郷に入って従えなかった結果
ゴーン、ゴーンと重々しい鐘の音が響き渡る。
「あぁ、もう始まってしまいましたか」
それを城の一室で書類を片付けながら、男は一人窓の外を眺めやる。
ここからは、『ソレ』は見えない。見えるはずがない。
王城正面から少し行った先の広場。
そこで行われている処刑は、城の奥まった場所にあるここからでは見える事は決してない。
アルフレートはそれでも窓の外を見ていた。
鐘の音は聞こえていても広場でのやり取りは聞こえてこない。たとえば暴動でも起きてこれから城が攻め入られるというのであればまだしも、そうではない。多少、歓声のような悲鳴のようなものが聞こえてくるかもしれないが、それだって風に乗ってほんの少しといったところだ。
「先生、探してた教本見つけてきましたよ」
そこへ、一人の少年がやってきた。
はーやれやれ、みたいなリアクションをしてさも大変だったんです、という空気を出しながら一冊の本を持ってくる。
「見つけてきた、というかそれは君がなくしていた物だろう。どこに放置してたんだい?」
「ははっ、いやそれは……はい、その、騎士団長から渡されて」
「あぁ、つまりそっちに置きっぱなしだった、と」
「ごめんなさい」
旗色が悪いと思ったのだろう。案外素直に頭を下げて謝った。
少年――ラドクリフはこの国の第三王子だ。
彼は他国へこの国との友好のため、という名目での婿入りか、もしくは国内の貴族の元へ婿入りし臣籍降下する事が決められていたのだが。
先日それは見直され、今は次期国王の側近としての教育を強化される事となってしまった。
今まではそれなりに自由気ままであったが、これからはそうもいかない。
だからこそ色々と詰め込むように学ぶことになってしまっていたのである。
とばっちり、と言ってしまえばそれまでだがラドクリフはそれを悲観した様子はない。
まぁ、次期国王とみられていた第一王子が廃嫡されて第二王子が次期国王となってしまった事に関しては思うところしかないようだが。
「えぇと……先生? ちょっと聞いてもいいですか?」
「なんです? あまり勉強に関係ない事は休憩時間の間だけですよ」
先生と呼ばれているアルフレートは、この国の宰相補佐の立場である。
決して宰相が頼りないというわけではないのだが、そこはまぁ色々と大人の事情とか王家の事情が含まれている。アルフレートはそれなりに複雑な立場であるので、あまり外に出てもらっては困るのだ。
「今回の一件って、その……具体的に何がどうなったんですか? あの、俺そこまで詳しく知らされてなくて」
それに広場でやってるあれ……と言葉を濁すように言うラドクリフに、アルフレートはさてどう説明したものかなと少しだけ考えた。
下手に言葉を濁したところで、結局のところそのうち周囲の噂で真相を知る事になるのだろう。
それならば、下手に隠さず明かすべきか。
結論をサクッと出したアルフレートは、とりあえず座るように促した。
言われるままにラドクリフは椅子に腰を下ろして、とりあえず手にしていた教本を机の上に置く。
「異世界から聖女がやって来た、というのは知ってますよね?」
「あ、はい。それは流石に知ってますよ。国中上から下まで大騒ぎでしたから」
「異世界から聖女がやってくるのは大きく分けて二つ。
一つ、こちらの世界が何らかの危機的状況にあり、この世界の人間が強く救いを求め祈った時。神がその祈りを受け異世界から救いを――聖女を授けてくれる。
二つ、完全なる事故。世界の裂け目と呼ばれる空間の隙間からひょいっと落ちてきてしまった場合。
今回の聖女は、事故でやって来たパターンです」
「事故!?」
ラドクリフが驚いたように声を上げるも、事実が変わるわけではない。
別段今この世界は危機的状況に見舞われているわけでもないし、何より聖女を――救いを求める祈りをしたところで必要ないと判断されて神はその祈りを無視するだろう。
実際、平和な時にいくら祈ったって聖女がやってくる事はなかったのだと記録には残っている。
けれども、祈りも何もしていない時にひょっこりと聖女がやってくる事がある。それが事故によるものだ。
その場合ほぼ神殿の神の像の前に落ちてくるので事故だと判断される。
