第二章 偽りだらけの白兎
カツン、カツン。
ヒールが大理石を叩く音が響く。
ゆっくりとしたテンポで刻まれるそれは、静まり返った城内と相まって、酷く寂しい。
カツン、カツン。
カツン、カツン、カッ。
そしてそれは唐突に止まった。
二階の客間へと続く階段と同化する、カノンの隠し本棚の空いた部分に蹲る双子の宮廷音楽家の目の前で。
目の前に落ちた影に気付き、ロイが片割れの裾を引いた。
「チズ、チェシャ猫が来たよ」
うとうととしていたチズは、丸く大きな、しかしやや垂れ気味の目を擦り、客人を見上げ笑う。
「やぁ、チェシャ猫。ご機嫌如何?」
「どう見たって不機嫌でしょう。失礼だよ、チズ」
「そぉ?」
ロイが丸く大きな、だがややつり気味の目を見開き、ジュノを見上げた。
包帯を巻いた痛々しい腕を吊り、頬にガーゼを張り付けたジュノが、空いている左手で壁を叩いたからだ。
「…ジュノ嬢、利き手が塞がってイライラするのもわかるけど、八つ当たりはいけないよ。
左手も、痛いでしょう?」
「大丈夫だよ、チズ。ジュノ嬢は両利きらしいから」
「ロイは黙ってて。
ね?ジュノ嬢――?」
ぽつり、と雫がチズの頬に落ちた。
ぽつり、ともうひとつ落ちて流れていった。
「……ねぇ」
「「…………」」
虚ろな目で沈黙を守ってきたジュノの言葉に、双子は口を閉ざした。
「何があったの?」
その声は、酷く弱々しく、彼女には似合わない声色で。
「「何って」」
その表情は、酷く悲痛で、彼女とは思えない情けないもので。
「一昨日、何があったって聞いてんのよ」
でも変わらない傲慢さが、彼を少しだけ安堵させた。
「エースは話になんないし、カノンはいつも以上に堅物だし、ハーノ=ベルも誤魔化す」
ひとつ、小さな呼吸を挟んでジュノは吐き出すように言葉を続けた。
「アリスはいないし、城はこんなんだし、あたしは途中から記憶が無いし、マリーも殺されて…ッ!」
ガンッ、ガンッ。
力一杯殴り付けた拳が鈍い音をたてた。
「あたしだけなのッ!あたしだけ、何も覚てないのっ!!
っねぇ、何があったの?どうしてマリーは死んだの?どうしてアリスは消えたの?何が、どうして……ッ!!」
答えて…。
最後は細い嗚咽に消えた。
壁伝いに崩れ落ちたジュノを追うように双子の視線は下に下がる。
いつもより華奢に見える肩が震える。
双子は顔を見合わせ、数回瞬きを繰り返して大きく息を吸った。
「午後を告げる鐘の中、アリスは消えた」
「午後を告げる鐘の前、乙女は兎に告げた」
「「悪魔の存在を」」
不思議な高揚のある旋律。
「乙女は死んだ」
「悪魔の手で」
「悪魔は死んだ」
「復讐の手で」
双子の目は不思議な色に光り、濡れた目でジュノは双子を見た。
「彼女が愛しいのはわかるけど」
「仇討ちは感心しないよ、ジュノ嬢」
すく、と立ち上がりジュノの横で慈愛のこもった瞳で、優しい声で囁いた。
「笑って、チェシャ猫」
「笑って、小さな略奪者」
「僕らも、彼女も」
「「君の傲慢で強気で、気高い笑顔が好きなんだよ」」
そして布擦れの音を残してどこかへ歩み去った。
「………っ」
小さな嗚咽を噛み殺し、また涙を溢す。
傲慢も余裕もかなぐり捨て、幼子のように。
そして、己の無力さに歯噛みをして、それでも、手を伸ばし、伸ばした手は空を掴み、ゆっくりと踵を返した彼もまた、どこかへ歩み去った。
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マリアはそっと目を開いた。
包帯を巻いた足が少し痛むが、歩けないこともないので散歩にでも行きたいのたが、いかんせん、清潔なベッドに待機を命じられているのだ。
城の中は慌ただしくて、さっき漸く中年のメイドが紅茶を淹れてくれた。
