憧れの彼は、私のことなんか眼中にないようです
――私には、憧れの人が居る。
視線の先……見目麗しいオズワール伯爵令息が、友人と談笑しながら遠ざかっていく。
その背中を、私はテーブルに頬杖をついてぼぅっと眺めていた。
「ダフネ、またオズワール様のことを見てるの?」
「……っち、違うわ」
友人であるエイミーに指摘され、私は慌てて首を左右に振った。
この貴族学院に、オズワールに憧れを抱く女生徒は多い。
家柄に優れ、容姿端麗な貴公子。眩しい金髪に、青い瞳のオズワール。
しかし彼には溺愛、といって過言でないほど可愛がっている、幼少の頃からの婚約者が居て……だから令嬢たちはハンカチを噛み締めながらも、そんな彼を遠くから見つめることしか出来ないのだ。
そして私――ダフネも、その星の数ほどの女生徒のひとりだと思われている。
「ダフネ、そう落ち込んだ顔するなよ」
「カイ……」
幼なじみであるカイにまでそんなことを言われ、どきりとする。
エイミーは物憂げに、頬に手を当ててみせた。美人な彼女には、そんな仕草もよく似合う。
「オズワール様に憧れすぎて、ダフネが嫁き遅れないか心配よね……」
「分かる。オズワールを想ったままシワシワのばあちゃんになって、そのまま死ぬかもしれないよな」
「ちょっと」
エイミーはともかく、カイの物言いは聞き捨てならない。
怒る私をカイは笑い飛ばし、エメラルドの瞳を和ませると、
「まぁ、いざとなったら俺がもらってやってもいいぜ」
「…………ハァ」
私は思わず深い溜め息を吐いた。
「あれ? 冗談だと思ってんのか? 一応本気だからな!」
「……早く用件を言って」
「悪い! 次の授業のノート貸してくれ!」
ようやく素直になったカイに、ノートを無言で差し出してやる。
「ありがとな!」
ぱぁっと顔を輝かせたカイがさっさと席に戻っていく。
堪えきれなかったのか、エイミーがくすりと笑みを漏らした。
「カイ様、面白いわね。ダフネのことを本当に気に入っているみたい」
「腐れ縁ってやつなんだけど……昔からあんな感じなの」
幼い頃の私は、今よりもうちょっとお転婆だった。
お裁縫よりも乗馬が好きで、ダンスの稽古よりも虫取りが好きで。
だから領地が隣り合っている家のカイを連れ回して、外でよく遊んでいた。
両親に「貴族令嬢として相応しい振る舞いを」とくどくど説教され続けて、現在はだいぶ落ち着いたのだが……。
「なんだか子どもみたいで、可愛らしい方よね」
それこそ、子どもを見守るような顔をしているエイミーを、じっと見上げる。
(エイミーはもう、婚約者が居るんだものね……)
しかも政略結婚ながら、相手の男性は人格者で、エイミーとも気が合うらしい。
彼女は自分からあまり話そうとはしないが、私がそれとなく話を振ると、週末にオペラの観劇に行ったことや、町で二人きりのお茶の時間を楽しんだことをはにかんで教えてくれるのだった。
彼の話をするときのエイミーは、とても幸せそうで。
――なんというか、すごく羨ましい。
というのを以前にも口にしたら、「大丈夫よ。ダフネにはカイ様が居るじゃない」と励まされたわけだが。
(嫁のもらい手がない前提の話ばかりをされるというのも、女としては屈辱的だと思うんだけど……)
しかし現状、私にはそんな浮いた話がないのも事実で。
……ふと思い出して、再び視線をやれば。
オズワールの背中はとっくの昔に見えなくなっていた。
◇◇◇
それから二年後のこと。
父の書斎に呼び出された私は、机の上に一枚の手紙を差し出された。
「お父様、これは?」
「オズワール伯爵令息から、夜会への招待状だ」
その名前を聞いた私は、驚きのあまり目を見開いてしまった。
「見せて!」
父の手から奪うようにして招待状を受け取ると、慌てて目を走らせる。
そこには、二週間後に伯爵家でパーティーを執り行うこと、招待客の多くは学院時代の同級生であるから気兼ねなく参加してほしいこと、ぜひ当日はお贈りしたドレスを身に纏ってほしいこと――などが記されている。
しかし最後の文の意味が分からず、私は首を傾げた。
「ドレスって?」
「お前の部屋に届けてある。あとで見なさい」
信じられず、呆然としてしまう。
婚約者の居る男性が、他の女性にドレスを贈って、しかもそれを着てパーティーに来てほしいだなんて、あり得ないことだと思う。
まさか――。
(……いえ、考え過ぎね)
私は首を横に振る。
おそらく、深い意味はないのだ。単純に、私の家がそう裕福でもないと思って気遣ってくれたのだろう。
そう思うことで落ち着きを取り戻していく。
「ダフネ。お前ももう二十だ。だから……父はこの話を、とても嬉しく思う」
