9. 水野はなの正体と5年前の真実
緊張の糸が解け、凉は帰りの車で熟睡していた。そのときの眠気が尾を引き、会議が始まってからも身体を睡魔に乗っ取られていた。その様子は、傍から見ても明らかだった。
「誰か、飲み物を渡してやれ」
田村が呼び掛けると、何人かが反応して手元を確認したが、誰も名乗り出なかった。飲み物を持参していなかったのだろう。
唯一、千路の席にタンブラーが載っていたが、凉に渡そうとはしなかった。田村も気づいている様子だったが、何も言わない。
ただし、席が隣だったので、凉はすぐにタンブラーの存在に気がついた。ぼんやりとした目でしばらく見つめ、何の断りもなく手を伸ばした。
周りが止める隙すらなかった。田村の「あ」という声と、凉の喉を鳴らして中身を飲む音が重なる。次の瞬間、
「おええええええ!」
凉が、口の中のものを盛大にぶちまけた。テーブルの上が赤茶色い飛沫で汚される。
周囲が困惑する中、千路が持っていたティッシュで拭き取り始めた。浜町も、何か思い立ったように席を立ち、急いで会議室から出て行った。
「何っすかこれ? 石油?」
凉がタンブラーの持ち主に訊く。
「人工化元体だ」
千路の代わりに田村が答えた。
「人工なら味なんとかしてくださいよ」
「無駄だ。普通の人間は点滴で体内に入れる。味に拘る意味がない」
凉は不満そうな視線を、田村から千路に移した。当人は始末に必死で気づいていない。
まもなく、浜町が未開封のミネラルウォーターを持って会議室に戻った。凉はありがたく受け取り、半分一気に飲んだ。それでも、口の中に残る強烈な違和感は緩和されなかった。ともあれ、凉の眠気を飛ばすという目的は達成されたので、会議は再開された。
「例の取引はナシになったようだな?」
田村が机の上で腕を組み、前のめりになる。凉は再度水を飲み、表情を歪めたまま答えた。
「左沢のほうから撤回されました」
「理由は言ってなかったか?」
――ここの監視を殺した二人組です。察するに、血盟士団内部にいるんじゃないかと思います。
左沢の台詞が脳裏を過る。しかし同時に、「くれぐれもご内密に」の言葉を思い出した。凉は水をわずかだけ口に含み、左沢が言っていた理由の片方だけを答えた。
「昨晩の件があったにせよ、それだけで意見が覆るのは怪しいと言ってました」
「ふぅん。結局土産は、奴が化元体を集めにどこかに出没するという情報だけか。どこを狙ってくるか、考えるとしよう」
田村が唸るように息を吐き出し、左右の足を組み替える。
机の上の粗相が片付き、千路が使用済みティッシュを机の隅にまとめた。
「団長」
千路が呼び掛け、まとめたティッシュの山を掬うように手に乗せる。
「どうした?」
「夕凪を帰しませんか?」
急な提案だった。凉も驚き、千路のほうを見る。千路は、凉を無視して完全に田村のほうを向いていた。
「何故?」
田村が怪訝そうに覗き込む。千路が答えようとしたところで、
「残るよ。疲れも取れたし」
先に凉が答えた。さらに続ける。
「それに、桜木って奴と一緒にいたくない」
「なんだ。あの坊主とひと悶着あったのか?」
田村が目を丸くする。凉は腕を組んだ。
「大したことではないけど」
「まぁいい、残れ。話を聞いている間に、大事なことを思い出すかもしれん」
千路は異こそ唱えはしなかったが、どこか腹の虫の居所が悪そうに見えた。
左沢が現れる候補地の議論が行われる間、凉は件の二人組について考えていた。
――この中に、蔵王で護衛する仲間を殺した人物がいる。