今回の聖女はある日突然神殿の中に――神の像がある真ん前に落ちてきたのである。
ぐぼあぁ!? という叫びが中々に凄かった、というのが現場に居合わせた神官の証言だ。
祈りによってやってきた聖女は役目を果たせば元の世界に戻れるし残る事も本人の意思で選べるけれど、事故はそうもいかない。
いきなり何もかもを失くしてまさしくその身一つとなってしまった聖女は、神殿で保護される事となっていた。
平時で聖女が必要でなくとも、過去別の聖女に救われてきた事実はある。であれば、必要とされていないからと聖女を蔑ろにするわけにもいかない。聖女に助けられたのだから、次はこちらが聖女を助けなければ。そんなお互い様精神とでも言うべきだろうか。
ともあれ、そうして聖女は神殿で保護されて一先ずは衣食住をどうにか凌ぐ事になったのである。
「そういえば君は聖女と関わらなかったんだったか」
「えぇまぁ、はい。遠目でちらっと見た事はありますが……その、兄上が」
「あぁ、聖女とべったりでしたね。今思えばあの時強引に引き離しておくべきだったのかもしれません」
第一王子フレデリック。彼は聖女がやって来たというその事実に興味を持ち、神殿へ足を運び聖女と会い――何かが彼の琴線に触れたのだろう。彼と、その側近として周囲にいた者たちはしかし気付いた時には聖女とあまりにも近しい関係となってしまっていた。
聖女もまさか今まで過ごしていた世界から異世界に落っこちて、しかももう元の世界には戻れないという状況で、故郷が恋しかろうともどうにもならないのは確かで。となれば早々に諦めてここで暮らしていくしかない。
そんな、自分の立ち位置が不安定なところに王子様がやって来たのだ。
フレデリックは少なくとも聖女と出会う以前までは、眉目秀麗文武両道なそれはもう次期国王になるのは彼しかいないと言われる程の王子であった。
そんな絵に描いたような王子が異世界に落ちてたった独りになってしまった自分に会いに来た。
まるで物語のようだ、と思ったか。
はたまたここで彼に気に入られれば後ろ盾としては充分だと考えたか。
聖女の考えはわからないが、まぁそんな事を考えた可能性はある。
アルフレートは聖女と直接関わった事はないのであくまでも自分の中の想像で、事実は不明だ。本人に確かめる機会はもう無い。
「異世界。つまりはこことは異なる世界。歴史も文明も何もかもが異なる世界の知識は、この世界で役に立つものもきっとあるでしょう。フレデリックがそう考えたかどうかはわかりません。
ただ、確実に物珍しさはあったでしょうね。少なくとも自分の知らない世界の話に興味がなかったわけではない、と思っています」
「それは先生も?」
「……そうですね、気にはなりますが……積極的に知りたいとは思いませんね」
「なんで?」
「手に負えない知識がもたらされたらそれこそ困りますから」
「なんかすっごい異世界の知識って事? 知る事が駄目?」
「平和的に利用できるものならいいですが、平和にだけ利用できる知識というものは滅多にありません。悪用しようと思えばいくらでもできてしまうんですよ。もしそうなった時、この世界の人間の手に負えなかったらどうなると思います?」
「……えぇと、世界が危険な状況に?」
「えぇ、もしそうなったとして、その時に祈りによって聖女が来てくれるかはわかりません。何せ、聖女が伝えた力を悪用した、と神が捉えたなら最悪それはこの世界の者たちの責任です。
確かに世界の危機に聖女を遣わしてくれる事もありますが、神は必ずしも助けてくれるわけではありませんから」
話がそれたな、と思いつつアルフレートはどこまで話したっけか……と思い返す。あぁそうだ。
「フレデリックが聖女の世界に興味を持ってその世界の事をあれこれ問いかけていた、というのは確かです。そして、こことはまるきり違う世界の話に彼はすっかり魅了されてしまった」
「うーん、まぁ、未知の世界って事だろ? ロマンがある、と言えばまぁ……」
「話を聞いて思いを馳せるだけなら構わないんですよ。遥か遠く我らが訪れる事はできないくらいに遠い遠い理想郷。いっそお伽噺としてであれば、別に何をどれだけ好きだろうとも誰も咎めなかったでしょう。
物語はあくまでも物語。現実とは異なる」
