、その他の荷物は左沢が運搬することになった。
「東北大星陵キャンパスの地図を出してもらえませんか?」
両手が荷物で塞がっている左沢に頼まれ、凉はスマホで検索した。
「これですか?」
「はい、ありがとうございます。左下を拡大してもらえますか」
「左下って、この第三象限みたいなところですか?」
凉が、キャンパス内の四分割されたエリアのうち、左下のものを指す。
「合ってます。第三象限……」
「はーい」
凉がマップを拡大すると、左沢は礼を言い、前回の人妖暴走事件で使用された施設についての説明を始めた。
「人工化元体の培養と保管が行われたのが八番です。その地下に人妖収容所がありました」
「つまり、その辺の守りが厚いわけですね。AHT細胞の開発はどちらで?」
「医学部五号館ですから、四番ですね」
「四番、四番……」
凉が地図を見回す。ようやく、目当ての番号を見つけた。
「って、隣?」
「はい。何なら、中で繋がっています」
「ばれません?」
「侵入さえできれば大丈夫かと。団員が棟を移ってくることはないと思います」
凉は再び地図を睨んだ。医学部五号館の侵入ルートは、正門からのルートと、八番の傍を通るルート、そして北からのルートの、大きく三つが存在した。
「北から行きますか」
凉が、運搬車両の通りが最も少ないであろうルートを選択する。左沢は頷いた。
二人は北側の低い塀を乗り越え、大学敷地内に侵入した。保健学科棟が並ぶエリアを抜けると、メインの通りを避けて、植木や建物の影に隠れながら南に向かった。しばらく進むと、一際背の高い建物が見えた。目的としている五号館だ。入口では、緊張感のまるでない警備服姿の二名の男性が、形だけの守衛を担っていた。彼らの目をどうごまかそうか、凉が相談しようとしたが、すでに左沢は荷物を置き、妖化していた。
「え、あ、ちょっと、殺すのは――」
とっさに呼び止めるも、大声を出すわけにもいかず、独り言のように零れるに留まった。
しかし、心配は杞憂に終わった。左沢は守衛を拘束すると、口にテープを貼りつけ、武器になりそうなものと通信機を没収するだけに留めた。拘束した守衛は休憩室に監禁し、凉たちは誰にも邪魔されることなく実験室へ荷物を持ち込んだ。
今度は、持ち込んだ荷物の整理が始まった。大量の資料を挟んだファイルとノートパソコンを抱え、凉は実験室の奥に向かった。入ってすぐのところの分析機器の並んだ机を一瞥して右に曲がり、小物類や事務用品が整頓された長机を素通りして、さらに奥の長机の前で足を止める。すでに、何らかの資料が散乱していた。本来ここで活動する教員か学生のものだろう。持っていたものをいったん椅子の上に置き、机の上の資料を適当に束ねて端に避け、空いたスペースに、椅子に退避させていたファイルとノートパソコンを置いた。
「夕凪さん。手が空いたらでいいので、五月以降のデータを印刷してくれませんか?」
背後から、器具の確認をしながら左沢が告げる。
「わかりました。今やります」
「プリンターは入口のところにあったと思います」
凉は、置いたばかりのノートパソコンを抱えてプリンターの場所に移動した。近くにあった丸椅子を足で寄せ、その上にパソコンを置き、プリンターから伸びるコードを接続する。パソコンを起動後、研究室の共有フォルダにアップロード済みのローカルファイルを一つ開いた。
見慣れた専門用語と、図の並んだ文章が視界に飛び込んできた。凉自身が作成中のレポートだった。それなのに、何故か目が滑った。文章が暗号文のように見え、図の意味が理解できない。必死に読み込もうとすると、拒絶するように頭痛と耳鳴りがする。それでも無理矢理睨み続けていると、今度は腹痛を伴う吐き気が続き、脳を掻き混ぜられるような眩暈に襲われた。
視界がたちまち暗転した。
気がつくと、床に横たわっていた。隣では左沢が屈み込み、心配そうに覗き込んでいる。意識がはっきりしてくると、凉は身体を起こし、頭を確認するように触り始めた。
「頭、打っていませんでした?」
「大丈夫だと思います」左沢が即答する。「持病は?」
「ありません。多分、久しぶりの難しい文章に頭がびっくりしちゃったんだと思います」
凉は額を拭いながら、おどけた口調で答える。しかし、左沢は真顔のままだった。
「本当に久しぶりだからですか?」
痛いところを突く――否、抉られる質問だった。
研究は好きだ。学校の算数や理科のように、すでに解答が用意されているわけではなく、出口がないかもしれない迷路を地図なしで進むようなものが研究だ。仮説を立て、検証し、それを積み重ね、時には重ねてきたものを惜しみなく捨て去ることを要求される。常に不安がつきまとい、簡単に進むことはない。だからこそ、おもしろいと思う。新たな謎が増え、謎だったものが解明・理解できること。偶然から生まれる、奇跡のような発見。苦労の末、ようやく得られる成功。全部が好きだった。加えて、今は「葵のために早くAHT細胞を完成させたい」という目的もある。
そんな気持ちと相対して、身体は逃げようとしていた。
――本当に研究が好きなら、どんなに辛い環境であっても投げ出すような真似はしない。途中で挫けるようなのは、研究好きと思い込んでいるだけの半端者だ。
前田の言葉が脳裏を過った。
自覚できている心というのは、あくまで表層的なものであり、最も核心的な精神なるものとは別物である。身体症状が現れることで、初めてストレスを自覚するというのが一例だ。故に、「心」は当てにならず、身体の無意識な反応こそが、より「(語弊があるが)本心」を表していることになる。
だとしたら、研究に対する熱意はまやかしなのだろうか? 葵を救いたい気持ちも嘘なのか? 周囲の期待に応えるために――失望させないようにと作り出した、偽りの感情なのだろうか?
「謝らないでください、責めているわけではありません」
狼狽する左沢の声で、凉は我に返った。
無意識に「ごめんなさい」と連呼していたようだった。口を開いたまま、発声を止める。遅れて、頬を濡らす涙の感触を覚えた。眼尻を擦り、濡れた指先をぼんやりと見つめると、奥の左沢に視線を移した。
「焦る必要はまったくありません。向かいに休憩室があります、落ち着くまでゆっくり休んでください。守衛の二人もいますが、邪魔はされないと思います」
左沢の言葉を受け、凉は休憩室に向かった。中に入ると、丸机に守衛の二人が背中合わせに縛りつけられていた。当然、二人のほうは驚いたように凉を見たが、凉のほうは一直線にソファに向かい、横になった。
まだ頭の中は、波立った泥水のように淀んでいた。半ば無意識で、唸りながら寝返りを打つと、少しだけまともになった。
天井を眺め、目を閉じる。
封印石は左沢が持っているから、少なくとも励化線が途絶える心配はない。だから焦る必要はない。理解はできるが、焦燥感が消えることはなかった。こうして休んでいる間にも、葵はAHT細胞の完成を心待ちにしているだろう。それに、どこかで誰かが暴走人妖になっているかもしれない。あるいは、その人妖に襲われている人がいるかもしれない。
多くの人が命の危機に晒されている中、安全地帯で休んでいる自分が憎くて堪らなかった。