2.復興東京は夜の七時
『復興省広報局からのお知らせです』
古びたワンボックスカーの車内には、淡々とした女性アナウンサーの声が流れていた。
『本日のゴブリン化事案は一一件が確認されており、いずれも復興省警察局により鎮圧されました。死者は七名、重軽傷者は二五名が確認されています。ゴブリン化に遭遇、または目撃した際は、速やかに復興省警察局まで通報してください。復興東京は夜の七時。この番組は、復興東京市民の皆様の安心安全を守る、復興省の提供でお送りいたします』
続けてラジオから軽快な音楽が流れ始める。何度目かの流行を迎えた、一九八〇年代のシティポップだ。ハンドルを握る鈴花は前を走るタクシーのテールランプを確認して、ゆっくりとブレーキを踏んだ。
ワンボックスカーのフロントガラスの向こうに見える景色は、一言で言えば猥雑だった。
立ち並ぶ大小無数のビルから歩道に向かって多言語の原色ネオンの看板が突き出し、四車線ある車道は違法駐車と違法屋台で二車線かと思うほどだった。歩道だろうが車道だろうが人々はお構いなしで、ひっきりなしにクラクションと怒声が飛び交っている。
仕事帰りの会社員。これから遊びにいく学生グループ。日本語の怪しい外国人。
復興東京と呼ばれて久しいこの街は、あらゆる人種、あらゆる言語、あらゆる文化がごちゃ混ぜになっている。
「ゴブリンよく出るなー」
助手席にいる籐子が、そう言って乾いた笑いをもらした。
「あたしはエルフでよかったよ」
「あなたは第一世代の魔王因子中毒者だものね。魔王因子の活性化でエルフになる確率は一パーセント以下だと言われているから、運がよかったと言えばよかったのかしら」
「ゴブリンになるよりはね」
一九九九年を境に、世界はおかしくなってしまった。当時だって、本当に二〇世紀の終わりに恐怖の大王によって世界が滅ぶなんて信じていた者などいないだろう。
だが、異世界から魔王がやってきた。
チタニアと名乗るその来訪者は、まったく友好的ではなく、こちら側の世界を植民地にすることを目的にしており――国際社会による高度に政治的な判断が下された結果、米海軍の原子力潜水艦から発射された核ミサイルによって東京上空で滅びた。
日本は首都機能を関西に分散移転させ、東京の復興を目的とした復興省を設立した。
かつて人口一二〇〇万を抱えた大都市の再構築に、国内外のあらゆる企業や勢力が群がり、膨大な金と人が流入し、凄まじいスピードで新しい都市は膨張した。計画などあってないようなもので、そこいらで建設されているビルや埋め立てられている海が、合法なのか違法なのかもよくわからなかった。
復興東京特別行政市。
通称・復興東京と呼ばれるこの都市は、いつの間にか誰にもコントロールができなくなっていた。ここは日本でありながら、復興省と復興のために誘致された国内外のメガコーポと呼ばれる巨大企業が支配する、まったく別の国だった。
それだけならまだいい。人種の坩堝であり、貧富の格差が大きく、殺人、人身売買、麻薬、売買春、武器密売、汚職といった犯罪が溢れている。世界で一番治安が悪く、世界で一番景気のいい都市が誕生しただけだった。
「でもまあ、エルフにだって色々と苦労はあるよ」
「ハーフエルフのわたしにそれを言う?」
「おっと。こりゃ失敬。怒った?」
「別に」
「怒ってるじゃんかよー」
「愛想がないだけよ」
世界を変えてしまったのは、魔王チタニアが滅びるときに残していった置き土産。
核ミサイルの放射能を変質させてばら撒いた、魔王因子と名づけられたなにか。
世界中のあらゆるものが魔王の遺産に汚染され、あるいはいまも汚染され続けている。
そして――なにかをきっかけに魔王因子が活性化すると、汚染された者の存在が異世界のそれに変質する。すぐそこにあるコンビニのアルバイト店員が、突然ゴブリンに姿を変えてもおかしくはないのだ。それはファンタジーの世界で語られる本物のゴブリンであり、醜悪かつ凶暴で、問答無用で人を襲う。そこに対話の余地はない。
