鷹の国、鷹の民 2
朝。皇子様はご不在だった。
「あれ?」
「おはようございます、ジュノ様」
ばったり出会った執事さんが恭しく頭を下げてきた。
あたしもお嬢様らしく腰を折る。
「おはようございます。…あの、ハーバルト様は?」
「ハーバルト様は朝早くより東の外れへお出かけになられましたよ」
「東の外れ、ですか」
「はい。我が国の東の外れは移民がスラムを作って住んでおります。
ハーバルト様は大変気をかけていらっしゃるようでして、時折お出かけになられているのですよ。
…宜しければ――観光と言えるほど物はありませんが――ジュノ様も城下の町をご覧になっては如何でしょうか」
主も昼過ぎには戻ると思いますので、何卒、ご了承くださいませ。と華麗に締めくくって、彼はまた優雅な動きで礼をしていった。
「客を置いてくかフツー…」
誰にも悟られないよう、穏やかな仮面でぼそりと毒を吐いてみる。
ハーバルトがいないと城の中を自由に出入りが出来ない。それではちょっとお仕事にならない。
どうしよう…。
「…外に出るか」
たまには気分転換も必要でしょ。
一度部屋に戻って動きやすいズボンとシャツに着替えて、小さめのバッグに文庫本と財布だけを突っ込んで、眠そうな門番に見送られて意気揚々と城を出た。
ガタガタの、辛うじて煉瓦で舗装された感じの道は幅が広くて緩やかに曲がりくねっている。
道に沿って古ぼけた茶色いレンガ作りの3階建ての家が並んで立っていて、集合住宅になっているらしい。
あたしは道を歩きながら、照り付ける眩しい太陽の光に目を細めた。
綺麗な町。
等間隔に並んだ窓に置かれた花や風に揺れる洗濯物が、遺跡みたいで威圧感のある建物に優しく息を吹き込んでいる。
まるで、持ち主を無くした銃器に苔が、花が咲くように。
雑談や子供のはしゃぐ声、働く男達の歌、いろんな音が溢れている。
独立したての先住民族達は漸く取り戻した自由を噛み締めて、のびのびと暮らしているようだ。
ああ、あくびが出るくらい平和。最近太陽をろくに浴びてなかったような気がして空を仰いだ。仲間みんなで太陽の下で昼寝してた、幼い頃のぬくもりが恋しくなる。
感傷を振り切るようにそのままブラブラと歩いて、喉の渇きを覚えて喫茶店に立ち寄った。日当たりのいいテラス席でコーヒーを頼んで文庫本を開いたら、おずおず、といった感じで女の子が尋ねてきた。
「お客様、日の光が気にならないのですか?」
「適度な光は美容には必要なのよ」
にっこり笑って答えたけど、はぁ、と曖昧な返事を残してコーヒーを運んできた女の子は下がっていった。
夏が近いらしく、今日は日差しが強い。
この国の女性は色素が薄い分、日差しを嫌うのかもしれない。
コーヒーを飲みなが文庫本を読み進めていき、物語が佳境を迎える頃。賑やかな集団が近くの席に座った。
仕立ての良さそうな紺の制服の集団は慣れた様子で各々好きなものを注文していく。
心なし、店員の視線も暖かい。
注文を取り終えた店員が下がると彼らは鞄からテキストを取り出した。
なおも賑やかに喋り続ける。
「フロッグ先生の宿題って多すぎるよねぇ」
「だよね。宿題だけで1日が終わっちゃう」
「なぁなぁレオ、この前の話どうなった?」
「どれ?」
「う…ウールちゃんの、話」
「あー。うん、また遊ぼって」
「やったっ」「なになにぃ?ジャンってウールちゃんが好きなのぉ?」
「ち、違うっ」
「ふぅーん?」
「ちーがーうーっ!!」
「ジャンくん、うるさい」
「……っ!?」
大変にぎやかな子供達だ。
会話を聞いてるだけで笑顔になってしまいそうになる。
ジャンと呼ばれてた少年は「俺?俺が悪いのっ!?」みたいな声が聞こえてきそうな表情で友達――レオと呼ばれた男の子――に無言で助けを求めている。
だけど残念なことにレオくんは相手をしてくれないよう。
ジャンくんは軽く涙目になりながらごそごそとテキストを引っ張りだし、宿題を始めた。
集団は男の子が二人、女の子が二人。
しっかりと制服を着込み、ピカピカの革靴を履いていても所詮は幼い子供。
小さい手に鉛筆を握りしめて問題を解く姿は微笑ましい。
