第3話 鈴の音
少しの肌寒さを残しながら去って行く春の風は、オレの髪の毛を揺らした。どこからか運ばれてきた桜の花びらはあっちへこっちへと不規則な動きを繰り返し、砂で汚れたコンクリートの上を転がっていく。頭上にはまだ太陽がその顔を覗かせている。
オレは結局探検をしに外に出てきていた。いや、出て行かされたと言った方が正しいかもしれない。「荷物が来るまでは何もやることがないから」と、まだテレビも来ていない家から追い出された。どうせ家にいても暇な時間を過ごすのだから不満はないのだが、「子供は風の子」と言ってオレの背中を押してきた父には少しばかり疑問が残る。
「たしかユキが寒くて外に遊びに行きたがらない子どもに言うことわざって言ってたような……」
誰に向けたわけでもない独り言は、春の風に乗せられて飛んで行く。
この前買ってもらった赤いスニーカーは早く歩きたいと言わんばかりにオレの視界に飛び込んでくる。オレは前を見据えて片足を引いた。よーい、ドンッ!という声は聞こえない。でもオレは真っ直ぐに勢いよく駆け出した。目の前に続く一本の上り坂を一気に駆け上がるように。
息が上がる。空が眩しい。腕が疲れた。でも、もっと、もっと。足で地面を蹴って膝を上げる。風が抜ける、風を追い越していく。時折視界に入る前髪なんて気にもならなくて、オレはただただ真っ直ぐに走った。
流れてゆく景色は知らないものばかり。青い屋根の家も、オレに向かって吠えた犬も、今すれ違った人だってオレは知らない。何も知らない。目に映る全てが新しい。
オレはドキドキと心拍数が上がるのを感じていた。それが走ったからなのか、新しい土地への興奮からなのか、はたまたそのどちらからも来るものなのか。鼻から息を吸い込めば、また春の匂いがした気がした。
「あれ?」
坂を登りきる少し手前でオレは足を止めた。道の脇に上へと登る石階段があったからだ。その階段を見上げてみれば、随分と上まで続いているようだった。
階段の両脇には生い茂る木々、よく見れば足元に祠のようなものが置いてある。
「……なんか出そう」
それは率直な感想だった。高く伸びた木々のせいで日が遮られ、薄暗い石段はまるで別世界の入り口のよう。
走ったせいで上がった息を整えながらオレは考える。ザワザワと音を立てる草木は気味が悪いし、少し崩れた石階段は人があまり来ないことを証明していた。しかし気味の悪さからくる恐怖心よりも勝るものがオレの中にあった。それは好奇心だ。この階段の先に何があるのか気になって仕方がない、行ってみたい、見てみたい。そんな気持ちが恐怖心を吹き飛ばし、オレの心を動かす。
そしてオレはついに階段に足をかけた。一段、また一段。登るたびに視界は暗くなり、草木の揺れ動く音が大きくなる。サワサワと影が揺れる。葉と葉の隙間を縫って差し込む日差しは、やけに頼りない。
途端、一際強い風が吹き抜ける。木々の間を抜けて吹き上げる風はガサガサと声を上げる。ザワリ、ザワリと音を立てる木々はまるで息をしているようで、オレはゴクリと唾を飲み込んだ。風が冷たいとか、温かいとか、そんなこと気にしていられなかった。ザワザワと騒がしい草木に耳を澄まし、目だけを動かしてあたりを見渡す。階段脇に生い茂る草木の奥は暗く、深い。またザワザワ、ザワリと声が聞こえた気がした。すると背筋がぶるりと震えて、スーッと冷たい風が抜けた。オレはゆっくりと後ろを振り返ろうとして、首を止めた。オレの後ろに立つ大きな木が声を上げたのだ。何本も伸びた枝に数えきれないほどの葉をつけ、それを一斉に揺らす。今まで聞こえていた音が幾重にも重なり、背後から迫って来る。ザワリ、ザワザワガサ。だんだんと大きくなる音に、冷や汗が滴れる。次の瞬間木々が騒ぐ声がさらに大きくなったと同時に吹き抜けた風に背中を強く押された感覚がして、オレはついに走り出した。一度も振り返らず、ただ前だけを見て階段を駆け上がる。唸るような草木の声はまだオレを追いかけて来る。
早く、速く、はやく!もっとはやく動けオレの足!もっと、もっと……っ!
終わりは見えているのになかなか最後の一段には届かなくて、もう終わりなんてないんじゃないかと頭の中でひどく冷静な自分がいた。
でもそんな不安とは裏腹にちゃんとその時はきた。
飛び込むように最後の一段を登りきったオレは勢い良く後ろを振り返る。
「はあ…‥、げほっ……」
その先には長い長い階段が下へと伸びているだけだった。大きな木が追いかけて来ているわけでもなく、誰かがいるわけでもなかった。
「な、なんだよ……」
びっくりした、そんな言葉は声にすらならなくてオレはその場にしゃがみこむ。
ドクドクと脈打つ心臓の音が頭の中に響いて気持ち悪い。酸素が思うように肺に入ってこなくて苦しい。勝手に追いかけられてる気分になって必死に走った自分が恥ずかしい。
でもその全てがなんだかおかしくて、思わず笑いが漏れる。
「バッカみてえ!」
ハハッと笑った声は思ったより辺りに響いて、それさえも可笑しかった。
膝を抱えて笑っていれば耳に届く高い音。
チリン……___。
静かに響く鈴の音。
その音の近さに驚いて、勢い良く顔を上げる。一番にオレの目に飛び込んできたのは白い胴体。次に三角形の形をした耳。そして青い瞳。
「ね、ネコ!?」
白い毛並みは汚れを知らず、キラキラと輝いている。スラリと伸びた長い尻尾には鈴が一つ。
青い瞳は真っ直ぐとオレを捉え、離さない。その瞳はいつの日かテレビで見た海のようにきらめいて、今朝見た青空のように澄んでいる。
「ミャーオ」
猫は尻尾の鈴を鳴らしてオレの意識を引き戻した。
オレはハッとして猫へと手を伸ばす。
「お前なんでしっぽに鈴なんか……」
しかしオレの手をするりとかわして、猫はオレに背を向けた。短い手足を動かして奥へと進んでいく。
「あ、鳥居?」
必死に階段を駆け上がってきたために目に止まらなかった大きな鳥居がオレの前にそびえ立っていた。石で造られたそれは名も知らぬ草木が絡み、ところどころ汚れている。
ぼーっと鳥居を見上げていれば先ほどの猫がまた「ミャーオ」と鳴いた。
声のする方をみれば、猫がこちらを振り返りじっと見ている。まるでオレのことを待っているかのような姿勢に、慌てて歩み寄る。
すると猫は再び歩き出し、しばらくしてからまたチラリとこちらを振り返った。まるでついて来いとでも言わんばかりのその態度に、オレは少し困惑しながらもその後を追った。
「ネコって警戒心強いんじゃないのか?」
「……」
そんなオレの疑問に答える声はもちろんなく、その代わりとでもいうように鈴の音が静かに響いた。