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五階百貨店をごぞんじだろうか? 店名ではない。某O市に現在に至るも継承される〈地名〉である。そも――
御一新なった明治初頭、巷には〝塔〟が大流行した。幾許かの入場料を払って人々は階段を昇り眼下に広がる風景を見下ろすのだ。現代の人間が訊けばただそれだけのことなのだが、高層ビルなどなかった当時、高い場所からの眺めは新鮮で驚きに満ちていた。人々は高い塔に立ち、吹き抜ける風に新しい時代を体感していたのかもしれない。
話を戻そう。帝都東京では〈凌雲閣〉が有名だが、関西の某所に出来たその塔は〈眺望閣〉という正式名を有していた。だがこの高雅な名称にも関わらず五階建てだったことから単に〈五階〉と呼ばれて親しまれた。
現存する写真を見ると灯台に似ている。
だが、何故〈百貨店〉? そう、この掌編へと導く良い質問だ。
この五階の塔、他所の塔同様、ただ昇って下界を見下ろすだけなのだが人気を博し連日連夜引きも切らず老若男女が押し寄せた。するといつの間にかその道筋に茣蓙を敷いてモノを売る者たちが現れた。店を構えるほどの資金もいらず、いつでも逃げ――もとい、撤収可能な容易な商売方法である。一人一人の商品数は貧相だが種類は雑多で色々な品物が並んだ。いつしか、そこへ行けばなんでも手に入ると喧伝され、多少の諧謔を込めて〈百貨店〉と呼ばれ始めた……
秋月光太郎も最近この五階百貨店で商いをする末席に加わった一人だった。年の頃は20代半ば、こざっぱりとした洋装で容姿はそこそこ悪くない。但し、世に乗り損ねた零落感が半端ない。
実際、一時は洋行までした身なのだが華族の父親の急死で一気に家運は傾いた。帝都にある豪壮な家屋敷は抵当に抑えられ、持てるものだけ持っての都落ち。O市のばあやの家に転がり込んだものの、居候ばかりもしていられない。それで、とうとう手元に残った僅かの品々を売ってお金に変えようというわけだ。とはいえ――
「あーあ、今日もさっぱりだな!」
ほら、欧州風の長髪を掻き上げて嘆息している。
だがまあ、それも当然というものだ。当人どう見ても商才など皆無。だいたい、こんなところに並べて売れる品物ではない。ボヘミアンガラスのワイングラス、象牙の扇、バテンレースの日傘、ヘンケルスの万能ナイフ、セヴィロゥ通りでオーダーメイドした背広に、デァドロ社の陶器人形、アメリカ製最新ピクニック用食器(特製バスケット付)などなど……記述が前後するが、これら商品を並べているのは正確には茣蓙ではなく、ペルシャ産の絨毯ときた。無論、コレも欲しがる人がいれば即座に売ろうと思っている。
「わぁ! 可愛らしぃなぁ!」
今しも、ひとり少女が駆け寄って来た。桃割れに結った髪が愛苦しい。薄紅色の小さな手に銀細工の小箱を取り上げて蓋を開ける。即座に流れ出す可憐な音曲。
「それはオルゴールというんだよ、お嬢ちゃん」
「わぁ! 素敵な調べやね」
「曲はマルモット。ドイツの楽聖ベートーベンの名作なり」
「これ、こいさん、ひとさまのもんに勝手に触ったらあきまへんがな」
丸髷の品の良い母親が慌てて飛んできて娘の袖を引いた。
「せやけど、おかあはん、むっちゃ綺麗やさかい。うち、初めてやわ、こんなケッタイナ小箱――ほらな、この蓋、こう、開けますやろ、どうだす? 夢の国の扉みたいやわぁ!」
「この子は、まあ、あきまへん。そんたらわけのわからんもん、さっさと返しなはれ」
「いやいや、上手いことを言うね、お嬢ちゃん! 将来は詩人だな! 〝夢の国の扉〟か……」
「へえ、こう開けて……響いてくる調べを聞いとると、なんや知らん……胸の中にぎょうさんキラキラした風景がみえますのや。ほんまにおもろおした。あにさん、おおきに」
光太郎はオルゴールを戻そうとする娘の手を止めた。
「気に入った! お嬢ちゃん、それは持ってお帰り」
「え? せやけど――おかあはんは倹約家やさかい、こんなん、よう買うてくれへんわ」
「売ろうってわけじゃない。あげるよ。そのオルゴールもお嬢ちゃんと一緒にいたがってる。これは遙々海を渡って来たんだよ。これからはお嬢ちゃんの夢先案内だ。さあ、これを聞いて存分に心の旅を楽しんでおくれ」
「おおきに、あにさん!」
胸に抱いて走り去る少女。母に追いつくと事の次第を告げたようで、母子揃ってこちらへ向かって深々と頭を下げた。そうして、仲良く塔の中へ消えて行った。その後姿に手を振る光太郎。
「ボンボヤージュ! 良い旅を!」
とまあ、こんな調子だから、一向に儲からないのである。
「うーむ、それにしてもダメだな。今日もちっとも売れない。やはり見繕って来たモノが悪かったかな? はて? 何が好まれるのかさっぱりわからない……」
真顔で首を傾げる。と、目の端に人の気配を感じて光太郎は顔を上げた。
立っていたのは同年輩の青年だ。服装から見て、小役人と言ったところか。着古した背広にくたびれた帽子。だが、その眼光やよし。曇りのない清らかな眼差しが光太郎の並べた品々の中の唯一点に注がれている。
「?」
今日持ち出した中でも一番のハズレ。この場に全くそぐわない一品。それは目にも鮮烈な黄色い舞踏服だった。
「お気に入りになられましたか?」
光太郎が決心して声をかけたのはおよそ半時過ぎた頃。その間、青年はずっと魅入られたごとく舞踏服を凝視していたのだ。
「あ」
光太郎の言葉に夢から覚めたように身動ぎする。
「こ、これは失礼しました。こんなところに突っ立って貴殿の商売の邪魔をしてしまいました。申し訳ありません」
光太郎は声を上げて笑った。
「そのようなご心配は無用です。当方、〝商売〟などとしゃちほこばったことはしていません。それより――」
いったん言葉を切る。青年をまっすぐに見て、
「よほどお気に入ったとお見受けします。どうぞ手に取ってご覧ください。古い品ですがシルクの最高級品……一級品です。その昔、鹿鳴館のシャンデリアを浴びたこともある、嘘じゃありませんよ」
「承知しています。これと似たものを僕も写真で見たことがある――」
なおしばらく青年は舞踏服を見つめていた。やがて一礼してその場を離れる。だが、五、六歩行って足を止め、また戻って来た。
「その服のお代はいくらです?」
暫しの間。
やがて、光太郎は言った。
「売り物じゃないんです」
青年は戸惑って眉間に皺を寄せて問い返した。
「売り物じゃない?」