父が何やら涙ぐんでいるが、私は答えなかった。それどころじゃなかったからだ。
招待状を両手で握りつぶしそうになりながら、瞳に闘志を燃やして呟く。
「…………私、行くわ」
「そうか! そう言ってくれると信じていたぞ!」
だって、これが最後のチャンスになるかもしれないのだ。
――それがまさか、こんなことになるなんて。
私だけではなく、きっとその場に居るすべての人々が、同じことを思っていただろう。
夜会の当日。
親友のエイミーと再会し、私は嬉しい気持ちでいっぱいだった。
卒業と共に結婚し、子どもが居るエイミーとは、あまり普段から会うことは出来ないのだ。
会えなかった時間を埋めるように、ふたりで色とりどりのカクテルを楽しみながら会話を弾ませる。
途中、カイが絡んできたりもしたが、その相手はもっぱらエイミーの夫が務めてくれた。
貴族の次男坊であるカイは、現在近衛騎士団に入団し、それなりの活躍を収めているらしい。そう、私は風の噂で聞いただけだったが。
久しぶりに会うカイは以前より日に焼け、精悍な顔つきをしていた。
主催のオズワールは、婚約者である痩せた貴族令嬢を連れて挨拶をした。
未婚・既婚を問わず――多くの女性たちが、そんなオズワールに視線を奪われ、うっとりと頬を染めている。
エイミーはといえば、そんなオズワールをただ微笑んで眺めているだけで、最愛の旦那様とがっちりと腕を組んでいた。さすがです。
そうして、フルオーケストラの演奏が揃ったところで、いよいよダンスの時間が始まる。
周りの男女が次々と手と手を取り合うのを見て、私はちょっと焦りだした。
相手が見つからず壁の花になる――というのは避けたいのだが。
(えっと、私は……)
そうしてきょろきょろしていると。
華やかな場を切り裂くようにして、突如としてその騒ぎは起こった。
「そういうわけで、悪いけれど――僕は君との婚約を破棄させてもらうよ」
毅然と告げるオズワールの声が、広いホール内に響き渡る。
騒ぎに気がつき演奏が止み、人の話す声や衣擦れの音さえもなくなり……息の詰まるような静寂が訪れる。
その言葉の意味は、うまく頭に入ってこなくて……それでも、何かとんでもないことが起こっているのを感じて、私は声のするほうに視線をやった。
人垣に囲まれるようにして立っているオズワール。
その目の前には、彼に深く愛されていたはずの貴族令嬢の姿があった。
「ッどうしてですか? オズワール様!」
「どうしてって……当然だろう? 君は僕に隠れて、別の男と会っていたのだから」
「彼はただの知人で……」
「言い訳は聞きたくないよ。君は僕の気持ちを裏切ったんだ。それだけが全てだろう?」
どうやらオズワールには、彼女の言い分を聞くつもりもないらしい。
お相手の婚約者――否、オズワールの元婚約者である彼女はオズワールを睨みつけ、肩を怒らせてホールを出て行く。
張り詰めたような沈黙の中。
オズワールはホール全体を見回すように首を動かすと、優雅に笑ってみせた。
「お集まりの皆々様、お騒がせいたしました。しかし今日は皆様に発表したい喜ばしいニュースがあるのです。それは――」
彼が一箇所に視線を止める。
明らかに。そう、オズワールは私のことを見ていた。
愛おしそうに細められた青の瞳。
その視線の先を次々と招待客たちが辿る。
それに気がついた私は――思わず、ホールを飛び出していた。
「ダフネ!?」
誰かが後ろから私を呼ぶが、立ち止まれない。
月明かりだけが射す暗い廊下に出て、私はドレスの裾を上げて尚も走った。
だがそれから間もなく、腕を掴まれる。
「っ……!」
「ダフネ嬢!」
後ろを振り返れば、必死の形相をしたオズワールが立っていて――。
なんとさらに後ろには、柱の影にこっそりと隠れたカイとエイミーの姿もあった。
「……!!」
いろんな意味で動揺する私に、切実とオズワールが言う。
「ダフネ嬢、君のことは以前から知っていたんだ」
「え……?」
思いも寄らない言葉に、目を丸くする。
私は一度も、オズワールと話したことはなかった。それなのに、と思う。
照れくさそうにオズワールは笑い、頬を掻く。
「僕に話しかけてくる女性は多いんだけれど……その中で君はいつも、瞳を潤ませて僕のことを遠くから見つめていただろう? とても奥ゆかしい人だと、ずっと気になっていたんだ」
「…………」
「それと訊きたいんだが、どうして今日はプレゼントしたドレスは着ていないのかな? 僕とお揃いの色合いにしたんだよ。遠目にもすぐに君を見つけられると思ってさ。だけど……」
ブルーネイビーのタキシードを視線で示すオズワール。
彼の瞳と同じ色だ。侍女たちがプレゼントの箱を開けたときから、私だってその意味に当然気がついていた。
