6.どっちに転んでも美味しい話や
ネットで注文したレトロゲームと一緒に梱包されていたスマホには、見知らぬ番号がひとつだけ登録されていた。
鈴花は躊躇することなくその番号をタップした。
『神村をハメてこい』
電話の相手は名乗ることもなくそう言った。
高度に暗号化された通信のせいで音声はよくない。
だが、榎本であることはすぐにわかった。
「ハメるとは?」
鈴花はオウム返しにした。
『一ノ瀬、お前の報告からして本命は神村の可能性が高いやろうけど。そう思わせておいて実はまったく違うという可能性もある。考えてもしゃあない』
ノエル・エーデルワイスからメッセンジャーに指名されてから数日。
カンパニーの代理人への接触命令はまだない。
鈴花は注文したゲームと一緒に送られてくる使い捨てのスマホで連絡を行い、ニューヨーク本店からの物流経路に米軍基地か大使館のルートが存在していること、近々あるという大きな取引、彼女がメッセンジャーに指名されたこと、そういったあれこれはすでに報告していた。
この件に関しては探りを入れてはいたが、他に手紙が何通あるのか、誰がメッセンジャーに指名されたのか、判然としない。情報は完全に秘匿されており、確実なことは神村籐子もメッセンジャーであるということだけだった。
『お前の手紙と神村の手紙をすり替えてこい』
「それは……」
『神村の家に転がり込んどるんやから、機会はあるはずや』
榎本の言うとおり、できなくはないはずだ。
籐子が手紙をどう保管しているのかはわからないが、ことさら厳重にしているとは思えなかった。すでにカンパニーの代理人に渡してしまった可能性はあるが。
電話でよかった、と鈴花は思った。逡巡したことを、榎本に悟られないですむ。
手紙をすり替えて、その情報を榎本に流したときなにが起きるのか。
神村籐子が本命なら、取引を潰せるうえに彼女は犬になる。空振りに終わったとしても、神村籐子から情報が漏洩したことになり、彼女は犬になる。
『どっちに転んでも美味しい話や。ノエル・エーデルワイスは裏切りには容赦せん。いくら神村でもな。取引が潰せんでも、腕っこきの殺し屋が消えてくれるなら万々歳や。僕はな、一ノ瀬、。神村は桶屋みたいなもんやと思っとる』
「桶屋?」
『あいつの存在が、組織の箍をぎちぎちに締めとるんよ。兵隊として強すぎるし、支配人であるノエル・エーデルワイスと近すぎる。神村自身は意図してへんやろうけど、ノエルはそれを意図して神村を重用しとる。だから、東京支店でノエルの寝首をかこうっちゅう者は現れんし、派手な派閥争いもない』
いい得て妙だな、と鈴花は思った。
『桶屋がおらんようになったら、箍も少しは緩むやろ』
榎本の意図するところは、そうすればあの手この手で組織に浸透しやすくなるということだ。エルフの結束なんてものは、所詮は戯言だ。巨大な犯罪組織を本当の意味で壊滅させることはできないが、首をすげ替えて御用組合にすることはできる。飼い慣らして、持ちつ持たれつでやっていく。それが理想とは言わないが、現実とは得てしてそういうものだ。
榎本の言うことはなにも間違っていない。
『一ノ瀬』
榎本はこちらを諭すように、ゆっくりと言った。
『忘れるな。お前は警官や』
「わかっています」
『ならええ』
榎本はそれ以上なにも言わなかった。
『一ノ瀬、頼むぞ』
それだけを言い残し、電話は切れた。
鈴花はもう二度とつながらないスマホの画面を見つめ、ゴミ箱に叩きつけるようにして投げ捨てた。
時刻は午前九時。
外は雨だった。
点けっ放しにしていたテレビからは、朝の情報番組が流れてきている。
