焔1
「あたしに言えば、どんなことでもなんとかなるって思ってないか、あんたたちは」
眉間に浅くしわを刻んで言うのは高等部一年生の尾崎晶だ。
上流家庭のわけあり子女がほとんどを占めるこの全寮制の学校で、晶は自らの意思でここへ入ってきた、一種変り種の生徒だ。今年の四月に入学してまだ三ヶ月しか経っていないというのに、彼女は既にここに馴染んでいる。
言われた三人は黙って互いに顔を見合わせ、決まり悪そうに首をすくめた。晶はとんとんと指先で机を叩きながら言う。
「自分たちが言いづらいことは全部あたしに押し付ければいいとでも思ってんの?」
「そんなこと!」
三人のうちの一人が勢いよく顔をあげて真剣に否定した。
「そんなことありません、本当に」
できるだけの説得はしたのだと一人が言い、他の二人もうなずいた。だが、晶の眉間のしわは消えない。
桐生園子と特に親しい同級生三人が晶たちの部屋をそっと訪れたのは夜9時。深刻な頼みごとをするのには適当な時間だった。
園子が聖葉をやめて実家に帰ろうとしている、それをなんとか思いとどまらせてくれというのが彼女たちの頼みごとで、はじめのうちは三人も、晶と同室である妃穂と茨木の存在を気にしていたのだが、そのうち、遅かれ早かれわかってしまうことだと腹をくくったらしい。率直に事情を説明しだした。
しかし晶の表情は話のはじめからもう芳しくなく、話が進むにつれて眉間のしわは深くなっていった。
「できるだけのことは、わたくしたちも致しました」
「本当に、急なことで。表向きの理由はともかく、本当の理由がこちらとしてもわからなくて」
「そこだよ!」
晶は自分の椅子に横がけにして、無頼な感じで片肘を椅子の背もたれに預けて言った。
「そこが情けないよ、あんたたちは! ずっと聖葉で10年も一緒に寝起きしていて、家族同然なんじゃないの? それなのに『なぜやめるのか理由がわからない』だって? いい加減にしなさいよ、恥を知れっ」
さほど大きな声ではなかったが、三人はきゅっと首をすくめた。晶が深いため息をつき、部屋に沈黙が訪れる。そこへ、
「お話の途中でごめんなさいね」
やわらかい声で高橋妃穂が言った。彼女も晶と同じく高等部一年生なのだが、旧家で資産家、更にはこの学園の創設者の直系子孫ということで、芙蓉寮の生徒代表をつとめている。
妃穂は会釈しながら三人と晶の間を通り抜けた。その手にはタオルとパジャマとその他一式が入った洗面器がある。
「晶、わたくし、お先にお風呂いただいてくるわ。皆様どうぞ、ごゆっくり」
淡く三人に向けて笑うと、妃穂は部屋を出ていく。そのすぐあとに、自他共に認める妃穂の従者、茨木貴子も続いた。
はいはいと見送りながら晶は思った。
妃穂、心なしか、うきうきしてる?
翌朝、学校指定の鞄を肩からかけて、晶はのろのろと芙蓉寮の階段を降りていた。
頭には昨夜の頼まれごとがある。彼女たちがあんまり真剣に頼むものだから、結局引き受けることになってしまったのだ。
気が重くないといえば嘘になる。なにしろ晶はここに来てまだ半年もたっていないのだ。三人が自分のどこを見てそんなデリケートな頼みごとをもってきたのかも、実を言えばわからない。
だが、晶にもわかることがある。園子は多分に誇り高い少女であるということ、そして、だからこそ人の意見で自分の決断を容易に変えたりはしないだろうなということだ。
「なに?」
並んで階段を降りる妃穂を盗み見ていると、すかさず気づいて返された。
「あーいや」
「気が重いんでしょう。わかるわ」
「いやそうなんだけどさ。嬉しそうに言いなさんな」
言うと、妃穂はどこかくすぐられたように身をよじって笑った。
「だって嬉しいんですもの。あっ、あなたが困っているところを見るのが嬉しいわけじゃないわよ」
「わかってるって!」
園子がここからいなくなるかもしれないことが、本心から嬉しいのだと露骨にわかる喜び方に、晶は右手を上げて妃穂の頭を後ろからパシッと叩いた。
「……」
妃穂は、びっくりしたというよりはきょとんとした顔で叩かれたところを押さえて晶を見返す。
「理由は自分で考えること!」
妃穂がなにか口にするより早く晶はそう言って、吹き抜けの螺旋階段を足早に一人だけ降りて行った。
