7.二人の血に
鈴花は炎に焼かれる籐子の様子を呆然と見ていた。
助けなければ。
彼女がそうしてくれたように、今度はわたしが。
友達だし、相棒なのだから。
素直にそう思ったことに、鈴花は自分でも驚いた。
不思議と傷の痛みは感じない。死に近づいているからだと思っていたが、そうではない。マチェーテでやられた傷が回復していた。これはリジェネだ。
もう大丈夫だよ、と言った籐子の言葉を思い出す。
彼女のチタニア・アーツが、バフではなくバッファーである意味を、鈴花はようやく理解した。おそらく他人にもバフを付与できる。それが彼女のチタニア・アーツの本質なのだ。
「榎本……っ!」
鈴花は力の限り叫んだ。鉛のように重たい身体を引きずるようにして立ち上がる。
半身を炎に焼かれた籐子の無惨な姿に、あのショッピングモール以来忘れていた感情が胸中に渦巻くのを彼女は自覚した。それは父親と母親をバラバラにしたゴブリンに対して抱いたものとまったく同じものだった。
感情の爆発で、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「それ以上、籐子に近づかないで」
がちがちという音は、震えている自分の歯がぶつかっている音だった。
あのときと違うのは、恐怖ではなく、怒りで震えているということだった。
「殺すぞ」
自分でも驚くほどに冷たい声だった。
鈴花はほとんど幽鬼のように、ふらふらと榎本に近づいた。
「おいおい。腹は致命傷やったやろ?」
「さあ?」
籐子を庇うようにして、榎本との間に割って入る。
理性を犬にでも食わせて、いますぐに榎本を殴り飛ばしたい。
そんな衝動をどうにか抑えるために、鈴花は拳をきつく握った。
爪が手のひらに食い込んで、わずかに痛みが走る。
籐子が回復する時間を稼ぐ。
それが一番合理的だ。
感情に任せて榎本に殴りかかったとして、白無垢の狐がいる限り無意味だ。
それはわかっている。
わかっているが――
「鈴花、ごめんね、ドジっちゃった」
籐子の弱々しい声を聞いたとき、理性はどこかにいってしまった。
「榎本――――っっっっ!」
鈴花は全力で駆け出したつもりだったが、その動きはひどく緩慢だった。
金色に輝く狐の瞳が、弱った獲物を値踏みするようにしてこちらを見ている。
「犬死にやぞ、一ノ瀬」
榎本がいつもの粗野な笑みを浮かべ、マチェーテを構えた。
鈴花は怯まなかった。
きつく握った拳はそのままに、無造作に榎本に近づいた。
振り下ろされるマチェーテに合わせるようにして踏み込み、右の拳を力の限り振り抜く。
マチェーテの赤黒い刀身が鈴花の左鎖骨から肺にかけてすっと――入らなかった。
不意に榎本の手から、マチェーテが消えた。
ぎょっとした顔で、榎本は自分の右手を見ていた。
憑依させていた白無垢の狐も消えている。
見開いた彼の瞳の色は、いまは灰色だった。
鈴花の振り抜いた拳は、そんな榎本の右頬を強かに打ち抜いた。
ごっ、という骨と肉がぶつかる生々しい音。
榎本がたたらを踏んで数歩を退がった。
「っ……!?」
思わぬことに、鈴花も戸惑った。考えなしに全力で殴った拳が痛い。
「ふらふらの割に、腰の入ったええパンチやな」
榎本は血の混じった唾を吐き捨てた。
「ここでガス欠とは、きっついでホンマ。僕を一発殴れてすっきりしたか、一ノ瀬?」
「するわけがないでしょう。一〇〇発でも殴ってやりたいわ」
それでも拳の痛みが、鈴花の頭を少しだけ冷静にしてくれた。
あのタイミングで榎本のチタニア・アーツが消えなければ、間違いなく自分は死んでいた。榎本の様子からして、意図しないことだったことは明らかだ。
「くっくっ、そらそうか」
榎本はシガレットケースから取り出した煙草を咥えて一服した。
縦の虹彩の入った狐の瞳が、灰色から金色へと変化する。
魔王因子中毒者がチタニア・アーツを使う前兆。
「榎本――」
鈴花は違和感を覚え、何かを考えるよりも先に言葉がもれた。
「残りの煙草は何本?」
