アップルパイ
クローディア=デピスが目覚めると、そこは普段通りの自分のベッドだった。
確かに着ていたはずのドレスではなく、寝間着を身に着けている。
確か、わたくし達は、学園で、ベラの時魔法を使って――。
とっさに現実を把握しそこねて、クローディアは軽く混乱する。
ベッドの側に置いたベルを鳴らすと、やがて当番のメイドが顔を出した。
「どうかなさいましたか、お嬢様?」
「今日は、何年の何月何日ですの?」
「日付が変わっておりますので、マノン歴285年の5月16日です」
その日付が示す意味は――。
「戻っていますわ。意識だけが、一年近く」
クローディアはそう呟いた。
「……何でしょう。おかしな夢でもご覧になったのですか?」
メイドが静かにそう言ってくる。
確かに。
あれは、悪い夢だった。そんな気もしてくる。
「――あれは、夢でしたの?」
「夢ではありません」
ベラ=クベルドンは、きっぱりと断言した。
「夢のようですわぁ」
一方、アビゲイル=ベグネは、陶然とそう呟いた。
デピス家の客間。
朝一番の伝令で、クローディアからアビゲイルとベラに、ぜひ朝食をご一緒しましょうというお誘いが伝えられている。両名に断る理由もなく、こうして三人が集まっての朝食が、そろそろ終盤を迎えているというところだった。
「アビゲイル様。話がややこしくなりますので、少し遠慮して下さい」
「だって、このアップルパイの美味しさ、まさに夢のようなんですもの」
ベラの言葉も、アビゲイルの前ではどこ吹く風である。
アビゲイルの言葉通り、三人の前には、温かく湯気を立てる上質な紅茶とともに、デピス家お抱えのパティシエが作ったアップルパイが切り分けられていた。
「甘く煮込まれたリンゴと、薄く、それでいてサクリと歯ざわりを残すパイの部分が絶妙なバランスで層になっていますわぁ」
アビゲイルが、フォークでアップルパイを切り分けながら、まさに夢見心地といった口調でつぶやく。
彼女の言葉の正しさを示すように、水分を多く含むはずのリンゴの下で、パイ生地が軽い音を立てた。それは、このスイーツが焼き上がりたての状態で供されていることを示していた。
「何層にも重なったパイ生地を味わえる、この外側の部分もわたくし大好きですわぁ」
きつね色から軽いこげ色へと変化するグラデーションになったパイの外側は、繊細ながらも複雑な口当たりを楽しむことができる。
無理にフォークを突き立てれば崩れてしまう構造も、口へと運び入れれば軽い歯ざわりと生地自体の味を伝えてくれるのだ。
「はぁ。至福、ですわぁ」
溢れ出たため息が、アビゲイルの心情を雄弁に物語っていた。
「……気は済みましたか? ええと、クローディア様。夢ではない、という話の続きです」
気を取り直して、ベラが話を元に戻した。
「そうでしたわね。アビーが美味しそうに食べていると、ついつい邪魔ができなくなってしまって困りますわ」
クローディアも、自分のアップルパイを食べ終わると、紅茶を片手に居住まいを正した。
「私達は、間違いなく時魔法でこの時間に戻って来ました。一人だけなら、夢でも見たのかと錯覚してしまいそうですが、私も、アビゲイル様も同じ記憶を持っています。あの婚約破棄は現実でした」
ベラの言葉に、クローディアは表情を暗くする。
「婚約破棄――」
「それを回避するため、私達はここへと戻って来たのです」
そう言って、ベラは小さな握りこぶしを作って見せた。
「そうですわね。それでは、これから何をすれば良いのかしら?」
「ニコラウス殿下に相応しくない――将来の女王に相応しくない、という理由で婚約破棄されたのですからぁ、相応しい人になる、ということですわねぇ」
クローディアの疑問に、アビゲイルが応えた。
「特に、エリカ嬢との関係がポイントになると思います」
ベラが補足する。
「確か――エリカ嬢との関係における三つの罪。一つ、彼女に無実の罪を着せた。一つ、困っている彼女を助けないばかりか嘲笑った。一つ、彼女に自ら危害を加えた」
「そう、それですわぁ」
二人の言葉に、クローディアは頷いた。
「一つ目の罪――エリカ嬢に無実の罪を着せた。思い当たるのは、花瓶の件かしら。あの時は、エリカ嬢がやったとしか思えませんでしたが……」
「そうですね。今度は、もっと慎重に状況を見てみる必要がありますね」
「日頃の行いにも、気をつけるようにしますわ」
クローディアは、力強く宣言した。
「もしも花瓶の件がこれから先に起こるなら、これが私達三人の夢ではないことの証明になりますよ」
そう言って、ベラはにっこりと笑ったのだった。