久しぶりに癒された気がして、あたしは本を閉じて席を立った。物語としては面白かったけど、ずっと読んでいたから興味が失せてしまった。
凝り固まった首筋が痛い。
お勘定を済ませてテーブルの間をすり抜けて、子供達の横を通りすぎる。
子供は可愛いと思う。それも、元気であればあるほど。
あたしがこのくらいの時は何してたかな。
もう城に入っていたかしら。まだチェシャ猫だったかしら、と過去に思いを馳せながらさりげなくテキストを覗きこんで、絶句した。
「……――アンタ、こんなのも解けないの?」
「え…?」
「お姉さん、誰ですか?」
つい素が出てしまった。賢そうな女の子に睨まれる。
もう一人の、たぶんジャンって子をからかってた女の子のテキストには8割方解かれた方程式。残り2割は白紙だ。
あたしは方程式なんか城に入って半年の時点で、君達より三歳は若い頃に解かされてたぞ。
なんて言えるはずがない。
丸く並んだ肩の間から腕を割り込んで数式をなぞり、行き詰まってしまったらしい一点を指差しながらヒントをあげる。
あくまでヒントを。
「…いーい?この方程式は、分数なんだから先に分母を払っちゃうの」
「分母を?」
「そう。分母と同じ数を分子に掛けてあげるの。わかるわね?」
「…うん!」
真剣な顔がぱっ、と明るい笑顔に変わった。彼女の性格がとても明るいのがよくわかる。
素直で明るい、ルリ姉さんみたいな子だ。
突然の乱入者にたじろぎながらも、賢そうな方の女の子が声を上げた。
大きな目が剣呑に光かっている。
「あの、」
「ん?ああ、ごめんなさいね。
あたしはよその国から来たから、あなた達の国のことはよく知らなくて。邪魔しない方がよかったかしら?気に触ったなららごめんなさいね」
「そとの…?」
「?まぁ、うん」
臨戦体制だった彼女の声から棘が抜け落ちる。
目を輝かせてあたしに質問をぶつけてきた。
なんだこの子は。
「東の方から来たんですか?」
「残念ながら南の方よ。どうして?」
「東の方にはお姉さんみたいな金の目の人がいっぱい住んでるんです。だから東の人かな、って」
日が当たるからそう見えるだけで、あたしの瞳は黒いんだけど、とは言わないでおく。
にっこりと笑って話を合わせる。
「ああ、執事さんの言ってたスラム街のことね」
「執事さん?」
ようやく復活した男の子――ジャンくんが疑問を挟んできた。
「お姉さん、皇帝さまの友達?」
「皇子様の方ね。どうしてそう思ったの?」
「執事がいる家なんて皇帝さまの城くらいだから」
「なるほどね」
「できたぁっ!!」
「うわっ」
やりおえたページを掲げてあたしに満面の笑みを見せる。
方程式で行き詰まっていた娘だ。
というか、今までマイペースに解いてたのか、この子は。
あたしも一応暗算で解いてみたけど、彼女の解答は正解だった。
よくできました、と頭を撫でると嬉しそうに笑った。
この子達、年の割には頭の回転が早い。やっぱりトラリアは教育にも力を入れてるみたいだ。
「ねーちゃん、とりあえず座ったら?」
「…馴れ馴れしい上に偉そうね、ジャンくん。ウールちゃんに言っちゃうわよ」
「だからそれは…っ」
愛しのウールちゃんの名を出すととたんに弱くなる。
…こいつは面白い。
結局、女の子に数学を教えてから日が暮れるまで、あたしと子供達は語り続けていた。
数学は苦手分野のリリ、優等生で世界を旅するのが夢のナターシャ、冷静で学者志望のレオ、そしてウールちゃんに首ったけのジャン。
聞けば彼らは国立学校の初等部に通う小学生だそう。
みんな年は7つ。
よく会話に出てくるウールちゃんはレオの幼なじみで、たぶん好きなんだろう。からかうといちいち面白い反応をする。
とにかく4人ともよく喋り、よく笑う。
最後には「ジュノお姉ちゃん」、「ジャン、レオ、リリ、ナターシャ」と呼び合う程に打ち解けてしまった。
何だかんだ言って教えるのは嫌いじゃないし、教えたことを理解してくれた瞬間が嬉しい。
数学だけじゃなく、薬学や歴史まで質問攻めにされた。
…城で泣かされながらでも頭に叩き込んでおいてよかった。
「あ、5時だ」
ジャンが声をあげた。
不規則な鐘が鳴っていて、町がガヤガヤと賑やかになってくる。仕事が終わり、各々家に帰る時間なのかもしれない。
