4.パンダはすべてを解決する
パチンコ屋を出た榎本は西新宿の復興省庁舎に戻ることもなく、顔馴染みらしい店を回っては挨拶がてらに茶封筒を受け取っていた。おそらく中身は現金で、電子マネーよりも足がつかない。なにかあったときに便宜を図るための賄賂だろう。
雑居ビルの一室で営業している違法カジノ。コフィンと呼ばれる狭苦しいビジネスホテルを装った売春宿。無免許でサイバネ手術を請け負う整形外科――挙げればきりがないほどに、榎本のネットワークは組織犯罪対策課の警察官としてはある意味で完璧だった。
「無免許のサイバネとか、怖くてあたしは無理だなー」
「サイバネは千葉がメッカだから、この辺りだと珍しいわね」
「そうだねー。秋葉原が根城のあたしたちにはあんまり縁がない」
チェロキーの助手席に身体を沈めている籐子は、半眼になって言った。
「それにしても、榎本はやってることがヤクザだ。ホントに警官かよー」
「組対の警官がよくやる裏金づくりよ」
「それになにが腹立つってさー、榎本が乗ってるクルマが可愛いってこと」
「そこなの?」
榎本が運転しているのは二台前を走るシトロエン。個性的で、オシャレで、可愛いのだ。
籐子も鈴花も、本当はそういう車を支給してほしいと思っている。
「あれも押収品なのかなー」
「さあ。押収品ならもっと高級車だと思うけれど」
「白いフェラーリ・テスタロッサとか?」
「どうして白で限定するのよ?」
「ドン・ジョンソンと比べたら笑っちゃいそうだから」
何十年も前に放送していたアメリカの刑事ドラマで、白いフェラーリ・テスタロッサで颯爽と現れる刑事がいるのだ。榎本が同じように現れたとしたら、確かに笑える。
「ちょっと、変なこと想像させないで」
「思いついたんだから仕方ないじゃんかよー」
二人を乗せたチェロキーは、常に何台かを間に挟み、榎本を追尾していた。
次に榎本が立ち寄ったのは不忍池の近くにある煙草屋で、どんな経緯で生き残ったのか『たばこ』と書かれた赤いのぼりと看板が、昭和という遠い昔そのままだった。
紙巻煙草のほかにも手巻き煙草用の巻紙やシャグなども扱っており、絵に描いたような煙草屋のおばあちゃんが榎本と談笑していた。
そういえば榎本は手巻き煙草だったな、と鈴花は思った。
彼くらいのチェーンスモーカーなら既製品を買うほうが手っ取り早いし安上がりだろうに、喫煙者のこだわりというものはちっとも理解できない。
煙草屋をあとにした榎本がぶらぶらと向かった先は、再建二〇周年のニュースが流れていた上野動物園だった。
いまも昔も動物園は親子連れで盛況で、中国からやってきたパンダは大人気だった。
榎本が律儀に入園チケットを購入して動物園に入っていく。
「悪徳不良警官のくせに動物好きなのかよー」
「まさか。平気でノラ猫を蹴るタイプの人間だと思うけれど」
鈴花は真面目な顔でそう言って、スマホに年パスを表示させた。
「って、なんで年パス持ってるわけ?」
「パンダの森がね、すごくいいの」
「パンダ」
「パンダはすべてを解決する」
「すべて」
「ストレス社会のすべてよ」
鈴花は胸を張った。
謎のパンダTシャツのイラストを凝視して、籐子は嘆息した。
「だったら犬探しもパンダに解決してほしいよ」
「それは無理よ。彼らは癒しを提供してくれるだけだもの」
「癒し」
「年パスは二人まで入れるから、いきましょう。パンダの森へ」
「ちげーぞ。榎本を探すんだからな?」
数秒だけ無言になり、鈴花はわざとらしく咳払いをした。
「んんっ! 榎本を探しましょう」
「いや、それでなかったことにはならんし」
「……」
鈴花は無言で籐子の尻を蹴った。
そのまま走り出す。
「おいー! あたしの可愛いお尻になんてことするんじゃ!」
「なんとなくむしゃくしゃしてやった。いまは反省している」
