先生のコーヒー3
ドンドン、ドンドンドン。
舎監室の窓が外からいくぶん乱暴に叩かれて、紀佐はびくっと読んでいた本から顔をあげた。
今日か明日には初雪が降ろうかという寒い夜のことだった。
「先生えぇ、あけてえぇ」
紀佐は眉をひそめた。窓の外で聞こえた声は、尾崎竜世のものではないか。
聞き間違いかと耳を澄ませたが、重ねて呼んでいるのはやはり竜世だった。
「ここ、あけてくれえぇ」
確かに竜世の声だ。
なにごとだ、一体。そう思って紀佐は立ち上がり、カーテンを開けた。
志帆が入寮してからひと月足らずの間に、竜世は三度、紀佐に見つかってつまみ出されている。そのおかげで彼の存在はこの女の園でたいそう知れ渡り、今となっては彼を知らぬものがないほどの有名人となっていた。
「先生こんばんは」
窓をあけると案の定、竜世の日に焼けた笑顔があった。おどけて片手を顔の横まであげて挨拶しているが、その笑顔は寒さにこわばっている。
ふと見ると、彼の背後の闇に白いものがちらついていた。
初雪だ。降ってきたのだ。
竜世は、傷だらけの革ジャンにジーンズという軽装である。今日も寮の外壁を登る気満々だったらしく、手には黄色いゴム粒付きの軍手をはめているが、防寒の役には立たなかったらしい。彼はその場で落ち着きなく足踏みして、歯を小さく鳴らしていた。
「助けて、先生。死ぬ」
紀佐がなにか言うより早く、竜世は窓の桟に両手をかけて、勢いよく室内へ転がり込んできた。
「うお助かった、先生サンキュ」
挨拶のつもりか、紀佐の手をとってその甲に素早くちゅっと音を立てて口づける。紀佐はキスよりも、竜世の唇の冷たさの方にぎょっとした。
彼が徒歩で山をのぼって来ているらしい、というのは過去三回で知っていた。距離にしたら相当あるだろうに、それをものともせずに毎度毎度のぼって会いに来る姿はロミオとジュリエットのようだと、寮の女生徒たちにはおおむね好評である。だが、彼女たちよりも大分年を重ねた紀佐は、素敵だ、ロマンチックだと単純には思えなかった。
見つかれば、未成年だから警察とまではいわないが家庭に連絡されるのをわかっていながら、なぜこんな大変な思いをしてまでのぼってくるのか、聞いてみたかった。
「あったけー」
竜世は律儀に履いていた靴を脱いで、泥が落ちないようにそっと、紀佐が差し出した古新聞の上に置いた。そして花柄の座布団の上に自分からにじり寄っていってあぐらをかくと、やっとほっとしたように軍手を脱いで両手をこすり合わせる。
「コーヒーを入れますけど、飲みますか」
「ご馳走になりまーす。いやあ寒かった。いきなり降ってくんだもん」
「山の上ですからね。街より二度は気温低いですよ」
紀佐がお湯を沸かすために立ち上がりながら言うと、竜世はなるほどねえとうなずいた。
「ひとつ利口になった。だめな、俺もまだまだ考えが甘いわ」
そうですね、と相槌をうちかけて、紀佐はあわてて思いとどまった。侵入を後押しするようなことを言ってどうするのだ。
「いや今日はほんと参ったね。志帆に会うより先に凍死するかと思ったよ。さすがに今日は壁のぼりやったら落ちて死ぬわ」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「はいはいどうぞ」
悪びれずに返す竜世に、紀佐は訊ねてみた。
「ここまで来るの、大変でしょう」
「大変だよ?」
「それなのに、なぜ来るんです。そんな思いまでして。見つかれば追い返されることもわかっていながら」
うーん、と竜世は首をかしげた。
紀佐が粉にゆっくりお湯を落としながら、横目で竜世の様子を観察していると、ややして竜世は言った。
「大変なことだからあきらめるのが当たり前、ってニュアンスで質問されることが、俺にはわからないんだけど」
粉の中から大きな気泡が一粒、浮かんでは消える。紀佐が大きく首をまわして竜世を振り返ると、彼は少し考え考え、だがしっかりした口調で続けた。
「他に方法があるならそうするけど、そうしないと会えないから、必要なことをしてるだけ。あ、どーも」
紀佐からコーヒーを受け取って、一口飲むなり竜世は両目をきゅっとつぶって身をよじった。
「染み渡るー」
そしてそれをあっという間に飲み干してしまってから、
「おかわり」
とソーサーごと出して寄こしたから、紀佐は呆れた。
「ずうずうしい」
「だってうまいすもん。あっあっその粉捨てないで、構わないからそのままでもう一杯入れてっ」
言う通り二杯目を入れてやると、竜世は今度はさっきよりもゆっくりと一口すすった。
それからふと、付け加えるように言う。
「人がつくった枠は、人が壊せるもんだよ、先生」
「……」
紀佐は黙って自分の分のコーヒーをすすった。
なにか言ったら、竜世に同調してしまいそうで、言えなかった。
紀佐もこの学校のOBで、ご多分に漏れずわけありの生徒だったから、しがらみでがんじがらめになっていた部分はやはりあった。それを自分なりに切り開いて、今、聖葉の舎監としてここにいるつもりでいるから、竜世の言ったことはよく理解できた。むしろ、それはそのまま、自分の気持ちだったと言ってもいい。
だが強く共感できたとしても、自分の立場はあくまで舎監、それを口にするわけにはいかない。
竜世は二杯目のコーヒーを大きく飲み干すと、言った。
「ごっそさん。そんじゃ俺帰るわ」
「は?」