凉は団員たちの顔を見回す。この中で、犯人だった場合に最も厄介なのは千路だ。一方的に凉の嘘に勘づきながら、魂胆はまったく見せようとしない。さらには、団長からの信頼が厚いとうおまけ付きだ。
これまで、千路のさり気ないフォローに何度も救われてきた。一緒にいるだけで、戦力面で心強いはなとは別の安心感がある。だからこそ、敵だったときを考えると恐ろしかった。そんなことを考えながら横顔を観察していると、視線に気づいたのか、千路から一瞥が返ってきた。
「人工化元体の製造元は東北大学だったか?」
急に田村の声がはっきりと耳に届くようになった。凉は、千路から前方へ視線を向けた。
「はい」千路が平然と答えた。「最も備蓄が多いのも東北大です」
「山形県内に絞ると?」
「備蓄所自体は村山と鶴岡の二か所あります。多いのは村山ですね」
そこに、
「あの……」
凉が割って入った。全員が振り向く。
「化元体の補給ってそんな大量に必要なものなんですか?」
凉は質問しながら、昨晩の点滴のときのことを思い出した。凉と千路の二人分を合わせても、ベッドの下に隠せる程度の量しか使わなかった。仮に、必要な化元体量に個人差があったとしても――例えば、左沢のような強力な人妖は、より多くの化元体が必要であるとしても――備蓄所丸々一ヶ所分の化元体が要るとは考えにくい。
「そりゃまあ、そこまでは要らんが……」
田村が首を傾げながら、神妙な顔つきで答え出した。
「奴のことだ、別の目的のために備蓄所を占拠するということもやり兼ねない。当然、団員拠点や人妖避難所に現れる可能性もゼロではないが」
「どうしましょうか?」
浜町が顔色を窺うように訊ねると、田村だけでなく、団員全員がいっせいに難しい表情を浮かべた。しばらくして、田村が表情一つ変えず口を開いた。
「対処療法的に動くのが一番堅実だろう。各候補地の中間地点に団員を配置して追跡――」
「いやいやいやいや」
すかさず凉が話を遮った。
「それって、襲われた場所の人たちはどうなるんですか? おとなしく死んでもらうってことですか?」
どこからか、うんざりしたような溜息が聞こえてきた。凉に集まっていた視線が、興味を失ったように分散していく。
まもなく、田村が呆れた口調でこう告げた。
「それが最も犠牲を抑えられる手段だ。多少人員を寄せたところで、奴を止めることはできない。かの鬼が生きていれば、違ったかもしれないが……」
「鬼?」
凉がきょとんとした声で言う。田村は椅子ごと凉のほうを向いた。
「五年前の事件のときに千路が拾った女子高生だ。我々の知る限りでは最強の人妖だよ。詳しくは千路に訊くといい」
おそらく――十中八九、水野はなのことだろう。しかし、何故か田村の中では死んでいることになっている。
どういうことだと凉が目をやると、千路は白を切るように顔を背けた。
胸の中で、徐々に不安が膨らんでいった。
――五年前に大きなミスをしたの。そのせいで、一帯の避難所の人たちと血盟士団員が大勢死んでしまった。
先日はなが教えてくれた、偽名を使う理由。聞いたときは納得したが、今では作り話を疑ってしまう。話しているときに俯きがちだったのも、罪悪感のせいではなく、嘘がばれないようにしたかったのではないか? では、何のために嘘を吐いたのだろう。血盟士団内では死亡したことになっていることと関係あるのか? 否、先刻の千路の反応から、ないと考えるほうが難しい。そもそも、そんな怪しさ満点のはなを庇おうとする帝都や千路も何者なのか?
