4.いつか殺し屋を引退したら
『昨日の午後七時頃、復興東京特別行政市新渋谷区の高層マンションの一室から火災が発生した事件で、捜査に当たっていた復興省警察局と第六分署はスプレー缶の不適切な処理による爆発事故であると発表しました。室内からは身元不明の遺体が発見されており、この部屋の住人である女性との連絡が取れなくなっていることから警察は身元の確認を進めています』
壁掛けテレビから流れてくるニュースをぼんやりと眺めながら、鈴花はガラスのコップに自分で水を注いだ。
『続けて再建二〇周年を迎えた上野動物園から、可愛いパンダのニュースです――』
カウンター席しかないカレー屋で、客は鈴花しかいない。
ニュースで言っていたマンションは、ノエル・エーデルワイスが指示して吹っ飛ばしたマンションに違いなかった。ワーウルフとの争いはニュースにすらなっていない。
「スプレー缶ってそんなに爆発するのね」
一口だけ水を飲んで、鈴花はカウンターの向こうに言った。
ポニーテールにエプロン姿の籐子が、カレーの入った鍋をじっと見つめている。
「なんか捨てるときに穴開けるじゃん? そのときとかに引火するらしいよ」
まったく意味のない会話。
当事者として真実を知っている身からすれば、ほとんど芝居のようなものだった。
だが、真実がどうであれ、ニュースで言っていたことがこの街では事実だ。
テレビの映像は、中国から新しくやってきた愛くるしいパンダの映像に切り替わっている。
「はあ、パンダ可愛い」
頬杖をついて、鈴花は嘆息まじりに言った。
狭い店内には食欲を刺激するカレーの匂いが広がっていた。何種類ものスパイスや香辛料を混ぜた、香ばしく、コクがあり、スパイシーな、それはそれは複雑な匂いだ。
中火にかけている鍋をかき混ぜながら、籐子が真剣な声で言った。
「今回の新作は自信あるよー。美味しかったらメニューに追加しようと思って」
「メニューが一種類増えたからと言って、どうこうなるとは思えないけれど」
鈴花は閑古鳥が鳴いている店内を見渡した。
お昼時にこんな様子では、もう手の施しようがない。
復興東京特別行政市新千代田の神田から秋葉原の近辺は、いまやエルフとカレー屋が多いエリアとして知られていた。
復興による再開発の過程で米国のテック系メガコーポであるRCT――レイヴン・コンピュータ・テクノロジーズの縄張りになった、ソフト・ハードを問わずに世界の最先端情報技術が集約される極東最大の電子化都市。いまや得体の知れないジャンク屋から、あらゆる国の産業スパイまでが入り浸る企業城下町になっている。
そして、RCTは当時の社長が魔王因子の活性化で第一世代のエルフとなり、そのこともあってエルフの魔王因子中毒者を数多く雇用した。
神田と秋葉原がテクノロジーとエルフの街になったのは、そういう理由によるところが大きい。カレー屋が多い理由はよくわからなかったが。
なんにせよ――この神村カレーも、そんなエルフの街で営まれているカレー屋のひとつだった。駅前からは少し離れた場所にある路面店で、一階が店舗、二階は住宅になっている。
名前のとおり神村籐子がオーナーであり、彼女が生まれた家だった。
「そうは言ってもさー、カレーって難しいんだよ」
籐子は保温にしてあった炊飯器を開けて、炊き立てのご飯をカレー皿に盛りつけた。
「お父さんがレシピ残してくれてたらよかったんだけど、なんにもないんだもん。あたしが一番好きだったチキンカレーだけは再現できたけどさ」
現在、この店のメニューはチキンカレーだけである。
鈴花はいやというほどに食べているが、不思議と飽きない味だった。
「殺し屋を引退したらこのカレー屋を流行らせて、チェーン展開するのが夢なんだよ」
「その話は何回も聞いたわ」
「二号店の店長は鈴花だからね」
「なんでよ」
「いいじゃんかよー、相棒だろ」
「はいはい」
「おいー、塩対応がすぎる」
籐子は目をバッテンにして不満を言いながらも、新作のカレーをご飯にかけた。
