第3話 恐怖
雪斗は昔から体が強い方ではなかった。運動会の次の日は熱を出したし、遠足だって体調を崩して行けなかった。高熱を出した時は入院だってしたし、しばらく保育園を休んだこともあった。それに比べてオレはいたって健康で、去年は一回も学校を休まなかった。「双子でもこんなに違うのね」と笑った母の顔を今でも覚えている。
そんな雪斗の体に異常が見つかったのは病院で心電図検査を行った時だった。心臓の音に異常が見つかり、地元の小さな病院に検査に行けばもっと大きい病院で診てもらった方がいいと言われた。そこで一番近い県病院で検査をしたところ心臓に異常が見つかったのだ。
病名は確か『特発性拡張型心筋症』。本来心臓とは収縮と拡張を交互に繰り返し、血液を全身に送り出す働きをしている。しかし心臓の筋肉を収縮する機能が低下し、心臓が風船のように膨らんでしまうことがある。これが拡張型心筋症の主な症状である。
この病気は主な原因が解明されておらず、これといった確実な治療法が確立されていない。その事実はオレたち家族を絶望に突き落とすには十分過ぎる衝撃だった。
薬による治療もあるが、それはあくまでも病気の症状を和らげたり進行を遅らせたりするためのもの。決して病気が完治するわけではない。
そこで残された治療法は心臓移植のみ。しかし心臓移植はリスクも高ければ、長時間の手術に耐えられる体力も必要とされる。だから雪斗の治療のためにも質の良い治療と、移植手術をしてくれる大きな病院に転院してきたのだ。
遂に、遂にその時がきたんだ。これは雪斗を永らえさせるための最終手段ではない。雪斗が元気になるための一つの通過地点だ。
蝉の鳴き声もむせ返るほどの暑さも姿を消すことを知らず、今も分厚い入道雲の下でその存在感を露わにしている。
そんな外の景色を横目に、オレはベットで体を起こしている雪斗へと視線を移した。いつも通りの沈黙が俺たちを包み込む。文庫本に向けられた目から伸びる睫毛が、その頰に影を落としている。窓から差し込む柔らかい日差しに当てられて、その瞳がキラリと輝いた。
燃え上がるほどの夏の日差しに焼けることを知らない白い肌は、雪斗の姿を弱々しく映し出す。パジャマから伸びる腕は細くて、力を入れたらポキリと折れてしまいそう。頭を支える首だって、オレに比べたら一回りも細いんじゃないかと思うくらいだ。
白い病室に浮き出る雪斗の姿が今にも消えてしまいそうに見えて、オレは雪斗をこちらに引き戻すように慌てて口を開いた。
「ユキ!」
静寂を押し破るようにしてオレの声が病室に響いた。
雪斗は本から顔を上げ、驚いたように目を見開いてこちらを見つめている。
「な、何」
その黒い瞳には雪斗と似たような顔のオレがしっかりと映っている。
それに何故だかホッとして、オレは胸をなでおろした。
そんなオレに訳がわからないとでも言いたげに、雪斗は眉間に皺を寄せる。
「なんだよ」
雪斗はもう一度そう言ってオレの頭を軽く叩いた。
窓は開いていないはずなのに、カーテンがふわりと揺れた。光が波を打つ。
「よ、呼んでみただけ」
歯切れの悪いオレに納得していない雪斗はジトリとオレを見つめる。
その視線から逃げるように次の言葉を探した。
「つ、次の本!次に読む本何がいい?」
彷徨わせた目線を雪斗の手元の本に落とし、オレは思いついたように言った。
「それ、もう読み終わるだろう?」
人差し指で本を指差して聞けば、雪斗の目も文庫本へと向けられた。
「ああ……」
雪斗はまだ読んでない残りのページを左手の指の腹で撫でる。縦に並べられた小さい文字がこちらを覗いた。
雪斗は考え込むように本を見つめたまま口を噤む。
再びオレたちの間に静寂が訪れた。
本を見つめているはずの雪斗の目が全く別の何かを見ているようで、オレは少しだけ怖いと思った。その根拠はないけれど、どこを見ているかわからないような雪斗の目がただただ怖かった。
