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9.誰がなんと言おうと

 無味乾燥とした取調室には、スチール製のデスクとパイプ椅子があるだけだった。


 蛍光灯は薄暗く、白い壁は煙草のヤニで汚れていた。


 床にはどす黒くなった血痕らしきものが、適当に掃除されたままこびりついている。暗に暴力を伝えて被疑者の心理を圧迫するためにわざとそうしている。こういう演出は、警察がよくやる取り調べのテクニックのひとつだ。


「すっかりとエルヴン・マフィアが板についてきたやないか、一ノ瀬。監視カメラは切ってある。ちょっとお喋りでもしようや」


 スチールデスクを挟んで向き合っている榎本は、声を押し殺して笑った。


「桐島建設の件、聞いたわ。派手にやったな。殺人課の連中が頭抱えとったで。役員の愛人を吹き飛ばした件で、メガコーポ様がお冠や」


 鈴花は背筋をピンと伸ばし、榎本を見据えた。


「その仕事はわたしではありません」

「くっくっ。なら、死体が綺麗さっぱり消えてなくなった、地上げ屋とワーウルフのほうか?」

「それはわたしです」

「そら働き者やなあ。戦争担当社員は〈ビスカム・デパート〉の出世コースや。このまま偉くなってくれると僕も助かるわ」

「榎本警部――」


 膝の辺りに置いていた手を、鈴花はぐっと握り締めた。

 眉間にきつく皺を寄せ、言葉を続ける。


「わたしは――」


 誰かを殺したことを、組織も、この男も、評価する。


 そんなことをするために。


 一ノ瀬鈴花は。


 わたしは。


「警官です」


 それは消えてなくなってしまいそうな現実で。

 自分で口にすることで、どうにかつなぎとめることができる気がした。


 彼女はカール・F・ブヘラの腕時計にそっと触れると、もう一度その言葉を口にした。


「誰がなんと言おうと、わたしは警官です」

「そらそうよ」


 榎本は表情を変えることなく、デスクに置いてあったアルミの灰皿を引き寄せた。

 シガレットケースから取り出した煙草を咥え、火を点ける。

 数秒間の間を置いて、紫煙とともに言葉を吐き出す。


「一ノ瀬、お前は警官や」


 真剣な声。


 その言葉は、彼女に発行される唯一の証明書のようなものだった。


「はい。ですが――」


 それでも、鈴花は言った。


「時々、忘れてしまいそうになります」


 組織に潜入して、どれくらいになる? 一ノ瀬鈴花の職務経歴書は、いまやエルヴン・マフィアとして活動していた項目でいっぱいだ。


「わたしが何者なのか、忘れてしまいそうになります」

「何度でも言うたるよ。お前は警官や」

「はい……」

「一ノ瀬、お前が流す情報でティンク・パウダーの押収量は右肩上がりや。今回もロシア人のルートが太くなる前に潰せた」


 色つきの眼鏡の奥で、榎本が鋭い眼光をこちらに向けていた。


 まるで値踏みされているみたいだな、と鈴花は思った。


「ちょっとした土産も手に入ったしな」


 スーツの内ポケットから榎本が取り出したのは、ティンク・パウダーのパケだった。それをデスクに放り投げ、にたにたと笑う。


「一緒に逮捕したお前のところの営業から押収した。品質保証人用のサンプルや」

「そんな程度の押収量では、起訴してもうちの弁護士がなんとかしますよ」

「くっくっ……うちの弁護士か」


 榎本はなにかを言おうとして、それを飲み込んだように見えた。

 そして、別の言葉を口に出す。


「そもそもこいつは押収品のリストには載せてへん。もっとええ使い方があるからな」


 麻薬のパケを目をつけた対象者の服のポケットにそっと放り込んで職務質問したり、自宅やクルマを調べるときに警察官が自分で持ち込んでさも発見したふりをする。


 榎本に限らず、組織犯罪対策課の警官がよくやる手口だ。薬物所持で別権逮捕して、過酷な取り調べで本命の事件に関するネタを吐かせるのだ。そういった捜査に使うために、榎本は押収した麻薬や拳銃の一部を隠し持っている。


「そんな目で僕を見るな、一ノ瀬」


 榎本は煙草を灰皿に押しつけた。


 自分がどんな目で彼を見ているのか、鈴花にはわからなかった。


「僕はこれでも警官やし、お前もそうや、一ノ瀬」

「はい……」

「正義の味方はしんどいなあ。漫画やアニメに出てくる完璧な正義の味方がどこにおる?」


 そう言った榎本が、スチールのデスクに両手をついて頭を下げた。


 額がデスクにぶつかり、ごちん、という音を立てる。


 頭にある狐耳が、しおらしくなっている。


「けどな、しんどいのは承知の上や、もう少し頼む」

「……榎本警部」


 いつでも人を見下した粗野な笑いを隠さないこのフォクシーの男が、頭を下げるなど見たことがなかった。いや――一度だけある。彼女が潜入捜査官になると決心をしたあの日も、榎本は警察官の見習いに過ぎなかった少女に頭を下げた。


 鈴花は息を呑むと、背筋を伸ばしたまま言った。


「大丈夫です。わたしはまだやれます」

「いずれ身分を戻したら、勲章つけて楽な部署に栄転させたるよ。二階級特進や」

「別にいいですよ。出世をしたくてやっているわけではありません」

「いいや。もらえるもんはもらっとけ。遠慮は美徳かも知れんが、結局は損をする」


 そこまで言って、榎本はようやく顔を上げた。


「一ノ瀬、身分が戻ったら階級は若くして警部補やな」

「榎本警部をこき使えるように、もっと上がいいですね」

「そら勘弁や」


 にたにたとした粗野な笑いに戻ると、榎本はパイプ椅子を後ろに引いた。

 デスク上のパケを回収するとゆっくりと立ち上がり、スーツの襟元を正す。


「二日くらい泊ってけ。なんも話さんでええけど、二、三発殴らせろ。取り調べしたことにせんといかんからな。それで釈放や。耳長の連中とも話はついとる」


 いつものことだったので、鈴花は小さくうなずいた。


 榎本は取調室を出ていく直前、なにかを思い出したかのように踵を返した。


「一ノ瀬鈴花巡査」


 こちらを真っ直ぐに見据え、彼は敬礼した。


 鈴花は一瞬だけ言葉につまり。

 なにも言わず、答礼もしなかった。


 敬礼に答える潜入捜査官など――いるわけがない。

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