3.鈴花とお揃いだよ
「えー……あたしかよー」
テーブルに突っ伏したままの籐子の声がした。
彼女は自分の血と料理でべとべとになった顔を上げた。
おしぼりで顔を拭い、椅子から立ち上がる。
降参とばかりに両手を挙げて、いつもと変わらない様子で言った。
「撃つ前に弁解くらいさせてくれてもいいじゃんかよー」
「弁解しようがしまいが関係ないんだよ、トーコ。起きてしまったことへの落とし前なんだからな。エノモトが嗅ぎつけた場所は、お前に渡した封筒の中身だ」
「まいったな。まったく身に覚えがないし、支配人を裏切るなんて考えたこともないよ」
「私だって考えたくもなかったさ」
ノエルは能面のように無表情だった。
向き合った籐子に銃口を向けたまま言葉を続ける。
「だが、結果は結果だ。お前が持っていた情報であることには違いない」
「それは困ったなー。これは誰かが生贄にならないとダメな感じ?」
「そうだな。それが警察の犬だった副支配人なら話は早い」
「それはなんとも、出来過ぎなストーリーだね」
「トーコ、お前の言うとおりなら、あとで名探偵でも雇うとするさ」
鈴花は二人の会話にぞっとした。
今回の取引が潰れたことで、ノエルはニューヨーク本店からかなり突き上げを喰らっているのだろう。状況証拠から、籐子を生贄として差し出すことを求められている。組織内でノエルの力を削る権力闘争に利用されているのだ。結果としてそれは、榎本の目論見どおり〈ビスカム・デパート〉東京支店の力を削ることにもなる。
あの男は、箍を緩める隙をつくってやれば組織はこうなるのだと、わかっていたに違いない。
「私と組織のために死んでくれるか、トーコ」
「いいよ」
籐子は刹那も迷うことなく断言した。
「あたしは支配人に拾ってもらわなきゃ、とっくの昔に野垂れ死んでた。だから、ノエル・エーデルワイスが死んでくれって言うのなら、それはまあ、仕方ないよ」
「そうか。だが、こんなものではお前は殺せないな」
ノエルは噛み締めるようにしてそう言うと、自動拳銃をそっと下ろした。
「スズカ、お前に頼もうか」
「支配人、それは――」
いつかのショットバーで交わした言葉を思い出す。
あのときと同じ、死人のようなノエルの目がこちらを見ていた。
鈴花は抗うことができず、緩慢な動きで腰の後ろから自動拳銃を引き抜いた。
「ずるいなー。鈴花が相手だと抵抗できない」
ノエルと向き合っていた籐子は、そんなことを言ってゆっくりと近づいてくる。
「それにさー。鈴花のチタニア・アーツなら、あたしの〈天慶〉の強化をぶち破って、リジェネも追いつかないダメージを与えられるかも。ひっどいこと考えるな、もー」
言葉とは裏腹に、籐子の口調からは深刻さは感じられなかった。
鈴花は近づいてくる籐子に銃口を向けた。
手が小刻みに震え、引き金にかかる指は鉛のように重かった。
籐子は少し大袈裟に肩をすくめた。
「ごめんねー、鈴花。なんだか変なことになっちゃった」
こうなることはわかっていた。
榎本に従って彼女をハメて、ノエルに従って彼女を始末する。
警察官としてそれは正しいし、マフィアの殺し屋としてそれは正しい。
無数の正しいで成り立っているのが世の中だ。
そして、一ノ瀬鈴花は潜入捜査官で、誰かを救うために、誰かを殺している。
だから、一ノ瀬鈴花は間違っていない。
――本当に?
鈴花は自動拳銃のグリップを両手できつく握ったが、手の震えはとまらなかった。
荒い呼吸で肩が揺れる。
いやな汗。
吐き気がする。
籐子に銃口を向けたとき、彼女はどんな顔をしているのだろう。
頭の片隅でずっと想像していた。
怒っているかも。
悲しんでいるかも。
困っているかも。
だが、どれも違った。
籐子はいつものとおりの無邪気な笑顔だった。
オフの日の朝に起こしにくるときの。
喫茶店でホットケーキを頼むときの。
髪にドライヤーを当ててやるときの。
鈴花がよく知っている、眩しい笑顔だった。
頭をぶん殴られたような気持ちになって、鈴花は彼女の名前をささやいた。
「……籐子」
わたしはどうして警察官になりかったのだろう、と鈴花は思った。
自分の力で少しでも、誰かを助けられたなら。
あのショッピングモールで最小限とされた犠牲を少しでも減らすことができるのなら。
自分の力で名前も知らない誰かが助かるのなら。
きっと意味がある。
一ノ瀬鈴花が生き残った意味がある。
正義のために、力を行使する意味がある。
だからわたしは、警察官になった。
――本当に?
