6.犬になんぞ頼ってられんからね
瀬取りという取引方法は、洋上で船舶同士が積荷の交換をする手法のことだ。
鈴花と籐子は指定されたマリーナから組織のダミー企業が保有しているクルーザーに乗り込むと、顔見知りの営業担当社員であるエルフと挨拶もそこそこに深夜の東京湾に繰り出した。
波は穏やかで、復興東京のウォーターフロントの夜景が遥か彼方に見える。
世界で最も猥雑な街も、遠くから眺める分には無数の宝石が光り輝くような幻想的で美しい景色だった。一〇〇万ドルの夜景とは、いまやこの街のことだった。
GPSで指定した座標に近づくと、暗闇の向こうから別のクルーザーが近づいてくる。
「趣味で釣り始めたら、クルーザー貸してほしいなー」
「やるならせめてルアーがいいのだけれど」
「えー、フナムシ捕まえて餌にするとむちゃくちゃ釣れるらしいよ」
「絶対いや」
二人はそんなこと言いながら、ロシア人のクルーザーがアンカーを下ろして洋上で停止する様子を眺めていた。取引が順調に進む分には、こうして遠巻きにしていればいいだけだ。
ロシア人がこちらのクルーザーに乗り込んでくる。
人数は三人だった。一人だけ体格がいい男がいるが、万が一の際の護衛役だろう。
ベテランの営業担当社員が先頭のロシア人に向け右手を差し出した。エリート商社マンだと言われても違和感のない振る舞いだった。
「ようこそ、ガスパヂーン」
「〈ビスカム・デパート〉と取引できるなんて光栄だ」
ロシア人はビジネスライクな笑顔を浮かべ、エルフと握手をした。
ガスパヂーンは英語でいうミスターくらいの意味合いだ。新規顧客ということもあり、まったく胸襟を開いていない関係性であることがわかる。
「早速だがブツを見せてもらいたい」
「そう急かさないでください。品質保証人はどちらです?」
三人のうち、ひょろりと痩せている男が無言で前に進み出た。
こいつが薬物の純度が間違いないかを実際に摂取して確かめる。
「品質確認が終われば取引額の半分を指定の口座に振り込んでください。それが確認できれば全量を渡します。その後、残りの半分を別の指定口座に」
クルーザーの船内から、別の営業担当社員が頑丈なジェラルミンケースを持ってきた。
ロックを解除すると、一キロごとに袋分けされたティンク・パウダーが詰まっている。
鈴花が知る限り、現在の取引価格はキロ当たり三〇万ドルのはずだった。
これが末端価格になると、五〇倍以上になる。〈ビスカム・デパート〉のニューヨーク本店から各支店に流通させる仕組みのため、需要に供給が追いついていないのだ。
ベテランのエルフは懐からパケを取り出して、ロシア人に手渡した。
「確かめろ」
指示を受けた品質保証人がパケを開封した。
ティンク・パウダーの摂取方法はさまざまで、火で炙って煙を吸引することもあれば、静脈に注射器で打つこともある。復興東京の若者の間で流行っているのは、煙草に混ぜて吸引するカクテルという方法だった。
ひょろりとした品質保証人は右の鼻の穴を手で押さえると、パケの中身を一気に吸い込んだ。
「ぐっ……あっ……」
低いうめき声をもらし、ロシア人が全身を震わせて星空を仰ぐ。
鈴花からはその表情は見えなかった。
数秒の間を置いて、品質保証人は右手の親指を立てた。
「間違いない。上物だ」
それを聞いたロシア人が破顔した。
「ミスター、取引成立だ!」
大袈裟に両手を挙げ、ロシア人がエルフとハグをした。
そんな様子を眺めながら、籐子はあくびを噛み殺した。
「なにごともなく終わりそうじゃんね」
「そうね」
鈴花が同意して小さく嘆息するのと、二艘のクルーザーが四方から煌々としたサーチライトに照らされるのは、ほとんど同時だった。
深夜の洋上が、一瞬にして丸裸になる。
強烈な光に襲われて、鈴花は視界が真っ白になった。
なにが起きているのかを理解する時間もなく、拡声器をとおした男の声が響き渡る。
『復興省警察局や! どいつもこいつも一ミリも動くな! ぶち殺すぞ!』
サーチライトの向こう側から、警察局の警備艇が近づいてくる。
拡声器を手にしている男が船首から身を乗り出しており、
「ちっ、榎本かよー」
その声と姿をよく見知っている籐子が舌打ちした。
『全員、麻薬及び向精神薬取締法、危険薬物等禁止条例違反の容疑で逮捕する』
拡声器でがなり立てると、榎本と呼ばれた男は警備艇からクルーザーに飛び移った。
その衝撃で、船体がぐらぐらと揺れる。
拡声器を海に投げ捨て、榎本は自動拳銃を抜き放った。
同時にバッジを掲げて言ってくる。
「どいつもこいつも! 手を頭の後ろに回して膝をつけ! 今すぐやぞ!」