それは直感――強いて言うなら警察官の勘だったのかもしれない。
チタニア・アーツは一部の魔王因子中毒者が、意図的に魔王因子を活性化して得られる刹那の力。活性化した魔王因子は、チタニア・アーツを一度使えば不活性に戻る。
だというのに、榎本の再活性は早すぎるし、チタニア・アーツの持続時間も長すぎる。
なにかタネがある。
「煙草がどうした?」
自作の紙巻き煙草。
榎本のそのこだわりを、鈴花はちっとも理解できなかった。
だが――ひょっとすると、ひょっとするのではないか。
「あなたがティンク・パウダーの取り締まりに熱心な理由がわかった気がするわ」
ティンク・パウダーには魔王因子を活性化させる有害反応がある。
その摂取方法は様々で、復興東京の若者の間で流行っているのは、煙草に混ぜて吸引するカクテルという方法だった。
鈴花にはほとんど確信めいた予感があった。
組織犯罪対策課の警官は、別権逮捕の口実のために押収した麻薬の一部を隠し持っている。ロシアンマフィアとの取引を潰したあと、取調室で見せられたパケを思い出す。榎本は上に報告していないはずだ。
「おいおい、一ノ瀬。僕は善良な警官やで」
「復興東京では、警官はなにをしてもいいんでしょう?」
榎本は笑って、短くなった煙草を足元に投げ捨てた。
鈴花はきつく奥歯を噛み締めた。「わたしは警官です」と一ノ瀬鈴花が言い続けてきてやってきたことは、警察官の正義は、結局はこの男のためにせっせと麻薬を運ぶことだったのか。
これが榎本の正義か。
いつまで経っても似合わなかったカール・F・ブヘラの腕時計と、「お前は警官や」という榎本の言葉にすがっていたことに吐き気がした。
「滅多なこと言うたらあかんがな」
榎本の輪郭が滲み、一振りした右手にマチェーテが握られる。
「警官がヤク中なんざ、笑い話にもならんよ」
「そうね。面白くもないし、笑えやしないわ」
魔王因子を再活性できる感覚が戻ってきて、鈴花の濁った碧眼が金色に輝く。
二人の間に〈妖精輪環〉の花冠が現れる。
「銃もなしにお前のチタニア・アーツがなんの役に立つ?」
榎本はだらりとマチェーテを構え、無造作に距離を詰めてきた。
魔法のトンネルの入り口である花冠は、常に二人の中間距離にあって、口を開けている。
「あなたはなにもわかっちゃいないのよ、榎本」
鈴花も臆することなく距離を詰めた。
ほとんど一完歩まで近づく。
瞬間、榎本が右腕をムチのようにしならせて、低い位置から刺突を繰り出してきた。
鈴花は左手をマチェーテの切っ先にかざした。
魔法の蛮刀はその手のひらを簡単に貫通し、凄まじい激痛が走り、肉と骨が焼ける臭いが鼻腔を刺激する。
だが、鈴花はそれを無視した。
マチェーテの根本までを左手に喰い込ませると、榎本の拳をがっちりと握り締め強引に引っ張り込んだ。
二人の中間距離は、もう数十センチしかない。
右拳を突き出せばすぐ届くところに〈妖精輪環〉の花冠がある。
鈴花は腰を落とし、鋭い息を吐いた。
花冠に向けて、抉り込むように一撃を打つ。
肘から先が吹っ飛んだような感覚。
魔法のトンネルに突っ込んだ鈴花の右腕は、弾丸とは比較にならない重さと威力で榎本の胸部に炸裂した。
目を焼くような虹色の閃光。
爆発にも似た打撃音。
憑依している何体かの白無垢の狐をぶち破って、榎本の肋骨をへし折る感触。
「なん……やねんっ……!」
「あなたが言ったことでしょう。チタニア・アーツの使い手は手の内を見せびらかすな」
魔法のトンネルを通過させるものは弾丸に限らずなんだっていいし、彼我の距離が近いほど威力が増していく。
鈴花のチタニア・アーツは、思い切りぶん殴るために使ったほうが強力なのだ。
だが、榎本は数メートルを後退しただけで堪えてみせた。
折れた肋骨が肺に刺さったのか、赤い血を吐き出しながら、榎本は粗野な笑みを浮かべた。
「ちっ」
鈴花は顔をしかめた。