「はい、どうぞ。新作のスパイスカレー。名前はまだない」
鈴花の目の前に、複雑な匂いと色をしたカレーが差し出された。
家庭料理のカレーとは違う、店でしか出せないカレー、のように見える。
「二〇種類のスパイスでカレー粉から自作しました。えっへん」
「料理は引き算したほうがシンプルで美味しいと思うけれど」
「えー、足し算していったほうが思いもよらないマリアージュが生まれるかもじゃん」
「方向性の違いね」
「解散するバンドみたいなこと言うなし」
「価値観の違い?」
「それは離婚する夫婦じゃんかよー」
「同じようなものでは?」
「むー。鈴花はあたしと別れたいのかよ。泣くぞ」
「こんな程度で別れるなら、コンビなんて組まない」
「うっへへ。鈴花、優しい。好きぃ〜」
「はいはい」
鈴花はスプーンを手に取ると、名前はまだない新作スパイスカレーを頬張った。
なんとも言えない複雑な味。
辛味、旨味、コク、苦味、まろやかさ、爽やかさ、あらゆるものが混然一体となり――
「どう? 新作どうよ?」
「んー、微妙?」
眉間に皺を寄せると、鈴花は率直に言った。
「不味くはないけれど、美味しくもなく」
「マジかよー。もー、もー、やだー」
籐子は頭を抱えると、子どものようにいやいやをした。
「市販のカレー粉を使えば? あれって企業が研究を重ねた、スパイスの黄金比なわけだし」
「いやだ。それは邪道」
「はあ、もう。じゃあ仕方がないわ」
鈴花は苦笑じみた表情になると、微妙な味の名前はまだないカレーを黙々と口に運んだ。
ここは籐子の店なのだから、彼女の好きにすればいい。
ただし、自分が二号店の店長になったなら市販のカレー粉を使おう。
そんなことを思っていると、微動だにしなかった店のドアが開いた。
ドアベルが涼しげに鳴る。
「おつかれおつかれ。相変わらず流行ってないねえ」
「――なんだよ、カトレアかよー」
籐子はこの店のほとんど唯一の常連と言っても過言ではない客の名前を呼んだ。
「なんだよとはお言葉だねえ。アタシ以外、誰がくるか教えてほしいよ」
ドアを閉めたカトレア・ロウは、一言で言えば地味な女だった。
中途半端に伸びている燻んだ金髪、少し暗いブラウンの瞳。
痩せ気味の長身で、その背の高さがコンプレックスのせいで猫背だ。
コンビニのビニール袋を片手に持っている以外は手ぶらで、上下のスウェットも相まって休日にひたすらだらだらしている会社員だと言われてもしっくりくる。
眼鏡とそばかすの残る顔が、さらに彼女の印象を冴えないものにしていた。
だが、この魔王因子中毒者ではない地味で冴えない英系香港人は、復興東京ではちょっとした有名人だった。
「君たちがしこたまつくった死体を処理して、マンションの爆破と銃撃戦をもみ消したのはアタシなんだから。もうちょっと労わってほしいねえ」
「お金、払っていますし」
鈴花は隣の席に座ったカトレアのコップに水を注いでやった。
「それはそうだけど、気持ちの問題だよねえ。誠意ってなにかね?」
「はい、新作カレー。名前はまだない」
「これが誠意か?」
籐子が差し出したカレーをしげしげと見つめ、カトレアは嘆息した。
「タダでいいから、味の感想聞かせてちょうだいよ」
「いやだから、誠意ってなにかね?」
そうは言いながらも、カトレアはスプーンを手にしてカレーを食べた。
無言で味わったあと、微妙な表情を浮かべる。
「微妙?」
表情のとおりの感想だった。
「えー、やっぱりかよー」
「例えるなら、そう。こだわりが空回りした、情熱だけがあるカレー屋の味だねえ」
「ああ、そういう店ありますよね」
鈴花は脳裏に具体的な店をいくつか思い浮かべた。
「不味くもないから潰れないというね」
カトレアは微妙な味のカレーを引き続き食べていたが、持ち込んだコンビニ袋からおもむろに缶チューハイを取り出した。アルコール度数が非常に高い、ストロング的なものだった。
「カミムラ、お酒飲んでいいかい?」
