森に追放された元聖女ですが、冷淡だったはずの魔法使いがなぜか訪ねてきます。
エヴリーヌの朝は、井戸から汲んだ水の浄化から始まる。
この「穢れ森」に流れる水はすべて穢れに冒されているため、そのまま飲めば普通の人間であればすぐに内臓が焼かれて死に至るからだ。
けれど聖女だったエヴリーヌはこの程度の穢れは大したことはない。指を組み己の体内に揺蕩う力に呼びかけると、体からこぼれた燐光が降り注ぎ、水瓶の淀んだ水はたちまち澄んでいく。
ふう、と息をつく間もない。この後は畑仕事……正確には畑の土を浄化し、普通の植物が枯れぬようにする仕事が待っている。
ちょっとは自慢だった金髪はくすみ、肌も日に焼けてしまい、指の皮は厚く、あかぎれと豆だらけになった。今のエヴリーヌを見たものは、まだ23歳の娘だとも、ましてやほんの2ヶ月前までクレール王国で尊ばれる、聖女の一人だったとは夢にも思わないだろう。
「ま、なけなしの評判も地に落ちているのだろうけど」
くすりと笑ってみても、言葉を拾う生き物はいない。
なぜなら流刑地としても使われる穢れ森に棲むのはエヴリーヌ一人きり。あるのは申し訳程度に作られた掘っ立て小屋と、小さな畑。あとは穢れに耐えていびつに歪んだ植物と禍々しい魔物だけ。
「でもまあ、追放されたにしては、そんなに悪くはないわよね」
ぽつりと呟いて、よいしょ、とボロボロの鍬を片手に畑へ向かった。
*
2ヶ月前まで、エヴリーヌはクレール国で浄化の聖女をしていた。様々な恩恵をもたらす魔力だが、魔力が淀むと穢れを生み出し害を為す。
悪影響を消し去れるのが浄化の力であり、その力を持つ者たちは教会によって聖人、聖女として大事にされるのだ。
国の端っこにある片田舎の出身だったエヴリーヌは、13歳の頃たまたま浄化の力を発現した結果、教会に引き取られた。
どこにでもある魔力を使える魔法使いは多けれど、浄化の力を持つ者はあまり多いとは言えない。そのせいでエヴリーヌが引き取られた教会でも、浄化の力を持つ者は司祭のおじいちゃんただ一人だった。腰の悪い彼に無理はさせられないと、若いエヴリーヌは依頼があれば方々へ出張した。
苦労は多かったが、幸い力が強かったおかげで、浄化自体はそつなくこなせた。その噂が王都にまで届き、エヴリーヌは王都の大聖教へまねかれ、さらに多くの任務をこなすことになった。
エヴリーヌを育ててくれたおじいちゃん司祭を始め、村の人々はとても心配してくれたが、援助と引き換えには断れない。
穢れが溜まるのは死が充満する場所だ。凶悪な魔物の被害があったり、病が蔓延していたり、けが人が多くいたり、……戦争があったり。
それでも仕事だからと文句も言わずに浄化をして華やかな娘時代を終えたのだが、それがどうやらまずかったらしい。
何度目かの遠征の後王都に帰還してみると、エヴリーヌは「穢れをまき散らす張本人」「私欲のために浄化を怠った悪逆聖女」と言われていた。
エヴリーヌが戸惑っている内にあれよという間に判決が決まり、幾人もの聖人聖女達が浄化を果たせなかった穢れ森に放り込まれた。
それが2ヶ月前。これなら王都の名物料理を制覇しておくんだったと後悔しても遅い。
聖女を罰するというのは外聞が悪いと思ったらしく、「穢れ森への赴任」と体裁は整えられ、掘っ立て小屋と申し訳程度の道具と当面の食料が与えられた。
が、教会で大事に育てられた娘が、穢れにまみれ、通常の植物が育たない土地でたった一人で暮らせるわけがない。
数日の後に自殺をするか、餓死するか。魔物に食われるか。いずれにせよ、実質の死刑であるのは明らかだった。
……それがエヴリーヌでなければ。
「まっ、畑仕事、は、4歳から手伝って、きたし! おじーちゃん、たちと、薬草園、世話してたし! 体力も、あるんだから、おてのもの、よ! ……やったー! 良いじゃがいも!」
見事な芋を収穫したエヴリーヌは、古びた籠へぽいぽいと入れていく。
後で薬草も摘み取ろう。良い炎症を抑える薬になるはずだ。
空気は多少淀んでいるが、掘っ立て小屋の周囲にはエヴリーヌが施した術で常に浄化をしている。
肉が食べられないことを除けば、それなりに暮らせるものだ。
浄化に赴き、野宿が続くような生活よりは今の方が落ち着いている。元々エヴリーヌはのんびりすることが大好きだ。今の今までが忙し過ぎたのだ。
ここには、エヴリーヌに取り入ろうとする甘い声も、聖女をにがにがしくそしる声も、高圧的に迫る人間もいない。静かで、エヴリーヌ一人しかいない。
一人でいることにも慣れているし、案外今の生活は悪くないと思っていた。
汗を拭ったエヴリーヌは、その甲にある焼き印を努めて無視する。
「さーて、今日は焼き芋かな、チーズを乗せて焼いたら絶対おいしいんだけど、さすがに無理だからなあ……っと」
とんとん、と中腰の作業で強ばった腰を労り、玄関に向けて歩く。ひとり収穫祭に思いをはせていたのだが、すぐに足が止まることになった。
信じられない気持ちで、ぎゅっと籠を抱えた腕に力を込める。
玄関の前に立っていたのは、長い黒髪を高い位置でひとくくりにまとめた若い男だった。
魔法使いの髪は、総じて長い。魔力の制御に役立つからだ。
彼もまた例外ではなく、よく手入れをされた黒髪は夜を内包しているように艶やかで、整った横顔を彩っていた。だが冷たい鉄のような生真面目で硬質な表情がひどく近寄りがたい印象をもたらす。
事実、彼に自ら話しかけに行ける人間などほとんどいなかった。
それでも、細身ながら長身の体格に纏った宮廷魔法使いの証しである紫のローブがとてもよく似合う。今も持つ身の丈はある美しい杖を携えた姿は、令嬢や娘達の憧れだけでなく魔法使い達からも密かな憧れとなっていたのをエヴリーヌは知っている。
だが、ここにいるのはとてもおかしい。なぜなら、彼は人に対して興味を持たない。何よりエヴリーヌは友人と呼べるほど親しくなかったし、むしろ嫌われていたはずだからだ。
彼の名は――……
「セルジュ・ラ・ソルセルリー?」
ここに来てからの癖で、つい声を漏らしたがもう遅い。
ぱっと黒髪の筋が弧を描く。
一切無駄のない動きで振り返ったセルジュは、紫の瞳で淡々とエヴリーヌを捉えた。
任務で顔を合わせていたころと、全く変わらず。
「聖女エヴリーヌ・アンジェ。健勝ですか」
なんの感情も読めない声音で。
驚き過ぎて息をするのを忘れ、立ち尽くしたエヴリーヌだったが、すぐに我に返ると、持っていた籠を放り投げて彼に駆け寄った。
「セルジュ様! 穢れには冒されていませんか! 胸の痛み倦怠感気分の落ち込みなどは!」
穢れ森は普通の人だと深部に立ち入って5分で体調を崩し、10分過ごせば死の危険がある。この掘っ立て小屋がある場所まで歩いて優に30分はかかるだろう。
エヴリーヌはすぐに浄化の力を使おうと手を伸ばしたが、その腕は避けられた上、手首を掴まれる。
衝動的に動いたエヴリーヌだったが、あっと思い出す。
彼は突然体に触れられることを好まない。まだ聖女だった頃に一度エヴリーヌが握手を求めた時も拒絶された位だ。
そして、何より今の自分は“罪人”だ。この穢れ森に来たのであれば、エヴリーヌの今の評判も聞いているはず。
羞恥が襲ってくるが、エヴリーヌはすべてを呑み込みうつむいた。
そのせいで、セルジュの視線がどこを見ているのか気づかなかった。
「ごめんなさい。セルジュ様。体に触れられるの嫌いでしたよね」
「……いいえ。魔力で体を保護しながら来ましたので、問題ありません」
必要最低限の言葉だけで応じる低い声は、他者が聞けば威圧を与えるものだ。けれどエヴリーヌは聞き慣れれば心地よいと思う。
ちらりと視線を上げて見ると、セルジュの表情は全く感情が見えなかったが、顔色は悪くはない。おそらく、怒ってもいないだろうとエヴリーヌは判断した。
安堵するとなぜ、という疑問が湧き上がってくる。
「セルジュ様、あなたは辺境へと長期の赴任をされていたはず。王都へ戻るのはあと1年先だったでしょう。なぜこのようなへんぴな場所にいるのですか」
