尚美と正人 その1
夜もすっかりと更け人の姿も見掛ける事も殆ど無い時間に家路に着くのがもはや当たり前になった頃、女であろうが社会人に必要なのは健康な体と忍耐力だと気付かされた。
その日もイベントの打ち上げという名の取引先の接待があり、浴びるように酒を飲み覚束ない足取りで住み処である2DKのマンションを目指す。
春と呼ぶにはまだ寒さの厳しい季節だが、アルコールで上がった肌を冷たい風が心地よく撫でていく。
人気の無い川沿いの通りを進んで行くと、小さな橋の側にぽつりと街灯の明かりが灯されている。しかし何かがおかしい。アルコールで揺れる視界を凝らして見ると、微かに動く黒い物体が街灯の下にあった。
一瞬にして身体が竦むが、家へ帰るにはこの先の橋を渡らねば辿り着けない。今日はパンツスーツにヒールもローヒールだ、いざとなれば走って逃げられるか… 酔いのまわる頭で大雑把に考えながら、足音を殺してゆっくりと近づく
一歩、また一歩と気配を殺して近付いて行く。3メートル程近付いたとき、ようやく謎の黒い物体を視界に捉えた。分かってしまえば何て事は無い。それは黒のダウンジャケットを着こみマフラーで顔の殆どを覆った男が黙々と絵を描いていたのだった。
何だ絵を描いてるだけか…と言う気持ちと共に、一方的に与えられた恐怖心への怒りはアルコールによって歯止めが効かなくなる。足早に近寄ると酒の匂いと一緒に勢いよく捲し立てる
「ちょっとアンタ!!こんな時間にこんな場所でそんな格好でいられたら道を通る人間が怯えるでしょう!!絵を描くにしたって、もう少し時間と格好を考えなさいよ!!!」
「はヒッ!!!」
背後からいきなり怒鳴り付けられ男は勢いよく身体を跳ね上げると恐々と振り返る
「す、すい…ま…ん。あ…だっ…た…で…」
顔に何重にも巻かれたマフラーのせいか、言葉が籠って聞き取りづらい
「なに言ってるのか全然分かんないわよ!!この邪魔なマフラーを外しなさいよ!!」
声の雰囲気で相手が大人しそうだと判断したのか、語気は一層強くなり、マフラーの端を掴むと軽く引っ張ってみせる
「す、す、すいません!!」
取り除かれた毛玉だらけマフラーの中からは、眉を八の字に下げて恐怖に怯えきった表情を浮かべた貧相な青年が姿を現した。




