第1話 手のひら
こころとはなんなのか。そもそもそんなもの存在するのか。心、それはその形は愚か、それがどこにあるのかさえもわからない。滞りなく血液を送る心臓のその奥にあるのか、それともこの掌の上にあるのか。
心あるが故に人は傷つけ、傷つき、すれ違う。それは時に大きな綻びとなり、音もなく崩れ去っていく。
さあ、若き少年よ。お前はどう足掻いてみせる。
桜の散りかけた四月中頃、オレはこの小学校に転校してきた。
「新しくこの学校に転校してきた速水冬馬くんです。さあ、みんなにひとことどうぞ」
このクラスの担任は若い女の先生で、まだどこかたどたどしかった。
そして黒板の真ん中に白いチョークで書かれた自身の名前は、少し左に傾いていた。
「速水冬馬です。岐阜県からきました。よろしくお願いします」
一番後ろまで聞こえるように出した大きめの声は静かな教室にジワリと広がっていく。
ちゃんと聞こえただろうか、どこかおかしくはなかっただろうか。そんな不安を胸に隠し、新しいクラスメイトの様子を伺う。じっとこちらを見つめる目がいくつもあって、心臓の鼓動が速くなる。オレは手をぎゅっと握りしめた。
すると一番後ろに座っていた男子生徒がパチパチと手を叩いた。すると他の子もそれにつられるようにパチパチと手を鳴らし、やがて大きな拍手へと姿を変えた。
「よろしくー!」
さっきの男子生徒が人懐っこい笑みを浮かべて声を上げた。それに続くようによろしくという四文字が教室を飛び交う。
それが自分を受け入れてくれたように感じて胸を撫で下ろした。
「はいはい、静かに!」
先生が大きく手を叩き、自分に注目を集める。
「みんな速水くんに聞きたいことがいっぱいあると思うけど、まずは始業式だからね」
速水くんの席はあそこね、と指さされたのはひとつだけぽっかり空いていた空席。
「はい、わかりました」
先生はオレの返事に満足そうに頷いて、再び口を開いた。
「じゃあ廊下に出席番号順に並んで!体育館に移動するよー」
教室にいた生徒が一斉にこちらに寄ってくる。
「ねえねえ、前の学校ってどんな感じだったの?」
「いつ引っ越してきたの?」
「なんて呼べばいい?冬馬って呼んでいい?」
こちらが答える間も無く次々と質問が降ってくる。あっという間に囲まれてしまって、オレはどれから答えようかと頭を抱える。
「ちょっと早く並びなさい!」
先生の少し怒ったような声にみんなビクリと肩を跳ねさせた。そして諦めたように廊下へと足を向ける。その集団の中にさっきの男子生徒を見つけた。
「あ!」
オレの声に振り返ったその子と目が合う。彼は不思議そうに首を傾げた。
「えっと……」
いざ対峙すればなんて言えばいいのかわからなくて、もごもごと口を動かす。言葉を選びきれないでいるオレに、彼はへらりと笑ってこちらに手を差し出した。
「俺、ゆうせい!片岡悠星!よろしくな」
はきはきと話す彼、悠星くんに圧倒されながらもなんとか差し出された手を握る。
「よ、よろしく」
正直雪斗のいない学校で友達ができるのか不安で、昨日は緊張してよく眠れなかった。しかし握った悠星くんの手は温かくて、肩からすっと力が抜けた。緊張のあまり無意識のうちに力が入っていたらしく、肩が軽くなった。
そんなオレに気づいたのか、はたまたそうではないのか、悠星くんはオレの手を思いっきり引っ張った。
「ほら行くぞ!先生に怒られる!」
その強引さに驚きながらも、慌てて彼の後を追う。短く切られた黒髪は涼しげで、彼の気取らない笑顔をより一層際立たせていた。
結局、自己紹介の時のお礼は言えないままオレはみんなが並ぶ廊下へと繰り出すのだった。
それから二ヶ月と少し経った頃。春に花を咲かせた桜の木々は、青々とした葉を実らせている。すっかり日は長くなり、ギラギラと照りつける太陽に溶かされてしまいそうだ。
このクラスにも大分慣れて、今では他のクラスにも友達がいるくらいだ。それも悠星が昼休みに鬼ごっこやらドッチボールなどに誘ってくれたおかげで、もうお互いを“冬馬”、“悠星”と呼び合うほどになっていた。
しかし事件は起きた。それは突然に、なんの前触れもなく。いや、予兆はあったのかもしれない。しかし、いつも自分のことで精一杯のオレにはそれを察知することができなかった。
「冬馬!今日こそ学校終わったら遊ぼうぜ!」
それはいつものようにクラスの仲のいい子達と一緒にドッチボールをした後のことだった。
「今日かー……」
昼休みの終わりを告げる軽快な音楽が校庭に響き渡っている。
「たまにはいいだろ?」
「冬馬、放課後は全然遊んでくれねえもんなあ」
一緒のチームで遊んでいたトシくんも話に加わる。
「弟のお見舞いだっけ?」
掃除場所に移動してください、という美化委員の声がスピーカーから聞こえてきた。
オレはほとんど毎日のように雪斗のお見舞いのため病院に通っていた。昨日も見舞いに行ったが、新しい薬のせいかあまり顔色が良くなかった。
「今日くらいいいだろ?実は今日___」
「ごめん今日は無理だ」
雪斗の青白い顔を思い出す。
「ユキ、今あんまり調子良くないみたいで……」
オレにできることなんてないけれど、少しでも力になれれば。少しでも長くユキのそばにいてやりたい。
「……そうかよ」
それはとても素っ気ない声だった。
いつもと違う声色にオレは慌てて顔を上げる。そこでオレは初めて悠星の顔を見た。弾けんばかりのいつもの笑顔はそこにはなく、その代わり眉間には深い皺が刻まれている。
空気がピシリと固まった気がした。
「ゆ、悠星……」
彼に伸ばした腕はあっさりと振り払われ、オレの手は空を切る。
悠星はそのままオレに背を向けて歩き出した。言いようのない焦りがオレを包み込む。しかしなんと言って引き止めればいいのかも分からず、掃除を始めてくださいというアナウンスがオレを急かす。
「おい冬馬ー?掃除始めるぞー」
同じ班の子に腕を引っ張られ、オレは結局何も言えなかった。
明らかに不機嫌になった悠星。重たいほどのピリつく空気は決していい雰囲気ではなかった。
怒らせてしまった。ここに来て一番最初にできた友達を、一番仲の良い友人を。
どうしよう、どうしよう。
結局掃除の時間中ずっと悠星のことを考えていたオレは、班長にちゃんと掃除をしろと怒られてしまった。
眩しいくらいに照りつけていた太陽は、雲の後ろにすっぽりとその姿を隠してしまっていた。