7.警察官はなにをしてもええんや
鈴花は反射的に音がした先を見た。
取引相手が連れてきていた体格のいいロシア人の首が、ありえない方向に捻じ曲がっていた。
ロシア人の首をへし折ったのは――
「ゴブリン!」
鈴花は思わず叫んだ。
品質保証人の姿が、見る影もなく変わり果てていた。
正確には、変わろうとしていた。
頭髪は抜け落ち、体躯は矮小化し、肌の色は暗緑になっている。
獣じみた眼光、鋭い牙と長い舌、歪なかたちの耳、特徴的な鷲鼻。
紛れもなく、それはゴブリンだった。
まだエルフやワーウルフなら人語を解し、変質前の記憶もある。
だが、ゴブリンはどうしようもない。ただの怪物。
無差別に人を襲う、異世界の住人だった。
捜査員たちが口々に叫んだ。
「榎本警部!」
「状況、ゴブリン!」
「見りゃあわかる!」
榎本は冷静だった。
すぐさま自動拳銃をゴブリンに向けて発砲する。
次々に弾丸が命中し、ゴブリンが「ぎっ」という短い悲鳴を上げた。
「ダボが! よりにもよってゴブリンとはな」
ゴブリンの小柄なくせにその筋肉質な身体は、九ミリ程度では歯が立たない。そもそもゴブリン化事案の処理は、重武装の専門部隊の仕事だ。
捜査員の一人が、ゴブリンに殴打された。
ごっ、という鈍い音を残してそのまま海に放り出される。
奇妙な声で、ゴブリンが笑った。
それを見た誰もが、ただ呆然とした。そして、一瞬の間を置いてパニックになった。次々に夜の海に飛び込み、手錠をかけられたままだった何人かはそのまま沈んでいった。
ゴブリンが獲物を狙う眼光を、こちらへと向けた。
クルーザーに残っているのは、鈴花と籐子、そして榎本だけだった。
「あれは品質保証人だったんだよ。ティンク・パウダーの」
「そんなことやろうと思たわ。面倒な麻薬をばら撒きよって」
「いやいや。魔王因子の活性化なんて誰にでも不意に起こる事故みたいなものだし、ティンク・パウダーにそれを助長する効果なんてないよ。科学的になにも立証されてないしさー」
「異世界の魔王が原因の現象に科学的もクソもあるか、ボケ。実際、ゴブリン化した連中のほとんどはティンク・パウダーの常習者なんやぞ」
鈴花は二人の会話に入らずに、ただ黙っていた。
ティンク・パウダーには魔王因子を活性化する有害反応がある、と言われている。それは肯定も否定もできない。だが、榎本の言うとおり、ゴブリン化した人間の多くはティンク・パウダーを摂取している。これは復興東京だけではなく、世界的な傾向だった。
「榎本、ここは貸しってことにしておいてあげるよ」
「そら助かるわ。あんなん相手にするのは面倒やからな。僕、ただの善良な警官やし」
「よく言うよ」
籐子は両足を甲板に踏ん張って、後ろ手に拘束されているチタン製の手錠を引き千切った。
それを見た榎本は押し殺した笑い声をもらした。
「くっくっ、ホンマにエルフか? なんか違う種類のバケモンちゃうの?」
「年頃の女子に失礼だな」
手錠を引き千切る際にできた手首の擦り傷が、みるみるうちに治っていく。
ゴブリンが耳障りな声で吠えた。動物的な本能で怯えているようだった。
「ま、こうなったらお互い生きるか死ぬかだよ」
籐子は軽く息を吸うと、ぐっと腰を落とし。
次の瞬間には甲板を蹴って一気に距離を詰めた。
力任せに殴りかかってくるゴブリンの右腕を、がっちりと鷲掴みにして受けとめる。
「しっ!」
籐子はゴブリンの左脇腹に鋭い拳の一撃を見舞った。
骨が砕ける鈍い音。
獣じみた悲鳴が上がる。
右腕を掴まれているせいで、ゴブリンは吹っ飛ぶこともできない。
続け様、籐子がゴブリンの顎を膝で蹴り上げた。
顎の骨が砕け、首が異様な角度に曲がる。
「神村籐子にかかればゴブリンの一匹程度、ホンマにゲームのザコモンスターと変わらん。経験値稼ぎにもならん。おっそろしい女や」
鈴花は榎本と並んで、ゴブリンが一方的にやられる様子を眺めていた。
「シンプルや。だが、それだけに強い。〈天慶〉のチタニア・アーツ」
榎本の言うとおりだった。
神村籐子のチタニア・アーツは、鈴花のように魔王因子を一時的に活性化させることで使うチタニア・アーツではない、恒常的に発動している珍しいものだった。
その効果は単純明快で、ワーウルフも相手にならないほどの身体能力の強化。あるいは銃で撃たれた傷くらいすぐに治癒するリジェネ効果。〈天慶〉のチタニア・アーツとはよく言ったもので、ゲームであらゆるバフが常にかかっているようなものだ。
故に彼女の瞳は常に魔王チタニアと同じ、金色に輝いている。
それがいやで、エルフの瞳の色のコンタクトレンズをしていることも知っている。
ゴブリンが天高く放り投げられ、錐揉みしながら東京湾の暗い海に着水した。
「はい、一丁上がりっと。魚の餌になって海を豊かにしろよー」
両手を腰に当てて、籐子は笑った。
「楽できてよかったじゃんかよー、榎本」
「ああ、モンスター退治は僕の仕事ではないんよ」
榎本は自動拳銃をホルスターに戻すと、甲板に転がっている血塗れのジェラルミンケースを手に取った。
「あと、貸しをつくるのは好かん。これで貸し借りなしや」
榎本は中に詰まっているティンク・パウダーのビニール袋を取り出すと、無造作に破って次々に海に投げ捨てた。末端価格で数千万ドルになる麻薬が、海に溶けていく。
手錠をかけられたままの鈴花は、呆れたようにして言った。
「ブツの押収がなければ、わたしたちはすぐに釈放されるわよ」
「あろうがなかろうが、お前らはすぐに釈放されるやろ、一ノ瀬。もっとでかい事案やないと、お前らを一生の豚箱いきにはできん。それに言うたやろ――」
榎本は空っぽになったジェラルミンケースも海に放り投げた。
「復興東京ではな、警察官はなにをしてもええんや」
こんな男が警察官とは本当にこの街はどうかしている、と鈴花は思った。
そして榎本の言葉のとおり、二人が警察署に連行されると、もう弁護士が到着していた。