憑依させていた白無垢の狐をぶち破ったまではよかったが、榎本を仕留め切るには威力が足りなかった。もう右腕はズタズタで感覚がない。〈妖精輪環〉をくぐらせれば、こうなることはわかっていた。生身の身体では耐えられない。
左手も榎本のマチェーテにやられて使い物にならない。
榎本は、今度は迂闊に距離を詰めてこなかった。
二人の間にはまだ〈妖精輪環〉の花冠がある。
こちらの魔王因子活性が低下するのをまっている。
「そんな目で僕を見るな、一ノ瀬」
どんな目なのか自分ではわからず、鈴花は沈黙した。
「訓練学校で初めて会ったとき。お前は自分にも他人にも無関心で、警察官の正義なんちゅう不確かなもんさえあれば、なんでもできる殺伐とした無感情な純粋さがあった」
榎本は当時を思い出したのか、声を押し殺して笑った。
「それがどうや? いまのお前は、感情的で見てられん。神村への情にほだされて、そこいらにいるくだらん人間みたいな目やで、一ノ瀬」
その言葉を聞いた鈴花は皮肉げに笑った。
確かにそうだったからだ。いま彼女のなかに渦巻いているものは、榎本への怒り、籐子への罪悪感や彼女を失うかもしれない恐怖、あるいは警察官として生きてきたことへの失望――そんなあれこれだった。ショッピングモールで血塗れになって以来、こんなに感情的になったことはなかったかもしれない。
「言うたやろ? 僕はお前のこと、割と好きやった。感情のないビー玉みたいな目をしたハーフエルフ。ええ感じに壊れとったんやけどな」
「あっはは。そうね。確かにそうね。わたしは壊れている」
鈴花は堪えきれずに声を出した。
どうにか動く左手の指を拳銃みたいなかたちにして、自分のこめかみにぐりぐりと当てた。確かに自分は壊れているし、いまも治ったわけでもない。
神村籐子と過ごした日々が、一ノ瀬鈴花を別の方向に壊しただけだ。
「犬が人になったのなら、大した出世だわ」
鈴花の金色の瞳が、ゆっくりと濁った碧眼に変わる。
二人の中間地点にあった〈妖精輪環〉の花冠が消滅する。
榎本の狐の瞳は金色のままで、彼は右手にマチェーテを出現させた。
鈴花は瞬きすることなく、射殺すような視線を榎本に浴びせた。
もう攻撃を防ぐ手立てはない。
自分は死ぬ。
これが彼女にできる精一杯の抵抗だった。
「そんな目で僕を見るなと言うたやろ、一ノ瀬」
「一ノ瀬一ノ瀬ってさ――」
答えたのは、鈴花ではなかった。
背中から誰かに抱き締められて、それが誰かなんてことはすぐにわかった。
よかった。動けるくらいにまでは回復したのだ。
「――なれなれしいんだよ、狐野郎!」
両腕をしっかりと鈴花の胸元に回して、神村籐子が榎本に向かって吠えた。
同時に鈴花は身体が楽になるのを感じた。〈天慶〉のチタニア・アーツで、リジェネのバフを付与してくれたのだろう。
そして、それだけではなく――
「榎本ぉぉぉぉ――――――――――っっっっっっっっ!」
鈴花は力の限り叫んだ。
濁った碧眼が、金色に変わる。
魔王因子の再活性にはまだ時間が必要なはずだった。
それが一気に回復した。
そういうバフに違いなかった。
鈴花と榎本の間に、再び〈妖精輪環〉の花冠が現れた。
それはいつもの花冠よりも大きく、籐子はきっとこうしてほしいのだ、と鈴花は無意識に思った。花冠の大きさを変えることなどやったことはなかったが、できるのだという確信があった。魔王チタニアが彼女に囁いたとおり、あらゆることは真実であり可能なのだ。
それを見た籐子が、花冠に向かって駆け出した。
火の輪くぐりをする獣のように、しなやかに魔法のトンネルに飛び込んでいく。
彼女の姿が消えて――
「神村ぁぁぁぁ――――っっっっ!」
榎本が叫んだ瞬間、籐子はもうそこにいた。
虹色の光を纏ったその姿は、呼吸を忘れるほどに美しかった。
彼女が力の限り右拳を振り抜く。
爆発のような打撃音。
虹色の閃光が瞬き、空気が震える。
籐子の右拳は何重にも憑依している白無垢の狐をものともせずに、榎本の腹に深々と突き刺さり、そのままの勢いで足元に叩きつけた。
ずどん、という地響きとともに大地が震える。