誰もが呆気に取られるなか、ティンク・パウダーの詰め込まれたジェラルミンケースを持っていたエルフが咄嗟にそれを海に投げ込もうとした。
銃声。
ぱっと血煙。
榎本がなんの警告もなく発砲した。
腹を撃ち抜かれたエルフがもんどり打って倒れた。
ジェラルミンケースが甲板に転がり血溜まりに沈む。
「人の話を聞かなあかんがな、ダボが。殺すぞ」
「もうやってるじゃんかよー」
籐子がぼそりと言うと、こちらに気づいた榎本がおかしそうに笑った。
「おいおい、神村やないか。戦争屋のお前がご苦労さん」
「うるさいよ。警察犬より鼻が効くんだから、この狐野郎」
「この仕事、犬になんぞ頼ってられんからね」
狐野郎というのは比喩でもなんでもない。
その男――復興省警察局組織犯罪対策課風紀取締特別行動係を率いる榎本晋作警部――は、フォクシーと呼ばれる魔王因子中毒者だった。
すらりとした長身を隙のないブランドもので固め、灰色が混じった黒髪を整髪料で撫でつけている。頭にはフォクシーの特徴である狐の耳、そして腰の後ろからは狐の尻尾。
色つきの眼鏡をかけているせいで、瞳からは感情を窺い知ることはできなかった。
人を見下したにやにやとした笑いが鼻につき、警察官というよりは犯罪組織の構成員だ。
この男は強引で暴力的な捜査手法とも相まって、復興東京の警察関係者や犯罪組織の間ではちょっとした有名人だった。特にティンク・パウダーの取り締まりには熱心で、〈ビスカム・デパート〉にとっては天敵のようなものだった。
「神村、お前みたいな大物がおるとは、僕もなかなかツキがある」
自動拳銃の銃口をふらふらとさせ、榎本は指示に従うように暗に言ってくる。
榎本に続いて、警備艇からは次々と武装した捜査員がクルーザーに乗り込んできていた。
ロシア人のクルーザーも同じような状況だ。
ロシア語の怒鳴り声が聞こえてくるが、容赦なく発砲されている。
世界中から集まる凶悪な犯罪組織の構成員は、時にはチタニア・アーツを使う魔王因子中毒者だ。復興東京の警察官は重武装で、危険と判断すれば先制攻撃も辞さない。
「はあ、もう、最悪」
鈴花は指示に従い跪いた。
「籐子、大人しくしてよ」
「ういうい。警備艇の重機関銃撃ち込まれたら、こんなクルーザーは木っ端微塵になっちゃう。海だから逃げ場もないし。でもさ、あれはなんとかしないとなー」
籐子の視線の先には、血に塗れたジェラルミンケースがある。
ブツが押収されてしまうと、組織の弁護士から横槍を入れてもなかなか釈放されない。
あれを海に放り込んで、ロシア人と船上パーティをしていたと言い張りたいところだ。
榎本はこちらを警戒して視線と銃口を外さないまま、エルフとロシア人どもをしょっ引くように指示を出していた。
「どれ、お前らは聞き飽きてるやろうけど、一応は権利やから言うとくぞ」
榎本はベルトの手錠ケースからチタン製の手錠を取り出した。
「お前らには黙秘権がある。あらゆる供述は裁判で不利になる可能性がある。くそったれの暴力警官が、みたいな発言は慎んだほうが身のためや」
「弁護士を呼んでもらえる?」
鈴花が嘆息混じりに言った。
「一ノ瀬か。ええ時計しとるね」
からかうようにして笑うと、
「もちろん呼んだるよ。弁護士を呼ぶ金がないなら、善良な市民様のありがたい税金から国選弁護人をつけたる。もっとも、お前らは組織の息のかかった弁護士が呼ぶ前にすっ飛んでくるやろうけどな。おら、神村」
榎本は鋭い蹴りを籐子の顔面に入れた。
「怖い目で睨んだからあかんがな」
「くそったれの暴力警官が」
「おう、そうや」
榎本がその場にしゃがみ、色つきの眼鏡の奥から籐子を睨み据えた。
フォクシー特有の縦長の瞳孔。その瞳にはそこいらの犯罪者などよりも底冷えするような迫力があり、榎本という男が警察官をやっていることが不思議でならない。
「警察官はなにをしてもええんよ。この復興東京ではな。お前らもご存知のとおりや」
低く、凄みのある声で榎本は言った。
籐子を、そして鈴花を一瞥して立ち上がる。
二人は後ろ手に手錠をかけられると、榎本の部下に無理やり立たされた。
「連れていけ。好きなだけうちのスイートルームに泊まらしたるよ」
「はあ、最悪」
鈴花は床が硬いだけの留置所を思い出し、嘆息をもらした。
何度目かもわからない逮捕だったので、鈴花も籐子も慣れたものだった。
うまくいけば即日釈放されるが、ブツが押収されるとそういうわけにもいかないだろう。
鈴花が警察局の警備艇に向かってのろのろと歩き出すと、
ごぎんっ
という奇妙な太い音が聞こえた。