宮廷魔法使いは、溢れる魔物に対処するため、力がある者は特に頻繁に派遣される。セルジュは25歳と若く、実力ある魔法使いだったから、エヴリーヌの追放が決まった時には、王都にいなかったのだ。
セルジュは淡々とエヴリーヌを見返すと、感情が読めぬ生真面目な顔でこう答えた。
「あなたがここにいると聞きました」
「……なら、私がどういう罪状でここに追放されてきたか知っていますよね」
こくり、と頷かれたことで、エヴリーヌはますます困惑する。
エヴリーヌが穢れ森にいると知っているのなら、王都で罪に問われ、追放された顛末も知っているはずだ。
魔法は緻密な計算と図式の構築が必要だ。だからこそ一分の狂いも許されないため、魔法使いはルールを守らないことを嫌う傾向がある。
自分が知っているセルジュという男は、生真面目で職務に忠実であり魔法使いの鑑とも称されるほど厳格な人間だった。
だから、世間から罰された「悪逆聖女」であるエヴリーヌなんかに、わざわざ穢れ森に入ってまで会いに来た理由がわからなかった。
困惑するエヴリーヌだったが、セルジュの手がまだ離されていないことを思いだした。
「セルジュ様?」
「……健勝ですか」
言葉を繰り返されて、エヴリーヌは彼の質問に答えていなかったと思い出し、小さく笑った。
胸に炙られるような温かな懐かしさが宿る。そうだ、彼と仕事をこなしていた時もこうだった。セルジュは無駄な言葉を語らない。だから、彼は問い掛けるとその返答をいつまでも待つのだ。はじめは辟易したものだったが、慣れた今では楽しむ余裕があった。
「元気ですよ。ここでの生活は前と違って全部自分でしなきゃいけないので、朝から晩まで働き通しなんですけど、案外気楽で楽しいです。まっ井戸も畑も家の周りも浄化の力を張り巡らす必要があるんですが、畑仕事よりは断然まし。なにせ畑がうまくいかないと私あとちょっとで餓死する所だったので!」
エヴリーヌは久々に相手がいる会話だったため、余計なことまで話した気がして黙り込む。
が、黙って聞いていたセルジュの瞳は地面に転がるじゃがいもを追っていた。
「収穫中、でしたか」
「そうなんですよ! 私一応赴任ってことになってますけど、こんな所には絶対物資の配給なんてこないでしょう? 実際ここに来て2ヶ月になるけどセルジュ様がはじめてだし。だからはじめに渡された野菜に浄化の力を与えて成長促進したんですよ。あっこれ教会のおじいちゃん達から習った裏技なので、王都の人には内緒にしといてくださいね」
浄化の力は生命力全般に作用する。だが神聖なものだから、特別な時以外には見せてはいけないと、王城で仕えるようになってからは、大聖教のお偉方に口を酸っぱくして言われたのだ。
だがここにはエヴリーヌひとりだけ。使ったとしてもとがめる人は誰もいない。
とはいえ横紙破りはセルジュが嫌うものだ。黙っていてくれるだろうか。
「今お説教はやめてくださいよ? ただでさえ食べるものが限られてるんです。ほんとはお肉も食べたいですけど、ここに住んでる動植物はみんな穢れに冒されているので、浄化しないと食べられないんです。手間がかかりすぎますから、畑にあるものが命綱なんですよ!」
先手を打って言い訳を重ね、大事な栄養源であるじゃがいもを拾い直しつつそろりと伺うが、エヴリーヌはすぐにぽかんとすることになる。
なにせ、彼が身をかがめて、側に転がっていたじゃがいもを拾っていたのだ。
金縁の紫色のローブと黒の毛先が地面を撫でるのを呆然と見つめていたエヴリーヌは、次いで差し出されたじゃがいもに更に混乱する。
自分に課せられた仕事以外では一切動こうとしない彼が、じゃがいも拾いを手伝ってくれたのだと理解した時には、セルジュはすでに立ち上がっていた。
「また来ます」
言うなり、彼の足下に複雑で奇っ怪な魔法陣が広がり、膨大な光が彼の姿を飲み込んだ。
目を細めたエヴリーヌの視界で、黒い髪の筋が躍る。
ぱっと消えた時には彼の姿はない。超高等魔法である転移の術だ。
あらかじめ印を付けた場所にのみ帰還できるとてつもなく便利な代物だが、行使のために必要な理論が難解な上、一度使うごとに普通の魔法使いならば命を懸けねばならぬほど膨大な魔力を使う。
いろんな魔法使いに会ったことがあるエヴリーヌも、当たり前のように使う魔法使いは、セルジュしか知らない。
「一体、なんなのよ」
短時間の邂逅は自分の白昼夢なのではと考えかけたが、掴まれた手首の感触も、手に乗ったじゃがいもも嘘ではない。
なにより夢と語るには、彼の様子がおかしすぎた。
「冷淡で、生真面目で、四角四面で、おおよそ人間の情みたいなものを表に出さない情緒欠落野郎がセルジュ・ラ・ソルセルリーでしょう? ありえない、ありえない。きっとなにか任務があったのよ」
何事も適当に楽観的に生きることにしているエヴリーヌはそれ以上考えるのをやめて、じゃがいもの処理にかかった。
ただ、あとで気がついた。
健勝か、だなんて聞かれたことも、はじめてだったな、と。
*
結論を語ると、セルジュは翌日に現れた。
今日も今日とて畑の世話をしていたエヴリーヌは、今度は水の桶を取り落とす。
なぜなら、セルジュは大きな荷車を引いて来ていたのだから。
正確には何らかの魔法を使って荷車を自走させており、セルジュはその横で杖を携えて歩いていた。だがそれでも魔法使いの高貴なローブに似合わないことこの上ない。
セルジュはエヴリーヌの前で荷車を止めると、かけられていた覆いを取る。
荷車には新鮮な野菜と穀物であろう包みを始め、多くの食材が積まれていた。
エヴリーヌが切望していた肉の切り身も見つけて、思わずごくりと唾を飲む。あまりに嬉しすぎる荷物だったが、セルジュの意図が全くわからなさすぎて、エヴリーヌは喜ぶよりも先に慄いた。
「ど、どうしたんです?」
セルジュは少し考えるように間を置いたが、唇を開いた。
「人を訪ねるときには、手土産を持つのが一般的だと」
「たしかにそのとおりですね。私も挨拶はしてくださいねって沢山言いましたし。親しくない方とかにだったら余計に心遣いは必要です」
「……昨日は、忘れていました」
少し返答に間があった気がしたが、エヴリーヌは思い出す。
そうだ、セルジュという男は、己に一般常識がないことを少々気にしていた。特に人間に対する礼節は無駄と排していたのを、エヴリーヌが懇切丁寧に……いやもはやけんか腰でやり合い、譲歩させた部分もあったのだ。
この荷車の中身は量はおかしいが、それはそれだ。今のエヴリーヌのことを考えた良い心尽くしの品だとも言えるだろう。大方お詫びも含めてこの量だと考えれば説明もつく。
エヴリーヌは彼の行動の意味がわかり、ようやく喜びを爆発させた。
「いやったーー!!! ありがとうございますセルジュ様、超大好きです来てくださって感謝いたしますっ久々にお肉が食べられる小麦粉も嬉しいパンを作るには酵母がないんですぐには無理ですけどパンケーキしましょうパンケーキ! あっガレットも良いですね!」
これがセルジュ以外であれば、エヴリーヌは抱きついて感謝の想いを表しただろう。
彼に対してそんなことをすれば蛇蝎のような目で見られそうなので頑張って抑えた。エヴリーヌとてそれくらいはわきまえている。
なので一通り荷車の中身を確認したあとほんのりと冷静になったエヴリーヌは、再度セルジュを見る。彼が礼節を守ったのであれば、自分も守るべきである。
「疲れたでしょう。中に入って休まれますか。何にもないですが、ハーブティーくらいはごちそうできますよ」
ほんの型式上の問いだった。
なにせセルジュは雑談や茶会というものを嫌っている。
とある令嬢が、あくまで感謝の意を表すために誘ったお茶会を時間の無駄だと、切り捨てて泣かせたエピソードは界隈では知らない者は居ない。
エヴリーヌも、何度も一人でいる彼を食事に誘ったが、社交というのも無意味だと切り捨てられたことを覚えている。ましてやエヴリーヌの知っているセルジュは、エヴリーヌのことを避けるほど嫌っていた。
今回の訪問の意図はすごくすごーく気になるが、それよりも得体が知れなくて怖いという感情が先に立つ。