思わず紀佐は聞き返してしまった。そんなに苦労してここまで来たのに、志帆に会わずに帰るというのだろうか。それを言うと、竜世は靴に伸ばした手を止めて意外そうに聞き返した。
「会ってっていいの?」
「もちろんだめです」
「だよね。わかってますよ。助けを求めた以上そこはけじめでしょう。先生に迷惑かかることはしない。また来るから、今日はいいわ。次はもっと重装備して来ますよ」
「来ちゃいけません」
「あ、そうね。そうだった。そんじゃ先生、お邪魔しました。また」
「またはありません!」
今度は幾分強く言ったが、竜世は陽気に手を振ってもときた窓から去って行った。
志帆に会わずに帰ると言った言葉通り、ざくざくと、湿った落ち葉を踏みしめて。まっすぐにふもとのほうへ。
「ですから、ここでコーヒーをご馳走したのは、あなたで親子二代目です」
「うそーっ」
紀佐が言うのを聞いて晶はのけぞった。が、またすぐテーブルに肘をついて前のめりになる。
「じゃあひょっとして、父が母のことここから略奪する時に、先生協力したり……」
「まさか」
紀佐はばっさり切り捨てるように否定した。
「そんなことするはずないでしょう。わたくしは舎監ですよ」
「……ですよね」
晶はそれで納得したようだったが、紀佐は別のことを考えていた。
もし竜世が相談していたら、自分は手助けしていたかもしれない。
紀佐は自らのしがらみに悩み、その中でもがいた経験があったから、そうした枠をぶち壊そうとする人間が好きだった。好ましいと思うし、応援したくもなる。だが。
「あの子は、わたくしに協力を頼んだりはしませんでしたよ」
「じゃあ、どうやってここから母を連れ出したんですか」
「尾崎さん、コーヒーは美味しかったですか?」
「え、あ、はい」
突然話を変えられて戸惑う晶に、紀佐はにっこり微笑んで見せた。
「それでは、お部屋にお戻りなさい」
「ええーっ」
晶は不満そうに言ったが、紀佐にじろりとにらまれて引き下がった。
「……ごちそうさまでした」
それから結局、晶が自室へ戻ってきたのは深夜二時を少し過ぎたころだったのだが、妃穂と茨木はやはり起きて待っていた。
そして、晶の話を聞くや、晶が意外に思うほどの勢いで身を乗り出してきた。
「先生のコーヒーをご馳走になったですって?」
「それは凄い。なかなかないことなんですよ」
そうなの?といまいち実感のわいていない晶のそばで、妃穂が驚いた顔のままうなずいた。
「紀佐先生のコーヒーなんて、わたくしも頂いたことないわ。美味しかった?」
「うん、とってもね。そんな滅多にないことなら、もっと味わってちびちび飲んできたらよかったかな」
晶の台詞に、妃穂と茨木は顔を見合わせた。
滅多にない、どころの話ではない。それはよっぽど気に入られたのだ。と言うか、晶のどこかに先生の胸を打つものがあったのだ。
紀佐先生のコーヒーは、生徒たちの間ではほとんど伝説のように語られている。
彼女は長年聖葉で舎監をつとめているだけあって、どんな生徒に大しても公平に厳格だ。だが時折、この老先生の胸を打つ生徒がいると、彼女は手づからコーヒーを入れてご馳走してくれる。自分の部屋で。そして、昔話をしてくれたり、逆に話を聞いてくれたり、相談に乗ってくれたりする。そのコーヒーを飲んでいる間だけ。
「それじゃ、先生に見つかったことで、かえって予想外の大収穫だったじゃありませんか」
妃穂が言うと、晶は嬉しそうにうなずいた。
「そうなの。今すぐではないけど、そのうち母の写真と実家の住所も探しておいてくださるって言ってた」
二人はまた、顔を見合わせた。これまた凄い特別待遇だ。
「じゃあ、晶、あなたここから出て行くの?」
妃穂が聞くと、パジャマに着替えて寝る準備をしていた晶が手を止めて返した。
「んん?」
「だって、早くも目的達成でしょう」
あそっか、と晶は納得した。そうだよねえと言いながら鏡と向き合って髪にブラシをあてる。
「どうすっかな、やっぱり出て行くべきかなあ」
「晶」
妃穂はあわてて言い添えた。
「そういう意味で言ったのではないのよわたくし。出て行ってしまうのかしらって、そうなら寂しいわってつもりで言ったのよ」
晶がブラシをかける手を止めて肩越しに振り向くと、妃穂は本当よと言うようににっこり笑った。
「迷惑じゃない?」
「迷惑じゃないわよ。そんなわけないでしょ。晶、あなたこそ、ここ、嫌い?」
「嫌いじゃない」
「本当? 無理してない? わたくしはもう初等部からここですから当たり前になっているけど、あなたみたいに外から来た人には、窮屈じゃない? 退屈じゃない?」
晶は白い歯を見せて目を細めた。
「窮屈じゃないし、退屈でもない。聖葉って確かに閉ざされたイメージがあるけど、中に入ってみるとあたしが想像してたのよりもずっとやさしくて、あったかくて、美しくて、おもしろいよ。居心地もいいしね」
「そう」
自分の古巣を褒められて、妃穂はほっとしたように肩を落とした。
「だったらこのままずっとここにいたらいいわ」
「……」
晶はブラシを片手に持ったまま、肩越しにじっと妃穂を見つめる。瞬きもせずに。妃穂は続けた。
「外の世界でなければできないことがあるなら別だけど。特にないならここにいらっしゃいよ。一緒に卒業しましょう」
「妃穂」
晶はブラシを置いて、完全に妃穂の方を向いた。
そして思いがけないことを言われたというように目を丸くしていたが、やがてゆっくりその目を細めた。
「ありがとう」