二人を中心にして激しく石畳が陥没した。
地中に設置されていた水道管が破裂して、猛烈な勢いで噴出した水が雨のように降り注ぐ。
それきりだった。
榎本はそれきり、動かなかった。
「さっさと! 死んでろ! 狐野郎め!」
肩で息をしながら、籐子はこちらを振り返った。
吸い込まれそうな金色の瞳。
「言ったじゃんかよー。鈴花のチタニア・アーツはあたしと相性ばっちりだって」
〈妖精輪環〉を潜るダメージも、リジェネで回復してしまう。
確かに、相性はばっちりかもしれない。
二人は破裂した水道管の水が降り注ぐなか見つめ合い、どちらともなく笑った。
そして――籐子が駆け出して、思い切り抱きついてくる。
「やあったねー!」
「ちょっ……とお」
その勢いを受けとめ切れず、鈴花は一回転してその場に押し倒された。
馬乗りになった籐子が、こちらの顔を覗き込んでいつもの調子で言ってくる。
「お互いズタボロだねー。あたしいま組織から追い出されてるけど、負傷手当出るかなー」
「はあ、もう、なにを言っているのよ、本当に――」
よかった。籐子の耳はもう元には戻らないけれど、これで組織には戻ることができる。
鈴花はいつの間にか自分が泣いていることを自覚した。それは安堵だったのかも知れないし、籐子の耳が半分になってしまったことへの罪悪感だったのかも知れない。
「泣くなよー、鈴花」
「泣いてない」
「えー、泣いてるじゃんかよー」
籐子がそう言って、鈴花の目元を優しく拭った。
「うっへへ。帰ろうぜー。さすがのあたしも疲れたよ」
いつもの笑顔。
ひまわりみたいに、明るい気持ちになる。
鈴花はすっかり参ってしまったその笑顔に、少しだけ微笑み返した。
もう彼女にウソは吐けないし、きっともう籐子はわかっている。
だが、自分の口から言葉にすることは意味がある。
「籐子、聞いて。わたし――」
「言わなくていいよー」
唇に人差し指を当てられて、鈴花は黙った。
「二人だけの秘密にしよう」
悪戯をする子どものように、籐子が茶目っ気たっぷりにウインクする。
「そんなこと」
できない、と言おうとしたが、鈴花の言葉は遮られた。
「一ノ瀬鈴花は一ノ瀬鈴花だよ。ちょっと愛想がないけど超可愛いハーフエルフで、あたしの友達で相棒だ。それでいいじゃんかよー」
「よくない! だって、わたしは、あなたのこと!」
「いいよ。だって、最後はあたしを助けてくれた。それにさ――」
気がつくと、籐子の顔が吐息のかかりそうな距離にある。
金色の瞳に見つめられて、鈴花はなにも言えなくなった。
「あのとき誓ったね。あたしと鈴花のつながりは、鉄よりも強固だし、血よりも濃い」
「……鉄血の絆」
「そうだよー。もう一度誓おうか。秘密を守るために」
籐子の声がいやに艶っぽく聞こえて、鈴花は柄にもなく緊張した。
「我ら二人」
彼女のかたちのいい唇が言葉を紡いだ。
鈴花は応えるようにして言った。
「心同じくして助け合い」
籐子が静かに続ける。
「喜びも苦しみもわけ合う」
そして、二人は同時に言った。
「「生まれた日もときも違えども」」
声が重なり合う。
「「死する日は同じことをここに願うなり」」
数秒の間、二人は見つめ合っていた。
「なんに誓うの?」
と、鈴花は言った。
「二人の血に」
と、籐子は笑った。
左手の薬指に歯を当てると、傷をつくって血を口に含む。
鈴花がなにかを言うよりも早く、籐子が唇を重ねてきた。
「んんっ……!?」
心底からびっくりして、鈴花は目を見開いた。
柔らかい感触。
彼女の犬歯が唇に当たり、一瞬だけ痛みが走る。
二人の血が唾液と一緒に混ざり合う。
それはほんの短い時間だったのだろうが、鈴花には永遠にも思えた。
「あ……」
もれる自分の吐息が、やけに恥ずかしい。
ゆっくりと籐子が唇を離し、ぺかっと笑った。
「うっへへ」
「はあ、もう……」
その笑顔を見て、まあいいかと鈴花は思った。
人生ではじめてのキスは、忘れられない鉄と血の味がした。