「いただきます」
「はいそうですよね。でもほんとに食材はありがとうござい……え」
間抜けな声を出すエヴリーヌを、顔色一つ変えずに見つめ返したセルジュは、言葉を繰り返した。
「お茶を、いただきます」
あの、茶会嫌いのセルジュが承諾した。
何か悪いものでも食べたのだろうか。それとも穢れ森を通ってきて頭がおかしくなったのか。
よっぽどそう聞きたかったが、エヴリーヌが喜びの舞をしていた間も真顔で佇んでいたセルジュはどんなに見てもいつも通りにしか見えなかったのだ。
「……どうぞ」
セルジュを室内に招き入れたエヴリーヌは、がたつくテーブルにハーブティを注いだコップを差し出した。
杖を壁に立てかけ椅子に座ったセルジュは、無言でお茶の水面を見つめたあと、その対岸に置かれた椀を見る。
「あなたのコップと椅子は」
「ありませんよ、ここには一人しか住むことを想定されていないので、ぜんぶお一人様なんです」
我が家に唯一ある椅子を占領しているのはセルジュだ。
けれど、部屋はこぢんまりとしているため、すぐそばにあるベッドの端に座れば問題ない。
と、言う訳で、ベッドとは名ばかりの板の枠に座ったエヴリーヌは、じっとこちらを見つめる紫の瞳を向き合うことになった。
彼はしばらく沈黙していたが、ようやくカップを取った。
「いただきます」
「あ、はい。どうぞ」
無骨なカップだというのに、彼のすらりとした指が持つと美しく見えるのだから不思議だ。
しかしそれっきり手持ち無沙汰となってしまい、エヴリーヌは途方に暮れる。
仕方なしに、自分の分のお茶を飲み出した。
ハーブティーは、野菜についていた土に種が紛れ混んでいたのか、勝手に生えてきたものを、エヴリーヌがより分けて育てたものである。
はじめて見付けたときには、涙を流して喜んだものだ。薬草たちは、すべてエヴリーヌが第二の故郷と呼ぶべき教会でずっと親しんでいたものだから。
だから、以前から飲んでいたものとそう変わらない。
ほんの少し、セルジュの表情も緩んだ気がした。
「以前の味と、変わりませんね」
しゃべった。とつい思ったと同時に、喜びがこみ上げてくる。
「まあそうですね。レモングラスとカモミール。あなたが根を詰めて休もうとしないから、無理矢理休ませるために飲ませましたもんね」
「……あの日は、眠りすぎて迷惑でした」
確かにはじめてこのお茶を飲んで眠り込んだあとのセルジュは、恐ろしいほどの能面顔でエヴリーヌに迫ってきたものだ。
予想していたエヴリーヌは、彼に一服盛ったわけではないときっちり説明し、過労のせいだと突きつけたものである。
こうしている間も表情は正直かなり恐ろしい。が慣れっこであるエヴリーヌはにっこりと笑ってみせた。
「説明をせずに飲ませたのは悪かったと思っていますが、あなたが最も嫌う非効率的な仕事をしていたんですもの。その点については今でも譲りませんよ」
「その通りです。あれ以降、緊急時以外は、睡眠時間と休憩時間を確保しています。不眠の際はこのお茶を飲みます」
えっと、エヴリーヌは思わずセルジュを見るが、彼はカップの水面を見つめて続けた。
「ですが、この味にはなりません」
「そりゃあ、淹れる人によって味が変わるのは当然だと思いますが」
それにハーブティは栽培場所によっても乾かし方や保管の仕方で味は容易に変わってしまうものだ。
だが飲めれば良い、食べられれば良いと全く食に頓着しなかったセルジュの言葉なのだろうか。
エヴリーヌは本当に本人かと疑い始めていたが、セルジュはことりとカップをテーブルに置いた。
すくりと立ち上がったセルジュは平坦な声で言う。
「お茶を飲み終わりました。邪魔にならないうちに帰宅します」
「あっはい。お粗末様でした」
この唐突さはセルジュ本人だ。本気で礼儀として供応を受けただけらしいと、先ほどまでの自分の考えをすぐに翻す。
しかし、セルジュは扉から出る寸前、エヴリーヌを振り返った。
紫の瞳で、まっすぐエヴリーヌを見つめる。
なぜか、急に素っ気なく金髪をひっつめただけの薄汚れた自分が気になった。
「また、来ます」
ひとつひとつ、宣言するような言葉だと思った。そんなところまで律儀に守るのかとエヴリーヌは感心した。
が、しかし、エヴリーヌには拒む理由はない。
「ええと、まあいつでもどうぞ。どうせ私は森の中で暇ですから!」
明るく答えると、セルジュは無言で頷くなり、昨日と同じく姿を消した。
*
それから、セルジュは二、三日に一度はエヴリーヌを訪ねてくるようになった。
律儀に何かしらの手土産を持って。
ふちが欠けたコップしかないと知ったその次の訪問には、可愛らしい花が散らされた娘が……つまりエヴリーヌが好きそうなカップを2客持ってきた。
食材はもちろんでもあるし、日常で細々としたものも足りないと言えばその次の訪問の手土産になった。
名物料理を食べ損ねたと零すと、できたて熱々を持ってきた時には驚き呆れたものだ。
「セルジュ様、一体どうしちゃったんです? 魔法はどうしても必要な時にだけ最低限使うもので、乱用は絶対にしてはならないと言っていたのに」
肉のフィリングをパイ生地で包んで焼き上げたそれは、とても食欲がそそったが、さすがに疑問が先に立つ。
なぜならエヴリーヌが困っていたのであれば、誰にでも浄化の力を使い癒やしていたのを止めた張本人なのだ。
エヴリーヌとセルジュは、良く遠征先で顔を合わせる仲だった。
魔法がよく使われるのは魔物の討伐で、浄化の力が必要になるのは戦場だ。聖女と魔法使いが顔を合わせるのはごく自然だった。
お互いに若く、実力者で通っていたため、任される場所も良く被ったのもある。
魔法使い達も浄化を受けるため、何度も顔を合わせれば必然、言葉を交わすようになる。
共同で事態の収拾に当たったことも少なくはない。
大抵一人で派遣されて、一人でことに当たっていたエヴリーヌは、寂しさを紛らわせるために魔法使いや兵士の輪に入れて貰っていた。しゃべることは好きだし、聖女と言っても若い娘が戦場に出てくることは稀だったから、大抵の場所でエヴリーヌは可愛がられた。
だがしかしその中で唯一、いつまでも態度が和らがなかったのが、セルジュだった。
魔物の討伐に来るのは、任務だから。あるいは研究に必要な資材を手に入れるため。
魔物は魔法には欠かせない特別な材料になることが多い。大抵は専門の業者に任せるのだが、セルジュは自分で赴くことが多かった。
はじめて出会った日に、セルジュ本人から聞いたのだ。自分でした方が質が良いものが取れるのだと。
凶暴化した魔物の討伐は熾烈なためその亡骸も無残なものになりやすい。
聖女や聖人達は遠目から浄化を施すだけにとどめることが多いが、エヴリーヌはよほど止められなければ、一体一体の魔物に浄化をするのを好んだ。
血なまぐさく凄惨な場所だろうと、最終的には根本に近い方が力を無駄に使わなくて済むからだ。
すると、亡骸の側で無造作にしゃがみ込み、亡骸を解体する男がいた。
地面につかないよう、黒々とした髪をまとめ上げていたが、それでも背中で揺れているから、魔法使いだとすぐにわかる。
同行した魔法使いが素材を取ると事前に説明されていたが、彼らが必要とするのは、硬質な牙や骨。そして体内で育まれているかも知れない魔水晶だ。適当に切り刻んで散らかして帰るものだと思っていた。だが彼は魔法を使うそぶりも見せず、ぎこちなく自分の手が汚れるのも構わず淡々とナイフを使っている。
『魔法を使えば早いんじゃないですか。他の魔法使い様はみんなそうしていますよ』
非効率的に思えて若干の呆れを込めて問い掛けると、冷淡な紫の瞳がエヴリーヌを射貫いた。
瞬間的に嫌われたな、と思った。
『魔法はこの世の理に干渉する技術です。軽率に使うことで周辺環境に悪影響を及ぼすことも考え得る中で、行使を選ぶことはあり得ません。何より水晶の質が落ちます』
後にも先にもこのような長文でしゃべる彼を見たのは最後だった。しかし、その時のエヴリーヌは知らなかったため、その言葉を理解するのに頭をひねっていた。
