第3話 秋風
赤く染まり始めた木々たちが、すっかり冷たくなった秋風に揺れた。ザワリ、ザワリと。
遠い空に重なるように、葉の赤が空の青に映える。
空はどれだけ手を伸ばしても届かないのに、その木はオレなんかよりずっとずっと空に近い気がした。
十月の中頃、土曜日。
冬馬の見舞いには行かずに、オレは病院近くの公園で時間を持て余していた。
真新しいベンチに腰掛け空を見上げてから、一体どれくらいの間こうしているのだろうか。いつしか鳥の声は聞こえなくなり、白い雲がゆっくりと流れていく。ふわふわと浮かぶその白い塊を目で追いながら、視界に入ってきた太陽の眩しさに思わず目を閉じた。
鼻から吸い込んだ空気は、夏の乾いた匂いとは違う秋の匂いがした。温かさの残る、でも少し冷たいそんな匂い。
ザワザワと乾いた葉がぶつかる音が鼓膜を揺らす。その音はあの森の声とは違っていた。けれどあの夏の日を思い出すのには十分で、オレは重たい息を吐き出した。
再び目を開けて眩しい空をこの目に映し出す。すると一本の飛行機雲が空を切り裂くように伸びていた。それはまるで理想と現実を切り離す、残酷な運命のように。
オレはそれから逃げるように日当たりのいいベンチから立ち上がった。
エレベーターが重力に逆らって登っていく感覚に酔いそうになりながらもなんとか五階にたどり着いた。
足取りは重く、なかなか前へと進まない。しかし動かし続ければたどり着いてしまう目的地を思い浮かべては、また重たい息を吐き出すのだ。それはまだ明るい病院の廊下に溶けて消えていった。
五〇五と書かれた病室の前でオレは足を止める。
あの日から、トキセに最後に会ったあの夏の日から、雪斗を訪ねるオレの足取りは重い。鉛を括り付けられたように、自分の足を思うように動かせない。
結局のところ雪斗に合わせる顔がないのだ。あと三ヶ月しか生きられない弟に合わせる顔が。
病室の前で立ち尽くすオレを不思議そうに見る看護師の視線が突き刺さる。それに背中を押されるように、ドアの手すりに手をかけた。
ガラリと音を立てて開く扉。足元に落としていた視線を上げれば、大きな窓がまた空を映し出していた。
「トーマ?」
ベットまで近づけば体を起こした雪斗がこちらに声をかけた。
「遅かったね」
ヘラリと笑いながらオレの方を見る冬馬の顔色は随分と調子が良さそうだが、その体は随分と痩せてしまった。
「起きてて平気なのかよ」
「大丈夫だよ。今日は調子がいいんだ」
そう言って本のページを捲る姿は確かに元気そうで、体こそ痩せてしまったがとてもあと三ヶ月で__。
そこまで考えて、次の言葉を出すのをやめた。その言葉を選んでしまえば、本当に現実になってしまう気がしたからだ。
不確かな未来を想像して手が震えた。オレはそれを隠すように自分の手を自身の手で握りしめた。
ぎゅっと目を瞑ったところで、冬馬の柔らかい声が狭い病室に響いた。
「なにか、隠してる?」
その声にドキリと肩が飛び跳ねた。
ギギギ、と首が音を立てるようにゆっくりと雪斗の方に顔を向けた。しかし雪斗は本に顔を向けたまま、その目は縦に並ぶ難しい字を追っている。
「なん、で……?」
ポタリと点滴が一粒落ちる。
雪斗はチラリとこちらを見やり、再び本へと目を向けた。
「なんとなく」
その適当とも取れる返事に拍子抜けする。
「は?」
「トーマは顔に出やすいからね」
パラリ、ページが捲られる。
「昔から怒りっぽいし、無鉄砲だし」
廊下から人の話し声が聞こえてくる。やがてその声は病室の前を通り過ぎた。
「そのくせなにか隠してる時はすぐ黙る」
ほんとわかりやすいよね。と雪斗はクスクスと笑いながら本を閉じた。そしてこちらに顔を向ける。
「そんなんで僕がいなくて大丈夫?」
首をかしげるようにして小さく笑う姿に、背筋がひやりとした。
雪斗は自分がいない間に家や学校で大丈夫か、という意味で聞いたのかもしれない。
それなのに動きを早めた心臓の音がうるさいくらい聞こえてくる。
「なに、言ってんだよ……」
指先が冷たくなった自身の手を強く握りしめた。
「トーマは危なっかしいからなあ」
窓から差し込む傾いた太陽の日差しが、雪斗の輪郭をぼかす。その存在があやふやになっていく。
「そ、そんなの……!ユキが居てくれれば__」
「無理だよ」
オレのより少し高い雪斗の声が言葉を遮る。
「それは無理なんだよ」
薄い唇から発せられるその声は、なにもかも察したような諦めたような、そんな声色。
心臓が重くなったような感覚がした。ズシリと重みを増したそれはもう息が詰まりそうなほど苦しい。
「なにわけのわからないこと言ってんだよ!!そんなはずないだろ!!」
病院には似合わない大きな声が病室にこだまする。
「これからもユキは……、雪斗は……!」
なんだというのだ。これからも雪斗はなんだというのだ。
これからも生きていけるとでもいうのか。そんな根拠のない台詞を、オレは今の雪斗に言えるのか。
三ヶ月後“死んでしまう”かもしれない雪斗に。
ずっと避けていたその言葉が頭に浮かんだ瞬間、息が止まったような気がした。
嫌な汗が頰を伝う。
その時、オレの手に何かが触れた。温かい、何かが。
「大丈夫だよ、冬馬」
それは雪斗の白い手だった。
「自分のことは自分が一番よく分かってる」
その手は小さくて、伸びる腕は細くて頼りないのに、震えるオレの手をしっかりと握りしめている。
『分かってる』と言った雪斗の目は少し震えていて、それでも優しい眼差しでこちらを見ていた。
なんでだよ。なんでなんだよ。
苦しいのはオレじゃない。悲しいのはオレじゃない。
本当に辛いはずなのは雪斗のなのに、なんでこんな時もオレの心配をしてるんだ。
オレの手を握りしめる手は温かいのに。たしかにここに存在しているのに。
なのに、どうして、消えてしまうのか。
微かに震える雪斗の手は、こんなにも生きたいと願っているのに。
ちゃんと、今ここに生きているのに。
これも全て運命だと、そんなちっぽけな言葉で納得できるほどオレはまだ大人じゃない。