誰かがそう言った気がした。
鈴花は鏡に映っていた疲れた女の顔を思い出した。
――顔も名前も知らない誰かよりも。
言わないで。
――本当に守りたかったのは。
違う。
――父親と母親の笑顔だっただろうに。
鈴花は鏡に映る女の声に抗えなかった。
それがわたしの本心か。
もしそうなら、本当に守りたかったものが戻ってくることはない。
もう手遅れなんだ。
だから、本当はうんざりしている。
顔も名前も知らない誰かのために人を殺すのも。
顔も名前も知らない誰かのために人が死ぬのも。
「そんな顔しないでよ、鈴花」
手が届きそうな距離まで近づいてきた籐子がくすりと笑った。
「どんな顔よ?」
一ノ瀬鈴花が「わたしは警官です」という言葉を吐きながらつくってきた、死体の山の向こうで。顔も名前も知らない誰かが助かっているとして。それが警察官の正義だとして。
「泣きそうな顔だよ」
籐子の指先が、そっと頬に触れた。
視線が交錯して――
その瞬間、警察官の正義なんてものは知ったことか、と鈴花は思った。
わたしが本当に守りたかったものは、大切な人の笑顔だった。
顔も名前も知らない誰かではなく、顔も名前も知っている誰かだった。
一ノ瀬鈴花として、それは正しい。
「泣きそうにもなるわ」
鈴花は息を呑んだ。
「だって」
掠れた声。
「たった一人の友達を、殺そうとしているから」
「……そっかー」
それを聞いた籐子は、少しばかり驚いた顔をしたあと、飛び切りの笑顔になった。
それだけで、その場がぱっと明るくなったような、そんな気さえした。
「初めて鈴花から友達だって言ってくれたね」
籐子は口元を綻ばせて、こつんと額をくっつけてきた。
「あたしの片想いじゃなくてよかったよー」
「……言わなくても、わかるでしょう」
「言葉にしてくれたほうが嬉しいことだってあるよ」
二人は数秒間だけそうしていたが、籐子がゆっくりと額を離した。
「支配人」
ノエルのほうへと身体を向けて、彼女は言った。
「あたし、やっぱりまだ死ねないや」
「ほう?」
「支配人は覚えてる? あたしと鈴花はこの店で義姉妹の誓いを立てたんだ」
鈴花はグラスに入った紹興酒を半分ずつ飲んだことを思い出した。
あのとき、確かにわたしたちはこう言った。
『我ら二人、心同じくして助け合い、喜びも苦しみもわけ合う。生まれた日もときも違えども、死する日は同じことをここに願うなり』
ノエルは顔色ひとつ変えずに、腕を組んだ。
「ままごとだよ、あんなものは」
「ままごとであれ、なんであれさ」
鈴花は構えていた自動拳銃を下ろし、自分を守るようにしている籐子の背中を見ていた。
いまならわかる。自分はいま、確かに泣きそうな顔をしている。
「あたしと鈴花のつながりは、鉄よりも強固だし、血よりも濃い」
「熱を上げすぎるなと、あれほど言っただろうに。まだ死ねないというのなら、どうしたいというんだ、トーコ」
「そうだなー。無実の罪を晴らすチャンスが欲しいかな」
「お前がエノモトを始末してくるとでも言うのか?」
「それもいいかもね。それで支配人への忠誠を証明しよう」
籐子の言葉を聞いたノエルは、少しだけ愉快そうに笑った。
「いくらお前でも、あの男は一筋縄ではいかんぞ」
「知ってるよ。そうでなきゃとっくの昔に誰かが殺ってる」
「カミムラ、そんな勝手が許されるわけがないだろう!」
二人の会話を聞いていた副支配人の一人が声を荒げた。
「そもそもお前が警察局の犬なら、それで逃亡するのがオチだ」
それが合図だったかのように、次々に声が上がる。
「組織への忠誠を言うのなら、いま、ここで死ぬことこそが忠誠だろう」
「そうだ!」
「そのとおり!」
「潔く死ぬべきだ!」
「わかってないなー」
騒がしい言葉を、籐子はその一言で遮った。
「組織が許すとか、許さないとか、そういうことじゃないんだよ」
ざらりとした底冷えする声に、場が静まり返る。
「あたしは、そうする。それにさ――」
円卓を囲む副支配人たちをぐるりと睥睨し、彼女はこともなげに言った。
「あたしは支配人に恩があるだけで、組織なんてどうでもいいんだよ。だからそうだな、あんたたち全員をいますぐ殺してから、やりたいようにやってもいいんだ」