首筋を冷たいものが這い上がっていった。
会議が終わると、凉はキャンピングカーに戻らず、会議室と同じ階にある団員共用のコンピューター置き場に直行した。「コンピューター置き場」とは言っても、凉が勝手にそう呼んでいるだけで、実際はタブレット端末の充電に使う人がほとんどだ。パソコンを利用しているのは、他拠点との連絡係を務めるごく少数の団員ぐらいだった。
ちょうど凉が来たときも、先客は一人だけだった。凉は適当な席に腰を下ろし、「水野はな」という人物について検索した。ヒットしたのは、防衛医大に在学する本人らしき情報だった。続いて「さんばし かよう」と検索する。本人と思われる情報は、「三橋華陽」が二〇一〇年に仙台市の作文コンクールで入賞したというものだけで、人妖騒動に繋がりそうなものは一切出てこなかった。政府による情報規制があるとはいえ、葵が伝承から封印石に漕ぎつけているように、何か足掛かりになるものが残っているのではないかと思っていたが、淡い期待に終わった。
凉は失望しながら、ブラウザを閉じようとした。カーソルを右上に移動させる途中、偶然ブックマークバーの中にある「団員専用サイト」の文字が目についた。カーソルを止め、×印からUターンして該当箇所をクリックする。
ログイン画面が表示された。IDとパスワード欄に、使われていそうな文字列をいくつか打ち込んでみたが、すべて弾かれた。誰かに訊くしかなさそうだ。凉は、パソコンの電源を落とし、会場を後にした。
急ぎで最寄りの避難所の中学校に向かい、目的の教室のドアを叩いた。中から、中学生ぐらいの長髪の少女が現れた。
凉は、単刀直入にこう訊ねた。
「浜町さんいますか?」
同時に、部屋から「ダウト!」と叫ぶ元気な声が聞こえてきた。少女は、視線だけで部屋のほうを一瞥し、開口した。
「はい。でも、今トランプ中です」
「大丈夫」
凉が即答すると、少女はドアを大きく開き、凉を中に入れた。
浜町と子供たちが輪を作り、トランプゲームに興じていた。熱で寝込んでいた少女も、回復してきたのか、額に冷却ジェルシートを貼りつけ参加している。
「あ、夕凪くん」
凉が声を掛ける前に、浜町が気づいた。他の子供たちも、声に反応して振り向く。
「この前の奴じゃん」
そう叫んだのは、以前凉と派手に喧嘩した少年だった。凉は自ずと表情が渋くなる。
「一緒にやんの?」
まるで、喧嘩のことは忘れたかのように、平然と質問してくる。凉が答えずにいる間にも、浜町が少しだけ後ろにずれ、隣に一人分のスペースを作った。
「よかったら、ここ、座って」
浜町が、空いたスペースをトントンと叩く。凉がその場で立ち尽くしていると、
「あの、迷惑じゃなければ、しばらく代理をお願いしてもいいですか? トイレに行きたくて」
出迎えてくれた少女から、半ば強引に手札を押しつけられた。
凉は面倒そうに溜息を吐き、浜町の隣に座った。引き継いだ手札を広げ、流し見しながら再度溜息を零す。
「俺が混ざってもつまんないでしょ」
「気にしねぇよ。ルールも簡単だし。それに、一番弱いの、浜町のおっさんだから」
子供たちの間で笑いが起きた。
「ひどいなぁ」
浜町はそう呟くも、何だか嬉しそうだ。
凉は、先程より小さく溜息を吐き、手札を確認しながら番号順に並び変えた。
参加することになったのは、トランプゲーム『ダウト』だ。その名の通り、疑わしき者を指摘するゲームだ。具体的なルールは次の通りである。プレイヤーが手札から一枚ずつ裏返しにして、番号順に場に提出する。最初のプレイヤーが一(A)、次のプレイヤーが2、その次のプレイヤーが3……といった具合だ。このとき、カードの数字を宣言しながら提出しなければならない。十三(K)に到達したら、再び一から順番に出していく。当然、場に出せるカードが手札にない場合も存在する。そのときは、本来出すべき数字を宣言しながら、適当なカードを手札から選び、場に提出する。
他プレイヤーの番のとき、宣言とカードの数字が違うと思ったら、「ダウト」と指摘してもよい。提出されたカードを表にし、宣言した数字と異なっていた場合、カードを提出したプレイヤーが場のカードをすべて回収する。カードの数字と宣言が同じだった場合、指摘したプレイヤーが場のカードをすべて回収する。こうして、最初に手札がなくなったプレイヤーが勝利となる。