『へえ、近くで魔法を使うと、魔水晶の質が落ちるんですか。そっかだから専門の業者に任せるんですね。知りませんでした。魔法使い様は派手に魔物を切り刻んだあと人に任せるから、うわー自己顕示欲ー! とか思っていたんですけど、自分の実力を見せるためだけじゃなくて、ちゃんと理由があったんですね』
よく見てみると、この青年の近くにある魔物の亡骸は、無駄がなく綺麗だ。
いつもこうだったら楽なのになあと、エヴリーヌはしみじみ思ったのだが、紫の瞳が蛇蝎を見るように冷えていることに気づき、しまったと思った。
『……』
『うわ、あなたのことを言ったわけではありませんよ! ただそれって浄化も影響あります? このままのペースであなたが作業を進められると穢れがはびこって大変なことになるので、どうにかしたいんです! 私も! 仕事なので!』
嫌悪がこもった眼差しは正直エヴリーヌに背筋が凍るようだったが、ぐっと眉間にしわを寄せた青年は、ふいとそらし再び解体作業に没頭する。
『浄化は魔力とは無関係です』
投げつけられた言葉は、説明足らずでエヴリーヌは少々むっときた。
要は関知しないから勝手にしろということだろう。なんて身勝手なんだ。こっちの言いかたが悪かったのが先とはいえ、愛想がなさ過ぎやしないだろうか。
内心ははらわたが煮え返っていたが、エヴリーヌは逆ににっこりと笑って見せた。
『ありがとうございます! 勝手にしますね!』
そう、はじめの印象は、正直最悪と言って良かったのだ。
そんなふうに、有事以外には魔法を使わなかった男が、こうしてたかが料理を熱々で持ってくるためだけに魔法を使っている。
一体どういう風の吹き回しだと、困惑したのだが、セルジュはいつもの生真面目な表情のまま、エヴリーヌの持つパイ包みに視線を落とした。
「熱いまま食べるのがおいしいものを、冷たいまま食べさせるのは罪に等しいと言ったのは、あなたでしょう」
「だから熱いまま持ってこられるように魔法をかけた?」
生真面目な顔のまま頷くセルジュがおかしくてしかたがなかったが、エヴリーヌは表情が緩みかけるのを必死で我慢した。なぜなら笑うと彼の仏頂面がますますひどくなるのだ。
「聖女エヴリーヌ」
しかし、よほど変な顔をしていたらしい。セルジュの低い声で呼びかけられたエヴリーヌは、これ以上彼の機嫌を損ねないように慌てて言いつのった。
「いえいえそんな深刻に考えてただなんてと思ったら、かなりだいぶ面白くなりはしましたけど、セルジュ様が私の言葉を覚えていてくれたことも、この気遣いもめちゃくちゃ嬉しいです。ありがとうございます」
認めてしまえば、頬は自然と緩む。元々エヴリーヌは感情を抑えるのが得意ではない。上流階級からははしたないと、目立つこと、人の印象に残ることはするなと大聖教の人間達にも何度も窘められたが、生来の性分は変えられない。
笑えるのは良いことだ。
「あ、でもパイ包みは一つしかありませんね」
「あなたへの手土産です」
だから自分のはない、という意味だろう。セルジュが無駄なことをしないのはエヴリーヌは重々承知していたので、さっさと二つに割ると片方をセルジュに差し出した。
「じゃあ今度から二つ持ってきてくださいね。友達なんですから、私一人だけで食べるなんてつまんないです」
「……」
セルジュの生真面目な表情がわずかにしかめられる。
うっかり調子に乗りすぎたか? とエヴリーヌは動揺したが、なんとか持ちなおす。
少なくとも、こんなへんぴな場所に延々と訪ねてくるのだから、以前考えていたように毛嫌いされていた。というわけではないのだろう。
以前なぜ穢れ森に来るのか、という疑問をぶつけるとセルジュは「研究に穢れ森が必要だったから」と答えた。
つまりは、仕事の合間に来ているということだろう。
それでもまあ、以前のセルジュからすればずいぶんな変化なのだが、仕事仲間くらいの情はあったのだと解釈していた。
なら友人と語っても差し支えはないはず。恐怖と混乱から脱すれば、彼という存在にもともと感じて居た興味がかき立てられていた。
しかし、踏み込みすぎるのはまた別だ。
一拍二拍と黙り込んだセルジュは、低く告げた。
「友人なら、敬称は付けないでしょう」
「……いやいやまさか、私があなたを様付けで呼ぶから私にも敬称を付けていた、とか言うんです?」
こくりとセルジュに頷かれたエヴリーヌは天を仰いだ。
なんだそれ拗ねた子どもかとよっぽど言いたかったが、まさかそのような理由ではあるまい。
なにせ相手はセルジュ・ラ・ソルセルリー。国の中で優れた魔法使いにしか与えられない金縁のローブが与えられるほど優秀で、何より魔法に関すること以外一切興味を持たない冷淡さでも有名な、生真面目男である。
きっと礼儀というものを突き詰めた結果、名前を呼ばないという結論に至ったに違いない。
感謝の意を示すために開く茶会の誘いを無駄だと断じて令嬢を泣かした男とは思えないが。
それはそれで、たいそう面白いな、と思ったので、エヴリーヌは揶揄うように笑ってやった。
「そんなの気にしなくて良いのに。こんだけ訪ねてきて、これだけお茶してるんですからむしろよそよそしい方がおかしいでしょう。こうする前も知らない仲じゃないですし。気軽にエヴと呼んで良いんですよ。セルジュさん」
「エヴ」
低い声で呼ばれて、エヴリーヌの胸が小さく跳ねた気がした。
そういえば、教会のおじいちゃん以降、愛称なんて呼ばれていなかったのを思い出す。
セルジュはただまっすぐエヴリーヌを見つめている。
急に気恥ずかしさがこみ上げてきたエヴリーヌは手元のパイ包みにかじりついた。
スパイスの利いた熱々の肉のうまみが口いっぱいに広がる。ああやっぱり熱い方がおいしい。
ひさびさの自分以外の料理は心に染みた。
セルジュもまた、黙々とパイ包みに口を付け咀嚼する。はじめは馴染まないと思っていたのに、ベッドの向かいの椅子に座っている光景が、なじみ深くなってしまった。
彼は食べている間はしゃべらない。しゃべるとすればエヴリーヌだけだ。
昔はおしゃべりを嫌悪して無視しているのかと思ったが、微かに頷いていることに気づいてからは、彼の性分なだけだと知った。
口に食べ物がなくなったあとで、一つ二つ質問を返してくることもある。
知らないこと、気づかなかったこと、勘違いしていたことがきっと沢山あるのだろう。
以前は知らなかったそれらを知るのがとても楽しかったが、今はじわりと苦い気持ちがわき上がってくる。
「そもそも私はもう聖女じゃないんですから、呼び捨てにしたって礼儀知らずになんかなりませんよ」
セルジュは生真面目で、感情も読めない顔で、まっすぐこちらを見た。
「あなたほど聖女に相応しい者を私は知りません」
低い声が凜と貫いた。彼はお世辞を言わない。必要なこと以外口にしない。言葉を大事にする魔法使いだからこそ、彼は寡黙だ。
だから、その言葉が本心であるとエヴリーヌは理解した。
じんわりと、心が温かくなっていく。同時に気恥ずかしさと泣きそうになるほどの嬉しさに目尻が熱くなる。
だがエヴリーヌはぐっと堪えて口角を上げた。その一言だけで救われた、だなんて気まずいし照れくさい。いつもの調子でからからと笑ってみせる。
「セルジュさんいつからお世辞がうまくなったの。以前は私のやり方を認めないとばかりに睨んでいたのに」
「……前は、確かにそうでした」
セルジュは不承不承と言った雰囲気で認めた。やっぱりあの敵意たっぷりの表情は間違いがなかったんだなと更におかしくて笑う。
「うん知ってました。私は前も今もあなたほどすごい魔法使いを知りませんよ。これは前も言ったかな」
だんまりとするセルジュに、さすがのエヴリーヌもありがとう、だなんて言えない。
パイを食べ終わっていたセルジュはがたりと椅子を立った。
気分を害しただろうか。エヴリーヌは少々狼狽えたが、セルジュは静かに言った。
「あなたの言葉は、すべて覚えています」
また来ます。
そう、言い残して、黒髪の尾を引いてセルジュは去って行く。
エヴリーヌは、彼がいなくなった部屋の中で、次はいつになるかを楽しみにしている自分を自覚していた。