「兄上は好奇心旺盛な部分があったから……いやそれ言っちゃうと俺たち兄弟大体そうなんだけど」
「好奇心がある事は悪い事ではありません。ただ、フレデリックはそれが悪い方向へいってしまっただけです」
アルフレートは淡々とフレデリックが陥った現状をラドクリフへ説明する。
彼が自由気ままな第三王子として市井に平民の振りをして紛れ込んだりしている間、フレデリックは聖女との親交を深めていた。彼女の故郷である世界の話を聞き、まるで理想郷のような世界だとでも思ったのだろう。
アルフレートが耳に挟んだ噂では、聖女が住んでいた世界では戦争もほとんどないらしい。聖女が住んでいた大陸とは異なる海外では戦争をしていたようだが、少なくとも聖女の国では戦争は起きていないのだとか。
武器の所持も禁止されている国。夜遅くに女子供が外を出歩いてもほとんど危険のない国。
それを聞けば理想郷のようだ、とフレデリックが思うのも無理はない。
この国の治安はそれなりに良いが、あくまでそれなり。
聖女の国と同じように日も沈んですっかり暗くなった後で女子供が一人で外を歩いていたとして、果たして無事でいられるかは……生憎安全を保障できなかった。
街中に入ってはこないけれど魔物もそれなりにいるからある程度の武装も必須である。
聖女の暮らしていた国と比べると、こちらの世界はきっととても危険なのだろう。
それ以外にもフレデリックは色々な話を聞いてすっかり聖女の世界に魅了されてしまった。
フレデリックの側近として彼の近くに控えていた者たちもその話を聞く機会があったのだろう。そうして、気付けば彼らも聖女の話に聞き入っていた。
ただ話を聞くだけなら良かった。
けれどもフレデリックやその側近たちはその世界に魅了され、聖女の国での政策を我が国にも取り入れる事ができないかと考え始めていた。
勿論、問題のないものであれば受け入れられただろう。
けれども聖女の暮らす国では、身分が存在しないというではないか。
「身分がない!?」
アルフレートの話にラドクリフは思わず声を引っくり返していた。
身分がない。つまりは全員が平民という事だと言われ、フレデリックもさぞ驚いたのだろう。それこそ今のラドクリフのように。
「えぇ、一応国の象徴とも言うべき存在はいるようですが、その象徴も直接政治を担っているわけではないのだとか。政治は国民たちで代表を決め国の方針は話し合い多数決で決める……でしたか。
我々からすると驚くような話です」
「そっ……れは驚くよ。え、何かの冗談でもなく?」
「本当らしいですよ。とはいえ、聖女の国などこちらの世界の人間は誰も知らないので証明はできませんが」
フレデリックや側近たちはその身分が存在しない世界に果たしてどのような魅力を感じてしまったのだろうか。
聖女の国と同じような政治を行えば、この国も平和になるとでも思ったのだろうか。そんなわけないのに。
だがしかしフレデリックはすっかりその夢物語のような聖女の世界の――聖女の故郷でもある国に魅せられてしまったのだ。
とはいえいきなり身分を撤廃するなんて言い出せるはずもない。
その危険性くらいはフレデリックとて理解できていただろう。
貴族も平民も明日からは身分を失くし皆同じ人間である、なんて言われた場合。国は一気に崩壊しかねない。まず暴動は避けられない。
それは今まで貴族に圧政を強いられてきたと思っている平民たちによるものだったり、はたまた今まで国のために粉骨砕身働いてきたのが裏切られたと思った貴族たちによってだったり。
場合によってはこの国に紛れ込んでいる他国の者が便乗してその争いの炎を更に大きくする事もあり得る。
これが例えば。
近隣諸国との戦争で負け、今日をもってこの国の民は皆奴隷となる、とか言われるならもうどうしようもない。それならまだ心の中でそれなりに折り合いをつける事もできるだろう。だって負けたのだから。敗者がどういう扱いを受けたって、そんなのは負けてしまったのが全ての原因と理由もつく。
だが、聖女の言葉に従って身分をなくすとなれば。
今までその恩恵に与ってきた者たちは間違いなく反発するし、そもそも王家はどうなる。
流石にいきなり身分をなくすなんて事はせずとも、それでももしフレデリックが王になっていたとして。