「もういい、トーコ。あまり脅してやるな。お前がその気になったらどうにもならん」
ノエルは大きく嘆息すると、香港の安い煙草を咥えて一服した。
「お前がエノモトを始末してくれるなら、それはそれで万々歳だ。だが、大っぴらに支援はできん。野良犬よろしく勝手に獲物を持ってこい。あるいは勝手に野垂れ死ね」
「ういうい。それで十分だよー」
「バカ。十分なものか。私はそれでよくとも、組織はそうはいかない」
咥えた煙草を一気に短くして、ノエルは紫煙を吐いた。
「手付金を置いていけ。お前の死体を差し出せとうるさいニューヨーク本店の連中が、しばらくは黙るくらいのな。それがなければ、私は東京支店からお払い箱だ」
「えー、それは困る。支配人がいなくなったら、あたしの戻る場所がなくなっちゃうじゃん」
籐子は両手を腰に当てると、ちらりとこちらを見た。
鈴花はなぜだか胸騒ぎがした。
すると彼女はウインクして、あっけらかんとした声で宣言する。
「じゃあ、あたしエルフやめるよ」
鈴花にはその言葉の意味がわからなかった。
それは彼女だけではなく、その場にいた全員がそうだった。
籐子は意気揚々と円卓に近づくと、北京ダックを切り分けるための中華包丁を手にした。
何度か軽く素振りをすると、尖った自分の耳にぴたりと刃を当てる。
「ちょっ……!」
これからなにが起きるのかを理解して、鈴花は掠れた悲鳴を上げた。
とめる間もなかった。
ほとんど鮮やかと言ってもいい手際で、神村籐子のエルフの耳が半分になった。
右、そして左。
真っ赤な血を撒き散らして、切り飛ばされた尖った耳が円卓に落ちた。
「ウソでしょ……」
その光景に、鈴花は頭がおかしくなりそうだった。
神村籐子は、文句のつけようがないエルフ。
白金の髪、真っ白い肌、尖った耳、すらりとした長身で、超美人で、笑顔が可愛い。
それが、耳を半分にして血塗れになっている。〈天慶〉のチタニア・アーツのリジェネ効果で血はすぐにとまるだろうが、切断されてしまった耳が元に戻るなんてことはない。
誰もなにも言わなかった。
エルフにとって尖った耳を切り落とすことは、最大限の屈辱だし、侮辱だった。
籐子本人だけが平然な顔をしていた。
半分になってしまった耳をひこひこ動かして、少しだけ首を傾げている。
「ひぐっ……」
その姿を見て、鈴花は堪えきれずに声をもらした。
警察官として、自分がやったことの代償がこれか。
もし手紙を差し替えることをしなかったなら。
もし神村籐子のカレー屋にいかなかったなら。
もし榎本の誘いを受けなかったなら。
もし警察官になろうなんて思わなかったなら。
こんなことにはならなかった。
神村籐子が、自分でエルフの耳を切り飛ばすことなんてなかった。
あんな姿になることなんてなかった。
籐子が手にしていた中華包丁を円卓に突き刺した。
その歪な姿を嘲笑できる者など、ここにはいなかった。
自ら耳を切り落としたエルフに、誰もが畏怖していた。
籐子は軽い足取りでこちらに近づいてくると、まじまじと顔を覗き込んできた。
「泣くなよー、鈴花」
そう言われて、鈴花は自分が泣いていることを自覚した。
鼻の奥がつんと痛くて、目元と目尻から溢れた涙は頬を伝ってぐしゃぐしゃだった。
「だって、耳――」
「別にいいよ。これくらいしないと手付金にはならないし。それにさ」
まったく悲壮感もなく、籐子はどこか嬉しそうだった。半分だけになった自分の耳に少しだけ触れたあと、鈴花の中途半端に長い耳を指差す。
「鈴花とお揃いだよ」
思ってもみなかった言葉に、鈴花はきょとんとするしかなかった。
向けられた笑顔が眩しくて眩暈がする。
ああ、そうか。
わたしが誰かのために正義の暴力を使うのだとしたら。
それはこの笑顔を守るためだ。
ウソで塗り固められた日々は、幻想だった日々は、いつからかそうではなくなっていた。
彼女のために榎本を殺そう、と鈴花は思った。
これは一ノ瀬鈴花の正義だ。
――本当に?
と、鏡に映っていた疲れた女が言った気がした。
「そうね」
鈴花は小さく笑った。
この気持ちは、決して幻なんかではない。