私は彼から視線を逸らす。
「……オズワール様には、だって、婚約者様がいらっしゃるから」
「君も見ていただろう? もう彼女とは、終わったんだ」
肩を竦めてみせるオズワール。
それから彼は私を安心させるように優しく微笑んだ。
「突然のことで、驚いたよね。一度、庭園に出て花でも眺めようか」
オズワールの腕がそっと、私の背中に添えられる。
振り返れば――「頑張れ」の形にぱくぱく口を動かし、ウィンクしているカイ。
どこか心配そうに、こちらを見つめているエイミー。
そんな二人の姿があって。
……私はカイに向かって、にっこりと微笑み返した。
そして口を開く。
だってもう、我慢できなかったから。
「――何が『頑張れ』よ、黙って見送るってどういうことっ!?」
「……っえ?」
呆気に取られた様子のカイ。
そんなとぼけた態度も許せなくて――私は拳を震わせて、さらに怒鳴りつけた。
「――なんでいつまでも、プロポーズしてこないのよっ!! バカっ! アホッ! おたんちんっ!!」
「は?……え? ダフネ、それどういう意味……」
「どういう意味も何も言葉のままよ! あなた、いったいいつになったら私と結婚するつもりなの!?」
あまりの剣幕に驚いたのか、オズワールが思わずといった調子で手を離す。
だがそんなのどうでもいい。というか先ほどから、背中がぞわぞわして落ち着かなかったのだ。
「気がついたらもう二十よ! 友達はみーんな結婚しちゃったわ! エイミーは可愛い赤ちゃんまで生まれてる! それなのに――」
……ああ、それに比べて私と来たら。
幼い初恋を、今も大事に胸に抱えたままでいる。
両親にお説教されて泣いていると、部屋の窓を叩いて励ましてくれた。
家を抜け出して遊んで、私が転んで怪我をしたときはおんぶをしてくれた。
いつも笑顔が優しくて、明るくて――そんな、たったひとりの憧れの人。
小さい頃から大好きな彼が、何度も何度も『嫁にもらってやる』というのを信じて、その日をワクワクと心待ちにしていた。
……でも、いつまで待っていても、カイはプロポーズしてくれなかった。
それどころか、学院を卒業すると同時に領地を離れ、王都で騎士見習いになって。
私は何も知らなかった。
この二年間、手紙さえもなく、ただ噂で彼の名前をたまに耳にしては、切なくてひとりで泣いていた。
「そ、それとももう、他に意中の相手が居るの……? 『もらってやる』って何度も言ってたのは、本当に単なる冗談……?」
堪えきれずに私が泣き出すと、「っちょ、待て待て待て!」とカイが駆け寄ってくる。
間近から、エメラルドの瞳が私のことを見つめる。
こんなに近くで顔を合わせるのも、本当に久しぶりなのだ。
(……私の今日のドレスと、同じ色だけど……カイの瞳は、ずっときれい)
心配そうで、不安そうで、それとは違う緊張があって――。
カイが、私の両肩をそっと掴む。ちっともいやではないのに、手のひらの大きさに少しだけ身体が震えた。
「お、お前、だってオズワールのことが好きだったんじゃあ……、」
ぐす、と鼻を啜って、私は震える声で答えた。
「一言も言ってないわ、そんなこと」
カイが記憶を辿るような顔をする。
「……確かに……言われてみれば、言ってない……かもしれないけど、じゃあなんであんなに毎日オズワールを眺めてたんだよ」
「だって、ひとりの女性を想う男性ってとても素敵じゃない。私もあんな風に想われたいなあって……」
「……そ、そうだったのか……」
オズワールが視界の端で項垂れている気がしたが、それはやっぱりどうでもいい。
そうだ。こんなことを大声で暴露してしまった以上、何もかもどうでも良かった。
だってもうすべてが終わりなのだ。
私は肩を落として告げた。
「……じゃあ私、帰るわね」
「えっ? なんで……」
「なんでって……あんな風にホールを飛び出しちゃったし、こうしてフラれちゃったし……家に帰って、釣書を見比べてくるわ」
(カイ以外の男性は、全部同じ顔に見えちゃうんだけど……)
父親にはもう、口を酸っぱくして結婚しろと言われ続けているのだ。
だから手を離してほしい、と思って見つめると、何故かカイは怒ったような顔をしている。
「……釣書ってなに」
「なにって、だから、結婚相手を探さないといけないから」
「ダフネ、俺のこと好きなんだろ」
「……!」
じわり、と瞳に涙が浮かぶ。
何も、傷口に塩を塗り込むような真似をしなくてもいいじゃないか。
「そ、そうよ。でもフラれちゃったから、だから――顔と名前しか知らないおじさんとだって結婚するわ。そうするしかないじゃない!」
「フってない」
「…………っえ?」
聞き間違い?