それは子供も同じようで、リリがテーブルに突っ伏してごねる。
「えー、もう5時ぃ?…ジュノねーちゃんとお話したいぃ」
「でもお母さんが心配しちゃう。今日のごはんは?」
「…ミートソースのスパゲッティ」
「いーなぁー!俺もミートソース食べたい」
「僕も」
「わたしも」
あたしも、と心の中で呟く。なんだかお腹がすいた。
「帰らなきゃね」
「うん…」
ノロノロと片付けを始めたら子供達にあたしは微笑む。
「みんなとお話できて楽しかった。ありがとう」
「僕も楽しかった。また教えてね」
「俺にも!」
「私にも」
「約束だよ?」
「はいはい…」
約束は出来ないから返事ははぐらかした。
次、なんていうものを疑いもしない無邪気さが今は素直に羨ましい。
騙している気になって良心が痛んだ。
せめてもの罪滅ぼしのつもりで、みんなのお勘定をまとめて引き受けた。
あたしとみんなの行く先は正反対。
自宅に帰るみんなにあたしは手を降る。
「…それじゃあ、ジュノおねぇちゃん。またね」
ナターシャがはにかみながら手を振った。一番最初に噛みついてきたナターシャが一番なついてくれたようだった。
「ばいばーい」
リリも不満げながらも手を振った。ミートソースは確かに美味しいけど、そんなに寂しそうな顔をされると城に連れて帰りたくなる。
「またな、ジュノねーちゃん」
ジャンは後ろ手にひらりと手を振った。あのカッコつけたがり、ウールちゃんに嫌われないといいけど。
「さよなら、ジュノねぇさん」
レオはにっこりと笑ってみんなを追いかけていった。
僕の分は僕が払う、と言って最後まで聞かなかったのはレオだった。案外頑固なのかもしれない。
「バイバイ。また明日、会えたら」
子供達が寂しそうだったのは一瞬で、すぐにきゃらきゃらと笑い声が聞こえてくる。
遠ざかる小さな背中が見えなくなるまで見送って、あたしも城に足を向けた。
今夜はミートソースのスパゲッティが食べたいなぁ…。お願いしたら作ってくれるかしら
そう、一人思う。
***
その頃鷹は――城の書庫にいた。
突然だが、ハーバルトは常々トラリアの城は、城というより基地だと思っている。
横に広く平たい造りで一番高い所でも3階までしかない。
しかも全体が頑丈な石で出来ているため一面灰色で、所々土に汚れている。
城と呼ぶにはあまりに無機質で粗末だ。
周りに塀を立てているだけで特に目立った装備も装飾も施していないから、余計に。
ハーバルトは城を愛着と揶揄の意を込めて「基地」と呼ぶ。
逐一訂正してくる部下を揶揄う意味もあるのだが、城の構造を知り尽くしているから余計にそう思えるのも事実だ。
外観で威嚇をしない代わりに城の中と地下には抜け道が複雑に張り巡らせてあり、本当に重要なもの――主に武器だ――は地下に小分けにして保管してある。
これは余談だが、いざというときは全員が武器を持ち土の中から這い出して来れるように訓練してあるので、大砲などの大型の武器を必要としない。フットワークの軽さがトラリアの強さである。
話を戻そう。本当に重要なものの中には、少数だが書物も混じっている。
それはアルバムであったり、戦死者名簿であったり、戦術を記した本だったりと、トラリアならではのものが納められているのだが、ハーバルトが目を落としていたのは、トラリアでは珍しいハードカバーの本だった。
ページを指でそっと撫で、静かに口を開く。
「チェシャ猫…」
ぽつり、と呟かれる言葉は誰にも聞かれることなく、薄暗い壕の中で消える。
裸電球の頼りない明かりの中で挿し絵の少女達が笑い合っている。
子供向けの本のようだ。
『盗賊団の女達は猫の様に軽い身のこなしで金持ちの家に盗みに入った。
気付いた時には金庫はものけの空。
残された一枚のコインにはこう彫られていた。“Chip・Cats”と。』
ページを捲る。
『ボスと呼ばれる女を中心に彼女達は行動していた。
また、彼女達は一番幼い仲間をよく可愛がり、希望と呼んだ』
屋根から飛び降りる挿し絵の女に視線を落とす。浅黒い肌の燃えるように赤い髪の、美しい女だ。
ジュノの赤い髪が脳裏に蘇る。
ハーバルトは苦悩するように目を細めた。