ゲームの再開と同時に、凉の前に紙コップが置かれた。浜町が脇に手札を裏返して置き、ジュースを注ぐ。
「どうしました? 遊びに来たわけではないでしょう?」
浜町はキャップを閉じると、持っていたペットボトルと置いていた手札を交換し、「二」と宣言して一枚場に提出した。
「研究用の調べものをしていたら、血盟士団のページを見つけて。三」
凉が手札からカードを出す。
「あれ? IDとパスワード必要じゃなかった?」
「そう。だから困ってます。研究のために知りたいことが、たくさん載ってる気がして」
凉は、空いているほうの手で紙コップを取り、中身を呷った。
「へぇ」
浜町は、考え込むように上を向いた。
子供たちの間で、爆笑の渦が巻き起こる。凉と浜町だけが、別世界に取り残されたように真顔を保っていた。
場のカードが回収され、数字のコールが聞こえ始めると、まもなく浜町が口を開いた。
「夕凪くんが欲しそうなデータはないと思うな」
「僕が欲しそうなデータって、浜町さんわかるんですか?」
「人妖とか、化元体とか。あとは人工化元体とか……その辺りだと思ってるけど。不足してたら夕凪くんの先生が気づくと思うし、今手元に渡ってるので十分ってことにならない?」
「それはまぁ、そうなんですけど……」
今度は凉が黙り込んだ。
笑い交じりのカウントと、怪しむようなコメントが聞こえてくる。ゲームのほうは、「ダウト」の声がないまま進行していた。
しばらくして、ようやく凉が口を開いた。
「確かに、研究データはあるんですけどね。でも、他の資料が全然なくて」
「ふぅん……」
浜町が凉のほうを振り向いた。
「研究データ以外も使うんだね。十二」
「ええ……ほら、全然関係ない情報が実はコアな部分に絡んでたりすること、あるじゃないですか。十三」
「ダウト!」
ツンツン髪の少年が勢いよく叫んだ。
凉は真顔でカードをひっくり返した。ハートのKだった。歓声と、手を叩く音が沸き起こった。少年は悔しそうに頭を掻き、場に積まれたカードを回収した。
浜町は、トランプの予備のカードを一枚取り、ペンで何か書き始めた。記入を終えると、カードの表面に息を吹き掛け、凉に手渡した。
「IDとパスワードです。サイト内のファイルも、全部これで見れると思います」
「ありがとうございます」
メモを受け取ったタイミングで、少女が戻ってきた。凉は手札を渡し、部屋を出ようとする。
「そうだ、夕凪くん」
浜町が思い出したように呼び止めた。
「そろそろお弁当が届くんだけど、ここにいる人たちに配るのを手伝ってくれないかな?」
無意識に、凉の顔が不快感を表すように歪んだ。適当な理由をつけて断ろう――そう思って口を開いた瞬間、罪悪感がチクリと胸を刺した。浜町にはたった今、団員専用サイトのパスワードを教えてもらったし、何度も世話になっている。それに、弁当配りなど大した仕事ではない。
凉は不承不承引き受けることにした。
他の男性陣が、ダンボール箱を運びながらすいすいと通り過ぎていく様を横目に、凉は一回り小さい箱を抱えながら息を切らしていた。途中、何度もダンボール箱を床に下ろして休憩しながら、どうにか指定の教室に到着した。入ってすぐのところで、落とすようにダンボール箱を置く。ドンという大きな音がした。凉は乱れた息を整え、ささやかな達成感に浸りながら額の汗を拭った。
近くに座っていた男性が立ち上がり、ダンボール箱と凉を見た。
「これ、お弁当?」
「はい」
凉が箱を開封しようとすると、その男性も手伝い始めた。
「ありがとうございます」
箱が開封されると、他の避難民がわらわらと列を作り始めた。その中の一人の中年女性が、凉の顔を見て目を丸くした。
「あら? あなた、もしかして凉くん?」
「あ……いや」
凉はわざと曖昧な返事をしたが、ごまかすことはできなかった。一部の人たちが集まり、見世物でも眺めるように凉の顔をじろじろ見つめる。
「何でこんなところにいるの?」
「大人に全部任せてるんじゃね?」
「やっぱり? 天才少年って、ただのお飾りだったんだ」
「九歳で論文発表したってのも、共同研究者に名前が書いてあったってだけなんだろ? 実際に研究に参加してたかもわからないし、論文も全然書いてない可能性だってあるらしいぜ。ネットで見た」