*
エヴリーヌが家にいると、扉を叩く者がいた。
いつもの調子でエヴリーヌは扉を開けたが、そこに立っていたのは黒髪のセルジュではなかった。
黒地に浄化を象徴する銀と水晶が縫い付けられた聖女の装束を身につけた娘だ。
彼女はレティシア・アンジェ。
アンジェは聖女を示す姓で、聖女として認められると与えられる名誉あるものだ。
エヴリーヌと同年代にもかかわらず、儚げに整った美しい顔立ちは、王城でも聖女の鑑として人々から羨望の的だった。
多くの戦場を浄化し、恨みが染みついた魔物を鎮めた、まるで天の御使いのような娘だと言われている。
だがしかし、今の彼女は公式行事で見せる慈愛を含んだ笑みではなく、憎々しげな表情でエヴリーヌを睨んでいた。
「エヴリーヌ。なぜ死んでいないの」
「開口一番それはないんじゃないですか? 私の仕事のおかげで、あなたは聖女でいられるんでしょうに」
曖昧な表情でエヴリーヌが言うと、レティシアの美しい顔がいらだちに歪んだ。
彼女が二の句を告げないうちにエヴリーヌは言葉を連ねていく。
「あなたが一人で行動しているのも珍しいですね。こんなあばら屋や穢れた森はあなたが一番嫌う場所でしょうしね。あっそうだここは穢れ森ですもん。浄化の力が使えないと10分で死にますもんね。保護の魔法が使える魔法使いや、浄化の力が強い聖人達だったら他人も一緒に連れてこられますけど、あなたの浄化力だったら一人が限度ですもんね愚問でしたっ!?」
飛んできた張り手をエヴリーヌはのけぞって避けた。
レティシアは頬を紅潮させて怒りと屈辱にまみれた顔で睨み付けている。
「その口の悪さは相変わらずね」
「これくらいは言わせて貰わなきゃ。じゃなきゃ悪逆聖女なんて言われた意趣返しにならないでしょう?」
そう、エヴリーヌが王城に来て以降請け負った仕事は、ほとんどすべてレティシアが成したことになっていた。
レティシアとエヴリーヌは顔立ちこそ似ていないが、金髪だけは似ている。今でこそエヴリーヌの金髪はくすんでいるが、聖女時代は見事なものだった。それだけはちょっとだけ自慢だったのだ。
だが、大聖教は平民出身で面立ちはぱっとせず、淑女のようには振る舞えないエヴリーヌを認めなかった。
だから、大聖教は浄化の力は低くとも、貴族出身で誰からも好まれる楚々とした淑女だったレティシアを「顔」にした。
その、顔であるレティシアは忌ま忌ましそうにしながらも立ち去りはしなかった。
「わたくしに功績を奪われただけでなく、悪名をなすりつけられて、こんな場所に閉じ込められたのよ。たったそれだけ?」
「いやいやそんなわけないじゃないですか。もうちょっとましな食材を乗っけておいてくれとか、ちゃんと殺すんならしっかりと殺してくれなきゃダメじゃないですか。遺恨は残さないのが大事ですよ。あっそれとも万が一代わりが見つからなかったことを考えて、実績担当が見つからなかった用の予備ですかね」
「あなたの頭には花が詰まってるの!? 半年もあって死んだふりもできないなんて!」
普段はほとんど感情をあらわにしない彼女が怒っているのに、エヴリーヌは困った顔で落ちつかせようとどうどうと手を出す。
「ちょっとちょっと、レティこれじゃあまるで逃げてくれって言っているみたいじゃないですか。私はあくまでここに赴任してきたことになっているんだから、放棄しちゃダメでしょう」
「あなたはもう聖女じゃないのよ!」
レティシアに詰め寄られ、エヴリーヌは左の甲にある焼き印を覆う。
だがそれでもエヴリーヌは微笑んでみせる。
ぎゅっと歪ませながら、レティシアは血を吐くような声で言いつのった。
「怒ってよ、なじってよ。浄化の力は誰が使ったかわからないってだけで、ずっとわたくしはあなたの功績を奪ってきたのよ。なのに大聖教の奴らはあなたの口封じをしようとした。あなたは怒るべきなのよ……っ!」
「やっぱり、レティが手を回したんですね」
エヴリーヌはレティシアが華々しく顔となっている間はお役目ごめんにならないと考えていたのだが、どうやらそれ以上にエヴリーヌの力は強かったらしい。レティシアの実力が怪しまれるようになった結果、別の実績担当を付けることにしたのだろう。
本来ならば、事故死か不治の病を装って殺される所を、それを察知したレティシアが、ひそかに手を回して穢れ森に送り込んだのが今回の顛末なのだ。
穢れ森では浄化の力を使える聖人聖女も生き残れない。遺体が見つからなかったとしてもおかしくはない。しかし、エヴリーヌならば、放り出された時にあった食料があれば、浄化の力を使いながら穢れ森を抜けて隣国へ逃げられる。
指摘すると、レティシアは唇を戦慄かせたが、ぐっと眉を寄せて傲慢に語る。
「何を言っているの。あなたなんかとっとと穢れ森に呑み込まれて骨も残らず死んでしまえば良い」
「うんうんじゃあ勝手に話しますね。行きませんよ。だって今に満足してますから」
「こんな目に遭わされているのに!?」
レティシアが指し示す掘っ立て小屋の質素な……いいや牢獄のような部屋を振り返ったあと、エヴリーヌはもう一度レティシアを振り返った。
「まあ住めば都と言いますからね」
今度こそ頬をはたかれた。
*
レティシアが一歩も部屋に入らないまま帰った夕暮れ、セルジュが現れた。
さすがに少々警戒しながら扉を開くと、いつもきっちりと結わえられているはずの黒髪が乱れている。
「聖女レティシアが来たと聞きました」
「耳が早いですね。来ましたよ。相変わらずどうして表では隠せているのかなあっていう勝ち気ぶりでした」
お茶を出す間もなく、セルジュの視線が頬に注がれる。
「叩かれたのですか」
「大丈夫。痛がるけが人が暴れる手が当たることはよくありますから、慣れてます。さあてセルジュさんこんな時間になったら帰るの大変でしょう。ご飯食べていってください。最近はパンが焼けるようになったから、腹持ちも良いですよ。椅子に座って待っていてくださいね」
明るく声を張りながら、エヴリーヌは台所へと向かおうとする。けれど、セルジュに手首を取られた。
彼から触れてくることはない。だから明確に腕を掴まれたことに驚いて止まる。
「痛いですか」
「頬ですか? もう全然……」
けれどなぞられたのは、掴まれた左手の甲……そこに刻まれた罪人の証しである焼き印だ。
何度も見る機会はあっただろう。だがセルジュはまるで見えなかったように無視して触れず、それを良いことにエヴリーヌも平然と振る舞っていた。
それを今更話題にされた。ざらりとヤスリをかけられたような気がした。
けれどすぐに呑み込んで、エヴリーヌはへらりと笑って見せる。
「まあ大したことありませんよ。今はもう動かせますしね。あなただって私が何度も料理をしている所を見てたでしょ。全然平気ですよって! それともそんなに心配ならあなたも手伝ってくださいます?」
おどけを交えつつ腕を取り戻そうとしても、意外にもセルジュの拘束は強固で、ぐっと握り込まれたままだ。ずっと対等のように振る舞っていたが、彼が男性であることを今さら感じさせ、ドキリとする。
エヴリーヌは困惑するしかなかったが、それでもからかいの色は消さなかった。
「わぁ、大胆! セルジュさん私なんかを捕まえてどうしちゃうんですか? はっここには男と女二人きり、なにも起きないわけがなく……! とかしちゃいます? 堅物なセルジュさんがそんなまさか品行方正を返上するようなまねするわけ……」
「嘘、でしょう」
エヴリーヌの舌が固まった。セルジュの紫がどこかいつもと違う気がした。
「あなたは、いつも、笑っている」
唐突さは、いつもの彼のはずだった。
けれど、こちらが話を振らずとも、セルジュは珍しく饒舌に言葉を続けた。
「あなたの扱いは調べれば調べるほど粗雑で不当なものでした。聖女を広告塔にしていた大聖教の実情も目に余るものだった。にもかかわらず、私が知るあなたは、真摯に人を救っていた」
「そりゃあ。仕事だったし、現地ではいい人ばっかりでしたもん。レティは可愛いし広告塔としてめちゃくちゃしんどそうだったので、私はまだましな方かなあと思いますし」
