2.実に残念だよ
「おえっ……うげっ……」
覗き込んだ便器に、胃のなかのものをぶち撒ける。
あの日。神村籐子の手紙をすり替えると決めたあの日から、ことあるごとにこれだ。
口元を拭った鈴花は、うんざりしながら立ち上がった。
高級中華料理店の個室トイレは掃除がいき届いており、花の香りさえした。
壁にあるセンサーに手のひらをかざすと、勝手に水が流れ出す。
「ちっ」
締め切った個室のドアに寄りかかり、眉間の皺を深くする。
果たして榎本の言ったとおりになった。
スクラップ工場での銃撃戦で殉職した警察官は二一名。負傷者は一名。生き残ったのは榎本だけだ。いざ戦争になって容赦したり躊躇したりするエルフは、〈ビスカム・デパート〉の戦争担当社員には一人もいはしない。
こちらも営業担当社員が三名、戦争担当社員が二名死んでいる。負傷者も多数だ。
だが、この天秤が釣り合っているのかと言えば、そうではないのだろう。
復興省警察局の警察官を何十人も殺すハメになった取引からカンパニーの代理人は手を引いて、ニューヨーク本店は東京支店の失態にカンカンだった。
取引先を失ったティンク・パウダーは榎本が召し上げ、復興省警察局は過去最大の麻薬の押収と、捜査の過程で多くの警察官が殉職したことを報道発表した。
ニューヨーク本店とカンパニーは今回の物流ルートを破棄することにして、麻薬が米国から密輸されてきたという情報を大使館経由で復興省にリークした。それに合わせて麻薬撲滅作戦に熱心な米国大統領が、殉職した復興東京の警察官に哀悼の意を述べた。これは事件の一因である米国絡みの一線にはこれ以上踏み込んでくるなというサインだった。
事件は大きなニュースとなり、世論は〈ビスカム・デパート〉を厳しく指弾した。復興省警察局はその世論に後押しされ、〈ビスカム・デパート〉の関係者と見るや、末端構成員だろうとおかまいなしに逮捕している。一連の動きは榎本が言うところの菓子折りで、ノエル・エーデルワイスはいまのところそれらを甘受していた。
鈴花は個室トイレの鍵を外すと、重い足取りで共同の手洗いカウンターにたどり着いた。
蛇口から勢いよく水を流し、鏡を見た。
不健康そうな、ハーフエルフの女が映っている。
疲れた女の顔だった。
榎本が言ったとおり、〈ビスカム・デパート〉東京支店の力は大きく削られた。そういう意味では、これは正しいことなのだろう。
だが、榎本を連れて倉庫に戻ったときに見た光景を忘れることはできない。
雨に打たれ、泥に塗れ、そこいらに死体が転がっていた。死んだ連中は知らないだろうが、鈴花にとっては同じ警察官だ。それが打ち捨てられたゴミのように、ただ転がっていた。
お前は正義の味方の一員だ、と榎本は言った。
正義は完璧じゃない。
そう、だから、わたしはこの力で。
少しでも犠牲になる人を助けたいと思ったのに。
そのために警察官になりたいと思ったのに。
これは、本当に、わたしがなりたかった警察官か?