お天気キャスターが言うには昨夜から降り出した雨はしばらく続くそうで、復興東京の雑多な街並みを洗い流している。雨に煙る復興東京の街並みは、まるで幻でもあるかのように不確かなもののように思えた。
鈴花はのろのろと窓に向かった。慣れ親しんだ自分の部屋も、まるで幻のように思えた。
「ちっ」
眉間に皺を寄せ、よくわからない不快感に舌打ちする。
無数の雨粒が打ちつけて流れ落ちる窓ガラスには、ぼんやりとした自分の顔が映っている。
不確かな輪郭にそっと触れて、鈴花は自嘲した。
「わたしは――」
左手首にそっと触れる。
いつまで経っても似合わない腕時計がそこにはあって、彼女が何者なのかを教えてくれる。
大丈夫。
誰がなんと言おうと。
わたしは警察官だ。
鈴花は窓に映った自分に背を向けると、テレビを消して音もなく部屋を出た。
神村カレーの二階には向かい合うようにして二部屋があって、ホールのようになっている共有部分に一階への階段とトイレがある。
「あ、鈴花!」
「籐子……」
部屋を出た瞬間、階段を上ってきた籐子と視線が合う。
カラコンをしていない金色の瞳に吸い込まれそうになる。
彼女は一階でシャワーを浴びてきたらしく、ラフな部屋着姿だった。
頭にはタオルをターバンみたいにして巻いている。
「ちょうどよかったよー。まだ寝てるなら、起こしにいくとこだった。髪乾かしてー」
「はあ、もう。子どもではないのだから、自分でやって」
「いいじゃんかよー。雨のせいで湿気が多いし、丁寧に乾かさないとボサボサになっちゃう」
鈴花は回れ右して部屋に戻ろうとしたが、がっしりと抱きつかれて阻止された。
「まってまって」
ボディソープのいい香りがする。
「塩対応がすぎる。可愛いハーフエルフちゃんとスキンシップしたいんだよー。ねーねー」
「ちょっと、猫みたいにすりすりしないで」
「すりすり」
「……」
「ダメ?」
眉間に寄せた皺を揉み解し、鈴花は仕方なく肩を落とした。
「はあ、もう……ドライヤー持ってきて」
「やあったねー! うっへへ」
鈴花から離れると、籐子はその場でくるりと一回転した。
本物のエルフは素足の爪先まで美しいのだな、と鈴花は思った。
きちんとペディキュアをしているあたり、実に籐子らしい。
彼女は階段を駆け降りると、マイナスイオンが出るとかいうドライヤーを持ってすぐに戻ってきた。籐子を部屋に招き入れると、鈴花はベッドを指差した。
「ほら、座って」
「ういうい」
素直に従ってベッドの上であぐらをかくと、籐子は頭に巻いていたタオルを取った。
美しい白金の髪が露になる。毛先が傷んでいる様子もない。
ドライヤーをセットした鈴花は、籐子の背中に向き合って膝立ちになった。
彼女の髪に触れ、まずは強めの温風で根本から一気に乾かしてやる。
「おー、気持ちいいー」
「はいはい」
「鈴花も髪伸ばせば? あたしが乾かしてあげるからさ」
「わたしは癖っ毛だし、ロングなんて似合わない」
「えー、それはやってみないとわからないじゃん。それか、髪の色明るくしようよー。いきなり冒険するのがいやだったら、インナーカラーとかは? ショートでも色々楽しめるよ」
「遠慮しておく。そういうのはよくわからないし」
「相変わらず無頓着だなー。もったいないよ」
「性分なの」
一ノ瀬鈴花の人生は、生きていくだけで精一杯だった。人並みにオシャレを楽しむだとか、気になる人のために背伸びをしたメイクをするだとか、そういったこととは無縁だった。
神村籐子の境遇も似たようなものだろうが、こんなにも違うものかと思う。
それは彼女の持って生まれたものなのかも知れないし、前向きで明るいことを考えて生きることにした、という選択の結果なのかも知れない。
「前髪乾かすからこっちを向いて」
「うあー、前髪に変な癖つけないでー」
「はいはい。つけないから」