「絶対してないやつじゃん!」
籐子がすぐに追いついてきて、背中に飛びかかってくる。
彼女の体重を感じて、鈴花は小さく笑った。
「ちょっと! もう」
「うっへへ」
籐子のほうは見事に愛嬌がある笑顔だった。
それは本当に眩しくて、ぞっとするほどに恐ろしかった。
新東京タワーで榎本に命じられたときから始まった潜入の日々が、このウソで塗り固められた日々が、いまでは自分の真実のように思えてくる。それが幻想の日々であることを教えてくれるのは、いつだってカール・F・ブヘラの腕時計だった。
無意識に触れて、心のなかで彼女は繰り返す。
わたしは警官です。
答えてくれる声は、確かに告げる。
お前は警官や。
それが一ノ瀬鈴花の真実だ。
バンダの森の近くのベンチに座る榎本を見つけたとき、鈴花は改めてそれを確信した。
偶然なわけがない。榎本は追尾に気づいている。だが、それでいい。潜入捜査官がイレギュラーな行動を取っているのなら、なにかよくない事態が起きているのだと察するはずだ。
問題はどうやって榎本に情報を伝えるのかということだった。
「鈴花、ぼんやりしてると目立つから」
籐子に腕を引かれて、パンダの森の見物客のなかに入り込む。
二人は腕を組むと親子連れやカップルに混じって、ぼへっとしているパンダを見た。
ちょうど榎本を背後に置くような位置取りで、向こうからは顔は見えない。籐子の白金の髪と長い耳は目立つが、客のなかに他にもエルフがいないわけでもなかった。
鈴花は自撮りをする振りをして、スマホをかざした。
画面にはベンチに座る榎本も一緒に映っている。
「あいつマジで仕事サボりにきただけかもよ?」
籐子が耳元で囁いた。
いや、榎本はこちらに気づいている。
鈴花は眉間に皺を寄せると、画面のなかの榎本を凝視した。
彼はスマホに視線を落とし、神経質そうに足元を動かしていた。
短いリズムと長いリズム、そして空白の繰り返し。
「……!」
モールス符丁だった。
鈴花は内心で舌打ちした。
警察官訓練学校で学んで以来まったく使ってこなかった知識で、咄嗟に出てこない。
・-・ -・-・ ・-・・ ・・ --・-- -・
(ナニ ガ アッタ)
榎本は繰り返しそう言っていた。
鈴花は同じように爪先で符丁をつくった。
-・--- -・--・ --・・ ・-・・ ・・ ・- ・・・・ -・-・- ・-・・ ・・ --・-・ ・--- -・・・ --・-・ ・・ -・・・- -・
(エルフ ガ イヌ サガシ ヲ ハジメタ)
榎本の動きが変わる。
--- ・-・-・ ・・・ ・・・- --・-・ -・ ・・ ・-・-・ -・・・ ・- ---・- ・ ・・ ・-・-- -・・・ -・-・・
(レンラク シュダン ハ スベテ ハキ)
鈴花は答えた。
・-・・・ ・-・・・ -・-・・ ・-・ ・・-・・ --・ --・・- -・-・・ ・-・・ ・・ --・-- -・--・
(オオキナ トリヒキ ガ アル)
--・-・ ・・- -・-・- ・- --・・ -・・・- ・-
(ショウサイ フメイ)
榎本はスマホをスーツの胸ポケットに放り込むと、色つきの眼鏡を押し上げた。
--・・- -・-・・ ・--・ ・--・ ・・ -・-・・ -・-・- ・・・- ・・ ---
(ヒキ ツヅキ サグレ)
それが最後の符丁だった。
榎本はベンチから立ち上がると、売店でアイスクリームを買って動物園を見て回った。
それから何日間も、鈴花はすべての連絡手段を破棄して榎本と連絡を取らなかった。
その間も榎本の行動確認は続けられたが、彼からの新しい連絡もなかった。
うまく運べば犬探しは終わるかもしれないな、と彼女は思った。
そんな矢先だった。
ノエル・エーデルワイスから呼び出されたのは。




