7.わたしの知ったことか
『さてここで、ファイト・クラブから特別なゲームをご提供いたしましょう』
会場にはMCのそんなアナウンスが響いていた。
抑揚をおさえた声で淡々と説明をしながら、会場の期待が高まる時間をつくっている。
『美しく、冷酷な、エルヴン・マフィアの戦争屋! 泣く子も殺す〈ビスカム・デパート〉のミズ・カミムラが連れてきた、可憐なハーフエルフの戦士が飛び込みで参戦です!』
神村籐子の名前が出ただけで、会場が少しざわつくのがわかった。
『ハーフエルフの美貌に浮かぶのは! 勝利の歓喜か! はたまた、絶望の苦痛か!』
金網に囲まれた闘技場に続く入場口でMCの言葉を聞きながら、どんな美人が出てくると思っているのやら、と鈴花は嘆息した。
「その時計さー」
肩を並べている神村籐子に言われて、鈴花は無意識に左手首を触った。
「外したほうがいいよ。高そうだし。壊れちゃう」
「……それもそうですね」
鈴花はそっと腕時計を外し、それだけで自分が本当のチンピラになった気分になった。
「どうかした?」
「いえ。あずかってもらっても?」
「もちろんだよー。運営なんかにあずけたら、すぐに盗まれて戻ってこないよ」
腕時計を受け取った神村籐子は笑った。
その太陽のような笑顔には、不思議な安心感があった。
「緊張はしてないみたいだね。怖くないの?」
「はい」
鈴花は表情を変えることなく、それだけを言った。
いくつかの犯罪組織に潜入して兵隊として実戦を経験するなかで、鈴花はどんな修羅場であっても恐怖というものを感じないことに気づいた。いまもそうだ。かつて榎本が言ったとおり、ゴブリンに殺されかけて以来、頭のネジが外れているのかもしれない。
『今宵、ファイト・クラブに新しい伝説を残すか、はたまた無惨に散るか! 名もなきハーフエルフの入場です!』
複数のピンスポが鈴花の控える入場口に当てられた。
派手な音楽が会場を揺らす。
「神村さん、この試合も賭けの対象になっていますか?」
「え、うん。なってる。鈴花のオッズはなんと一三五七倍だよー」
「なら、わたしにベッドすることをお勧めします」
その言葉を聞いて、神村籐子は声を出して笑った。
「うっへへ。じゃあ手持ちの全財産で買っとくよ。それで鈴花の服を買いにいこうね!」
鈴花は小首を傾げ、苦笑混じりに言った。
「……考えておきます」
「おー! また振られるかと思ったのに! やあったねー!」
神村籐子の子どもっぽい笑顔に押し出されるようにして、一歩を踏み出す。
観客からの好奇と、なにかを期待する無数の視線が彼女に突き刺さった。
吐き気のする視線だった。
金網に囲まれた四角い闘技場に足を踏み入れ、まるで鳥籠だな、と鈴花は思った。
『対するは――連戦連勝の無敵の戦士! エルフ殺しはお手のもの! 魔王の落とし子、異世界の怪物。このオーク、凶暴につき!』
それが誰を指しているのか、観客はすぐに察したようだった。
『グエ――――ン・バ――ン・ト――ンッ!』
反対側の入場口にピンスポが当てられる。
そこから姿を現したのは、文字どおりのオークだった。
二メートル近い巨体に、猪のような牙が目立つ豚のような顔。
猪と豚と人間をかけ合わせたような、暗緑色の肌の異世界の怪物。
オークの魔王因子中毒者。
ゴブリンとは違って意思疎通ができるこの種の異世界の住人は、その見た目もあって人間社会になかなか馴染めていない。
それはオークだけの問題ではなく、存在が変質する前の人格や記憶を有しながらも見た目が大きく変化した魔王因子中毒者に共通する社会課題だ。
彼らは世界中で差別や排斥の対象になり、まともな職に就くこともできず、人権とも絡んだ複雑な問題になっている。もっとも、いまの鈴花にとってはどうでもいいことだった。
「まさかこんなお嬢さんが相手だとはなあ。この仕事はたまにこういう役得があるぜ」
オークは訛りのある英語でそう言って、粘りつくような視線をこちらに送ってきた。
屈強な古強者という印象ではあったが、それ以上に生理的に受けつけない雰囲気だった。
それは容姿の問題ではなく、自分よりも弱い女を嬲り殺しにすることを楽しみにしていることがわかるからだ。
「お前をすぐには殺さずに、できるだけ観客を楽しませろと言われてるんでな。俺も楽しませてもらうぜ。せいぜい気持ちいい声で鳴いくれよ、ハーフエルフちゃん」