ゴブリンだけではなく、オークや、リザードマンや、ドワーフや、エルフになる場合だってある。過去にはドラゴンに姿を変えた事例すらある。
魔王因子が活性化して異世界の住人へと存在が変質した人々は魔王因子中毒者と呼ばれており、エルフのように社会に馴染んでいった者もいれば、ゴブリンのように自我を失った怪物となって速やかに駆除される者もいた。
爆心地である復興東京は特に魔王因子の汚染がひどく、人口に占める魔王因子中毒者の割合は世界一だ。魔王が核ミサイルで滅びて数十年。いまや魔王因子中毒者を親に持ち、生まれながらにして異世界の住人に変質した第二世代、第三世代の魔王因子中毒者も増えている。
一ノ瀬鈴花は、そんな第二世代の一人だ。
「ちっ」
完全に渋滞につかまってしまったようで、鈴花は小さく舌打ちした。
車間を縫うようにして、人々が横切っていく。
仕事帰りのエルフ。これから遊びにいくワーウルフのグループ。日本語の怪しいドワーフ。
復興東京と呼ばれるこの街は、本当の意味であらゆるものがごちゃ混ぜになっている。
「鈴花、眉間に皺寄せてると美人が台無しになるぜー」
籐子は本気でそう思っているようで、無邪気に笑った。相棒であるひとつ年上のエルフは、澄ましているとはっとするほどに美人だし、笑うと屈託なく可愛いのだ。
どの口でわたしが美人なんて言っているのだか、と鈴花は思った。
ようやく、のろのろとクルマが動き始める。
「おっ、支配人から電話だ」
籐子が作業着からスマホを取り出したので、鈴花はラジオのボリュームを絞った。
「ハローハロー」
まるで友達のように電話に出ると、籐子はスマホの設定をスピーカーにしてダッシュボードに置く。スマホから聞こえてきたのは、ハスキーな女の声だ。
『トーコ、今回はつまらない仕事を頼んですまなかったな』
世界中で活動するエルヴン・マフィア〈ビスカム・デパート〉の大幹部――ノエル・エーデルワイス。東京支店の支配人。ニューヨーク生まれの米系エルフ。この復興東京では誰もが名前と顔を知っている、パパラッチのターゲットにだってなっている有名人。
「ホントだよー。担当が違くない? 別のラインにやらせてよ。ぶーぶー」
『そう言うな。最近は暇だっただろう』
神村籐子は〈ビスカム・デパート〉東京支店の戦争担当副支配人というポジションで、その役割は専らが組織の暴力装置だ。
抗争では先陣を切り、謀略を暗殺で助け、ときには自らを盾にして要人を護衛する。
鈴花は籐子とコンビを組んではいるが、組織の序列では戦争担当社員と呼ばれる何人もいる神村籐子の部下の一人にすぎない。お気に入りというだけの話だ。
「商談は順調?」
『桐島建設の専務ともなると存外に頑なでな。私がたまたま手に入れた蕎麦屋の土地の権利書を、善意で譲ってやろうと提案したのだが、値段が折り合わない』
「二束三文で地上げしようとしてた土地だよ。素直に払うわけないじゃんかよー」
『だから私はこう言った。オーライ、それなら特別サービスをつけるよ』
一拍の間。おそらく煙草に火を点けたのだろう。
『そして、いましがた専務の愛人をマンションの部屋ごと吹き飛ばし、お前が送ってきた地上げ屋の動画を見せながら、次はお前の家族の動画を撮影するために、部下のなかでも飛び切りの腕っこきが向かっているぞ、と提案して休憩になったところだ』
明日の天気の話をするくらいに、淡々とした物言いだった。
「はあ、最悪」
鈴花はその言葉の意味を理解して、眉間の皺を深くした。
ノエルが言った飛び切りの腕っこきというのは、鈴花と籐子のことを指している。二人は桐島建設の専務の自宅に向かっているわけではなかったが、そういうことにされている。
