先生のコーヒー2
はじめて入る舎監室は思ったより小さな部屋だったが、こざっぱりとしていて温かかった。
出された座布団の上にちょこんと正座して、晶は部屋を見回した。
ベッドがあり、その隣には小さな本棚がある。何度も繰り返し読んでいるのだろう、本はどれも大切に扱われている気配があり、感じよく古びていた。
「お砂糖とミルクは、入れますか」
そうこうしているうちにキッチンでは湯が沸いて、コーヒーのいい香りがしはじめる。
「あ、いえ。ブラックで」
紀佐は一回分の粉をはかると、残りをすぐに冷凍庫にしまいなおした。
晶は壁にかかっている時計を見上げる。深夜一時半。思っていたよりずいぶん手間取ってしまった。先に寝ていてとは言ったものの、妃穂と茨木は多分起きて待っているだろう。
心配しているだろうか、と晶が思ったときに紀佐がコーヒーを運んできた。
「どうも。いただきます」
その香りにつられて早速一口飲んだ晶が、カップから口をはなすなり言う。
「なんですかこれ、うまいっ!」
「そうですか。それはよかった」
紀佐は自分の分も小さめのカップ&ソーサーに入れて持ってくると、小振りのテーブルを挟んで晶の正面に座った。
「なんつーか、濃いのに喉にするっと通りますね!」
「雑味がない、と言うのです」
へえ、と晶は感心したようにうなずいた。
「先生なんかこれ、お菓子が欲しくなります」
クッキーとかクッキーとかクッキーとか。あ、ケーキでも喜んでいただきますがという晶に、紀佐は半眼になった。
「……図々しいですよ、尾崎さん」
「だってすごく美味しいですもん。単品で飲むのがもったいなくて」
屈託なく笑う晶を見て、紀佐はゆっくり立ち上がりながらつぶやいた。
「血筋でしょうか」
「は?」
晶が聞き返したのには答えず、紀佐は戸棚を開いて中からバタークッキーの缶を取り出した。それを小皿に出してくれながら、紀佐は言う。
「あなたのお父様は、画家の尾崎竜世氏でしょう?」
それについては入学一ヶ月で既に学内では有名な話だったので、晶はさして不思議にも思わず答えた。
「はい、そうです」
「ということは、おかあさまのお名前は、志帆かしらね」
「……はい」
晶はやはりうなずいたが、今度はいぶかしむような声と顔だった。
「旧姓は、三沢志帆?」
「そこまでは知りません」
ただ名前は確かに志帆です。父が昔寝言で言ってましたから、と言う晶に紀佐はまたしても深いため息をついた。
尾崎竜世。口が堅いにもほどがある。
娘なのだから、それくらい普通に教えてやったらいいのに。
「そこまで知らなかったのですね……多分、それで間違いないと思いますよ」
そこでやっと晶は膝を叩いた。
「あ、そうか! 先生ここ長くていらっしゃるから! 母がいた当時のこと、もしかしてご存知なんだ!」
「そうですよ。三沢志帆さんがここにいたとき、わたくしは既に舎監でしたからね」
「うわあっ、そっか」
晶は両手で勢いよく膝を叩いたり、その手で口元を覆ったりして嬉しそうに興奮していたが、そのうちテーブルをぐるりと迂回して紀佐の隣に移動してくるや、感極まった様子で紀佐に抱きついた。
「嬉しい、ここに生き神様がっ」
「……」
沈黙が落ちた。
不穏な気配がするなあ、と思って晶は抱きついたまま紀佐の顔を見上げて言い直す。
「えっと、えー、生き字引?」
かな、と首を傾げた晶だったが、沈黙は続く。
紀佐は表情を大きくは変えないが、微妙に機嫌を損ねているのは晶にもわかった。あっそっか、とめどもなく年をとってる風の言い回しが気に入らなかったのかなと晶は思って、少々ご機嫌をとってみることにする。
「えっと、失礼しました。訂正します。──女神様?」
「女王様でしょう、それを言うなら」
間髪入れずに言い返されて、晶は肩をすくめた。
「へ、へーい……女王陛下」
ひょっとして笑うところなのかと思わないでもなかったのだが、紀佐があんまり真顔のままなので冗談か本気か区別がつかなかったのだ。でも『寮母さん』というより『女王陛下』のほうがぴったりかも、と晶が考えたとき、呆れたように紀佐が言った。
「気軽にスキンシップをとるところも、ほんとにそっくりです」
三沢志帆が聖葉に入ってきたのは秋の終わり、ひどく中途半端な時期だった。
単に娘をお嬢様学校へ入れたいだけならば、わざわざこんな山奥の、寮に入る以外に通う方法もないような学校に入れなくても、他にもっと交通の便のいいところがいくらでもあるわけだから、季節外れの転校生でなかったとしても、志帆が聖葉に来たというだけでわけありなのだと想像はつく。
志帆は物静かな生徒だった。
体も弱く、だからというわけではないが割と一人でいることが多いように、紀佐からは見えた。
あまり自分から活発に意見を言う方ではないが、かといって頼りなくふわふわしている印象はない。ただ口や態度に出さずにいるだけで、ひとつのことを強く胸に抱いてあたためているように見えた。
志帆と竜世とが出会ったのは、志帆が以前に通っていた学校の学園祭でだった。
そこは全寮制でこそなかったが、他は聖葉と同じように持ち上がり式の女子校で、やはりお嬢様学校だった。
そこで竜世は仲間何人かと、こともあろうに『学園祭ゲリラ』をやったのだ。
友達の恋を応援するためという名目ではあったものの、なんのかの言って本人も相当楽しんでいたことは間違いない。
もちろん、招待券を入手するという正攻法ではなく、体力と度胸にものを言わせて塀を乗り越えるという荒っぽいやり方だったので、竜世たちはたちまち見つかって追われることとなった。
竜世はそこで志帆と出会って、体は弱いくせに強い意思を持つ志帆に恋をする。
志帆のほうも同じだったのだろう。その後すぐに二人は付き合いはじめたのだが、これに志帆の両親が大反対をした。
もちろん外で会うことは許さなかったのだが、そこは竜世のこと。三沢家の外壁をよじ登って窓から顔をのぞかせては、志帆を喜ばせた。
そんなことをしているうちにそれがばれて、志帆は聖葉に入れられることになる。
ていのいい、虫よけ措置だった。
とそこまで話したところで、晶が片手をあげて紀佐の話を中断させた。
「先生。どうしてそんなに詳しいんです」
「あなたのお父さまから直接聞いたからです」
えええっ、と晶は座布団の上に座り直して身を乗り出した。
「先生、父に会ったことあるんですか!」
「ありますよ」
「なんで、どうして……あっ、学園祭の一般公開とかですか?」
紀佐は目を細め、当時のことを思い出すように宙を見上げた。
「三沢志帆さんがここへ来たのは秋の終わりのことでした。三沢さんは確か、次の年の学園祭を待たずにここを去ったはずです」
紀佐の言葉に、晶はひとつ納得した。なるほど、だから卒業アルバムをいくら探しても見つからなかったのか。
「大体あの子が、大人しく招かれるのを待ってるようなタマですか」
「は……我が父のことながら、ごもっともです」
お言葉遣いはともかくとしても言っていることは正しかったので、晶は神妙に同意を示したが、同時にこうも思った。
一体、なにをしたのだ、父。
紀佐先生に『タマ』だの『あの子』だの言われるような、なにを。
「今あなたが座っている、ちょうど同じところにあの子も座りました」
言われて晶は花柄の座布団を見下ろした。
ここに、父も。