オークがひどく人間臭い仕草で肩をすくめ、下品に笑った。
「素手でゆっくりとバラバラにしてやるからよ」
武装していないのはそのためか。
刀剣で武装されていたら終わっていたな、と鈴花は思った。
オークの力で刃物を振るわれれば、パーカーの下に着ている防弾耐刃繊維シャツくらいでは防ぎようもない。あれは普通の人間が相手のときの保険のようなものだ。
「悪いけれど、わたしも仕事なの」
鈴花は自分よりも遥かに巨大なオークを見据えた。
審判はいない。試合開始のブザーが鳴り響けば、あとはやり合うだけだった。
散々っぱら騒いでいたMCが試合の開始を告げた。
瞬間、鈴花はベルトに捩じ込んでいた自動拳銃を引き抜いた。
見惚れるほどに素早く、滑らかな動作だった。
連続する銃声。
瞬く銃火。
一瞬で弾倉が空になる。
全弾どこかしらに命中したはずだったが、オークはびくともしていなかった。
鈴花は弾倉を落とし、一呼吸で交換した。
続け様に発砲しようとして――オークの巨体が眼前に迫っていた。
凄まじい瞬発力だった。
そのまま肩をぶつけられるようにしてタックルを受ける。
身体がバラバラになるかと思うほどの衝撃だった。
鈴花はゴミみたいに宙を舞い、金網に激突した。
がしゃんという派手な音が響き、スチールパイプが軋む。
「あぐっ……!」
くぐもった悲鳴がもれる。
九ミリではオークの分厚い脂肪とその下にある筋肉に歯が立たないことはわかっていた。それでも人の理性が残っているなら、銃口を向けられれば多少は躊躇するものだ。
それが一切ない。
やはりこのグエン・バン・トンという男は、普通のチンピラとは違う。善人ではないが、戦士ではある。きっとオークになる前からそうなのだろう。
鈴花は全身の痛みを無視して目を開いた。
「我慢強いのは好きじゃねえ。もっと派手に喘げよ、ハーフエルフちゃん」
オークの巨大な拳が眼前に迫っていた。
寸でのところで、その一撃を転がってかわす。
空振りの音が、ほとんど暴風のような勢いだった。
距離を取ったつもりが、こちらの動きはきっちりと捉えられており、起き上がったところに下から抉り込むような左フックがきた。
たまらず右腕で受けとめる。
骨が軋む感覚に、鈴花は舌打ちした。
そのまま軽く吹っ飛んで、闘技場のコンクリートの床をごろごろと転がる。
力比べでは相手にならないし、本来は腕自体がなくなってもおかしくないはずだが、相手は律儀に手加減している。できるだけ生かして、嬲るように。
鈴花は転がる勢いを利用して、跳ねるようにして身を起こした。
「そんな薄い反応じゃあ、俺も観客も興醒めだ」
オークは余裕たっぷりに笑った。
全身をねぶるような視線を送ってくる。
「しょうがねえから、じっくりと教育してやるよ。お前みたいな女は、心が折れると急にしおらしくなって気持ちいいくらいに泣き叫ぶからよ」
オークの動きはその巨体に似合わず俊敏で、格闘家のそれに近かった。
体重の乗った右の回し蹴りがくる。
鈴花は姿勢を低くすると、意を決して蹴りに向かって飛び込んだ。
髪の毛を掠めるようにして、頭上をオークの右足が擦過する。
瞬間、その足首を左脇で抱え込むなり、全体重をかけて捻りながら回転する。
「おおっ!?」
オークの巨体もそれに合わせて一回転した。
そのまま闘技場の床に強かに激突する。
観客が俄かに盛り上がるのがわかった。
獲物から多少の反撃があるほうが、面白みがあるというわけだ。
「ちっ」
鈴花は右腕の鈍痛に舌打ちした。
「おいおい、クソ痛え」
オークは後頭部を押さえながら立ち上がった。
「黙ってやられてろ、このメス豚が」
「オークがハーフエルフにメス豚なんて、よくも言えたものだわ」
鈴花は大きく息を吐きながら、大してダメージを受けていないオークを見据えた。
あわよくば足首か膝を壊せる投げだったのだが、うまく威力を殺されている。
「ハーフエルフが吹いてんじゃねえぞ。両手両足の骨をバキバキにして、そのまま犯してやるからよ。それで立派なメス豚よ」
「はあ、もう、最悪。そんな変態趣味につき合うつもりはないし、息が臭いからこれ以上近づかないでくれるかしら」
二人の会話はどこかのマイクが拾っているのか、会場が沸くのがわかった。