言いたい放題の声に、次第に凉の頭に血が上っていった。反論と、掛けられた以上に醜い言葉が、次々と脳内に浮かぶ。うっかり口を開けば、マシンガンのように口を衝いて出て行くだろう。だが、それらを全部ぶちまけたところで、相手を喜ばせるだけなのはわかっていた。苛立ちを押し殺せるうちに、さっさと教室を出ることにした。無言でその場を離れ、そそくさと出口に向かう。
「おい、ガキ。こんなところで何してる?」
ドアの手前で不意に呼び掛けられ、足が止まった。凉は煩わしそうに、声の主を見た。
三十代半ばぐらいの男性だった。厳格そうな顔つきとは裏腹に、ストライプのシャツは第二ボタンまでだらしなく開けられている。
男性は凉の視線を受けてもなお、壁に背中を預けながら胡坐をかき、つまらなそうに弁当を箸で突いていた。
凉は、男性から視線を外した。
「大事な用事です」
「研究よりもか?」
男性の目は、相変わらず弁当を捉えていた。廊下に出掛けていた凉の右足が、元の位置に戻る。
「あなたには関係ないと思います」
すると、男性は弁当を雑に床に置き、勢いよく立ち上がった。
「成果も出せてない状況で、研究を差し置いてお出掛けか。ずいぶん舐めてるようじゃないか」
「成果も出せてないって、簡単に言いますね」
隠しきれない分の苛立ちが、眉間の皺となって現れる。
「成果を出すのは当然の義務だ。研究費も被験者の命も無限じゃない」
「そんなのわかってますよ。それこそ、こうやって突っかかってくるの、やめてもらえます? 一番無駄なんで。それとも、子供が立派な研究してるのがそんなに気に入らないですか?」
「別に、研究なんか何歳から始めようが構わん。だが、遊びでやるのだけは許せない。チヤホヤされたいからやってんだろ? 研究。だから失敗して投げ出した」
「違う」眉間の皺が深くなった。
「何が違う? 研究そっちのけで田舎までやって来て、やってることが弁当配りじゃねえか」
「違う」口調が先程よりきつくなる。
「研究なんかどうでもいいから、ボランティアでイメージアップしようとしてんだろ?」
「違う!」
「お前が何もしなくても、政府・企業・国民、みーんな、お前のために金もデータも場所も、人モノ実験台、全部与えてくれるからな」
「憶測だけで語ってんじゃねえ!」
凉の右足が、教室のドアを強く蹴った。教室が一瞬で静まり返る。
「さっきから何なんだよ、あんた。勝手なイメージだけでベラベラベラベラ喋りやがって」
今度は、近くにあったゴミ入れ用のダンボールを蹴り飛ばした。側面が大きく凹み、中のものが飛散した。凉は、床に零れ落ちた弁当の空き箱をわざと強く踏み潰した。
「相手がガキだからって調子に乗るんじゃねえよ! 研究の苦労も何も知らねえ外野が!」
凉を責めるように睨んでいた複数の視線が、ばつの悪そうに逸らされた。
しかし、目の前の男性は違った。眼光に宿る嫌悪が、殺意の込められた憎悪に変わる。血管の浮いた右手拳が、震えながらゆっくりと持ち上がろうとしていた。
そのとき、二人のいるほうと反対側のドアが勢いよく開いた。
「待ってください!」
滑り込んできたのは、帝都だった。偶然教室の前を通りかかり、事の成り行きを見ていたようだ。
「凉はイメージアップで来てるわけじゃありません。本当は東京に戻って研究したいと思っています。だから――」
帝都が説得する間に、凉が教室を飛び出した。ドアの激しく閉まる音が響き渡る。
口から荒い息を零しながら、凉は早足で避難所を出て行った。苛立ちをぶつける宛がなく、自らの髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
「何が成果だ。何が遊びだ。チヤホヤされたいだ。研究なんかどうでもいいだ」
死んだように静かな街の中で、カツカツと足音が虚しく響いた。
チヤホヤされたい。失敗したから、イメージアップしたい。そんな考えは、失敗した身では到底思いつきもしないものだった。
病室のベッドで常に手帳を持つ、不愛想な男性の姿が脳裏を掠める。ずっと素っ気なかったのに、最後の最後に優しい言葉を残して逝ってしまった。
その存在を確かめるように、右手が自然とズボンのポケットに伸びる。取り出された暗緑色のカバーの手帳は冷たかった。唇がきつく結ばれるのに合わせて、右手に力が入る。親指が強く押しつけられたところに、微かに指の跡が残った。
胸の奥底に押しやっていた喪失感が、再び顔を覗かせた。