そして側近たちもその考えに賛同していたならば。
少しずつ改革を進めたとは思う。
思うのだが……まぁ、間違いなく邪魔が入る。それを良しとしない派閥が確実に妨害するし、それが良い方向へ転がるとは到底思えなかった。
王家が国を共和国制にするとか言い出すならまぁ、王家そのものがなくなり新たな国ができるとなれば、その時に身分がなくなっても……とは思うが、フレデリックは流石に自分が王になった後すぐさまそんな風に王族という身分を捨てるか? と考えればそれはまず無いだろう。
だって彼は王になるつもりがあった。
王になってもその冠をすぐさま投げ捨てるような真似をするつもりなら、最初から王という立場を継承しなければいいだけの話であって。
「確かに話だけ聞いてれば、魅力的な部分はあるんですよ。争いがなく平和で民が飢えて死ぬような事は滅多にない。平民の生活水準も中々に高いようですし、聞けば聞く程理想郷のように思えるのは仕方がないと思うのです」
「まぁ、確かに聞いてるだけなら……」
ラドクリフもアルフレートの言葉に頷く。
そんな素敵な国なら一度行ってみたい、と思わなくもない。
だが、異世界だ。行こうと思って行ける距離ではない。
「それに……聖女の言ってる事が全て正しいと、果たして誰が証明できるのです」
「え、でも聖女なんですよね? 聖女が人を騙して偽るような真似……」
「えぇ、彼女の中では真実なのでしょう。ですが、彼女の空想・妄想である可能性は?」
「えーと、物的証拠とかは」
「ありませんでしたね」
「あぁ……それじゃちょっと信用は……難しい、かなぁ……?」
「ですが、フレデリックは聖女の話だけで信じてしまったし、側近たちも同様です。それだけ彼女の語りが素晴らしかったのでしょうかね」
とはいえ、聖女自身は自分が暮らしていた国について、そこまで深く造詣があったとも思えない。アルフレートは報告を受けて人伝に聞いただけではあるけれど、大まかな部分はなんとなくで語れてもいざ突っ込んで質問すれば専門的な話には答えられなかったというし。
この国には存在しない技術で作られた道具も様々に存在していたようだが、それらの使い方は知っていても仕組みについてまでは理解しておらず、どうやって作られているのか、材料は何か、という部分はわからない。
だからこそ余計に聖女の話はお伽噺めいていた。
「そもそもあの聖女は、自分の国の話はしてもそれだけでした。確かに故郷に二度と帰れない、というのは身を裂かれるような悲劇でしょう。ですが、嘆いていた所で帰れるわけではありません。
彼女がすべきは、ある程度心に折り合いをつけてこの世界で暮らすための努力をするべきだった」
「……して、なかったんですか?」
「するつもりはなかったんじゃないでしょうか」
報告された内容から、努力をしようとしていたようには思えなかった。
いきなり見知らぬ世界に落ちて、何が何だかわからないうちに神殿が保護して身の安全は確保できた。
そうしてこの世界の事を少しずつ神殿の者たちが教えていくはずだったのだ。しかしそこに王子――フレデリックが現れた。
そして聖女を気に入ったフレデリックは聖女と行動を共にするようになり、この世界について知るよりも自分の世界について語る事の方が圧倒的に多くなっていた。
時々こちらのマナーに反することをして窘められても、向こうの世界ではこうなのよ、とか言っていたらしいし。フレデリックもまだこちらの世界に不慣れだから……でそれを見逃してしまったのだろう。
その結果、聖女はこちらの世界でのマナーを覚える機会を自ら潰したようなものだ。
フレデリックに限った話ではないが、側近たちにも婚約者がいた。
けれども気付いた時には一人の女――聖女――を囲って常に侍っているような状態。
婚約者たちが不快に思うのは当然だった。
アルフレートが見た報告書では、最初は婚約者たちも異なる世界に来て不安に思っているであろう聖女に歩み寄ろうとしていたらしいと書かれている。
だが、その歩み寄りは聖女が自ら打ち砕いたと言っても過言ではない。
自分の世界の話ばかりをして、こちらの話は聞く耳を持たず、またこちらの世界でのマナーを教えても自分の世界ではこうだったとだけ言って覚えるつもりもない。