オークは明らかに頭にきている表情で、だがこちらの実力を多少は評価したのか安易に飛び込んではこなかった。
チタニア・アーツを使うしかないな、と鈴花は思った。
彼女が魔王の声を聞いたと知った榎本は言ったものだった。
『ええか、一ノ瀬。チタニア・アーツは万能でも無敵でもない。魔王の力の搾りカスや。ビックリドッキリのマジックショーやで。無闇に頼るな、見せびらかすな。種がわかれば対策もされてまう。チタニア・アーツを自慢するやつは早死にする』
まったくそのとおりだ。こんな大勢の前でチタニア・アーツを使うことは避けたいが、やむを得ない。少なくとも、相手のオークがただのチンピラではないことは幸いだった。
だが、最初のタックルで吹き飛ばされたときに手放した自動拳銃は、数メートル先に転がっている。あれがないことには始まらない。
鈴花は小さく息を吐くと、路上のゴミでも見るように言った。
「豚野郎、わたしの目を見ろ」
「ああっ!?」
意味がわからずに声を荒げたオークは、だが次の瞬間びくりと後ずさった。
鈴花の瞳は、濁った碧眼から金色に変化していた。
それがチタニア・アーツを使う兆候であることを、戦闘経験が豊富なオークは理解した。
銃口を向けられてもまったく意に介さない異世界の怪物も、チタニア・アーツは別だった。魔王から与えられる千差万別の力は、初見ではまったく予想ができない代物なのだ。
それは一瞬の隙だったが、鈴花にはそれで十分だった。
床を蹴り、低い姿勢のままオークをかわし、前に転がりながら自動拳銃を手に取る。
片膝立ちで身を起こし、銃口をオークに向けた。
二人の間、ちょうど中間の位置に奇妙な輪が出現している。
直径三〇センチほどの、花と植物で編まれた冠。
〈妖精輪環〉。彼女のチタニア・アーツ。
オークの顔が、動揺しているのがわかった。
これから自分は、グエン・バン・トンという男を殺す。
警察官としての職務だ。
これは正義か。
ただの暴力か。
完璧な正義がないとして。
誰かを殺すことで、成立する正義があるのか。
鈴花は吐き捨てた。
「そんなこと、わたしの知ったことか」
あのショッピングモールでゴブリンに殺されかけ、同時に心底から殺してやると思ったあのときから。一ノ瀬鈴花は暴力を使うことを躊躇わない。
誰かを殴るなら、殴り返される。
誰かを殺そうとするなら、殺し返される。
そういう単純なルールを忘れているやつらが多すぎる。
わたしは警察官だ。
警察官の正義のために、わたしは暴力を使う。
引き金を絞る。
自動拳銃のスライドが凄まじい勢いで前後して、次々と薬莢を吐き出した。
銃声が鼓膜を震わせ、明滅する銃火が瞳孔を刺激する。
すべての弾丸が、〈妖精輪環〉を通過する。
魔法の弾丸が、いくつもの虹色の軌跡を虚空に描く。
それは鮮やかで、美しく、死の冷たさがある。
瞬間、オークの巨体を超加速した十数発の弾丸が貫通した。
赤黒い血の糸を曳き、背中から抜けていく。
「おっ……?」
なにが起きたのかを理解できず、オークは風穴だらけの身体を見下ろした。
「誰かを殺るなら、殺られる覚悟をしておくことね。わたしは別に、身動きできないオス豚を犯す気はないけれど」
鈴花は、ゆっくりと立ち上がった。
オークは目を見開いたまま両膝を床につき、そのまま前のめりに倒れた。
コンクリートの床に、どすん、と巨体がぶつかる。
血溜まりが広がっていく。
会場は静まり返り、数秒の静寂が永遠にも感じられた。
世界に自分一人だけがいるような気がした。
「鈴花!」
名前を呼ばれてはっとする。
闘技場に飛び込んできた神村籐子が、そのままの勢いで抱きついてきた。
「マジかよー! チタニア・アーツ! いいの持ってるじゃんかよー!」
「ちょっと、抱きつかないでください。身体中が痛いの」
「うっへへ。いいじゃんか」
「はあ、もう。試験は合格ですか?」
「もちろん合格だよ」
神村籐子は弾ける笑顔で言った。
「それにさ、鈴花のチタニア・アーツはあたしと相性ばっちりだと思うな」
「? 言っている意味がわかりませんが」
「いいコンビになれそうってことだよ」
そのとき思い出したかのようにMCががなり立て、世界は元に戻った。
本当に鈴花にベッドしていた神村籐子はとんでもない額の払い戻しを受けた。
そして。
金網に囲まれた血生臭い闘技場で、一ノ瀬鈴花はエルヴン・マフィアになった。