そう疑ったのを悟ったように、カイが大きな声で言った。
「っ俺も、ずっと前からダフネのことが好きだったよ!」
(……やっぱり聞き間違い!?)
今、あり得ないことが起こっている気がする。
愕然とする私に、カイはボソボソと付け加える。
「でもお前、どんどん可愛くなっていくし、学院でも高嶺の花扱いされてるし、オズワールのこと好きっぽいし……俺なんて勝ち目ねぇし……」
(高嶺の花……?)
それはエイミーでは? と首を捻って見上げると、カイの頬が赤く染まる。
初めて見る表情を前に、私の顔にもさっと赤みが差した。
大変だ。ドキドキしすぎて心臓が止まっちゃいそう。
でもお酒の力か、それとも彼の言葉に勇気をもらったおかげか――唇は躊躇いながらも動いてくれた。
「……ほ、本当に、私のこと好き?」
「……す、好きだ。ダフネが好きだ」
「本当? どのくらい? 私がカイのこと好きなのより、もっと?」
逃げようとする両手を掴んで、ぎゅううっと強く掴んで訴えると、ますますカイは赤くなっていって。
「もっ……もっと好きだよ! バカ!」
「~~~っ!」
(ひゃあああっ……!)
私は嬉しさのあまり、ほとんど蕩けかけたのだが……。
しかし今日は念願叶った日なのだ。これくらいで舞い上がるわけにはいかない。
コホン、ゴッホン、と咳払いしつつ、さらにカイに迫った。
「――も、もう一回言ってもらえる?」
「え? どこを?……バカ?」
「違う! 大好きとか、可愛いとか、いろいろ言っていたでしょう!」
「大好きとは言ってないけど……」
――そして、乱舞する花を幻視しながら。
ひとりの青年が頭の後ろを掻き、へこへこと頭を下げた。
「あの、ハハハ、僕はこれで……」
痴話喧嘩に巻き込まれた、と今さらに気がついたオズワールは、引き攣った笑みを浮かべてそそくさと立ち去ろうとするが。
そこで彼は柱の影に隠れたままの人物に目を留めた。
慈愛の笑みを浮かべたその女性に――オズワールは一瞬にして心を奪われる。
オズワールはすぐさま彼女の前に跪いた。
「なんて美しい……ああ、あなたの前では月の光さえ霞むでしょう。どうかお名前をお聞かせくだ」
「エイミーと申しますわ。私には愛する夫が居ますので、ごきげんよう」
エイミーはすぐさま踵を返した。
硬直しているらしいオズワールの後ろからは、今も、想いが通じ合ったばかりの恋人たちが騒がしく言い合う声が響いていて。
思わず、抑えきれない笑みが滲んでしまう。
「まったく、手間の掛かる子たちなんだから……」
そう呟いたエイミーは、ホールに小走りに戻っていく。
つい数分前まで一緒だったのに、夫に会いたくなって仕方がなかったのである。
少女漫画に出てくる「売れ残ったら、俺がもらってやってもいいぜ」の男友達キャラクターが好きなわたしです。快活なその人が、ヒーローより魅力的に映ることもままあったり……。
分かる!って同志の方、☆をぽちっと押していただけると大変嬉しいです!
現在は、悪役扱いされる女の子と男の子が出てくる、じれじれな恋の物語も書いております。
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