「あなたの痛みはあなたのものです」
へらりと笑いかけたのに、セルジュの言葉が許さない。
「あなたが、言った、言葉です」
言った。まさにセルジュが誹謗中傷されていたときに、襟首をひっつかんで怒鳴りつけた。
セルジュは寡黙で、生真面目だ。合理を優先し軋轢が多かった。だから彼の意図がわからない人間には、冷血漢のように思われて、ガス抜き代わりの愚痴は日常茶飯事だったのだ。
その行きすぎた言葉の数々をセルジュは黙って聞き流していたのを、エヴリーヌがやめさせたのだ。
セルジュのおかげでここまでやってこられている人間たちが、ただ中傷するだけなのが許せなかった。しかも合理を優先するセルジュが彼らを切り捨てない理由が「部下達には養うべき家族がいるから」だったのにも気づかない者達に、セルジュを消費して欲しくなかった。
エヴリーヌの私怨も少なからず入っていたけれど、自分にとっては些細なことだ。
セルジュにとっては女に胸ぐらを掴まれて怒鳴りつけられたという屈辱的な記憶だっただろうに、持ち出すとは思わなかった。
「あなたは、感情を抑えない。罪人と呼ばれ、焼き印を付けられ、放り出されて、何も感じないわけがない」
端的に、言葉を繋げられる。紫の瞳から逃げられない。
「痛いですか」
セルジュの低い声が耳朶を打つ。
「痛かったに決まっているじゃない!」
今度こそエヴリーヌはセルジュの手を振りはらって叫んだ。
鮮明に覚えている痛みが蘇るような気がして、左手をぎゅと握りしめて堪えた。
体を無理矢理押さえつけられ、腕を伸ばされた先に押しつけられた焼きごては熱さよりも痛みをもたらした。
その時の絶望は思い出したくもない。
お前はもういらないと唾棄されて、今までにこにこと笑いかけてくれた人々から罵られて王都を後にしたのだ。
仕方がない、しょうがないと何度も言い聞かせても次々に湧き上がるのは理不尽さに対する怒りだ。
「苦しくて、怖くて、どうして私だけって思ったわよ! 古戦場を浄化したのも私。ファヴニールの恨みを収めたのも私。戦地で病人やけが人を癒やしたのも私! けど起こした奇跡は、全部大聖教が誰がやったかを決めるのよ!? じゃあここにいる私はなんなの!? みんなのためだって言われ続けて多くの人を助けたのに、私に与えられたのは焼き印だけ! どうして私は助けてくれないの!?」
「……エヴ」
名を呼ばれて、穢れのように淀んで凝った感情を思いだし、エヴリーヌは引きつった笑みを零した。
「逃げなかったのはね。だから、もういいやって思ったからよ。どこへ行く気力もなかったから、ここにいただけ。だってみんな私のことなんて知らないんだもの」
「私が知っています。聖女エヴリーヌ」
生真面目で寡黙な美しい顔が、今はとても憎らしい。
静かな絶望が再び押し寄せてくる。
「あなたが、認めてくれてももう、だめなのよ」
表面上は平穏でも、今の自分たちの立場には明確な溝がある。
エヴリーヌは追放された罪人で、彼は国で尊ばれ、尊敬される宮廷魔法使いだ。
本来なら、ここに来るはずもない人間で、そもそもが自分に対してほとんど興味を持っていなかったはずのセルジュがどうして訪ねてくるのかわからない。
でも、なぜか、今は会いに来てくれる。
緩慢に生を手放そうとしていたエヴリーヌが、ここで生きていたのは、彼が訪ねてきたからだ。
ここにいれば、セルジュに会えるかもしれない。毎日逃げ出そうとして、諦める。
隣国に逃げれば、もう二度とこの国には戻れない。そうすれば、セルジュには会えなくなる。
けれど、ここにいても、罪人である自分はセルジュの汚点であり続ける。
暴き立てて欲しくなかった。彼の前では朗らかで脳天気でちょっと気に障ってもほぐしてやれる人物でいたかった。
一筋だけ、涙をこぼしたエヴリーヌは、粗末なスカートをつまみ聖女が教え込まれる、会釈をする。
「セルジュ・ラ・ソルセルリー。今までの厚意に感謝を申しあげます。ですがあなたは高貴なお方です。罪人である私への面会は控えたほうがよろしいでしょう」
あえて慇懃な言葉で線を引く。
セルジュの思惑など知らない。だが、この男は察しは良いし、驚くほど悪意というものを他者に向けない。
だからきっとこの拒絶を理解して、引き下がってくれるはずだ。
あとは、この小屋を引き払い、死に場所を見つけに行こう。
そう心に決めたエヴリーヌの眼前に、紫のローブがあった。
え、と思った途端、エヴリーヌの体はそのまま包まれる。
セルジュに抱きしめられたのだ、と気づくまでに優に三拍はかかった。
「嫌です」
「……は」
「嫌だ、と言いました」
今までで一番よくわからない言葉を告げられた気がした。
もがこうとした動きすら止めて、エヴリーヌは上を見上げると、このような蛮行をしているとは思えないほど、表情の変わらないセルジュが見下ろしている。
しかし、その紫の瞳には何か知らないものがある気がした。
こんな人を知らない。
動揺のせいで、セルジュの顔が近づいてくるのも避けられなかった。
唇が合わさり、エヴリーヌは微かに震える。
彼の唇は意外と柔らかく、熱かった。
だが、直後に視界で小さな魔法陣が展開したとたん、意識がぼんやりするのを感じる。
なにか魔法を使われたのだと理解する。
「せる、じゅ」
「申し訳ありません。……責任は取ります」
一体なんのか。という問いは形にならず、エヴリーヌはセルジュの腕の中で意識を失った。
*
エヴリーヌが目覚めると、ベッドの上だった。ばっと身を起こして室内を見渡したが、どこにも紫のローブとまっすぐな黒髪は見えない。
膨らんだ期待が、あっという間にしぼむ。
「……ばかみたい」
唇には嫌になるほど、感触が残っている。きっとあれは自分の意識をそらすための“合理的”な手段だったのだろう。考えた途端悔しくなってごしごしと手の甲で拭い、立ち上がった。
もうこの家に居るつもりはない。
旅に出る準備をしなければと、エヴリーヌが考えながら玄関扉を開けると、そこには昨夜と変わらないセルジュがいた。
ぎょっとして立ち尽くすエヴリーヌを、セルジュは上から下まで観察したあと、口を開く。
「おはようございます。眠りの魔法を始め、いくつかの法式を使いましたが、体調に変化はありませんか」
「……ッなんでここに居るの!?」
「帰宅すれば、あなたが逃亡すると考えました。ですが未婚の女性の家に独身の男性が居るのは相応しくありませんので、外で」
「まさか一晩中玄関の前にいたって言うの、あんなことしといて!?」
信じられない思いでエヴリーヌが叫ぶが、セルジュは生真面目な態度を崩さない。
「体調に問題はない、と判断します。エヴ、時間がありませんのでついてきてください」
「どこによっ、私はもう……きゃあ!?」
抗議しようとしたエヴリーヌだったが、セルジュに抱き上げられた途端、虚空に体が浮いた。
彼が持っていた杖に乗って空中を移動しているのだ。
空に浮かぶという慣れない体験にエヴリーヌは反射的にセルジュにしがみつく。
こんなに話を聞かないセルジュははじめてだ。穢れ森で会うようになってから、彼の知らない所ばかりを知る。
しかし慣れない体験と動揺は、すぐに森の端に見えた集団を見つけたことで変化する。
集団はこのような辺境には珍しいほど仰々しい身なりをしていた。防具を身につけた騎士や兵士らしい一団の他に、魔法使いもいる。
その集団の中心では聖女を表す旗が掲げられており、その下に聖女がいることを知らせた。
息を呑むエヴリーヌを抱えたセルジュは、更に魔法陣を虚空に描く。
すると魔法陣の中に映像が現れ、一団の中にいる人間達を映し出した。
そこに映ったのは聖女の姿をしたレティシアと大聖教の大司祭、そしてこのクレール国の王子だった。
思わぬ大物の一団にエヴリーヌは困惑するが、大司教の話し声が聞こえてきた。
『まさか、聖女レティシアの御技をこの目で見てみたいと殿下自らいらしてくださるとは……ですがなぜよりにもよって穢れ森なのですか』
『少し興味深いことをセルジュから聞いてな。己の目で確かめて見たくなったのだよ』
