4:食べ物への執着が凄まじい
従兄とランニングをした後、私はすぐに部屋に戻って服を着替えた。
全身が汗でベタベタしている。
リュゼは涼しい顔をして、汗ひとつ流さずに走っていたのに……
汗を流してスッキリしたいところだが、この少女漫画の世界には風呂というものがない。
熱いシャワーも存在しない。
風呂に入れるのは、一日一回。
メイドがバスタブに湯を汲み入れ、それに浸かりながら体を洗う……いや、洗ってもらうのだ。
伯爵令嬢でさえ、この有様。それより身分の低い人々の風呂事情は、推して知るべしである。
「ああ、汗臭い……」
私の悩みは尽きない。
(これから午後の授業があるけれど、臭いままだし家庭教師に申し訳ないなあ)
正直、ここまで臭くなるとは思わなかったのだ……おそるべし、ブリトニーの体臭。
ドレスに着替え直した私は、メイドに髪を整えてもらい勉強机の前に座った。
今日の授業は、歴史と刺繍だ。
勉強の苦手なブリトニーだが、前世の記憶が戻ったことにより、歴史と刺繍くらいならなんとかなる。
勉強嫌いのブリトニーの受ける授業は、歴史と刺繍、マナーとダンス、詩と音楽……それくらいに絞られていた。しかし、出来の方はお察しだ。
歴史の時間は昼寝の時間になり、刺繍はガタガタ、最低限のマナーは身についているものの、ダンスでは教師の足を踏みつけて骨折させている。詩の才能は壊滅的で、歌や楽器演奏は、もはや公害のレベルだった。
最初は意欲に燃えていた教師陣も、ブリトニーの凄まじさを目の当たりにして、最近は少し投げやりになっている。
「もう少し早く記憶が戻っていれば……」
後悔するがもう遅い、今から真面目に勉強するしか道は残されていないのだ。
真面目に勉強したところで、才能を必要とする詩や音楽が改善されるとも思えないが……
※
歴史と刺繍の授業を終えた私は、夕食を食べるためにダイニングへ向かっていた。
伯爵家では、夕食は家族で食べるという決まりがある。
家族といっても、祖父とリュゼと私の三人だけのこぢんまりとした食事だ。
もちろん、周囲に使用人がいるのだが、彼らは壁と一体化して気配を殺している。
家庭教師による本日の授業は、概ね上手くこなせたと言って良いだろう。
初老の男性歴史教師は、私が変なものを食べたのではないかと心配し、刺繍の若い女性教師は、突然上達した生徒の腕前を見て、才能が開花したのだと狂喜した。
それはさておき、私は祖父に授業の追加をお願いするつもりだった。
伯爵家の人間として必要な地理、経済、政治などについて最低限の勉強はしておきたい。
食卓に並べられた私専用の特別メニューを見て、祖父とリュゼがパチパチと瞬きをしている。まるで、目の錯覚が起きているとでもいう風に。
今日の私の食事は、コックに頼んでおいた通りのヘルシー料理だ。野菜を中心に、脂肪は控えめに、量は少なめに作られている。
「ブリトニーや、どうしたんだい。お腹の調子が悪いのかい?」
急に食の細くなった孫を心配した祖父が、気遣わしげな視線を向けてくる。
(違うのよ、そうじゃないのよ、お祖父様)
私は、慌てて言い訳をする。
「ダイエットを始めただけで、いたって元気ですよ。太りすぎは体に良くないので、痩せることにしました」
婚約破棄云々という説明は、祖父に言わないほうが良いだろう。
彼は可愛い孫が振られたことに、当人以上にショックを受けているのだ。
「でも、そんな食事じゃお腹が空いてしまうよ。あとで、お菓子を用意してあげよう」
サルース・ハークス伯爵は、とことん孫に甘いお祖父ちゃんであった。
でも、今は、その優しさは逆効果。夜のお菓子なんて、言語道断である。
これ以上、体重を増加させるわけにはいかないのだ。
「いいえ、お祖父様。お気持ちだけで十分です」
祖父の好意を断るのは心苦しいが、仕方がない。
私は、無心になって芋虫のごとく野菜を頬張るのだった。
そして夜、待ちに待った風呂の時間だ。
私は、使用人に大きな体を洗ってもらう。
記憶が戻った今、他人に洗ってもらうという行為に若干の抵抗はあるが、伯爵令嬢として諦める他ないのだろう。
それにしても、面積の広いブリトニーの体を洗うのは大変そうだ。
使用人二人がかりで、隅々まで洗われている。
(これで、昼間かいた大量の汗は綺麗になったかな……元々の体臭はどうにもならないけれど)
しかし、贅沢を言ってはいけない。
私は伯爵令嬢であるだけ、マシなのだから。
今、私の体を洗ってくれている使用人たちは、冷たい水に濡らした布で体を拭くことしかできないのだ。
風呂から上がり、寝巻きに着替えて寝台に横になる。
「……お腹が空いてきた」
白豚令嬢の巨大な胃は、さっそく食べ物を求め始めている。
予想はしていたが、ヘルシーメニューだけではブリトニーの体は満足しないらしい。
いつもは夕食の後に夜食やお菓子を食べまくっているのだから、あんな食事で足りるわけがないのだ。
ゴーゴーと、大きなウシガエルの鳴き声が腹の中から響いてくる。
「が、我慢だ……」
ここで食べ物を口にしてしまうと、今日のランニングやヘルシーメニューが無駄になってしまう。
ブクブクと醜く太り続け、メリルの姉に目を付けられる訳にはいかない。
目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは甘いケーキや脂の乗ったジューシーなステーキ肉……
(うう、食べたい。でも、食べては駄目!)
私は、心を無にして眠りにつくのだった。
※
夜中、ひときわ大きなウシガエルの鳴き声で、私は目を覚ました。
どうやら、この脂肪の乗った腹は、一晩中鳴り続ける気らしい。
「あ、あれ……?」
周囲を見回して、違和感に気づく。
「ここ、私の部屋じゃない……厨房だ」
いつの間にか、私は部屋を出て厨房まで移動していたようだ。
そして、目の前に見えるのは、食材の保存庫である。
(もしや……!?)
無意識に何かを食べていたのではないかと、慌てて手や口周りを確認する。
(手には何も持っていないし、口の周りには何も付いていない。舌の上に食べ物の味も残っていない。よし、セーフだ!)
私は慌てて回れ右をし、そのまま部屋に直行した。
おそるべし、夢遊病!
おそるべし、デブキャラの食への執念!