「ひっどいなー。あたしと鈴花を餌にするなんて」
籐子はわざとらしく唇を尖らせると、少しだけ身体を前のめりにした。
復興東京の裏も表も支配するメガコーポは、犯罪組織からの脅しなんてものには簡単には屈しない。この街では競合企業との争いに勝利するには札束での殴り合いと、暴力による暗闘が常だったし、様々な犯罪組織が脛をかじりにやってくる。そんな連中をあしらうため、メガコーポは強力な私兵を抱えているからだ。
桐島建設の専務は、いまごろ自社の殺し屋を差し向ける指示をしているに違いなかった。
『ふふ、バカを言うな。釣り餌が魚を食うものか』
スマホの向こう側から聞こえる声は、少しだけ愉快そうだった。
『桐島建設の連中に、我々とは握手しておくほうが安くつくことを教えてやれ』
「もー、仕方ないな」
「はあ、本当に最悪」
ノエルの言葉に、二人は口々にそう言った。
電話が切れる。
鈴花はのろのろと走るワンボックスカーの左右に視線を巡らせた。渋滞から抜け出すための横道を探す。こんなところにいたら鴨撃ちだ。
だが、隣の籐子がぎょっとした顔になって叫ぶのが聞こえた。
「あ……RPG――ッ!」
旧ソ連製の携帯式対戦車ロケット。
鈴花は反射的にシートベルトを外し、ドアを開けてワンボックスカーから飛び出した。
埃っぽいアスファルトに身体を打ちつけ、痛みに構うことなくそのまま転がって可能な限りクルマから離れる。突っ伏したまま頭を抱え――爆発。
衝撃と熱風が辺りを蹂躙し、鈴花の髪と肌を焦がして鼓膜を震わせた。
ワンボックスカーが一瞬で黒焦げのスクラップになる。
誰もが呆気に取れられてその光景を見ており、一拍の間を置いて怒号とも悲鳴ともつかぬ声があちこちから響いた。渋滞でのろのろと走っていたクルマからはクラクションがひっきりなしに鳴り、やがて次々とクルマを乗り捨てて誰も彼もが外に出た。
ひしめきあっていた通行人たちは屋台の看板やテーブルをひっくり返して我先にと逃げ出し、文字どおり蜘蛛の子を散らしたようだった。
鈴花はパニックの喧騒のなかゆっくりと立ち上がり、周囲に視線をやった。
逃げ惑う人々をよそに、こちらに近づいてくる複数の人影がある。
「ひっどいことするなー、もう」
少し離れたところで、籐子も立ち上がっていた。
「鈴花、大丈夫?」
「ええ。なんとか」
鈴花は小さく嘆息し、ワンボックスカーの残骸を見た。
「これで新車になるかしら」
「どうかなー。あたしはヨーロッパの可愛いクルマが好きなんだけど」
二人は声を押し殺して、気楽そうに笑った。
「おいおい。頭がイカれちまってんのか? こんな状況でよく笑っていられるもんだ」
だから、無人になった肉団子スープの屋台の陰から現れた男がそう言ったのも、無理からぬことだった。まるでマフィア映画から抜き出てきたようなサングラスに黒いスーツで、右手には弾頭がなくなったRPG7の発射機がある。
籐子は両手を腰にやると、少し呆れたように言った。
「メガコーポの連中って、復興東京でなにやっても許されると思ってるわけ?」
「復興省に友人が多いのがメガコーポのいいところでな」
男は発射機を投げ捨てた。
鈴花は男の特徴を見て小さく舌打ちした。
「ワーウルフか」
頭の上には尖った狼の耳、腰の上あたりには太く短い狼の尾。魔王因子の活性化によって存在が変質した魔王因子中毒者。エルフとは比較にならない膂力とタフさを持っている。
鈴花は籐子と背中合わせになって、自分たちを取り囲む同じような格好の男たちを見た。
背格好からして日本人ではなさそうだ。五人。全員がワーウルフ。
鈴花はヒップホルスターの自動拳銃に手を伸ばした。
引き抜いた瞬間、それが合図になりそうな気がした。
「はあ、もう、はあ、本当に最悪」
彼女はうんざりした気持ちになりながら自動拳銃を引き抜いた。
流れるように美しい、絵に描いたような所作だった。