心にぽっかりと開いた穴。承認欲求が満たされるだけでは、当然どうにもならない。時間や金が解決してくれるものでもないだろう。AHT細胞が完成しても、完全に埋まることはないかもしれない。今回の失敗は、それほどのものだったのだ。
瞼の裏に浮かんでいた中稲の姿が、葵のものに変わる。病院で最後に見た顔が思い出せない。それでも、確か笑顔だったと思う。
心の穴が、これ以上増えるのは堪えられなかった。
怒りと苛立ちを帯びていた凉の目が、決意の色に変わった。手帳を元の場所に仕舞い、同じ場所から一枚のカードを取り出す。
血盟士団の拠点に到着した。コンピューター置き場に直行し。空いたパソコンを立ち上げる。起動までの間に、持っていたカードを机の上に置いた。
ウェブブラウザで団員専用ページを開き、カードの内容を入力した。
ログインに成功した。団員名簿、人妖一覧、人工造化元体のレポートと部外秘のファイルが連続する。一番下までスクロールすると、「二〇一四 大規模人妖暴走事件 報告書」というファイルを見つけた。カーソルをファイル名に合わせ、マウスの左ボタンに人差し指を充てる。
「坊主。何を調べている?」
突然、後方から田村の声がした。凉の身体はぴくりと跳ね上がり、硬直した。
田村を筆頭に、数名の団員がぞろぞろとやってきて、凉の周りを取り囲んだ。
凉は、視線をやや下に向けながら、呟くような声で答えた。
「け、研究資料です」
「それは浜町から聞いている。具体的に、何に使うんだ?」
相手を納得させられるような返答が浮かばなかった。凉は小さく舌打ちした。
田村は屈み込み、凉と視線を合わせようとした。
「左沢からの頼み事だろう? 違うか?」
凉が、伏せていた視線を上げる。詮索するように覗き込む、田村の目が見えた。
どうやら、血盟士団の最大の懸念は、凉と左沢が内通していることらしい。誤解されるぐらいなら、素直に白状したほうがよさそうだ。
「三橋華陽について調べていました」
「ああ、例の鬼について千路から聞いた――」
「彼女は生きています」
途端に、団員たちが騒然とした。田村も例外ではなく、目が零れ落ちるぐらいに大きく見開かれた。
「詳しく聞かせてくれ」
一同は、凉を先頭にキャンピングカーへ向かった。
凉がドアを叩くと、覗き窓が開く音がした。それから程なくして、ドアが開かれた。
「凉くん、お帰り。遅かった――」
はなの目が、凉以外の人物を捉えた瞬間、瞳から光が消えた。
混乱したのは、はなだけではなかった。血盟士団員たちも、どういうことだと言わんばかりに、互いに顔を見合わせた。田村も怪訝な表情を浮かべながら、はなから凉に視線を移す。
そこに、避難所の作業を終えた帝都が帰ってきた。鼻歌交じりで完全にリラックスした様子だったが、団員たちの姿を認めた途端、表情が凍りついた。
「――どういう状況だ?」
「それはこっちの台詞だ」
田村が即答した。
さらに、千路もやってきた。片手に共用のものと思われるスマホを持っており、任務を終えて戻ってきたわけではなさそうだった。
「桜木、左沢から――」
「それどころじゃねぇ」
帝都に遮られ、千路はスマホを持ったまま立ち尽くした。その間、田村が煩わしそうにスマホを取り上げ、帝都の代わりに通話に応じた。
「悪いな。今話せる状況じゃない」
『おや。誰かと思いましたよ、団長。団員の不審死でもありましたか?』
「むしろ逆だ。死んだはずの人間が生きてて大騒ぎになってる」
沈黙の時間が訪れた。あまりに返答が来ないので、田村が苛立ち交じりの鼻息を零す。
「切るぞ?」
『でしたらちょうどいい。件の護衛殺しの二人組ですが、鬼と仲のよかった少年と、サングラスの男です。目的は無論、団への復讐です』
団員たちの目が、帝都と千路に集まった。すぐに、否定するように帝都が両手と首を振った。
「いやいや待ってくれ。そいつの話はデタラメだ。それに、千路は関係ない」
「もはや何が真実で、何が嘘なのか判断できん。ただ、鬼を見逃すことはできない」
団員たちの視線が、再びはなに集まる。
帝都は舌打ちし、団員と凉を睨んだ。次の瞬間、団員たちを押しのけて車に乗り込み、はなの腕を引いてキャンピングカーから逃げ出した。
「待て!」
すかさず団員数名が、帝都たちの後を追う。
残った団員があたふたする中、田村が千路に詰め寄った。