5階建ての芙蓉寮のちょうど中心部に位置するこの螺旋階段は通称『中央螺旋』と呼ばれている。10年間を共に過ごした仲間たちができないことで、自分にはできることがなにかあるだろうか。そんなことを考えながら中央螺旋を下っていると、ちょうど一階下に園子がいるのが手すりの間から見えた。
晶はふとまばたきした。苦々しい顔付きだったのが、園子の様子に気をとられたせいでもとに戻る。
あきらめた末の凛々しさ。
あきらめた末の頑固さ。そんな言葉が頭をよぎったのだ。
どこが変なのかわからないが、園子の様子がなにかどこかおかしいことはここから見てもわかる。
外見はいつもと変わらない。まっすぐ伸びた背中も、鏡のようにつややかな長い黒髪も。それでもどこかがおかしい。どこか。
「桐生さん」
よく考えるより先に声が出てしまった。園子は晶のほうを振り仰いで、ごく軽く会釈する。
「花」
「え?」
「大輪の」
「ええ?」
なんですって?と聞き返す園子に、晶は走り寄った。そのまま並んで中央螺旋を降りる。
「なにかなあ。桐生さん見てたら、花みたいだって思ったんだよね、今。思ったら口から出ちゃった。なんだろう、大輪の花。薔薇じゃなくて、百合じゃなくて、そう牡丹」
「あらまあ」
「なんか、自分でも妙な口説き文句みたいだって思うんだけどさー」
晶が言うと、園子はくすっと笑った。
「わたくし、花の中では牡丹が一番好き。そう思って頂けたなんて嬉しいわ」
「あ、そうなの? 桐生さんのイメージだよ、百花の王とも呼ばれる牡丹」
園子はまんざらでもなさそうに目を細めた。機嫌よく階段を降りる園子に、晶は続ける。
「だけどその花が開花半ばで開くのをやめてしまったところって……なんて言うか、惨め? いや違くて、無様? うーん、でもなくて」
園子が、ぴくりと眉を持ち上げた。
「咲かない花は朽ち果てるだけっていうのかなあ、うーん、まだちょっと違うなあ」
中央螺旋は校舎へと向かう他の生徒も大勢いる。晶が園子に言っているのを聞いて、皆はらはらしたように彼女たちをよけて下へとおりていく。その中を、妃穂も通り過ぎていった。
「えーとうまい言葉が出てこないな。なんだろうね、なんだと思う?」
「なにがおっしゃりたいのかしら」
園子の笑みはきれいさっぱり消えている。
「いやだから、そこが出てこないんだって。あそうだ、痛々しい?」
晶はやっとしっくりきたというように清々しい顔でぽんと手を叩く。
「そうだそれだよ。『痛々しい』。ね?」
朗らかな晶と対照的に、園子の顔からは血の気が引いている。凄みのあるまなざしで晶を見上げて言った。
「わたくしがそうだと?」
だが晶は気圧される風もなく、平気な顔で返した。
「そうかどうか、実際のところは知らないよ。ただ、あたしの目にはそう見えたよってこと」
ぎりぎりと圧力を感じるほど睨みつける園子と反対に、晶の表情は気が抜けるくらい明るい。だがその明るい表情のどこか芯のところで、しっかりと園子の視線を受け止めて一歩も引かない、晶の笑顔にはそんなところがあった。
「わたくしがそうだと?」
園子は少しかすれた声で同じことをもう一回聞いた。
「いやいやだから、そうかどうか本当のところはわからないよ。あたしから見えた真実とあなたの胸の中にあるたったひとつのものとは違う。あなたの真実がなんなのか、それはあたしにはわからないなあ、桐生さん」
園子はふと晶から視線をはずして自分の足元を見る。まるで階段を降りることに集中しているように真剣に、自分の上靴の先を。
晶の瞳は黒に近いが、本当は深く濃い茶色をしている。その茶色の目は笑っているが、相手と真剣に切り結ぶ覚悟のようなものが浮かんでいる。
厳しいことを確かにあたしは言っているよと、だからそれに対してあなたが怒っても泣いても凍りついても、たとえ暴れたってこっちはそれを受け止める用意があるよと、いつでも来いと待ち構える顔だった。
だが園子は晶の顔を見ずに、自分の爪先をじっと見つめて階段を降りている。
一番下まで降りきったところで、園子の足が止まった。晶も一緒に立ち止まる。
「……あなた、尾崎さん」
二人の横を、生徒があらかた通り過ぎていったころ、園子が口を開いた。すかさず晶が返す。
「はいな」
「放課後、付き合っていただけて」
オッケオッケ、と晶は二つ返事で答えた。