そんな雪斗にまた声をかけようとして口を開きかけた時、オレより先に雪斗が口を開いた。
「同じ作家さんの本がいいな」
ふっと口を緩めて雪斗はそう言った。
「え?」
長い沈黙の後で雪斗が放った言葉は、そんなありきたりなセリフだった。何かを深く考え込むように閉ざされた口から発せられるには、あまりにも普通の言葉だった。
じゃあ何を言いだすと思ったのか、と問われてもオレは答えることができない。
ただ目を伏せてじっと動かない片割れの横顔は何か難しい事を考えていると直感的に思ったのだ。それが双子だから感じ取った何かなのか、的外れなオレの勝手な勘違いなのかはわからないけれど。
「次があるなら」
雪斗は本をパタリと閉じてこちらを見る。
「同じ作家さんの本買ってきて」
そう言ってオレとそっくりなその人物は、ひどく儚い、小さな笑みを浮かべた。
病室に差し込む太陽の光は雪斗の色の白い顔を照らし、その境界を曖昧にぼかす。
オレは慌てて雪斗の腕を掴んだ。
夏の日差しに、今にも溶けてしまいそうな大事な弟を。
「なに言ってんだよ!」
勢いよく立ち上がったせいで座っていた椅子が大きな音を立てて床に倒れこんだ。
掴んだ腕は思っていたよりもずっと細くて、やっぱり簡単に折れてしまいそうだった。
驚きで見開かれた瞳はさっきよりもはっきりとオレの姿を映している。
「次もあるに決まってんだろ!」
オレの声は本来静かであるための病室にはおかしなくらい不釣り合いだ。
太陽が雲に隠れたのか、病室が少し暗くなった。ぼやけた輪郭が、はっきりと戻ってくる。
「ユキはこれから何冊も、何十冊も読むんだから!」
心臓が嫌な音をたてた。軋むように、締め付けるように、胸のあたりが悲鳴をあげた。
まるで雪斗が自分に『次』がないと思っているようで、まるで自分には『未来』がないと言っているようで、嫌な汗がオレの背中を伝った。
「だから、そんなこと言うなよ……」
オレは掴んだ腕を握りしめる。
ここに雪斗がいる事を確かめるように。これからもここに存在することを自分に信じ込ませるように。次もあることを、未来もあることを言い聞かせるように。
ぎゅっと目を瞑れば、オレの手にそっと温かいものが添えられた。驚いて目を開ければ雪斗の白い手が、オレの日に焼けた小麦色の手に重ねられていた。
「そうだね……」
雪斗は小さく、そう呟いた。目を細めてオレの腕を見つめるその主は、一体何を考えているのだろうか。
「次も、あるよね……」
オレは雪斗の細い腕が小刻みに震えていることに気がついた。咄嗟に空いていたもう一方の手で、その震える手を包み込んだ。
「ボク怖いんだ」
雪斗が顔を俯かせる。
「トーマ、ボク……、手術こわいよ」
オレの手の甲に、透明な雫がポタリとこぼれ落ちた。ポタリ、ポタリ。二つ、三つ。重なり、混じり合った粒は、小さな水たまりを作り出した。
ぎゅうっと痛いほどオレの手を握りしめる。その細い腕のどこにそんな力があるのか、どこからそんな力が出てくるのか。
オレは震える小さな体をそっと抱きしめた。震えた声も、その肩も、手も、まるで雪斗の心が震えているようだった。
雪斗の薄い背に回した腕に力を込める。潰してしまわないように、壊してしまわないように。そしてその存在を確かめるように。
握った震える手も、抱きしめた細い体も、ちゃんと温かい。間違いなく雪斗は生きている。今、ここに確かに存在している。
「大丈夫だよ」
ゆっくりとその背中を撫でる。
「きっと大丈夫」
なんの根拠もない、無責任なその言葉しかオレには思いつかなかった。それでもそうであってほしいと、そうなってほしいと願うように呟くしかなかった。まるで自分に言い聞かせるように、何度もその言葉を絞り出す。
雪斗はそれに答えるように何度も、何度も、力強く頷いた。