自分の話ばかりで令嬢たちの話を聞く気があったかどうなのか……ともあれ、一事が万事そんな感じでは歩み寄ろうと思う心だって徐々に消えていく。
令嬢たちは婚約者にも一応苦言を申したらしいが、婚約者たちはむしろ見た事もない世界の話にすっかり夢中で取り合う気もなかったのだろう。それでなくとも元の世界に帰る事ができない聖女など、悲劇のヒロインもいいところだ。そんな女に寄り添っている自分、というのはさぞ自らも尊い人間のように思わせてくれるだろう。
聖女は自覚なくそんな婚約者たちの間に亀裂をいれる事となってしまったのだ。
女性から遠巻きにされ、王子とその側近たちを侍らせていた聖女。その様子は周囲から見てあまり良いものではなかった。
「まぁ、未知の世界に浪漫を抱くのはどうしたって男の子が多いですからね。それについては仕方がない部分も少しはあると思うのです。聖女ももしかしたら、歩み寄るつもりがなかったのではなく最初はただとにかく故郷の事を忘れたくなくて、誰かに自分の世界を知ってほしかっただけかもしれない」
そもそも、聖女の年齢はフレデリックとそこまで変わらないと報告を受けていた。
王族ですらない、身分のない世界の娘。平民がある日突然見知らぬ世界にと考えれば、戸惑い怖れ嘆き暮らす日々を送っていてもおかしくはない。
神殿の者の話では聖女は身支度などは自分でできていたけれど、それ以外の事はあまり得意ではないようだった。
掃除や洗濯は向こうとこちらでやり方が違うと言っていたのだったか……料理に関しても今までは母親が作ってくれていた、と話していたらしい。
直接アルフレートが聞いたわけではないから、全てが伝聞なのは仕方がない。
フレデリックが聖女を連れまわしていたのも事実であるが、それにしたって聖女は神殿で暮らしている間にここでの生活の仕方を覚えておくべきだったのだ。勿論、故郷を思う気持ちはわかる。だが、歩みを止めて過去を振り返ってばかりなのは駄目だった。
立ち止まって過去に想いを馳せそれらをフレデリックに語る。
結果として彼らもまた夢を見てしまった。
聖女は何を思っていたのだろうか。
帰れない故郷の話をして、一人でも多く自分がいた世界の事を知っておいてほしい。その気持ちはわからなくもない。けれど、同時にこちらの世界の事も知るべきだった。
「聖女にすっかり魅了されてしまったフレデリックは、彼女を自らの妻にしようと思い始めていたようです」
「は? え、だって」
「えぇ、彼には婚約者がいましたね。それも王命による婚約の。聖女を側妃にでもするのであればまだしも聖女の国では一夫一妻。まぁそれはこの国の平民もそうなのですが……王家、それも王となるべき者はそうではない」
世継ぎは必須だ。
故にもし王妃となった女との間に子が生まれなければ側妃を迎え入れる事になる。
聖女の国では結婚というものはあまり重要視されていないようで、結婚した者たちの中でも三組に一組は離婚しているという話もあったようだ。
アルフレートとしては後を継ぐようなものがないのであれば、それくらい気軽でも構わないのだろうなとも思うが、その価値観の聖女を王妃とするとなると流石に眉を顰めるしかない。
仮に、あの聖女が王妃となったとして子が出来たとなっても、その価値観のせいで一部の者はまず本当にそれが王との子であるかを疑うだろう。
王家の一員となる、というものに対して身分のない世界の女がどれだけ考えている事か……国を背負う重圧を理解できるとは思えない。表面上をふわっとなぞる程度には理解するかもしれないが、本当の意味で理解する事になるのはきっとかなり先の話だ。
理解するよりも前に、邪魔だと判断されて始末される可能性すら。
身分をなくしてしまうのであればまだしも、聖女はフレデリックと恋に落ち彼の妻となりいずれは王妃となる、という部分に夢を持っていたようにも思える報告があった。
身分なんてない世界にしましょうと言いながら、しかし自分はその身分を得る。矛盾している事実に果たして気付いているのだろうか。それとも、自らが恩恵を受けるだけであるならばそれは構わないと思っていたのかもしれない。
人は自分が損をするとなれば文句を言うものだが、得をする事に対して文句を言う者というのはほぼいないのだから。