鈴花は鏡に映った自分の顔をずっと見つめていた。
だが、胸中の疑問に鏡の向こうの自分は答えてはくれなかった。
左手首にあるカール・F・ブヘラの時計をちらりと見やる。
憎らしいほどに、それは時を刻むことをやめない。
一ノ瀬鈴花が何者であるのか、秒針が動く度に教えてくる。
「くそっ」
鈴花は吐き捨てると、流しっぱなしにしていた水で顔を洗った。
水は冷たかったが、気持ちがすっきりすることはなかった。
顎から滴る水を拭い、姿勢を正す。
彼女は何事もなかったかのように金と赤で豪奢に装飾された店内に戻った。
複数の個室と宴会場からなるこの高級中華料理店は、戦争担当社員になったばかりのころに籐子と一緒にノエル・エーデルワイスと会食したのと同じ店だった。ここが〈ビスカム・デパート〉東京支店が経営しており、重要な会合に使われる場所だということはあとから知った。
今日は一般の客はいない。貸し切りだった。
「私は子どものころ、ニューヨークのスラムでギャングの真似事をしていた。いまとなってはあのころの生活は思い出したくもないが、ヤンキースのファンだったことは忘れない」
宴会場に戻ると、ノエルが穏やかな声でそんなことを言っていた。
豪華な料理が並んだ巨大な円卓を、支配人であるノエル・エーデルワイスと、一二人の副支配人が囲んでいる。籐子はそのなかの一人で、鈴花は何人もいる護衛の一人だった。
「当時のヤンキースは金にかこつけて他のチームから主力選手を買い漁っていた。悪の帝国なんて呼ばれていたよ」
ノエルがおどけたようにして肩をすくめると、副支配人の何人かが笑った。
「だが、強かった」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、ノエルが円卓の周囲を左回りに歩き始める。
「なぜか。タレント揃いだったが、決して一人の栄光を求めたりはしなかったからだ。ベースボールというものは、チームプレーだ。ジーターがどれだけ打とうが、クレメンスがどれだけ抑えようが、チームがなければ無だ。それを全員が理解していた」
ノエルは足を進めながら、副支配人の一人ひとりの肩に手を置いては離していく。
「わかるか、諸君? 私は東京支店もそんなチームだと信じている。我々から取引の情報がもれるだのと、考えたくもない。だからまずは、カンパニーの代理人を疑うことにした」
両開きの重厚な扉が開いて、ほとんど死にかけている白人の男が引きずってこられた。
ノエルから手紙をあずかったメッセンジャーと接触する役割を担っていた男だ。鈴花もこの男に手紙を渡した。
「いろいろと手を尽くして彼に聞いてみたが、どうやら本当に知らないらしい」
ノエルは床に転がっている男に歩み寄ると、ゴミでも見るような視線を送った。
彼女が右手を差し出し、近くにいた護衛の一人が恭しく自動拳銃を渡す。
「まったく役立たずで困ったよ」
取引が潰れた時点で、この男はカンパニーからも切られている。
なんであれ始末される運命だったのだ。
ノエルが銃口を男に向けた。
一発。二発。三発。
男はびくりと震え、それだけだった。
背の高い赤絨毯が、広がる血を吸い込んでいく。
ノエルはなにごともなかったかのように副支配人たちを見た。
ぎこちなく笑う者、沈黙する者、忙しくなく葉巻に火を点ける者、様々だった。
籐子は平然とした顔で、伊勢海老のチリソースを口に運んでいた。
「こうなると私は、我々のなかにチームプレーを疎かにしている者がいると思わざるを得ない」
鈴花はこの会合が吊し上げの場であり、儀式めいたものであることを理解していた。
ノエルは最初から組織のなかに潜入がいると考えていたし、彼女がメッセンジャーに託した手紙の中身は彼女しか知らない。露見した取引の情報を託した者が潜入だ。
それが籐子であることを、ノエルは取引場所に榎本が現れた時点でわかっている。
それでもわざわざ組織の外の人間の可能性から潰していったのは、籐子を処分することへの彼女なりの躊躇のようにも思えた。
「ちっ……」
鈴花は額に滲んだいやな汗を拭った。
前髪がへばりつく不快感。吐きそうだった。
自分が手紙をすり替えた結果、神村籐子がこれからどうなるのか。
彼女はよくよくそれをわかっていたし、わかった上でそうしたのだ。
カール・F・ブヘラの腕時計に無意識に触れる。
一ノ瀬鈴花は警察官で、神村籐子をハメることは、結果として〈ビスカム・デパート〉の力を弱くする。顔も知らない多くの誰かが、それで助かる。
ノエルは自動拳銃を手にしたまま、円卓の周りをゆっくりと歩いていた。
鈴花はその姿を目で追っていた。いやな汗はとまらず、呼吸が荒くなる。
「実に残念だよ、トーコ」
ノエルは自動拳銃の銃口を籐子の後頭部に密着させるなり引き金を絞った。
銃声。
後頭部を殴られたようにして、籐子が顔面をテーブルに激しく打ちつける。
皿が割れる音。
血と一緒に料理が周囲に飛散する。
白いテーブルクロスに、真っ赤な染みが広がる。
くぐもった驚きの声が、他の副支配人たちから漏れた。
鈴花は目を見開いて、その様子を見ていた。ただ、見ていた。
きつく握った拳が震えている。
大丈夫。
神村籐子はこんなくらいでは死なない。
大丈夫だ。




