始まりはバッドエンド
つないだ腕は、乱暴に振り払われてしまった。
クローディアは、驚きと、冷たく湧き上がる嫌な予感に、その足を止めた。
その反動で、彼女のブロンドの髪と、身にまとった薄青のドレスが不安げに揺れた。表情を隠そうと広げた扇の奥で、碧い瞳が、離れゆく背中を追いかける。
「一体、何が起こっていますの……?」
その呟きは、本当はこれから起こることを予見しているかのように、弱々しく震えていた。
マノン歴286年3月21日。
マノン国王の名を冠した教育機関である王立学園高等部では、その三年生の卒業を記念した舞踏会が開催されていた。
舞踏会場はきらびやかに飾られ、豪華な料理が並び、管弦楽による音楽が奏でられていた。卒業生、在校生の隔てなく着飾った生徒達は、ダンスや談笑に花を咲かせていた。マノン国王、女王両陛下も観覧するこの催しは、小さくとも立派に公式な社交場としての様相であった。
そんな中――。
王太子ニコラウス=マノンの婚約者であるクローディア――デピス上爵家の令嬢――クローディア=デピスは、当然のことながら、ニコラウスのエスコートで舞踏会場へと入った。
しかし。
到着早々、ニコラウスの腕は、乱暴にクローディアの腕を振り払ったのだった。
なんの説明もなく。
ニコラウスの背は、婚約者を置いたまま、歩みを進めてしまう。
思えば、クローディアを迎えに来た馬車の中でも、ニコラウスは重く押し黙り、不穏な空気を背負っていたのだが。
「ニコラ――ニコラウス殿下」
耐えきれず、去ってしまう背中へと声をかけようとして、クローディアはその言葉を飲み込んでしまう。
彼女の視界に、鮮烈な赤いドレスが入ったからだ。
「ご機嫌よう、ニコラウス殿下。それに、クローディア様」
ドレスの主は、満面の笑顔で挨拶を口にした。
ピンクブロンドの髪に緑がかった色彩の瞳、真紅のドレスをまとった彼女は、エリカ――フランジパン下爵令嬢――エリカ=フランジパンだった。
「やあ、エリカ。今日のドレスも、そして君自身も素敵だね」
陶然とした声色で投げかけられるニコラウスの言葉が、クローディアの背筋を冷たくする。
わたくしには、ドレスを褒める社交辞令の一言もなかったのに。
その思いをなんとか飲み込むと、クローディアはエリカへと挨拶の返事をと息を吸った。
しかし、結局、彼女のそれは言葉になることはなかった。
「皆、少し聞いて欲しいことがある」
凛としたニコラウスの声が会場に響いたからである。
音楽は止まり、歓談は少しのざわめきを残して消えた。
ニコラウスの視線は、まっすぐにクローディアを射抜いていた。
そう、今、ニコラウスは、傍らにエリカを従え、クローディアへと向かい立っていた。
「私から、大事な話がある」
ニコラウスはそう声を響かせた。
「私、ニコラウス=マノンは、クローディア=デピスとの婚約を破棄する」
そして、そう宣言した。
その瞬間、エリカは笑みを深めた。
クローディアは絶句する他なかった。
「どうした? そうやって、無言で見つめ返せば事態が好転すると思っているのか?」
冷ややかなニコラウスの声に、しかしクローディアは言葉など返せないのだった。
婚約、破棄。
その言葉の衝撃に、何か返せる言葉があるだろうか。
本来であれば脳裏に飛来するはずの、あらゆる思考が遠かった。王家とデピス家の関係にも思い至らなかったし、膨大な努力と時間を費やした妃教育が無駄になることも気にならなかったし、そもそもどんな理由で婚約を破棄すると断ぜられたのかもどうでも良かった。
ただ、ニコラウスともう一緒にはいられない。
その事実だけで、足元が崩れ落ちる感覚に襲われ、立っていられなくなりそうだった。
「すげぇ、リアル断罪イベントだ」
「悪役令嬢も最後か」
どこかで囁かれる不躾な言葉にも、それを睨み返そうとすら思えない状態だった。
「殿下、せめて婚約破棄の理由くらい教えてあげないと、かわいそうですわ」
エリカの言葉に、ニコラウスは重々しく頷いた。
「婚約を破棄する理由は、王太子である私に――未来の女王となる人間として、相応しくないからだ」
そう言って、ニコラウスはエリカを示した。
「それは、このエリカ嬢との関係における三つの罪だ。一つ、彼女に無実の罪を着せた。一つ、困っている彼女を助けないばかりか嘲笑った。一つ、彼女に自ら危害を加えた」
ニコラウスはそう断じた。
「心当たりがあるだろう。何か申し開きはあるか?」
「――ございません」
王太子が自ら、このような公式の場で、多くの生徒たちだけでなく、国王、女王両陛下の前で宣言したのだ。異を唱えられるはずがなかった。
「ならばこの場から去るが良い」
「――はい」
クローディアは、踵を返し、たった今入ってきたばかりの会場を後にするのだった。
「――なお、新たに、エリカ=フランジパンとの婚約を発表する。今後は彼女を新たな婚約者として――」
会場からは、ニコラウスの声が引き続き響いていたが、クローディアはそれに耳を塞いだ。
何もかも、終わってしまったのだ――。