「まぁ、結果は今こうして出てしまったわけですがね。
くだらない茶番で婚約者の立場を引きずりおろしてつける必要のない瑕疵をつけ、その代わりとばかりに聖女である女を新たな相手に据える。
上手くいくと思っていたというのがなんとも頭の痛くなる話です」
「婚約破棄を突きつけて、っていうアレですね……その場にはいなかったけど話題性抜群だったので噂は聞いてます。あくまで噂なんで正確性に欠けますけどね」
というか、ラドクリフはそのせいで今こうして気ままな生活から急遽あれこれ学ぶ羽目になっているのだ。
余計な事を……という気持ちがないわけではない。
けれども、ラドクリフはまだマシな方だった。
フレデリックが次期王として成っていたのであれば、国内の貴族たちの縁談の大半も何も問題はなかったのだ。ところがやらかした結果次の王には不適格とされ――まぁ当然だが――次の王にはラドクリフの兄でもある第二王子が。
結果としていくつかの家の縁談は解消され第二王子と敵対するような派閥にならないよう調整されたりだとか、色々と多くの家が奔走する羽目になったわけだ。
第一王子派だった家は蜂の巣を突いたかのようだった、とは誰が言っていたのだったか。自分たちは安泰だと思っていたのが一転してこのままでは肩身が狭くなると知ったのだ。そりゃあもう大急ぎで第二王子とそれなりに縁がある家だとかと友好的な関係を結ばなければ、気付いた時には発言権すら奪われかねない。
今までは自分が選ぶ側だったのが、選んでもらわないといけない側になってしまった家などはそれはもう必死だったとか。
政略結婚であっても中には相思相愛だった者たちもいたのだが、泣く泣く解消する羽目になった、なんて家の話はしばらくは社交の場でも悲恋として話題になっていたくらいだ。
フレデリックがいらんことをしなければ、こんな悲劇は生まれなかった。
聖女だって、危険思想を王族やその側近となる者たちに植え付けたなんて言われず処刑される事もなかっただろうに。
鐘の音が鳴ったのは処刑を始める合図であったし、今頃はさて、もう聖女は息絶えただろうか。
きっと彼女にはそのつもりはなかった。
この国を滅ぼそうなんて思っていなかったはずだ。
けれども、自覚はなくとも危うく国を崩壊させかねない事をしてしまったのだ。
せめて聖女がもう少しだけ、この国について学んでいてくれたなら。
そうすれば歩み寄りは可能であると判断されて当面は監視がつくだろうけれど、生きていく事はできたはずなのだ。
しかし聖女はこの世界に来てから、こちらの世界を――この国の事を学ぼうとはしなかった。
歩み寄るつもりがない、こちらの世界の礼節を覚えるつもりはない、と言動からそう思われてしまっていたのだ。話し合う事もなく一方的に向こうの世界の事を撒き散らすとなると、人心を惑わす魔女とみなされても仕方がないのだ。
学びながらも不慣れである、だとかであればまだしも、不慣れなのは学ぶつもりがないから、という認識をされてしまえば聖女に向けられる目は決して優しいものではない。
それでなくともあの聖女はこの世界が望んで呼んだ存在ではなく、事故でたまたま落っこちて来た存在だ。こちらが望んで呼んだ相手であったなら話はまた違ったかもしれないが、それでもやはり行きつく先は似たり寄ったりだっただろう。
「――平等とは何だと思いますか?」
静かな声で問いかけられて、ラドクリフは咄嗟に答えを返せなかった。
「え、平等、って言われても……」
「身分を失くせば皆平等でしょうか」
「それはえぇっと……違う、気が」
「えぇ、身分がなくとも裕福な家庭に生まれる者もいれば、明日の食事もままならない程困窮した家に生まれる者もいるでしょう。同じ平民の出だとしても、そこに差は確実に生まれる」
聖女の世界の話を纏めた報告書をアルフレートはきっちりと目を通した。
その上で、聖女の言う平等が果たしてどう平等であるのか、となるとそれは……
「機会に関してのみの平等、だと私は理解しました。その機会を掴み取って成功できるかどうかはさておき。
聖女は争いのない世界だなんて言っていましたけどね。自らの生まれ故郷を。