「この件、本当にお前は関わっていないんだな? 信じるぞ?」
「ええ」
千路は頷いた。
「組織にいる以上、私情を持ち込むような真似はしません」
田村は、真意を測るように千路の目を睨んだ。嘘ではないと確信すると、残っていた団員たちに指示を下した。
「ガキを探せ、最優先でな。それと、車の中を徹底的に調べろ」
「了解しました」
団員が三人、車の中に乗り込む。
田村は再び、スマホを耳元に充てた。
「もしもし、他にないなら切るぞ?」
すでに通話は切れていた。
車の側に、何かが降り立った。とっさに千路が田村を庇う。
天狗だった。周囲にいた団員を斬り殺し、一人からタブレット端末を取り上げると、虚脱状態の凉を掻っ攫い、上空へと帰っていった。
冷たい風が頬に当たった刺激で、凉は我に返った。耳元では、風が空を切る音に紛れて、左沢の声が聞こえた。
「……左沢との契約で、AHT細胞の研究を共同で進める運びになりまして、前田研究室の方々を米沢駅まで送っていただけるでしょうか……はい。その後は山形大学で研究することになります……いいえ、医学部があるところです。それでは、よろしくお願いいたします」
血盟士団員になりすました通話が終了すると、左沢はタブレットを凉に預けてこう訊ねた。
「探す暇はなかったと思いますが、件の二人組らしき人物は見つかりましたか?」
「へ?」凉は面食らった。「二人組って、桜木って奴とおっさんじゃないの?」
「あれは嘘です。鬼を消してもらう絶好の機会だったので、成り行きで騙りました」
「はぁ」
凉は腑抜けた声を漏らすと、怪しい人物について考え込んだ。一人だけ心当たりがあった。とはいっても、人間ではなく人妖だが。
「狐面。あんたとの取引が成立するのを、邪魔しようとしてた」
「なるほど、確かに怪しいですね。後で調べるとしましょう」
左沢は、凉の持つタブレットを見ながら言った。
下を見ると、以前はなに抱きかかえられたときより高い位置を飛んでいるのがわかった。眼下に見える映像が、早送りで変わっていく。
激しく吹きつける風の音と、時折聞こえてくる翼のはためく音。それらに耳が慣れ、音として認識されなくなった頃、
「一つ訊きたいんだけど」
凉が切り出した。地上を見ていた左沢が凉のほうを向く。
「何ではなさん――鬼を消したかったんですか?」
「一番の脅威でしたから」
「強いこと、知ってたんですね」
「それは、もちろんですよ。彼女がいたから負けたようなものです」
「あんたを五年も穴の中に閉じ込めたの、はなさんだったんですね」
「……少し違いますね」
どこか意味ありげな回答だった。
「少し、違う?」
凉は、そう訊ねたところで違和感に気づいた。左沢は人妖暴走事件の主犯だ。その主犯を倒してくれたのがはなだとしたら、事件最大の功労者を血盟士団がわざわざ殺そうとする理由がわからない。
困惑する涼を見て、左沢はぽつりと零した。
「なるほど。五年前の顛末を知らないみたいですね」
前から吹きつける逆風の音が、再びノイズとして耳に届き始めた。
凉は胸騒ぎを覚えた。はなに正体を訊ねようとしたときとは異なる――むしろ正反対の――性質のものだった。第六感が「訊かないほうがいい」と告げる。それでも、訊かずにはいられなかった。
「何があったの?」
「団にとっての最大の脅威は私でした。薄々感じていると思いますが、団の誰一人として、私と対等に戦える者はいなかった」
「でも、はなさんは戦えた」
「染谷の末裔も死に、団は後がない状態になりました。封印石が消えたら、二度と励化線を止めることはできなくなる。人工化元体はすでにありましたが、それでもすべての人妖に暴走のリスクはつきまといます」
そこまで聞いて、ほんの一瞬、解を得たような気がした。しかし届かなかった。否、解を得ることを拒絶したのだ。
胸の中の違和感が、望まない予想に形を変えていく。心臓が身体から出たがるように激しく脈打ち、全身が心臓と化したように振動する。その音は、間違いなく左沢にも届いているだろう。
知りたくない。その先を知りたくない。胸中で形成されていく靄の正体を確定したくない。今いる場所が上空でなかったら、すぐにでも耳を塞いだだろう。
風の音が消えた。最悪なタイミングで答え合わせが始まる。
「団は、鬼に私を例の洞窟まで追い詰めさせ、生き埋めにしました――二人諸共」