第1話 通学路
例えば太陽がなかったとして、この世界は生まれただろうか。
仮に月がなかったとして、人は昼と夜を分けただろうか。
人が生まれる前からずっと太陽は決められた軌道を回り、月は必ず顔を出していた。
それに後から人の子が“時間”を当てたに他ならない。太陽が顔を出し、月と入れ替わり夜が更けるまでを一日と数え、それを二十四時間に割ったに過ぎない。
しかし人は誰一人、自分の時間を把握してはいない。自分に残された時間を、寿命というものを。
俺はまだ、人の時間の価値を測りかねている。
燃え上がるように暑かった夏の日差しがいくらか優しくなった九月中頃。季節は秋へと移り変わろうとしていた。
深い緑色をしていた葉っぱは少しずつその色を変え、黄色と赤色が見え隠れしている。
「もうすぐ運動会だなー」
日も短くなり学校からの帰り道も、すでに日が傾き始めていた。
夏休みを除けば約五ヶ月ほどしか通っていない通学路が、もうずっと前から知っているように思えてオレは空を見上げた。でも大きな夕日が空の青を奪っていくその様子は、初めて目にするものだった。
「おい冬馬、聞いてるのか?」
悠星の声がずっと近くで聞こえて、オレは慌てて横を向いた。
「ご、ごめん!聞いてなかった」
申し訳ないと手を合わせれば、ヒロもトシも大声を出して笑った。その声が影の伸びる通学路に響く。
「だーかーらー!運動会の話だって!」
悠星が勢いよくオレの肩を叩く。その衝撃によろめきながらも、なんとか足に力を入れて転ばないようにする。ランドセルに付けられた箸袋がガシャリと揺れた。
「隣町の運動会は春なんだよなー」
「熱中症対策だろ?いいなー」
「九月ってあっついもんなあ」
思い思いの言葉が口から漏れる。
夏休みが終わっても急に夏が終わるわけもなく、まだまだ暑い日が続いていた。まるで運動会の練習に気合の入るオレたちと一緒に、太陽もその熱を上げているようだった。
「冬馬ん家は?誰か見に来るのか?」
いつの間にかまたぼーっとしていたようで、急に話を振られて肩が飛び跳ねた。
「運動会だよ、運動会!」
「冬馬また聞いてなかったな!!」
トシがオレの肩に腕を回し、悠星はオレにのしかかってきた。それにヒロが大きな口を開けて笑う。
「父さんと母さんだよ!」
小学生のじゃれ合いが夕焼けの滲む小道に映し出される。長く、色濃く。
「雪斗くんは来れるの?」
暑さが纏わりつく帰り道に、冷たい風が地を這うように吹き抜ける。
聞こえなくなった蝉の声と引き換えに、ヒグラシの鳴く声がどこか遠くから聞こえた。
「いや、ユキは……来れないよ」
「手術は成功したんだろ?」
「うん……」
ヒロの言葉にオレは何も答えることができない。
それを見かねて、悠星が口を開いた。
「雪斗くんが運動会なんか来たら、それこそ熱中症になっちまうよ!」
それを聞いてヒロもトシも納得したように、そうだなと言って笑った。
オレはほっと胸を撫で下ろしチラリと悠星を除き見れば、彼はこちらを見ないままポンポンと肩を二回叩いた。
それが『大丈夫だよ』と言っているように思えて、なんだか少し泣きそうになった。
空を赤く染めた夕日がオレたちが歩くこの道のずっとずっと先に沈もうとしていた。
夕焼けに染まる病棟、五階。一人部屋の病室にその姿はあった。
ピッ、ピッ、と波のようなものを映し出す画面が青白く光る。ポタリ、ポタリと同じ感覚で落ちる点滴が雪斗の白く細い腕に繋がっている。口元に付けられた呼吸器が白く曇った。
「……トーマ?」
くぐもった声が呼吸器の隙間から漏れ出る。その声は気を抜けば聞き逃してしまいそうだった。
あれからしばらくして雪斗は意識を取り戻し、顔色もだいぶ良くなった。母から聞いた話だと呼吸器ももうすぐ取れるらしい。雪斗は順調に回復の一途を辿っていた。
しかし、オレの心は晴れない。
あの日、あの暑い夏の日、花火が打ち上がる音と共に見たものを思い出しては足元がふらつく。あの日からずっとオレはこの地に立っている心地がしなかった。ふわふわと体が浮いているような、どこか夢を見ているようなそんな感覚。
それなのに雪斗の姿を見れば、雪斗の声を聞けばいとも簡単に現実に引き戻される。現実から逃げることは決して許されないとでも言うように。
病室の窓から下の方だけ赤い空が覗いている。外はもうすぐ夜に飲み込まれてしまいそうだ。
この空と共に嫌なことも全部飲み込まれてしまえばいいのに、なんて馬鹿なことを考えてしまう。
「どう、したの……?」
雪斗の黒い目がこちらを捉える。
こんな時でもオレのことを気にかける双子の片割れは、オレなんかよりもっとずっと頼もしい。
夜に飲み込まれた病室は、少し肌寒かった。
欠けた月はここに。
望んだ未来はどこに。
揺るがぬ現実は、すぐそこに。