けれどもとんでもない。報告書に書かれていた内容が事実なら、聖女の生まれ育った国はとんでもない競争社会ですよ」
「そう、なんですか?」
全く知らないというわけではないようだが、ラドクリフはアルフレートと違って報告書を全て見たわけでもない。だからこそ、彼の言葉には首を傾げるしかなかった。
自分の住んでる国は争いがなかった。
身分はない。
皆平等。
国の運営も国民が選んだ代表者がやっている。
ラドクリフがアルフレートから今しがた聞いた聖女の国に関する情報としては、これくらいだ。
平和で、飢える事のない国。理想郷のようだ、と思ったのにしかしアルフレートは違うと言う。
「あからさまな身分がなくとも、階級は何らかの形であったと思いますよ。ただ、聖女は中間から上のあたりにいたからこそ、何事もなく平和だと思い込んでいただけでしょうね」
自分はそれなりに優遇されている立場であったからこそ気付かないだけではないのか。
それこそこの国の貴族の中にも蝶よ花よと育てられ、現実をマトモに認識していない者は困ったことに少数でも存在しているのだ。アルフレートは直接聖女と会った事などなくとも、それでもそういった者と同じなのではないか、と思っていた。
「正直平等なんて身分に関わらず与えられてるのは死くらいなものでしょう。人は死ぬ。それは平民も王侯貴族も変わりなく。そこから外れて不老不死にでもなった存在は、その時点で人としての枠組みから外れて人間扱いをされなくなる」
隣国には何かそういう存在がいると聞いているけれど、あくまで噂だ。実際にいたとしても、自分がそういう存在であると堂々と明かすような真似はしないだろう。
面倒な事に巻き込まれるのが目に見えているのだから。
「そもそも平等ってそんなに尊いものですかね?」
「えっ、うーん、俺王族なんでその質問どう答えてもダメな気がするんですけど」
「区別の行き過ぎた先が差別だとしてもですよ?
そんなの自分が虐げられている側だと思い込んだ相手が差別だと言うだけで簡単に成り立つものなのですから、平等ってまず不可能では?
どうしたって差は生じるわけですし」
聖女の目指す平等が、彼女の暮らしていた国と同じものを示すものであったとしても。
仮に聖女の住んでいた国と同じような政治を行うようにしてかの国に寄せて近づけたとしても、間違いなく差は生じる。
「それに、私の立場はあまり公にできない微妙なものでありますけれど。自由を奪われて多少の不自由を強いられているとはいってもですね。
遊ぶ金欲しさに強盗に押し入って家の人間皆殺しにするような犯罪者と全く同じ扱いをされたらブチ切れる自信しかありませんよ。こんな犯罪者と同列に扱うな、とね」
「それは、誰でもそうなのでは」
「ですが聖女の平等の言い分は若干こちら寄りにも受け取られました。もし本気でそういう意味なら、行きつく先は間違いなく無法地帯ですよ。本当に聖女の国は平和だったんでしょうかね……?」
見ますか? 報告書。
そう言われてばさりと机の上に投げ出されるようにされた分厚い分厚い報告書を、ラドクリフはうへぇと言いそうな顔で見たけれど、これは軽くでも目を通せって事なんだろうなぁと諦めてパラパラと紙を捲っていく。
結果として。
あれこれってうちの国とそこまで変わらないんじゃないか……? というのがざっくりと目を通したラドクリフの感想である。
身分はないとは言え政治を行う者は存在する。
政治家だの議員だのという部分を見れば、やってる事こっちの貴族と似たり寄ったりではと思えるし国民が政治を行う者を選ぶとはいえ、代々そういった家の生まれだという者もいるようではある。
この国は陸続きなので隣国があって、場合によっては戦争だとかも起きるかもしれない。
聖女の国は島国で回りは海らしいが、しかしその先の大陸にも国がある。戦争が起きた時、すぐに攻め込まれないかもしれないが、絶対的に安全と言えるかは微妙なところだ。
そういう意味では外交に関してもそこまでの違いはないように思えてきた。
「フレデリックは一体これのどこに憧れたのでしょうか。表面上は確かに聞こえはいいですが……」
「身分に関する部分以外はあまり……変わらないような……いや、文明は向こうの方が進んでいるからそういう面では憧れもあるにしても……いやでも、うぅん……?」
