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1.君はどんな警察官になりたい?

「鈴花、逃げなさい!」


 だが、彼女は逃げなかった。

 正確には、どうしていいのかわからなかった。ついさっきまで手をつないでいた母親が、見たこともない形相で叫んでいる。母親だけではない。周囲の誰もが言葉にならない声を上げて、我先にと走り出していた。


 誰かに思い切りぶつかられて、まだ幼い鈴花はその場に倒れ込んだ。

 買ってもらったばかりの、パンダのぬいぐるみが手から離れて転がっていく。


 誰も彼女を助けようとはしない。ぬいぐるみが踏みつけられて綿が飛び出す。その様子はひどく残酷で、自身も同じように踏みつけられて、鈴花はくぐもった声をもらした。


 なにが起きているのか、わからない。


 右手をつないでいた父親は。


 左手をつないでいた母親は。


 どこだ?


 のろのろと上半身だけを起こし、鈴花は両親を探した。


 それは晴れた日曜日の午後だった。家族三人で訪れたショッピングモールは、先ほどまではのどかなものだった。学生の友達グループが、デートしているカップルが、若い夫婦が、あるいは鈴花と同じような家族連れが、思い思いの時間を過ごしていた。


 それが、どうしてこんな。


「ぎっぎっ!」


 という、不気味な声に鈴花は顔を強張らせた。


 それはこちらの世界にいるはずのない怪物だった。

 暗緑の肌と小柄な体躯。

 醜悪な顔と特徴的な鷲鼻。

 大きく避けた口には不揃いの尖った歯が並ぶ。


 ゴブリンだった。


 本物を見るのは初めてで、鈴花はただただ恐ろしかった。


 ゴブリンはなにかを手にしており、それは引き千切られた人間の腕だった。


 怪物の周りにはいくつかの死体が転がり、床には血溜まりができている。


 鈴花は現実としてそれを認識してはいたが、理解はまったくできなかった。

 逃げなさい、といった母親の声が頭のなかに響き続けている。


「……ママ、どこ……パパ……」


 視界のどこにも、父親と母親の姿は見えなかった。


 ゴブリンが持っていた腕を乱暴に投げ捨てた。

 宙に舞ったそれが、さっきまで自分の手を握っていた母親のものだと、鈴花は本能的に理解した。


 声が出ない。


 身体は硬直し、両目からは涙が溢れた。

 逃げなさい、という声だけがまだ耳に残っている。


「ぎっぎっ」


 と、どこか愉快そうに笑うゴブリンが、死体を踏み越えて近づいてくる。


 鈴花はただその怪物を見ていた。


 そして、わたしも殺されるな、と思った。

 同時に、お前を殺してやるぞ、と思った。


 いままで生きてきて、そんな感情を抱いたことなどなかった。だが、幼いハーフエルフの少女は、本能的に込み上げてきた殺意を否定することなどできなかった。


「はっ、ひっ」


 恐怖と怒りで息がうまくできない。

 ひゅうひゅうと喉を鳴らし、鈴花は近寄ってくるゴブリンを見据えた。

 がちがちという音は、震えている自分の歯がぶつかっている音だった。


 怖い。

 怖い。

 怖い。

 

 殺してやる。

 殺してやる。

 殺してやる。


 感情の爆発で、頭がどうにかなってしまいそうだった。


 だから――唐突に聞こえたその声が。

 頭がおかしくなった幻聴なのか、本当に誰かが囁いたものだったのか。

 鈴花にはわかりはしなかった。


 だが、確かに彼女は聞いた。


 甘く優しい女の声を。心の奥底に染み込んでくる、美しく澄んだソプラノを。


――私たちの知覚を離れた客観的真理などない。

 ゆえに、あらゆることは真実であり可能である――


 それはどこかの学者に言わせれば魔王からの天啓というもので、魔王因子中毒者チタニア・ジャンキーがチタニア・アーツに覚醒するときに聞く声だった。


 もっとも、幼い鈴花はそんなことは知らなかったし、どうでもいいことだった。


 事実として起きていることは、彼女は〈妖精輪環ピクシー・サークル〉というチタニア・アーツのことを当たり前のように理解しており、眼前に迫るゴブリンを殺せるという確信があるということだった。


 だからそうしよう、と鈴花は思った。


 のろのろと立ち上がり、ゴブリンを見やる。


 瞬間――すぐそこに迫っていたゴブリンの頭が吹き飛んだ。


 盛大に赤黒い血を撒き散らし、頭のなくなった怪物の身体がゴミのように床に転がる。


 遅れて聞こえる銃声。


 生暖かい血を頭から浴びて、鈴花は呆然と立ち尽くした。


 鉄の臭いが鼻につく。


 べっとりとした不快な感覚に、吐き気がした。


 思い出したかのように、重武装の警官隊が雪崩れ込んできた。


 鈴花はすぐさま誰かに抱きかかえられ、無線にがなり立てる男の声を聞いた。


 ――ゴブリンの無力化確認!

 ――生存者、一名確保! 一名確保!


 それは復興東京ではよくある不幸な出来事のひとつだった。


 ショッピングモールの客がゴブリン化し、死傷者多数。通報を受けた復興省警察局のゴブリン化事案対策チームによって、怪物は迅速に処理されて被害は最小限に抑えられた。


 最小限に――最小限に?


 父親と母親は、その最小限だったというわけだ。


 救出されたハーフエルフの女の子は、ゴブリン化事案被害者基金から支援を受け、引き取られた良心的な施設で十分な教育の機会を与えられ、なに不自由なく育った。


 ただ、彼女は自分が生き残った意味をずっと考えていた。

 当たり前のように、ゴブリンを殺せると確信したことを覚えていた。


 正義の味方なんてものを無邪気に信じることはできなくなっていた。アニメやマンガのような完全無欠の正義の味方がいたなら、父親と母親は最小限になんてならずにすんだ。


 世の中の正義の味方は、一皮剥けば正義という名の暴力を使う誰かにすぎない。

 完全無欠ではない誰かは常に、最小限の犠牲を甘受する。


 だが、それでもいい。もし自分が生き残った意味があるのなら、最小限の犠牲を少しでもなくすことなのかも知れない。

 この力を使って、ゴブリンだろうが、なんだろうが、殺してやる。


 だから、一ノ瀬鈴花は義務教育が終わると一枚の履歴書を郵送した。


 宛先は復興省人事局の『警察官訓練学校新入生募集係御中』だった。


「君はどんな警察官になりたい?」


 警察局の制服を着た初老の面接官は、ハーフエルフの少女にそう投げかけた。


「正義のために、暴力を使うことを躊躇しない警察官に」


 鈴花は毅然と答えた。


「誰かを守るために暴力が必要であることを、わたしは身をもって理解しているつもりです」

「君の過去は承知している。ゴブリン化事案対策チームを希望しているのかね?」

「いえ。どこであれ全力を尽くすだけです」

「相手がゴブリンでなくとも?」

「目の前で誰かが殴られているとして。殴っている者を叩きのめす以外の方法で、その誰かを救えますか?」

「普通の人間は、そうは思ってもなかなか助けに入れないものだ。誰かが助けてやってくれないか、と無責任に思っている。善人の振りをしてね」

「結局は誰かがやるのなら、わたしはその誰かになります」


 面接官を見据えて、鈴花は言った。


「そういう意味では――わたしは善人なのかも知れませんね」


 面接官は口元を苦々しく歪めていた。


 鈴花はにこりともしなかった。


 こうして彼女は、復興省の外局である警察官訓練学校に入学した。


 第四〇期生だった。

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