『と、いうと?』
『魔法は個人によって差があり、測定器で魔力を使えば一目瞭然だというが、聖女達の御技は区別がつかないのだという。それは本当なのだろうか、とね』
『なるほどそれは興味深い! ですが聖女、聖人の御技は神に与えられたもうたもの。私どもでも見分けがつかないものです。そのような常識を確かめてみようとは、殿下も酔狂でございますな』
おかしげに笑う大司教に対し、王子はもっともらしく頷いた。
『ああそのとおりだ、有史以来ずっとそう言われていた。だがなあ、我が友セルジュは見分ける方法があると語ってはばからないのだよ。というわけで、こんなものを託された』
王子が従者を呼び寄せて持ってこさせたのは、美しい台座に設えられた水晶だった。
『浄化された魔水晶を加工したものだそうだ。近くで使われた浄化の力に反応して、水晶が色づくらしい。俺も実際に見た。わずかな変化だったが確かに使う者によってなんとなく、変わるぞ』
「全く違いますよ」
エヴリーヌを抱いたままのセルジュが断言する。
エヴリーヌの視線に気づくと、訥々と続けた。
「私は、あなたが浄化した亡骸であれば、必ずわかります。採取した魔水晶の質が違う。穏やかで素直で、加工のしやすさが段違いです。だから、聖女の力にも個性がある」
『……まさか』
映像の向こうでも、大司教の顔色が変わる。そのようなものが開発されているとは思いもよらなかったのだろう。これで測定されれば、今までしていた聖女の功績作りのからくりがばれてしまうかも知れないのだ。
だがしかし、王子はそこには触れずにいっそ朗らかに語った。
『まあ、これを試してみるのはついででな。そういえば俺は千年に一度の逸材と誉れ高い聖女レティシアの御技を寡聞にもこの目で拝見したことがないのも事実だ。この際長年の疑念と不義理を解消しようとおもったのだよ。もちろん無理を聞いてくれた大司教殿には後々礼をしよう』
『私どもは神の御心のままに働いているだけのこと。ですが聖女レティシアとて、この穢れ森すべてを浄化するなど……そもそも現在穢れ森の担当は、あのエヴリーヌで……』
『いいえ』
司教と王子の会話に割り込んだのは、今まで人形のように佇んでいたレティシアだ。
凪いだ瞳をした彼女は、聖女として作り上げられたゆったりとした言葉遣いで続ける。
『聖女として、願われたのです。穢れ森を放置していたことこそ、教会としての恥でございましょう。わたくしの力の及ぶ限り勤めをはたします』
エヴリーヌは一瞬、大司教の表情にいらだちが浮かぶのを見逃さなかった。しかしすぐに柔和な色に取って変わる。
『聖女レティシアはまさに聖女の鑑ですな。ではその……計測器ですかなそれは……』
そのあたりで映像が切られる。
エヴリーヌは動揺のあまりセルジュを見ると、彼は静かに問い掛けてきた。
「どう、されますか」
「どうって……どうしろって言うのよ、私にはあなたがどうしようとしているのかがわからないわ」
震える声を絞り出すと、セルジュは少し考えるように沈黙する。
「証明をしたいと思いました」
「証明って、何を? 力の区別のしかた?」
「あなたの功績を」
ぐっと、エヴリーヌを抱く手に力が込められるのを感じた。
「あなたが罪人として穢れ森に赴任したと聞いたとき、先ず感じたのは怒りでした」
「たしかに、私のした仕事を知っていれば、噂の中身が事実無根だと思いますもんね。不正が嫌いなあなたなら、許せないでしょう」
「あなたが、不当に扱われていたのが許せなかったのです」
そらしていた視線が、強引に合わせられる。凪いでいるとばかり考えていた紫の瞳に強い熱が宿っていることに、今更気づいた。
「私は不合理なことは嫌いだ。だから合理的に動かないあなたがはじめは邪魔でしかなかった。強引に私を乱して、翻弄してくる。いらだちしかありませんでした」
「はは、それは、すみませんでした……お互い様ですからね」
「ですが不合理さを望む自分も現れたのです。あなたから目が離せず、仕事先で遭遇することを夢想するようになった。あなたが話しかけてくる第一声を想像して待つようになった――あなたのせいだ」
なじる言葉のはずなのに、エヴリーヌの胸が嫌なくらい高鳴った。
いつの間にか地上に降りてきたセルジュだったが、エヴリーヌを離そうとしない。
「私は、あなたと当たり前に会えるものと考えていた。私が魔法使いでいる限り、聖女のあなたは現れる。だが、確かなものなどなにもなかった」
「だから、私をもう一度聖女に戻すために、研究をして、浄化の力の測定器まで作って、私に会いに来ていたんですか」
「少し違います」
否定が返ってくると思わず、エヴリーヌは困惑する。
饒舌なセルジュだったが、けれど、はじめて躊躇いを含んだ。
「あなたの名誉は取り戻すつもりでした。だが私は、あなたが何を望むかまでは予測できなかった」
「国外に出るか、聖女に戻るか、という?」
エヴリーヌに、セルジュはこくりと頷く。
「あなたは、以前教会にいたときのように畑を耕し、平凡にゆったりと暮らしたいと言っていた。ならば、聖女である必要はない。あなたのことを誰も知らない国外に逃亡するのも合理的だった」
その答えに、エヴリーヌははっきりと落胆する自分を感じた。
「それで、私を逃がそうって、考えたんです? ひどいですね、ここまでして放り出すなんて」
明らかな非難混じりの言葉になったが、セルジュは微かに訝しげにする。
「国外逃亡を望むなら、荷物を取りに戻ります。半日待っていてください」
暗澹たる気持ちに浸っていたエヴリーヌだが、なんだか妙なことを聞いた気がした。
「……聞き間違いですかね。まるで一緒についてくるという風に聞こえたんですが」
「その通りです」
「ばっ……なに言ってんです!? 宮廷魔法使いさまがどうして私についてくるんですか! あなたは何にも悪いことをしていないのに国外逃亡って、あなたが言う不合理そのものですよ!? 悪いものでも食べたんですか!?」
「悪くなったものは食べていませんが、あなたが居ない悪夢なら今も見ています」
そんな気の利いた返しをされるとは思わず、エヴリーヌが絶句する。セルジュは動揺も見せず、金色の髪を撫でてくる。
まるで、ここに居ることを確かめるようだった。
「合理では、あなたに近づけない。ならばあなたが望む行動を一つ一つ確かめてみるしかなかった。途中で正気に戻るかとも考えましたが、全く嫌にならなかったんです」
生真面目な顔は相変わらず、こんな時にもにこりとも笑わない。
なのに、言葉のすべてが、エヴリーヌの体温を上昇させる。
「一度目は、間に合わなかった。けれど二度目は逃しません。私にとっては、あなたを失うことのほうが不合理です」
「……それ、なんて言うか知ってます?」
震える声で、エヴリーヌがそれでも強がって問い掛けると、ほんの少し、かすかにだけセルジュの目元が緩んだ。
笑んでいるのだと、知るには充分なほど。
「私はあなたの愛を欲しています」
エヴリーヌは、たまらず彼の首に己の腕を絡めて抱きついた。
大きく喘ぐように息をして、この胸から溢れてしまいそうな歓喜の奔流を抑えようとする。
だが、セルジュに抱きしめ返されたことで、もう無理だった。
「全部あげますからもらってくださいこんちくしょう……っ!」
「……このような状況では、雰囲気というものを女性は大事にするのではないのですか」
「私にそういうの無理です。そもそもセルジュさんから愛の告白なんてものを聴けた時点であきらめてください。あなたが来るたびに、ずっと、ずっと律儀な人なんだから、もしかして口説きに来てる? って勘違いしちゃだめだと言い聞かせ続けてきたんですよ」
「意図は伝わっていたのですね」
「やっぱり口説かれていたんですか私!」
ばっと顔を上げて顔を見ると、セルジュは少しだけ不機嫌そうにしていた。
「ここまで、私が時間を使うのはあなただけです」
「そうでしたねあなたはそういう人だって一番知っているのは私でした」
自分の心も曇っていたらしい。はにかんだエヴリーヌだったが、ほんのりと目元を緩めていたセルジュがまたいつもの色に戻ったことに気づいた。
