鬼眼
地の涯のような立地のカフェで。
注文したバターコーヒーを待ちながら、何度も目を擦った。
――可怪しい。
ものが二重に視えたり、内装の絨毯の赤色が水色に視えたりする。
のみならず、その視界に引っ張られて聴覚もおかしくなってきているような……気がするのだ。
朝の時点で少し違和感があったのだが、別段、視力が悪い訳でもないので放置していたのが祟ったか。
行儀が悪いと思いながらも、指で目を擦り続ける。
視界はぼやけ、涙が滲み、それでも視覚の異常は収まらない。
「バターコーヒー、お持ち致しました」
ハッと顔を上げる。にこやかな好青年風の給仕が盆に乗せたマグカップをカタン、とテーブルに置いた。
「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
給仕が青黒い顔をして、穢らしい笑みを浮かべながらそう言った。
再びハッとして給仕の顔を見た。微笑みを讃えた好青年だった。
――やはり、可怪しい。
視界がズレるだけではなく、いま幻覚らしきものが視えた。
何だったのだ。あの悪魔のような給仕の顔は。
おかしな薬物やアルコールは摂取してはいない。寝不足でもなく、視力は両眼とも1.5を維持している。
――なのに。
このカフェを退去した後、眼科に予約を入れる事を考えた。
この目で視る世界がズレているのです。
色彩が正確に認識できないのです。
幻覚が視えてしまうのです。
こう捲し立てて、医者に診て貰おう。重大な病の前触れかも知れないのだし、何より現在進行系で日常生活に支障をきたし始めている。
面倒臭い事になったなぁ。
本当に面倒臭いなぁ。
少し項垂れて、コーヒーに口をつけようとした。
コーヒーの中で亡者たちが溺れていた。
小さい亡者たちは緩やかにごぼごぼと溺れており、鼠の赤子のように緩やかに手足をばたばた、ばたばたと動かしていた。
自分の顔が渋面を作ったのが分かった。
少し目を瞑る。そしてまぶたを開く。
コーヒーは琥珀色のバターコーヒーであり、それ以上でもそれ以下でも無かった。
しかし、もうそれを飲む気がしない。
厭な気持ちになってしまった。
いつしか、道路で轢かれて潰れてしまった鼬の死骸を見たことがある。
とても厭な気持ちになってしまった。
厭悪は理不尽に対する防衛反応だ。人間は厭悪を感じたら回避するか破壊しようとする。
――だけど。
今、自分が厭悪を感じているのは……何に対してなのか。
どちらかと言うと、視覚の異常よりも、それによって視えるものに厭悪を感じている。
目玉が狂った事より、それによって光彩を経由する幻覚に厭悪を感じるのも可怪しな話だが。
――実際にそうなのだから、仕方がない。
原因と効果が逆転している。
彼岸と此岸も逆転してしまいそうだ。
視覚は重要な情報源である。脳を活性化させる最も手っ取り早い感覚でもある。
目が可怪しくなると、ろくでもない事を考えるようになるのか。
からーん、と店内に鐘の音が響いた。
新客の来店。新客は腐りかけた死体と連れ立って入店してきた。
この目玉は何を視ているのだ。
何を視ようとしているのだ。
何を視せようとしているのだ。
「地獄」
今入店してきた新客が対面のテーブルに着くなり、地獄、と言った。
遅刻、とか、四国、の聞き間違いだろうか。
「地獄だよ」
重ねてそう言った。
――地獄。
――地下の獄。
――冥府。
その薄暗くて恐い世界の事を想像する。
魔王と亡者と獄卒が気が遠くなるほど永い時間存在しなければいけない場所。
此岸の涯。
厭悪は最早、自分の可怪しな目玉にではなく、このカフェ全体にあった。
目玉に腹が立つのではなく、視えるものすべてに腹が立つという逆転現象を経過して、やがて世界は逆転した。
現世と地獄がひっくり返ってしまった。
――理解できた。
さながらこの目玉は、地獄の獄卒である鬼の目になっていたのだろう。鬼の視線で事象を視、鬼が視ている世界を脳味噌に投影していたのだ。
自分は鬼の目を得たのだ。
角膜の向こう側から血が溢れてくる。肉片がぼとぼとと刻まれている。光彩はそれを逆転した世界の中で正しく認識し、脳味噌に映像として……いや、ただ在る現実として送り込んでくる。
――そして。
こんな現世と地獄が逆転した世界を神とされる存在は許さないだろう。
自分を含めた鬼どもにはいずれ聖なる神罰が降される。
――ほら、もう既に。
店内の客が、亡者たちが、
反旗を翻そうと、
世界を元に戻そうと、
こちらをとても清らかな目で視ている。