こちらを向いた籐子の前髪を弱い温風で乾かしてやる。
目を細めて口を半開きにしている様子は、どこか間が抜けていた。
ひょっとしたら彼女みたいになれた人生もあったのかな、と鈴花は思った。
思ってはみたが、それはないな、と頭を振る。
子どもだった鈴花は、自分の境遇について不幸自慢をしても仕方ないと割り切ることなどできなかった。生き残った意味を探さなければ、気がおかしくなってしまいそうだった。
だから、一ノ瀬鈴花は警察官だし。
神村籐子はマフィアの殺し屋だった。
「そういえば、支配人から連絡はあった?」
「んー? メッセンジャーの件? まだだよー。あんな物騒な手紙、さっさと手放したいよ」
そうね、と鈴花は言った。
前髪が乾いたことを確認した籐子が、改めて背中を向けた。
彼女の白金の髪に手ぐしを入れて、毛先の方向に軽く伸ばしながら全体を乾かしてやる。
手紙をすり替えるチャンスはある。籐子の手紙が本命だろうとそうでなかろうと、榎本の目論見のとおりにことは進む。
神村籐子は組織から潜入の疑いをかけられ、処分される。
滑るような白金の髪を手のひらで感じながら、鈴花は籐子の背中をまじまじと見つめた。
ノエル・エーデルワイスの言葉を思い出す。
榎本に従って彼女をハメて、ノエルに従って彼女を始末するのか。
警察官としてそれは正しい。
マフィアの殺し屋としてそれは正しい。
無数の正しいで成り立っているのが世の中だ。
だから、一ノ瀬鈴花は間違っていない。
ストンとまとまった白金の髪から手を離し、鈴花は籐子の背中をぽんと叩いた。
「ほら、乾いた」
「えー、もうスキンシップ終わり?」
こちらを振り返った籐子が、名残惜しそうに言ってくる。
それが拗ねた子どもみたいだったので、鈴花は仕方なく言った。
「そんな顔しないでよ。雨の日はまたやってあげるから」
「それはずっと雨でいいなー」
ぱっと笑顔になると、籐子は自分の髪に触れた。
「うっへへ。さらさらー」
本当に、彼女の笑顔は眩しすぎる。
わたしはどんな顔をして、この笑顔に銃口を向けるのだろう。
そのとき、彼女はどんな顔をするのだろう。
「手紙を渡されたときにさ、支配人に言われたんだよね」
「なにを?」
「鈴花が犬だったら始末してくれるかって」
「……そう、なんだ」
ドライヤーのコンセントを抜くために背を向ける。
「死人みたいな目でさー、おっかないったらないよ」
背中から聞こえる籐子の声は、いつものとおりの気楽なものだった。
それでも、鈴花は彼女の顔を見ることができなかった。
言葉にできない罪悪感に、息を呑む。
同じ問いに、一ノ瀬鈴花は組織の兵隊として模範的な回答をした。
神村籐子も、同じであってほしい。
そうでなければ、わたしは――
彼女をハメて、始末しようとしているわたしは――
込み上げてきた不快感に顔をしかめる。
吐きそうだ。
鈴花は無言で部屋を飛び出すと、トイレに駆け込んだ。
膝をつき、覗き込んだ便器に逆流してきた胃の中のものをぶち撒ける。
「うげっ……げほっ……!」
どうしてこんなことになるのか、自分でもよくわからなかった。
「ちっ……」
口元を拭って、鈴花は舌打ちした。
胃酸で焼けた喉が痛い。
これは正しいとか正しくないとか、そういう理屈とは別の感情の問題だ。
自分は神村籐子をハメて、始末できるのか。
――本当に?
「鈴花、急にどうしたんだよー? 大丈夫?」
ドアの向こうから聞こえてくる籐子の声に、鈴花は「大丈夫よ」とだけ言った。
――本当に?
胸中で彼女自身が繰り返す疑問には、誰も答えてくれなかった。
彼女自身でさえ、答えられなかった。
それでも彼女は――手紙をすり替えた。
一ノ瀬鈴花は、どうしたって、警察官だった。