未知の道具もちらほらと聞こえてきてはいたけれど、しかしその仕組みを聖女は理解していなかった。使い方を知ってはいても作り方はわからない。であれば、聖女の妄想の可能性も存在する。証明できないのであれば、それは仕方のない話だ。
荒唐無稽な話だと思われたとしても、もしかしたらずっと遠い未来で聖女の言うような道具をここでも作る事ができるようになるかもしれない。不確定な、それこそ夢物語かもしれない。
しかしそういった部分を抜きにして見れば、正直な話、聖女の暮らしていた国とこの国はそこまで大差ないように思えるのだ。
確かに治安はこちらの方が悪いかもしれない。身分というものがあるからそういった部分でも気にすべき点はあるかもしれない。
だが、身分が無いとはいえ聖女の国でも仕事をする必要がある以上、上司と部下という関係は存在するだろうし、最低限の礼儀は必要になるはずだ。まさかそういったものも無いわけではあるまい。
異世界だという部分を抜きにして、事実だけを淡々と取り出してみれば。
結局のところ、この国と聖女の国はそこまで変わりがないように思えるのだ。
その考えは、アルフレートだけが思ったものではない。パラパラと報告書を見ていたラドクリフもなんとも微妙な表情をしているので、きっとアルフレートと似たような感想を持ったのだろう。
そう、こちらからは現時点でどうしたって行く事ができない異世界だからこそ、聖女の話は未知の世界の話と認識してしまって。
結果として視野が狭くなっていた。フレデリックやその側近になるはずだった者たちは、その事実に気付けなかった。
聖女の語る表面上はキラキラした世界の話にすっかり魅了されて――そして彼らは堕ちたのだ。
空を見上げたまま移動して、足元に落とし穴があるなんて思わなかった、とでも言うように。
フレデリックは聖女の言葉を妄信せずに、遠い異世界はそんな感じなのだな、くらいに納得させておくべきだったのだ。自分自身を。
けれどもそれができなかったからこそ、彼は王族でありながら、次期王という立場から立ち退く結果となってしまった。
「聖女も、気付いていれば良かったでしょうに……」
望んでこちらの世界に来たわけではない。不本意。事故。
けれども、この国だって聖女が住んでいた所とそこまでの違いがあるはずでもなかったはずだ。聖女曰くのコンビニとやらは確かにこの国には存在していなかったけれど。
聖女の国でも大昔は身分が存在したという事らしいし、気付ける要素はあったはずだ。
自分の相手をしてくれるのが次期王と言われる王子だったからこそ、油断したのだろうか。自分は何を言っても大丈夫だと。
だが結果として彼女は聖女ではなく魔女とされ、火刑が決定されてしまった。
鐘が鳴ってからそれなりに時間が経っている。もうきっと彼女は生きてはいないだろう。
「隣の芝は青い、とは言いますが。
結局あの人たちはその芝が青いどころか黄金郷にでも見えていたんでしょうねぇ……」
聖女に関しては隣の芝も何も、元々そっちの出だったから違うかもしれないが。
「さて、それではそろそろ授業を始めましょうか?」
「あ、やるんですね。いやわかってましたけど」
「折角ですからこのまま聖女に関する事でも教えましょうか」
「あれ、折角探してた教本今日使わない感じ?」
「祈りで呼ばれる聖女より、事故でこちらにやってくる聖女の方が実は数が多いって知ってましたか?
今回の一件が終わって、これで当分は何事もないとか油断してたら次聖女と関わるのは貴方かもしれないんですよ、もしくは貴方の兄上か」
にこりと微笑んでそう言ってやれば、ラドクリフはその意味を即座に理解したのだろう。
ひくり、と口の端を引きつらせた。
「こちらにやってくる聖女が毎回『ああ』だとは限りませんが……油断は禁物ですよ」
「ぅへーい……」
王族としてはとても気の抜けた返事であるが、この場にはどうせ他に人はいないのでアルフレートはひとまずそれを見逃す事にした。
口ではとてもだるそうな返事をしているものの、ラドクリフは姿勢を正し態度だけはマトモであったので。
ゴーン、ゴーンと重々しい鐘の音が聞こえてくる。
どうやら聖女の処刑はたった今、終わったようだった。