見ない顔だったな、と一人思案する。
あの後、失血による貧血で気を失ったマリアが目を醒ました時、側で安堵したようにため息を漏らしたのは知らない人だった。
金色の髪はアリスを彷彿とさせたが、赤い瞳はアリスとは似てもつかない正反対の色をしていた。
「エース様」。
彼はマリアをそう呼んだ。
訳がわからなくて顔を見上げると、一瞬悲しげに綺麗な顔が歪んだ。
目を伏せて、軽く唇を噛んだ彼はもう一度マリアと目を合わせた。
射抜くような眼差しに少し怯んだが、マリアも赤い瞳を見つめ返した。
綺麗に澄んだ赤だ。
自分のとは違って吸い込まれそうなそれは、刹那、酷く優しい光を灯した。
包み込むような微笑みで、彼は口を開いた。
「はじめまして、マリア様。私、本日付で貴女様の執事として仕えることになりました。アリスの弟、イルと申します」
遠くで腕を組み、壁に背を預けて不機嫌そうにこちらを眺めていた赤毛の美女――ジュノが、息を呑んだのがわかった。
でもそれ以上に、ひとつの言葉がマリアを惹き付けた。
「アリスの弟」と彼は名乗った。
アリスに繋がる人。
アリスの血縁。
アリスの弟ならば、同じ金色の髪も納得できる。
アリスと異なる瞳の色は、両親のどちらかの遺伝なのだろう。
あぁ、アリス。アリス。アリス。
「アリスは?アリスはどこに!?」
早口に捲し立てると、彼は穏やかな声で答えた。
「兄はある事情で身を追われています」
「マリア様に迷惑をかけられないから、と言伝てを預かっています」
「兄が無事、またこの国に戻って来れるその日までまで」
「僕が兄の代わりにマリア様のお世話をさせて頂きます」
優しい微笑みにアリスが重なった。
溢れ出す涙を、イルは拭ってくれた。
「ですから、マリア様」
「兄が帰ってきたときは笑顔で迎えましょう」
「元気を出して、より魅力的で教養深い淑女になりましょう」
イルの声は優しい。
イルの微笑みは優しい。
イルの言葉は優しい。
だからマリアは笑って答えた。
「えぇ。どうぞよろしく、イル」
静かに笑って、マリアは白磁のティーカップをテーブルに置いた。
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それでも国は回る。
僕が「イル」を名乗った瞬間、ジュノの表情が凍り付いた気配がした。
ジュノはだんだん、暗く重い空気を発生させ始め、終いには部屋を出ていってしまった。
しかし…エース様もジュノも、命に別状の無い怪我で済んで本当によかった。
しばらくは城の復旧作業に終われるだろうが、エース様にうろうろされるのも困るので本でも届けようかと思う。
童話、哲学、話題の純愛小説。
どれが好みだろうか。
案外冷静な考えに苦笑する。
結論から言うと、どうやら僕はエース様の中から完全に忘れられた存在らしい。
正確には、「さっき初めて会ったアリスの弟」と認識された、だろうか。
僕はこれを皮肉と呼んでいいのだろうか。
ふらりと消えたジュノを追ってはみたが、僕が触れる資格なんて無い気がした。
さて、とひとりごちて目を閉じる。
考えを巡らせる。
メイド、コック、及び召し使いは大半が軽い怪我で済んだらしく、明日から復旧作業に精を出してもらう予定だ。
…メイドと言えば、ジュノのお気に入りのメイドが殺されたな。
葬式は復旧が粗方片付いたら執り行おうか。
はっ、として頭を振ってその考えを追い出す。
今考えるべき事は国の安定だ。
中枢が揺らげば国が揺らぐ。
国が揺らげば他国と敵対する可能性が出てくる。
攻め込まれれば、交戦は免れない。
戦争が起きれば、国は崩壊し、築き上げてきた文化も技術も失いかねない。
痩せた土地、年中吹く強い風。