「あのさー、カトレア。飲食店にお酒持ち込むとか、マジで頭おかしいと思うよ。それに飲んでいいかって聞きながら、ダメって言っても飲むし」
「アルコールはガソリンだからねえ。切れると死んじゃうから。ほら、もう手が震え始めている。アタシの右腕が、ああ、意思に反して!」
ぷしっ、と景気のいい音を立てて缶が開封された。
カトレアは缶に口をつけるなり、ぐびぐびと中身を胃に流し込む。
「ああ、潤うねえ。身も心も潤うねえ。生きているって感じがするよ」
アルコールで潤う心はむしろ死んでいるのではないか、と鈴花は思った。
「せめてさー、もっといいお酒にしなよ。お金がないわけじゃないでしょ」
籐子が少し呆れた声で言いながら、空っぽになった缶を片づける。
「金はないねえ」
カトレアは二本目を開けた。
「なんでだよー。昨日の仕事だって即金でしょ。もう使ったの?」
「その日に稼いだ金は、その日のうちに使うのがアタシのモットーだから、ここにくる前にお台場にあるカジノに寄ってきた。いやあ、痺れたよ。ブラックジャックで全財産が二〇倍になってからの、大負けは」
そのときの興奮を思い出したのか、カトレアは卑屈な笑みを全開にした。
缶チューハイをあおり、くぐもった笑い声をもらす。
「脳汁がドバドバで生きているって感じがしたねえ。イチノセもこの気持ちわかるだろう?」
「はあ、もう、全然わからないですね」
急に話を振られた鈴花は、半眼でカトレアを睨んだ。
「そんなことより、組織からお願いしていたもの手配できました?」
「もちろんもちろん。アタシに手配できないものなんてないからねえ」
三十路絡みのこの英系香港人の女は、アルコールとギャンブル漬けで人としては終わっている。だが、復興東京においてよく知られている手配屋だった。彼女の〈ロウ商会〉に依頼すれば、地上げ屋の個人情報でも、死体処理業者でも、大抵のものは手配してくれる。
「はいこれ。ノエルから」
カトレアがコンビニ袋から取り出したのは、身分証と車のキーだった。
鈴花と籐子が仕事の際に使用しているのは組織が用意した金枝工業というダミー企業の身分と、営業車に偽装したワンボックスカーだった。それがワーウルフとやり合った際に大破してしまったので、新しいダミー企業の身分とクルマが用意されるはずだった。
なので思い切って、オシャレで可愛いヨーロッパ車を希望してみたのだ。
「また金枝工業だし」
新しい身分証を手に取って、籐子はしげしげと眺めた。
鈴花も確認してみると、確かに金枝工業の身分証だ。
だが、部署名は新規事業開発室キャンプギア開発チームとなっていた。これなら可愛いクルマに乗っていても、以前の技術営業部よりは違和感がないし、作業着でなくともよさそうだ。
「これは意外と期待でき――」
鈴花はクルマのキーへと視線をやり、眉間の皺を深くした。
「――Jeep?」
「おいー。バリバリのアメ車じゃんかよー」
「ジープはいまフィアットのブランドだからヨーロッパ車だねえ。アタシはノエルから頼まれたものを手配しただけだから怒らないでおくれよ」
「ほとんど屁理屈だし、あたしたちはもっと小さくて可愛いのがよかったんだよー」
「中古のXJだから、いままでのジープにはないコンパクトでスタイリッシュなやつなんだよ。ノエルが言うにはだけどねえ」
「それこそアメリカン・モーターズ時代のバリバリのアメ車じゃんかよー!」
鈴花はスマホで画像検索してみた。
すぐにジープ・チェロキー(XJ)の画像が何枚も表示される。
ヨーロッパの小型車とは似ても似つかぬ、ごつくて四角いアメ車であった。
適当に画面をスクロールさせて画像をチェックしていると、メッセージが飛んできた。
〈ビスカム・デパート〉の総務担当からの連絡だ。
見れば籐子のスマホにも飛んできているようだった。
「えー、もう次の仕事かー」
彼女の言葉のとおり、つまりはそういうことだ。
残念ながら、新しいクルマを使うしかなさそうだ。
「ふむ」
とはいえ面構えは少し愛嬌があるかもな、と鈴花は思った。