「どちらにしますか。聖女レティシアは、この場で自分の実力を明らかにすると語っていました。あなたがどちらを選ぼうが構わない。と」
「レティも覚悟を決めているんですね」
エヴリーヌは歓喜に染まった己の心に問い掛けてみる。
自分は何を望むのか。復讐か、それとも平穏か。
「セルジュさんは、私が何を選ぼうと」
「ついていきます」
問いにかぶせるように答えられて、エヴリーヌはまた笑う。ああ、ほんとうに自分をつなぎ止めていたのは、この人だったのだと自覚した。
体が軽い。心が軽い。
けれど、周囲に立ちこめるのは、穢れを宿した森である。
何百年とよどみを湛えて、晴れることのない絶望が宿る場所。
何をしたいか、決めるのはすぐだった。
セルジュに頼んで、この森の最深部に連れてきて貰う。
正気を保つことすら容易ではないその場所に、さすがのセルジュも顔をしかめていた。
エヴリーヌもさすがにうわぁとなったが、すとんと地面に降りた。
セルジュを守る、浄化の力が途絶えないようにだけ気を付けつつ、一歩二歩と離れた後、エヴリーヌは彼を振り返った。
「ねえ、セルジュさん。私、いままでレティシアが浄化した、と語ってもおかしくないように調整していたんです。だから全力って出したことなかったんですよ」
さすがに驚いた様子で目を見張るセルジュに、エヴリーヌは、にっと笑った。
「だからね。一度だけ、自分の限界に挑戦するの、見ててください」
自分の力が、他の聖女とは段違いだと薄々気づいていた。見せたときにどのような反応が返ってくるか恐ろしさは常にあった。けれど他ならぬ彼なら、良いと思えた。
エヴリーヌは祈りの形に指を組む。
体内に揺蕩う力に呼びかける。いつもなら上澄みに小さくささやく程度だが、今回は、その奥の奥にまで届くように大きな声で。
ぐん、と吹き出す勢いのまま、エヴリーヌは両手を広げた。
全身からあふれ出したのは光の奔流だ。金の中に鮮やかな豊穣の緑が混じるそれは、濁流のように四方へ広がり、穢れ森のよどみを押しながしていく。
きぃん、と浄化の力が穢れをはらう時に生じる音叉のような音が、そこかしこで鳴り響き、まるで自然の音階のように奏でられた。
力が隅々にまで行き渡るよう、くるりくるりと回るたびに、エヴリーヌの金髪が光とともに踊る。
その中で黒い髪をはためくのも構わず、セルジュがエヴリーヌを見つめているのが視界に入った。
彼の表情が珍しく驚きと感動に染まっているのを見つけて、エヴリーヌは笑み崩れてしまう。
きっと後にも先にも、彼がこんなに驚く顔を見たのはエヴリーヌだけだろう。
そう思うと、なんだかとっても得した気分になったのだ。
その日、穢れ森の中心部から、突如光の柱が立ち上がり、あふれ出した金と緑の奔流が森全体を覆った。光が半日以上続いたあと、穢れ森には一切の穢れが認められず、ただの森になっていたという。
試験的に持ち込まれていた御技の測定器に記録されたのは、「金と緑」。聖女レティシアの「金と紅」ではない御技を行った聖女の名は、エヴリーヌ・アンジェ。
一切の浄化を怠った怠惰の罪によって王都を追われ、穢れ森に赴任していたはずの彼女は、忽然と消えていた。
その行方は誰も知らない。
*
二ヶ月後、エヴリーヌは今もクレール国内にいた。
大きな魔物の亡骸を前に、安らかであれと祈る。そうすれば亡骸に忍び寄ろうとしていた穢れは浄化された。
「はい、選手交代」
振り返る必要もなく、解体を始めるのは黒髪をまとめ上げた男、セルジュだった。
出会った頃よりもずっとなめらかに解体を終えた手にあるのは、透明な魔水晶である。
これが自分の力の影響を帯びているだなんて、今でも信じられなかった。
けれど、セルジュの言うとおり、測定器は反応するのだから、不思議だ。
セルジュが店で手続きをしている間、外で待っていたエヴリーヌは魔水晶をしげしげと眺めてみたが、違いなんてまったくわからない。
戻って来た彼にとうとう取り返されてしまった。
「あっセルジュさんひどい」
「とくに珍しいものではないでしょう」
「珍しくはないですけど、セルジュさんが取った石だから特別なんですぅ」
エヴリーヌが唇を尖らせると、頭を軽くはたかれた。
全く痛くはないし、その気軽な仕草が嬉しくて思わずやに下がってしまう。
「あなたが育った教会はあと街を一つ経由した先ですね」
「そうですよ。噂が届くのが遅いから、もしかしたら私が悪逆聖女って言われていることと、穢れ森の浄化をした聖女って呼ばれているの両方届いちゃってるかも。おじーちゃんたち心臓が止まっちゃわないといいけど」
「その前に、私たちがたどり着けば良い」
セルジュの言葉に、エヴリーヌは「ですね」と同意して笑った。
だが、セルジュの表情は変わらないが、なんとなく浮かない様子である。
ずっと二人でいるのだ。それくらいの機微はなんとなく悟れるようになっていた。
「どうしたんですー? 私は話してくれないとわからないたちなので言葉で教えてくださいよ?」
「……逃げずに、とどまって良かったのですか」
「クレール国にいて、ですか? もちろん良いに決まってるじゃないですか。だってセルジュさんのおかげで私は『穢れ森を祓った稀代の聖女』になったんですよ! それなら逃げる必要なんて全然ありませんもん」
悪逆聖女の噂こそまだ残っているが、きっと時間が経てば薄れていくだろう。何より今は、ずっと悪習として続けられていた聖女のからくりが暴かれ、大聖教はエヴリーヌを追うどころではない。
「レティは、図太く悲劇の聖女を演じて民意を味方に付けてますし、むしろ私がこうして自由にほっつき歩いていて良いのかって思うくらいですし。まあ、それはおいといて、クレールにいた方が、セルジュさんといるには都合が良いでしょ」
にへへ、とはにかんで見せると、不意に彼の顔が近づいてくる。
ここ最近で慣れてしまったエヴリーヌは、反射的に目を閉じて受け入れた。
けれど、ほんの少し離れたあと、甘くとがめるように言うのは忘れない。
「セルジュさん、恥ずかしくなったり照れたりしたら、物理的に私の口を塞ぐの、ちょっとずるくありません?」
「……もう少ししますか」
相手もさるもので、そのまま後頭部に手を回されかけたため、エヴリーヌは白旗を揚げた。
「わかりましたちょっと黙ります! ってセルッ」
しかしすぐに口を塞がれ、息も絶え絶えになる頃にようやく解放される。
セルジュが言葉よりも態度で雄弁に語ると思い知らされる日々だったが、今回は極め付けた。
さすがにエヴリーヌは恨めしく見上げるが、セルジュはいつもと変わらない生真面目な表情でふと言った。
「あなたのおじいさま方にお会いしたら、正式に申し込みます」
「ん? 何をです?」
「婚姻を。私に両親はいませんから省略しますが、あなたは手順を踏めるでしょう」
エヴリーヌはすべてが腑に落ちて、目をまん丸にしてセルジュを見返した。
「あっえっもしかして今までベッド別なのそれが理由です!?」
「……あなたのあけすけさは多少は改めた方が良い」
渋面を浮かべるセルジュがかなり怒っているように思えた。
「うわごめんなさい。嫌いにならないとは思いますけどちょっと驚き過ぎてこらえきれなくて」
言葉は戻ってこないが、それでも精一杯謝罪をすると、セルジュの目元が緩んでいることに気がついた。
「冗談です」
「セルジュさんが、冗談!? あっまってまってビックリしましたけど嬉しいですから!」
こんなに気軽に冗談を言えるようになるとは思わなかった。顔を上げて、自分の仕事だと語れるようになるとは思わなかった。
なにより、好きな人の側にいられるとは、思わなかった。
胸いっぱいに息を吸う。
そっと、片手に絡んできた大きな手を握り返したエヴリーヌは、ぐんっと引っ張った。
セルジュは微かに驚いたようだが、黒髪の尻尾を揺らしてついてきてくれる。
さあ、おじいちゃんたちに、この人のことをどう話そう。
エヴリーヌはわくわくとした昂揚のまま、その案を愛しい人に向けて語り出した。
〈おしまい〉