その中で発展を遂げてこられたのは、ひとえに交戦を避け、他国に負けない技術者を保護し、国民と共に歩んできた王族一家の才能の賜物だ。
その血を継ぐエース様だが、今のエース様に任せる訳にはいかない。
今のエース様は、当時年端もいかない少女だった頃の優しいマリア様だ。
最年少で即位する前の、世間知らずで優しくて、無邪気で純粋で、人一倍お節介な姫様だ。
そうでないなら、忌み子を拾うなんて馬鹿な真似はしないだろう。
ふ、と短く息を吐き出して、世界を遮断するように、僕は机に伏せた。
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それでも時は回る。
朝からトンカチやらノコギリやら笑い声やら怒鳴り声やらが絶え間なく聞こえてくる。
割れた窓ガラスがキラキラと日光を反射するのだろうけど、それすらも私の憂鬱を助長するだけ。
メイドやコック同様、人員不足で修復に駆り出されたあたしは額に浮かんだ汗を拭う。
着古した縞のシャツに綿のズボンはあたしの普段着で、更にメイドに借りたエプロンを着けている。
ふんわりとしたラインは可愛いけど、あたしには似合わない。 現にカノン(今はイルだったっけ)の顔は軽くひきつっていた。
そこまで嫌がらなくてもいいじゃない、馬鹿。
「全くです。ジュノ様、とってもお似合いですのに!ねぇ?」
「えぇ!ジュノ様、ワンピースもお召しになっては如何ですか?」
「いやー…あたしはエプロンで十分ですって」
「勿体無いですわ!せっかく似合うのに!!」
「そんな細い腰で…そんな細い肩で…。嗚呼、神は不公平ですわ」
「そんなこと無いですって。貴女だって、十分綺麗です」
「メイドは力仕事ですから。ジュノ様の様なボディーラインは夢のまた夢ですわ」
大柄で人のいいメイドと細身でお洒落好きらしいメイドの会話はポンポンと軽快なリズムで進んでいく。
なんとなくナズミ姉さんとリン姉さんを重ねてしまう。
「ジュノ様、どうかなされましたか?」
「え…?」
ふと我に帰り、二人の顔を見ると、驚きのような、困惑のような微妙な顔をしている。
「どうって…」
「いえ、一瞬悲しげな顔をされたので」
「あぁ、うん。大丈夫です。人使いの荒い執事サマにどうやって復讐しようか考えてただけですから」
にやり、と悪戯っぽく笑うと、二人も共犯者の笑みを見せた。
「カノン様のお茶に何か混ぜましょうか?」
「陰湿ねー。後ろから奇襲を仕掛けます?」
「殺す気ですか?」
思わず笑みが溢れる。
まるで子供の頃の会話だ。
ふっ、と息を吐き出して、腕捲りをした。
「さて。さっさと終わらせて執事サマをぎゃふんと言わせてやりますか」
はい、と声を揃えた二人はやっぱり共犯者の様だった。
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音もたてずにカップを置いた妙齢の女性が穏やかに笑んだ。
視線の先には少し赤い顔で居心地悪そうに視線を落とすカノンがいる。
少し目が赤い。
もともと瞳の色が赤いので分かりにくいが。
「大変、失礼致しました…」
「お気になさらないでください。
貴方も人間ですもの。辛いこともありますわ」「そーそ。辛かったらおっちゃんの胸でお泣き」
「これ、口を慎みなさい」
「酷ぇなぁ」
「…あの…」
おずおず、といった感じで口を挟んだカノンに二人分の視線が集まる。
こほん、と咳払いをしてカノンは口を開く。
「それでは、マダム・ソフィア並びにアンドリー。
本日より、よろしくお願いします」
凛と声を張ったカノンを二人は、血の繋がりも無いのにまるで我が子の成長を見届ける親の様な顔で声を揃えた。
「「こちらこそ、カノン様」」